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第6話

作者: 誤字ラ
氷水は頭のてっぺんから服の中へと流れ込み、美空は寒さにぶるぶると震えた。

濡れた髪が頬に張りつき、服もすっかり水を吸って肌に貼りついている。下着のラインまで透けて見え、見るも無惨な姿だった。

雅人は、美空が悔しさをこらえながら、今にも涙がこぼれそうな目で自分を見つめているのを見ていた。

それでも、彼の口から出たのは冷たい一言だった。

「玲奈に謝れ」

雅人は昔からずっとそうだった。

何が正しく、何が間違っているかなど、どうでもいい。彼は守りたい相手だけを守る。それだけなのだ。

隣にいた玲奈も、一瞬こそ驚いたものの、すぐに得意げな笑みを浮かべた。美空を挑発するように見つめ、謝罪を待つ。

美空は呆然としたまま、かすれた声で尋ねた。

「……もし、謝らないと言ったら?」

雅人の表情には、情け容赦のない冷たさが浮かんでいた。

「俺の婚約者に手を出したんだ。謝罪しないというのなら、この先、お前が京浜市で生活できなくなる。口座に入っている金も、一円たりとも持っていかせない」

美空は、乾いた笑いを漏らした。

周りの人は、彼女が金目当てで雅人と付き合っていたと思っている。

この大都会で手に入れたものを手放したくないから、必死にしがみついているのだと。

けれど、誰も知らない。

美空がこの街に残ったのは、ほかでもない、雅人のためだったことを。

そして、雅人が与えてくれた金など――

美空は震える手でバッグを開け、かつて雅人から渡されたキャッシュカードを取り出した。それをテーブルの上に置く。

「お金は、お返しします。京浜市にも、もういません。どうせ、実家に帰ってお見合いをするつもりでしたから」

「お見合い」という言葉を聞いた瞬間、雅人の瞳がわずかに揺れた。

だが、美空はもう振り返らなかった。

背を向けて歩き出したものの、数歩ほど進んだところで、突然、目の前が暗くなる。

視界がぐらりと揺れ、そのまま前のめりに倒れ込んだ。

意識が遠のいていく中、耳元で雅人の叫び声が聞こえた。

「美空!」

……

美空が再び目を覚ましたとき、そこは病院の病室だった。

ベッドの脇には雅人が座っていた。深淵のように暗い瞳に、さまざまな感情が渦巻いている。

美空が目を開けたのを確認すると、雅人は検査結果の用紙を彼女に突きつけた。

何が書かれているのかわからず、美空は戸惑いながらそれを受け取る。

そして、そこに記された「妊娠6週」の文字を目にした途端、顔から血の気が引いた。

そういえば、ここしばらく食欲がなかった。生理も遅れていたが、もともとストレスでホルモンバランスを崩しやすく、生理不順にも慣れていたため、さほど気に留めていなかったのだ。

