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花火が消えた夜、恋も終わった

花火が消えた夜、恋も終わった

By:  流星群を抜け出したらCompleted
Language: Japanese
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鎌仲白斗(かまなか はくと)は、世界でいちばん有名な花火デザイナーだ。 彼と7年も付き合ってきた私・作田穂香(さくだ ほのか)は、私だけのために花火を打ち上げてほしいと、何度も遠回しに伝えてきた。 そのたびに、白斗は私の頭を優しく撫でた。 「次の誕生日には、いちばんきれいな花火を作ってやる」 誕生日の夜、胸を弾ませて海辺へ急いだ私が目にしたのは、夜空いっぱいに咲く花火の下で、竹森千夏(たけもり ちなつ)と白斗が抱き合っている姿だ。 花火が海の上で大きく弾ける。 そのきらめきは、まるで私には縁のない夢のようだ。 その場に立ち尽くしていると、誰かが楽しそうに噂している声が聞こえてきた。 「このデザイナー、毎年ここで、憧れの女のために花火を打ち上げてるんだって。 一回で何千万円もかかるらしいよ。ほんと、一途だよね」 私は人垣のいちばん外側に立ち、夜空から降り注ぐ光に包まれた二人を見つめている。 ふいに、胸の奥が締め付けられるように苦しくなった。 家に帰ると、白斗はきれいにラッピングされた箱を取り出し、私に差し出した。 「誕生日おめでとう!プレゼントはこれ、ロボット掃除機。 これからは家事をこいつに任せれば、穂香も腰を痛めなくて済むだろ」 私はうつむいて、そのロボット掃除機を見つめた。 そして、ふっと穏やかに笑った。 白斗を7年も愛してきたけれど、その恋に終止符を打つのは、ほんの一瞬で十分だ。

