Short
夫も息子も、喜んで差し上げます

夫も息子も、喜んで差し上げます

By:  酒井 雫Completed
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
14Chapters
33views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

私、露木ひより(つゆき ひより)は、冷徹な社長として知られる露木夏彦(つゆき なつひこ)と結婚した。 職場では旧姓の涼野(すずの)を使い、結婚していることを隠し続けて、もう6年。息子の鏡也(きょうや)も、父親にそっくりな、無愛想な子に育った。 職場の人から性的暴行を受けそうになった事件の裁判に、私が出廷した日。 夫と息子は、スイスへ飛んでいた。 夏彦が7年間交際していた元恋人、笠原紫苑(かさはら しおん)の気晴らしに付き合うために。 二人が悪びれもせず帰ってきたのは、裁判の日から一週間も経ってからだった。 夏彦は眉間を指で押さえ、疲れた顔で言った。 「紫苑は落ち込んでいたんだ。 今度何かあったら、必ずそばにいてあげるから」 鏡也も父親の真似をして、すました顔で私をなだめてくる。 「パパと、おみやげ買ってきたよ。 これあげるから、もう怒らないで。ね?」 私はただ、静かに頷いた。 以前のように取り乱して、声を荒らげることもなかった。 そんな私の態度に、今度は夫と息子のほうが戸惑い始めた。 ある日、親友の三浦莉奈(みうら りな)としゃぶしゃぶを食べていると、彼女はTikTokを見ながらぽつりと言った。 「ねえ、最近SNSでよく見るんだよね。長く付き合ってた元カノがいる男とは、結婚しないほうがいいんだって。 元カノに呼ばれたら、すぐそっちに戻っちゃうんだって。 ひよりも気をつけなよ。旦那さん、7年も付き合ってた元カノがいるでしょ」 私は肉をさっと湯にくぐらせながら、ふっと笑って答えた。 「別に、どうでもいいよ。戻りたいなら、鏡也も連れていけば? もう、二人ともいらないから」 その時、背後で物音がした。 思わず振り返ると、すぐ後ろに夏彦と鏡也が立っていた。 二人の顔は、揃いも揃って真っ青だった。