まさか、自分が妊娠していたなんて。

隣から、冷ややかな声が降ってきた。

「美空。お前はもう少し分別のある女だと思っていたが、まさか妊娠のことを隠すとはな」

美空の策略にはめられたとでも思っているのか、その声に苛立ちが滲んでいた。

雅人は身をかがめ、美空を鋭い眼差しで見下ろす。唇には嘲るような笑みが浮かんでいた。

「実家に帰ってお見合いするんだって?それも、子どもをこっそり産むための嘘なんじゃないのか?」

美空は検査結果をぎゅっと握りしめた。

「違います!私も、妊娠のことは知らなかったんです……」

弁解しようとしたものの、その言葉は途切れた。

雅人の目に浮かぶ、凍りつくような嘲り。それだけで、彼が自分の言葉を信じていないことは十分に伝わってきた。

雅人は立ち上がると、青ざめた美空を見下ろした。

「俺の子を産んでいいのは、俺の妻だけだ。お前が身ごもった子なんて、この世に生まれてくるべきじゃない」

あまりにも冷酷な言葉に、美空は息を呑んだ。

「手術は明日にしてある」

それだけ告げると、雅人は病室を出ていった。

美空には、選ぶ権利さえ与えられなかった。

遠ざかっていく雅人の背中を見て、涙が込み上げてくる。

美空は身を丸め、自分を抱きしめるようにして布団の中へ潜り込んだ。そして、苦しい気持ちを吐き出すように、ただ泣き続けた。

雅人が帰ったあと、美空に逃げられることを警戒しているのか、入口には2人の見張りをつけた。

美空が看護師に案内され、術前検査へ向かうときも、見張りの男たちはずっと彼女の後をついてきた。

美空は一晩中、眠れなかった。

翌日、手術を待っている間に、スマホに玲奈から大量の動画が送られてきた。

何気なく開いてみると、どれも雅人と玲奈の婚約披露パーティーの様子を映したものだった。

黒いスーツに身を包んだ雅人は、まっすぐ背筋を伸ばし、穏やかで品のある佇まいを見せていた。

口元には淡い笑みを浮かべ、親しげに玲奈の肩を抱き寄せながら、次々と招待客と言葉を交わしていく。

玲奈もまた、満面の笑みを浮かべて雅人に寄り添い、ときおり目を合わせては、幸せそうに笑った。

そのとき、看護師が病室のドアをノックした。

「吉沢さん、そろそろ手術のお時間です」

美空はスマホを伏せ、ゆっくりとうなずいた。

「……はい」

きらびやかな宴会場では、雅人が春の陽気をまとったような笑顔で、人々の祝福を浴びながら玲奈と婚約を交わしている。

その一方で、美空は一人、手術室へと運ばれていく。

屈辱に耐えながら足を開き、冷たいメスによって、雅人とつなぐ最後のものを無情にも断ち切られるのだ。

1時間後、美空は手術室から運び出された。その顔に血色がなかった。

指先で、平らになったお腹にそっと触れる。

何も感じられないはずなのに、胸の奥にある、かけがえのない何かを無理やりえぐり取られたような痛みがあった。

息をするたび、身体が震えるほど苦しかった。

病室に戻った美空は、自分の服に着替えると、そのまま病院の出口へ向かった。

見張りの男が手を伸ばし、彼女を引き止めようとする。

美空は静かな声で告げた。

「篠原さんがあなたたちに私を見張らせたのは、私が手術を拒んで逃げると思ったからでしょ?もう手術が終わりました。戻って、そう報告してください」

男たちは顔を見合わせたあと、雅人に電話をかけた。

しかし、電話に出たのは玲奈だった。

「こんなときに、あの人の話をしないでくれる?本当面倒くさいわね。もう帰らせてちょうだい」

見張りはそれ以上何も言わず、美空を病院から出した。

マンションへ戻った美空は、不動産売却の手続きを済ませると、この前まとめておいたスーツケースを手に、空港へ向かった。

レストランへ呼び出すために自分を騙した元同僚から、謝罪のメッセージが届いていた。

【嘘をついてごめんなさい。私も白川さんに脅かされていたんです】

美空は彼女を責めなかった。けれど、返信もしなかった。

そのまま連絡先をブロックし、削除した。

婚約披露パーティーの動画を次々と送りつけ、執拗に挑発してきた玲奈も、ブロックして削除した。

そして、雅人。

SNSで友達になって以来、何度スマホを買い替えても、一度だって消せなかったメッセージの数々。

それらを残らず消し、彼の連絡先もブロックした。

飛行機が滑走路を離れ、空へと舞い上がった瞬間、美空はかすかに唇を持ち上げた。

笑ったつもりだった。

けれど、その笑みはひどく弱々しく、今にも消えてしまいそうだった。

「篠原さん……あなたのおかげで、お父さんが助かった。その恩返しに、私はあなたの望み通り、赤ちゃんの命を諦めた。これで、おあいこだ。

さようなら……もう二度と、会うことはないよ」

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