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Chapter 1

第1話

白斗はロボット掃除機の箱を開けながら、真剣な表情で言った。

「これ、最新型なんだ。すごく賢いんだぞ。

どんな汚れでもきれいに取れるんだって。穂香はきっと楽になる」

私は箱に書かれた値段を見た。

54万円。たしかに安くはない。

以前の私なら、きっとこう自分に言い聞かせていたのだろう。

白斗は私を愛している。ただ、その愛し方が現実的すぎるだけなのだと。

けれど今夜、私はあんなにも盛大な花火を見てしまった。

金色の光が海面から空の果てまで伸び、まるでいつまでも終わらない夢のようにきらめいていた。

それなのに、その夢は私のものではなかった。

私はそっと尋ねた。

「今夜の花火、白斗がデザインしたの?」

白斗の手が一瞬止まった。けれど、口を開いたときには、いつもと変わらない調子だ。

「ああ。千夏が帰国したんだ。

彼女には毎年花火を打ち上げるって約束してるからな」

毎年。

その言葉がゆっくりと響き、心の奥に何かがじわりとのしかかってきた。

私は7年も待っていた。

白斗に余裕ができるのを。彼の言う「今度」を。

そして、いつか必ず、いちばんきれいな花火を作ってやると、彼が口にするその日を。

けれど、千夏は待つ必要なんてなかった。

毎年、花火を見られるのだから。

白斗は私が黙り込んだことに気づいたのか、傍らに寄ってきて私の手を握った。

「穂香、花火なんて、燃え尽きたらそれで終わりだろ。

掃除機を買ったのは、本当に少しでも楽になってほしいと思ったからなんだ」

私は小さく笑った。昔のように、責め立てるような口調で問い詰めたりはしなかった。

白斗はほっとしたように息をつき、私の頭を撫でた。

「気に入ってくれると思った。

穂香は昔から聞き分けがいいからな」

聞き分けがいい。

また、その言葉だ。

この7年、私は何度もそう言われてきた。

誕生日に花束がほしいと言えば、白斗は新しいオーブンを買ってきた。

「花なんて数日で枯れちゃうだろ。こっちなら何年も使える」

記念日には海へ行きたいと言ったのに、渡されたのはマッサージ器だった。

「いつも肩や首が痛いって言ってるだろ。わざわざマッサージ店に行くより、こっちのほうが役に立つぞ」

もう少し特別なことがしたいと言うと、白斗は笑いながら私を抱き寄せた。

「もうこんなに長く一緒にいるんだぞ。

そんなわがままなこと言うな」

あの頃の私は、白斗がただロマンチックなことには疎いだけなのだと思っていた。

花火のデザインを仕事にしている白斗は、華やかなものやきらびやかなものを見慣れている。

ロマンチックなことを知り尽くしている人ほど、日々の生活にそんなものを持ち込むなんて馬鹿げていると思うのかもしれない。

そう思っていた。

けれど、今夜ようやくわかった。

白斗はロマンチックなことに疎いわけじゃない。

ただ、私にはそうしてくれないだけだった。

千夏が金色の尾を引く花火を好きだと言えば、白斗は彼女のために午前3時まで調整を重ねる。

千夏が海を好きだと言えば、海一面を舞台に花火を打ち上げる。

そこでふと、思い出した。

今夜の花火の中でもひときわ美しかった、青紫色の尾を引く花火。

あれは7年前、私が何気なく描いて白斗に見せたものだった。

あのとき私は机に突っ伏し、興奮しながら話した。

「白斗、いつか私のために花火を打ち上げてくれるなら、海に落ちていく天の川みたいにしてくれない?」

それを聞いた白斗はふっと笑った。

「子供っぽいな。花火って、そういうふうにデザインするもんじゃないんだ」

なのに今夜、その子供っぽい天の川は、千夏の頭上に広がっていた。

そのとき、白斗のスマホが光った。

画面に浮かんだのは、千夏の名前だ。

白斗は画面を一瞥すると、スマホを持ってベランダへ出ていった。

ベランダの扉は、きちんと閉まっていない。

白斗が声を潜めて話しているのが聞こえてくる。その声には、私が一度も向けられたことのない甘さが滲んでいる。

「今日の青紫色の尾を引く花火、気に入った?」

「うん、あれは昔、穂香が何気なく話してたアイデアなんだ」

「あいつは花火のことなんてわかってない。ただ、口ではうまいことを言うから、少し手を加えて使ってみたんだ」

指先がびくりと強張った。

次の瞬間、千夏が何かを尋ねる声が聞こえた。

白斗は小さく笑った。

「気にしないに決まってる。あいつは昔から聞き分けがいいからな。

それに、毎日洗濯と飯の支度ばっかりしてるんだぞ。花火の何がわかるっていうんだ?