View More

Chapter 1

第1話

まだ5歳の鏡也は小さな体を強張らせ、私を見上げている。

幼い顔には、傷つき、途方に暮れたような表情が浮かんでいる。

いつも自分を一番に愛し、甘やかしてくれた母親が、なぜ「いらない」などと言ったのか、理解できないのだろう。

一方の夏彦は、冷ややかな目つきでしばらく私を見つめている。

やがて、ゆっくりと手を差し出す。

「ひより、迎えに来た。帰ろう」

私は思わず鼻で笑いそうになった。

皮肉なものだ。

以前は私がいくら頼み込んでも、夏彦は決して車で送り迎えをしてくれなかった。

会社では、夫婦だと知られたくないから。

外では、知り合いに見られるかもしれないから。

結婚して6年、彼の車に乗せてもらった回数は、片手で数えられるほどしかない。

そのことで、何度も泣いて喧嘩した。

妻なのに、助手席に座ることさえ許されないのかと。

そう訴えても、夏彦は冷めた顔で私を見るだけだった。

私が泣いて、怒って、疲れ果てるまで。

それがどういう風の吹き回しか、今日はわざわざ迎えに来てくれた。

親友に別れを告げて車の助手席に座ると、足元が少し窮屈に感じる。私はシートを少し後ろに下げた。

どうやら普段ここに座っているのは、小柄な人らしい。

例えば、夏彦が7年間付き合っていた元カノ、紫苑のように。

シートを調整した後、視界の端で何かが揺れているのが見えた。

振り返ってみると、鏡也のリュックに付いている戦隊ヒーローのキーホルダーだった。

私が買ってあげたピカチュウは、いつの間にか外されていた。

鏡也はキーホルダーをいじりながら、じっと私を見つめて言った。

「これ、紫苑ちゃんがくれたんだ」

私の反応をうかがい、少し間を置いてから、慌てて付け足した。

「ママが嫌なら、これ……」

「別に、嫌じゃないよ」

私はスマホに目を落としたまま、淡々と答える。

鏡也はピタリと動きを止めた。運転席の夏彦も一瞬驚いたようで、訝しげに私を横目で見た。

しばらくして、彼は口を開いた。冷ややかな声には、珍しく気遣うような響きが混じっていた。

「そういえば、裁判はどうなった?」

「今は結果待ち。弁護士さんがなんとかしてくれるって」

私は顔を上げることもなく、友達とのLINEのやりとりを続けた。

車内は再び静まり返った。私が一向に取り乱さないからか、今度は夏彦のほうが苛立ち始めたらしく、指でハンドルを叩いた。

そして次の赤信号で停車した時。彼はとうとう眉をひそめ、譲歩するような口ぶりで切り出した。

「分かってる。俺と鏡也が裁判に付き添わなかったことを、まだ怒ってるんだろ?

こうしよう。会社で結婚を公表したいって、ずっと言ってたよな。

来週の月曜、朝礼が終わったら、俺からみんなに話す」

私は思わず顔を上げ、夏彦の見下ろすような視線と真っ向からぶつかった。

彼は平然としていたが、その目は「これで満足だろう」とでも言いたげだった。

その瞬間、私はなんだか可笑しくて吹き出しそうになった。

結婚を公表する?