俺の花火は、わかる人にだけ見せるんだ。

たとえば、千夏みたいな人にな」

私は、スマホに表示された中絶手術の予約完了画面を見つめている。

急に、何もかもがおかしく思えてきた。

7年も待ち続けた花火は、白斗にとって、私を愛しているかどうかの証ではなかったのだ。

そもそも、私にはそれを見る資格などないのかもしれない。

以前の私は、もう少し待てば、いつか白斗も振り向いて私を見てくれるはずだと思っていた。

けれど今、花火はすべて消えた。

私もそろそろ、白斗の世界から身を引くときなのだ。

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第1話
白斗はロボット掃除機の箱を開けながら、真剣な表情で言った。「これ、最新型なんだ。すごく賢いんだぞ。どんな汚れでもきれいに取れるんだって。穂香はきっと楽になる」私は箱に書かれた値段を見た。54万円。たしかに安くはない。以前の私なら、きっとこう自分に言い聞かせていたのだろう。白斗は私を愛している。ただ、その愛し方が現実的すぎるだけなのだと。けれど今夜、私はあんなにも盛大な花火を見てしまった。金色の光が海面から空の果てまで伸び、まるでいつまでも終わらない夢のようにきらめいていた。それなのに、その夢は私のものではなかった。私はそっと尋ねた。「今夜の花火、白斗がデザインしたの?」白斗の手が一瞬止まった。けれど、口を開いたときには、いつもと変わらない調子だ。「ああ。千夏が帰国したんだ。彼女には毎年花火を打ち上げるって約束してるからな」毎年。その言葉がゆっくりと響き、心の奥に何かがじわりとのしかかってきた。私は7年も待っていた。白斗に余裕ができるのを。彼の言う「今度」を。そして、いつか必ず、いちばんきれいな花火を作ってやると、彼が口にするその日を。けれど、千夏は待つ必要なんてなかった。毎年、花火を見られるのだから。白斗は私が黙り込んだことに気づいたのか、傍らに寄ってきて私の手を握った。「穂香、花火なんて、燃え尽きたらそれで終わりだろ。掃除機を買ったのは、本当に少しでも楽になってほしいと思ったからなんだ」私は小さく笑った。昔のように、責め立てるような口調で問い詰めたりはしなかった。白斗はほっとしたように息をつき、私の頭を撫でた。「気に入ってくれると思った。穂香は昔から聞き分けがいいからな」聞き分けがいい。また、その言葉だ。この7年、私は何度もそう言われてきた。誕生日に花束がほしいと言えば、白斗は新しいオーブンを買ってきた。「花なんて数日で枯れちゃうだろ。こっちなら何年も使える」記念日には海へ行きたいと言ったのに、渡されたのはマッサージ器だった。「いつも肩や首が痛いって言ってるだろ。わざわざマッサージ店に行くより、こっちのほうが役に立つぞ」もう少し特別なことがしたいと言うと、白斗は笑いながら私を抱き寄せた。「もうこんなに長く一緒にいるんだ
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第2話
翌日、白斗と私は大学の同窓会に出席した。まさか千夏まで来ているとは思いもしなかった。千夏は白いドレスを身にまとい、白斗の隣に座っている。誰かが面白がるように、からかうような声を上げた。「竹森も来たのか?昔、お前と鎌仲はうちの大学でいちばん有名なカップルだったな。片や花火デザインの天才、片や写真学科のマドンナ。卒業したら結婚するんだろうって、みんな思ってたぞ」入口に立った私は、思わず足を止めた。千夏は私より2学年上だった。学生時代、私はずっと彼女に憧れていた。きれいで、明るくて、作品はいつも学校の展示室のいちばん目立つ場所に飾られていた。あの頃、私が初めて白斗の名前を耳にしたのも、千夏がきっかけだった。誰もが口をそろえて、二人は運命の人だと言っていた。その後、白斗が私に告白してきたとき、私はひそかに思ったことがある。もしかしたら、運命が一度くらい、私の味方をしてくれたのかもしれない、と。けれど今、千夏は彼の隣に座っている。周りの人たちが口にする冗談交じりの言葉が、細い針となって、私の胸に何本も何本も突き刺さった。私はどうにか笑顔を作り、白斗のもう片側に座った。同窓会も半ばを過ぎた頃、トイレに立った。戻ってくると、個室の扉が少し開いたままになっている。中では誰かが酔っ払い、笑いながら尋ねた。「なあ、鎌仲。正直に聞かせてくれ。昔はあんなに竹森と仲がよかったのに、どうして急に作田を口説くようになったんだ?今でも、あれだけはどうにも理解できないんだぞ」個室の中が、数秒間静まり返った。白斗は酒を飲んでいたせいか、いつもより気の抜けた口調で答えた。「もう昔のことだろ」すると、千夏がふいに笑った。「別に隠すようなことじゃないでしょ。あの頃、私と白斗はひどい喧嘩をしてたの。彼は、自分が私じゃなきゃ駄目ってわけじゃないんだって、意地になって証明しようとしたのよ」声はとても小さかった。それでも、その言葉はひとつ残らず私の耳に届いた。「あの日、ちょうど作田さんが通りかかったの。白斗ったら、適当に指を差して言ったのよ。『千夏、見てろ。3日以内に、あいつを落としてみせる』ってね。『俺が、お前じゃなきゃ駄目だとでも思ってるのか?』って」個室の中で、誰かが
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第3話
病院を出る頃には、すっかり日が暮れている。薬袋を握りしめ、家へ帰った。扉を開けた途端、リビングから千夏の笑い声が聞こえてきた。彼女は私のウェディングドレスを着て、姿見の前に立っている。その後ろでは白斗がうつむきながら、彼女の肩にかかったベールを丁寧に整えている。そのドレスは、私が5軒もの店を回って、ようやく決めたものだった。試着のとき、白斗に写真を送って、どっちが似合うか尋ねたことがある。彼はずいぶん時間が経ってから、ようやく返事をくれた。【どっちでもいいんじゃない?】けれど今、ウェディングドレス姿の千夏を見つめる白斗は、明らかに一瞬、目を奪われた。鏡越しに私に気づいた千夏は、すぐに慌てた様子でドレスの裾を押さえた。「作田さん、誤解しないでね。ウェディングドレス、さっきちょうど届いたの。今日、作田さんの顔色がよくなかったから、代わりに試着してあげただけよ」私は玄関に立ったまま、薬袋を指が白くなるほど強く握りしめている。ドレスのウエストは、安全ピンで留め直されている。ちょうど千夏の体にぴったり合うように。ふと、最初に私が試着したときのことを思い出した。腰のあたりが、少し緩かったのだ。店員が調整してくれている間、私は振り返って白斗に尋ねた。「このくらいがいい?それとも、もう少しぴったりしたほうがきれいかな?」あのときの白斗は、上の空でちらりと私を見ただけだった。口調もそっけなかった。「どっちでもいい」それなのに今、彼は千夏のために、ドレスの皺を一つひとつこんなにも丁寧に整えている。もう、問い詰める気力さえ残っていない。心の中には、虚しさだけが広がっている。千夏はすぐに、テーブルの上にあった結婚式の花火の企画書を手に取った。「あ、そういえば。結婚式で打ち上げる花火の企画書、さっきちょっと見たんだけど。今のテーマだと、ちょっとありきたりよね。青紫色の天の川に変えられないかな?」そう言ってから、何かを思い出したように私の方を振り返った。「作田さん、気にしないでね。ただ、そっちのほうがロマンチックだと思っただけなの」その瞬間、喉の奥が何かで塞がれたように苦しくなった。青紫色の天の川。また、青紫色の天の川。それは7年前、私が白斗のために描
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第4話
午前2時、お腹を襲う激痛で目が覚めた。壁に手をつきながら体を起こすと、目の前が何度も暗くなった。白斗は家にいない。数秒迷った末、彼に電話をかけた。何度も呼び出し音が鳴って、ようやくつながった。千夏が泣き声まじりに白斗の名前を呼ぶ声が聞こえた。白斗の声はひどく慌てている。「穂香、どうした?」私は壁にもたれ、息をするのも苦しいほどの痛みに耐えながら答えた。「白斗……私、ものすごく血が出てる……」電話の向こうが、一瞬静かになった。けれど次の瞬間、千夏がまた泣きながら白斗を呼んだ。白斗はすぐに口を開いた。「とりあえず自分でタクシーを呼んで病院に行ってくれ。千夏が花火の火の粉で手を火傷したんだ。今はそばを離れられない」私は指先に少しずつ力を込めた。千夏の手の甲に飛んだのは、ほんのわずかな火の粉。それでも、血まみれになっている私より大事なのだ。私は静かに尋ねた。「白斗、もし私が本当に大変なことになったら、どうするの?」彼は苛立ったように息を吸った。「そんなこと言うな。どうしていつも、こんなときに限って面倒を起こすんだ?千夏は本当に痛がってるんだ。少しは聞き分けよくしてくれ」電話の向こうで、また千夏の泣き声が響いた。白斗は声を落として言った。「もう切るぞ。病院に着いたら連絡してくれ」通話が切れ、ツーツーという音が鳴った。部屋は再び静まり返った。私はうつむき、手のひらについた血を見つめた。ふいに、7年分の恋なんて、結局この程度のものだったのだと思った。もう、これ以上何かを言う意味さえない。自分で救急車を呼んだ。搬送される間、ずっとお腹を押さえている。それでも血は止まることなく流れ続けた。痛みがいちばんひどくなったとき、ふと思った。このまま道の途中で死んでしまっても、それはそれでいいのかもしれない、と。少なくとも、7年間も白斗に費やした時間が無駄だったと認めずに済むのだから。病院に着くと、看護師が慌てて私を支えた。「ご家族の方は?」私は数秒黙った。それから、首を横に振った。「いません」そう口にすると、意外にも、想像していたほどの痛みはない。ただ、空っぽだ。何かがようやく、すっかり抜け落ちてしまったような感覚