そんなこと、もうとっくに望んでいないのに。

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
14 Chapters
第1話
まだ5歳の鏡也は小さな体を強張らせ、私を見上げている。幼い顔には、傷つき、途方に暮れたような表情が浮かんでいる。いつも自分を一番に愛し、甘やかしてくれた母親が、なぜ「いらない」などと言ったのか、理解できないのだろう。一方の夏彦は、冷ややかな目つきでしばらく私を見つめている。やがて、ゆっくりと手を差し出す。「ひより、迎えに来た。帰ろう」私は思わず鼻で笑いそうになった。皮肉なものだ。以前は私がいくら頼み込んでも、夏彦は決して車で送り迎えをしてくれなかった。会社では、夫婦だと知られたくないから。外では、知り合いに見られるかもしれないから。結婚して6年、彼の車に乗せてもらった回数は、片手で数えられるほどしかない。そのことで、何度も泣いて喧嘩した。妻なのに、助手席に座ることさえ許されないのかと。そう訴えても、夏彦は冷めた顔で私を見るだけだった。私が泣いて、怒って、疲れ果てるまで。それがどういう風の吹き回しか、今日はわざわざ迎えに来てくれた。親友に別れを告げて車の助手席に座ると、足元が少し窮屈に感じる。私はシートを少し後ろに下げた。どうやら普段ここに座っているのは、小柄な人らしい。例えば、夏彦が7年間付き合っていた元カノ、紫苑のように。シートを調整した後、視界の端で何かが揺れているのが見えた。振り返ってみると、鏡也のリュックに付いている戦隊ヒーローのキーホルダーだった。私が買ってあげたピカチュウは、いつの間にか外されていた。鏡也はキーホルダーをいじりながら、じっと私を見つめて言った。「これ、紫苑ちゃんがくれたんだ」私の反応をうかがい、少し間を置いてから、慌てて付け足した。「ママが嫌なら、これ……」「別に、嫌じゃないよ」私はスマホに目を落としたまま、淡々と答える。鏡也はピタリと動きを止めた。運転席の夏彦も一瞬驚いたようで、訝しげに私を横目で見た。しばらくして、彼は口を開いた。冷ややかな声には、珍しく気遣うような響きが混じっていた。「そういえば、裁判はどうなった?」「今は結果待ち。弁護士さんがなんとかしてくれるって」私は顔を上げることもなく、友達とのLINEのやりとりを続けた。車内は再び静まり返った。私が一向に取り乱さないからか、今度は夏彦のほうが
Read more
第2話
婚姻届を出した日。会社での体裁を気にして、夏彦はしばらくの間、結婚の事実を伏せておこうと言った。「お前はまだ入社したばかりで、社内でこれといった実績を上げていないだろう。今の時期に俺の妻だと公表したら、この先、昇進したり給料が上がったりするたびに、あらぬ噂を立てられかねないからな」その言葉は、確かに筋が通っていた。だから、上司から嫌がらせを受けても、勤続年数が長いだけのお局社員から仲間外れにされても、コネ入社の社員に担当案件の手柄を横取りされても――私は歯を食いしばって耐え続けた。どうしても腹の虫が治まらない時は、私たちの関係が公になる日を密かに思い描いた。相手の立場によって態度を変えるあの人たちは、私が社長の妻だと知ったら、どんな顔をするだろう。そう考えるだけで、少し気が晴れた。それでも、どうしてもやりきれないことはあった。鏡也を出産して職場復帰した後、上司は面談と称して私を呼び出し、授乳で張った胸をいやらしい目でじろじろ見るようになった。すれ違いざまに、さりげなく体を押しつけてくることも、何度かあった。我慢の限界に達した私は、家に帰って夏彦にそのことを訴えた。しかし、彼は冷たい目を私に向け、突き放すように言った。「考えすぎだ。お前は昔から自意識過剰なんだよ。そういう被害妄想で、仕事に支障をきたさないでもらえるか。会社では実力が全てだ。セクハラだと騒いで、特別扱いしてもらおうなんて考えるな」私はその場に立ち尽くし、信じられない思いで彼を見つめた。目の奥が熱くなり、悔しさに涙がこぼれそうだった。その時ようやく気がついた。社長であり私の夫でもあるこの人は、私を信じてくれないし、私の味方にもなってくれないのだと。それなら、自分の力でどうにかするしかない。あの上司だって、役職は私のすぐ上というだけだ。絶対に昇進して見返してやる。その一心で、私は必死に仕事に打ち込んだ。そしてついに、次期プロダクトマネージャーを決める社内選考で、私は審査担当者の八割から支持を得た。他の候補を大きく引き離し、確実にその座を勝ち取ったと信じていた。しかし、結果発表の会議当日。喜ぶ暇などなかった。夏彦が、一人の女性を連れて会議室に入ってきたからだ。彼女は全身をハイブランドで固め、何不自由なく育ったお
Read more
第3話