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第5話
白斗はその内容を見つめたまま、まるでその場に縫い付けられたように動けなくなった。ひとつひとつの文字は、もちろん読める。けれど、それらが並んだ瞬間、鈍い刃物となって、彼の胸を深く抉った。診断書を持つ手が、ひどく震えている。長い沈黙のあと、ようやく事態を理解したかのように、彼は勢いよくスマホをつかみ、穂香に電話をかけた。一度目は、応答がなかった。二度目も、やはり出なかった。三度目には、冷たいアナウンスが流れるだけだ。「おかけになった電話は、ただいま電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、つながりません」白斗の顔から、スーッと血の気が引いていった。ふいに、昨夜の電話で、穂香が震える声で言ったことを思い出した。「白斗……私、ものすごく血が出てる……」あのとき自分は何と答えたのか、彼は思い出そうとした。「とりあえず自分でタクシーを呼んで病院に行ってくれ。千夏が花火の火の粉で手を火傷したんだ。今はそばを離れられない」「少しは聞き分けよくしてくれ」白斗の呼吸が、突然乱れた。彼は車の鍵をつかみ、狂ったように家を飛び出した。病院に着くなり、救急科へ駆け込んだ。「作田穂香はどこにいますか?昨夜、救急で運ばれてきたんです」看護師の一人は顔を上げ、彼を一瞥した。「ご家族の方ですか?」白斗の声は、かすれている。「婚約者です」看護師の顔が、一瞬で冷たくなった。「昨夜、作田さんが大量出血で運ばれてきたときは、どうして婚約者のあなたはいなかったんですか?」白斗は硬直した。看護師はカルテを確認した。「作田さんが来たときは、顔が真っ青で、ズボンの裾まで血まみれでした。ご家族はどこにいるのか尋ねたんです。作田さんは『いません』と答えました。そのあと検査をして、赤ちゃんが助からなかったと伝えたときも、彼女は泣くことすらしませんでした」看護師は白斗を見つめ、一言ずつ言い聞かせるように告げた。「作田さんが口にしたのは、たった一言だけです。『来るのが遅すぎたんでしょうか』と」白斗は喉を何かでぎゅっと塞がれたように、息が詰まった。違う、と言いたい。知らなかったんだ、と言い訳したい。知っていたら、絶対に駆けつけたのに、と。けれど、言葉は喉元で止ま
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第6話
白斗は、ふいに遠い昔のことを思い出した。穂香が39度の熱を出しているというのに、無理をして自分のためにご飯を作ってくれた日のことだ。帰宅した白斗は、穂香の顔色がおかしいことに気づき、眉をひそめて尋ねた。「どうして病院に行かなかったんだ?」あのとき穂香は笑いながら、彼の胸に飛び込んだ。「だって、家族がいるもん。白斗が帰ってきたら、一緒に病院に行こうと思って」白斗はただ穂香の頭を撫で、甘えん坊だなと思っただけだった。けれど、今になってようやくわかった。自分を家族だと思って頼ってくれる人がいることが、どれほどかけがえのないことだったのか。病院を出たとき、白斗はどこかぼんやりとしている。そのとき、スマホが鳴った。千夏からだ。画面に浮かぶ名前を見つめながら、白斗は初めて、すぐには電話に出なかった。一度切れても、またすぐにかかってくる。三度目になって、ようやく彼は電話に出た。千夏の声には、少し拗ねたような響きがある。「白斗、どこに行ってたの?まだ手がちょっと痛いんだけど」以前の白斗なら、きっとすぐに痛みの具合を尋ね、もう一度病院へ行こうかと気遣っていたはずだ。けれど今、彼の頭に浮かんだのは、看護師の言葉だ。穂香が病院に来たとき、ズボンの裾まで血まみれだった。赤ちゃんが助からなかったと聞いても、泣くことさえなかった。白斗は目を閉じた。「今はちょっと用事があるんだ」千夏は面食らったようだ。「私より大事な用事って何?」以前なら、甘えるような言葉に聞こえたはずだった。けれど今、白斗はその言葉が妙に耳障りだと思った。数秒黙ったあと、低い声で答えた。「穂香が流産したんだ」電話の向こうが、一瞬静まり返った。すぐに、千夏がそっと息を呑んだ。「どうしてそんなことに?昨夜は普通にしてたじゃない。白斗、そんなに自分を責めないで。もともと体が弱かったのかもしれないし……」白斗はスマホを握る指に、ゆっくりと力を込めた。ふいに、昨夜、千夏がSNSに投稿した写真についたコメントへの返事を思い出した。【もう、大げさなんだから】千夏は、自分の火傷が大したことではないと最初からわかっていたのだ。それなのに、泣きながら痛いと訴えた。そして、白斗を一晩中そばに
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第7話
私が新しい街に降り立った日は、ちょうど雨が降っている。それほど強い雨ではない。細かな雨粒が、窓ガラスに絶え間なく落ちている。タクシーの後部座席に座り、見知らぬ街並みを眺めている。スマホには、白斗からのメッセージが次々と届いた。【俺、病院に行ってきた】【先生から、昨夜はもう少しで命を落とすところだったって聞いた】【ごめん。あんなに苦しんでたなんて知らなかった】【子どものことは、俺が悪かった】【本当にごめん】私は一度目を通すと、画面を閉じた。以前の私は、白斗から返事が来ないことが何より怖かった。返事が10分遅れるだけで、あれこれ考えてしまった。仕事が忙しいのかな。私の話がつまらなかったのかな。また、邪魔をしてしまったのかな。けれど今度は、彼が何度も言い訳をし、何度も謝り続けている。それなのに、今になって気づいた。遅れて届いた言葉には、もう何の意味もない。新しい街に、小さな部屋を借りた。窓の外には川が見える。夜になると、街の灯りが川面に映り、静かな花火のように揺らめく。イラストレーターのアシスタントの仕事も見つけた。給料は高くないけれど、自分一人で暮らしていくには十分だ。仕事が深夜まで続く日は、一人で窓辺に座って絵を描く。青紫色の海を。水の中へ落ちていく星の光を。体はまだ、すっかり回復したわけではない。医師からも、ゆっくり休養するように言われた。だから、薬を決まった時間に飲み、きちんと眠るようにした。もう誰かの帰りを待つために、夜更かしすることはない。誰も真剣に味わってくれない料理を、何品も作ることもない。自分の好きなことを奥にしまい込み、誰にも見えない場所に隠すこともない。白斗のもとを離れてみて、初めてわかった。私の暮らしだって、少しずつ明るくしていけるのだと。そして白斗が私を見つけ出したのは、それから1か月後のことだ。その日、仕事を終えて家に帰ると、遠くから彼がマンションの前に立っているのが見えた。ずいぶん痩せこけている。いつも身なりを整えていた白斗の顔には、無精ひげまで生えている。腕には、大きな花束を抱えている。バラではない。以前、私が何気なく好きだと話したことのあるトルコキキョウだ。私を見つけた瞬間、白斗の
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第8話
そう言い残し、私は白斗の横を通り過ぎて、階段を上っていった。白斗はもう追いかけてこなかった。ただその場に膝をついたまま、何度も何度も私の名前を呼んでいる。「穂香!穂香……頼むから、一度だけでいい。振り返って、俺を見てくれないか?」私は振り返らなかった。その後、友人から聞いた話では、千夏はあまりいい暮らしをしていないらしい。白斗が彼女を見捨てると、彼女のそばにいた人たちも、あっという間に離れていった。彼女は、ちやほやされることに慣れていた。誰かが代わりにお金を払ってくれることにも。けれど白斗が身を引いて初めて、彼女は気づいたのだ。高嶺の花であっても、追いかけてくれる人がいなくなれば、ただ枯れていくしかないのだと。彼女は飲み会に顔を出すことが増えた。付き合う金持ちの男も、何人も入れ替わった。ブランドバッグを買ってくれる人もいれば、高級ホテルに連れていってくれる人もいる。けれど、その誰一人として白斗にはかなわない。彼らは、彼女が金色の尾を引く花火を好きだなんて覚えていない。手の甲が少し赤くなっただけで、パニックになることもない。ある日、彼女は酔った勢いで私に電話をかけてきた。声は涙でぐしゃぐしゃだ。「私、本当にわざと作田さんから白斗を奪おうとしたわけじゃないの。ただ、彼がいつも私の味方をしてくれるのに慣れすぎてた。彼は当然、私を選ぶものだと思ってた」途切れ途切れに聞こえてくる彼女の泣き声を、私は長い間黙って聞いている。最後に、ただこう言った。「竹森さんが奪っていったものは、もう私にはいらないの。だから、もう私に返そうとしなくていいよ」電話の向こうで、彼女はとうとう声を上げて泣き出した。私は電話を切り、彼女の番号を着信拒否にした。白斗に関しては、その後、金稼ぎで花火をデザインすることは二度となかったそうだ。毎年、私の誕生日になると、一人で海辺へ出かけるのだという。トルコキキョウの花束を抱えて、日が暮れてから夜が明けるまで、ずっとそこに座っている。誰かに、誰を待っているのかと尋ねられると、彼はただ、こう答えるそうだ。「もう二度と戻ってこない人」彼はその後も、私に何度も贈り物を送ってきた。花束や画集、花火のデザイン画。それから、改めて作り直
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