数日後、会社のリフレッシュルームに入ろうとした時、同僚たちの話し声が聞こえてきた。「社長って、笠原さんには本当に優しいよね。今日も車で会社まで送ってきてたよ」「さっき社長室の前を通ったら、笠原さんに『会社で何か嫌なことがあったら、いつでも俺を頼ってくれ』って、すごく優しい声で言ってたのが聞こえたの」「えっ、あの社長が?いつも隙がなくて近寄りがたいのに、あんな風に甘やかすんだ」もう一人の同僚が、ニヤニヤしながら口を挟んだ。「あんたたち、分かってないわね。笠原さんは社長の元カノなのよ」私はドアの外で立ちすくみ、マグカップを持つ手に力を込めた。心臓がドクンと跳ね、胸の奥が重く沈んだ。「高校から大学まで、7年も付き合ってたんだって。学生時代をずっと一緒に過ごした仲なんだよ。笠原さんがミラノに留学に行かなければ、別れてなかったんじゃない?」「じゃあ、戻ってきたんだし、二人はよりを戻すんじゃない?」「絶対そうでしょ。ふふっ、そしたら涼野さん、泣き喚くんじゃない?」「自業自得よ。この前の会議でも、社長のこと『あなた』なんて呼んで、勝手に社長の奥さん気取りでいるんだから。社長の態度を見ればわかるじゃない。涼野さんを見るだけでもうんざりしてるって感じだったよ!」私は壁にもたれかかった。震えが止まらず、全身が氷のように冷え切っていくのを感じた。その時、はっきりと思い知らされた。いつも冷静で、感情を表に出さない夫が、あんな風に誰かを優しく気遣うこともできるのだと。周りの誰もが気づくほど、その人を大切にできるのだと。ただ、その相手が私ではなかっただけだ。その夜、家に帰ってから夏彦と大喧嘩になった。私は、元カノへの未練を捨てられずにいる彼を責め立てた。体裁を気にするふりをして、人前では絶対に私たちの関係を認めようとしないくせに。それなのに、元カノのことは堂々と贔屓して、私が実力で勝ち取った役職まで彼女に与えるなんて。どうして彼女のことになると、体裁なんて気にしなくなるのよ!夏彦は言い返すことも、私の言葉を遮ることもなかった。ただソファに深く腰掛け、グラスを傾けながら、声を荒らげる私を静かに眺めているだけだった。最初から最後まで、表情ひとつ変えずに。私が涙ながらに鬱憤をすべて吐き出し、ようや
Read more
第4話
けれど、子どもはあっという間に成長する。父親譲りの冷めた気質も、少しずつ顔を出し始めた。気づけば鏡也は、口数が少なく、無愛想な子になっていた。鏡也は体が弱く、アレルギー体質だった。そのため、私はつい神経質になり、あれは駄目、これは駄目と口を出してしまっていた。鏡也には、それが鬱陶しかったのだろう。次第に私を嫌がるようになり、夏彦が休日に連れ出した先で、何でも好きにさせてくれる紫苑と過ごしたがるようになった。ある日、私は夏彦と口論になった。「笠原さんがみんなの前で、私が彼女の企画を盗んだって言い掛かりをつけてきたの。謝らないなら会社を辞めろって。でも、あの人の企画書は、あなたが手取り足取り直してあげてるんでしょう?私の企画書を見せたんじゃないの?いくらなんでも、酷すぎるわ!」夏彦は眉間を揉み、呆れた様子で私を見た。「彼女が俺の元カノだというだけで、目の敵にして、そんな理不尽な言いがかりをつけるのか?相手の過去にまで嫉妬するなんて、どうかしてるぞ。必要なら、カウンセリングでも予約してやろうか?」その卑劣な言い草に頭に血が上り、私は体を震わせながら、最低な男だと彼を罵った。怒鳴り散らしているうちに、また涙がこぼれ始めた。泣きたくなんかなかった。それなのに止められず、私はますます惨めになった。子どもは、大人の振る舞いをよく見ている。もともと私を鬱陶しがっていた鏡也は、あのとき覚えてしまったのだと思う。優しい紫苑ちゃんを一方的にいじめているママには、こんな態度を取ってもいいんだと。それ以来、彼は夏彦の真似をするようになった。私が紫苑を責めるたびに、鏡也は理由も聞かずに彼女を庇った。私にはそっぽを向き、生意気な口答えをして、何を言っても取り合おうとしない。私が取り乱して泣き叫ぶ姿を、ただ見ていた。その目には、時折勝ち誇ったような色さえ浮かんでいた。そんな日々が2年も続いた。夏彦は元カノにすっかり心を奪われているくせに、私と離婚しようとはしなかった。しかも、彼女が職場でミスをするたびに、その尻拭いをさせられるのは私だった。そんな毎日に、私はすでに心身ともに疲れ果てていた。私を限界まで追い込んだのは、二度目の昇進選考だった。その時、私はもう入社7年目に
Read more
第5話
その後、私は紫苑の「先輩」と一緒に地方へ出張することになった。彼は私の飲み物に薬を盛り、意識の朦朧とした私をホテルに連れ込もうとしたのだ。あと少しで、取り返しのつかないことになるところだった。どうにか逃げ出した私は、その夜のうちに警察署へ駆け込んだ。駆けつけた夏彦は、震える私を力強く抱きしめた。顎を私の頭にそっと乗せ、背中を何度も撫でた。顔を上げると、その目には私を案じる色が浮かんでいた。「もう大丈夫だ、ひより。あいつには、必ず責任を取らせてやる」彼の温かい腕に身を委ねながら、私は鼻の奥がツンとするのを感じた。とっくに彼に愛想を尽かしたつもりだったのに、その瞬間、心がほんの少しだけ揺らいだ。その言葉通り、夏彦はすぐさま腕の立つ弁護士を手配してくれた。証拠を集め、資料を整理し、ほどなくして損害賠償を求める訴えを起こした。鏡也も、少し大人びた顔で私を慰めてくれた。「ママ、怖がらなくていいよ。ぼくとパパが、ずっとそばにいるから」しかし、裁判の当日。二人は私に黙って空港へ行き、紫苑と一緒にスイスへ飛び立った。「紫苑は、信頼していた先輩があんな人間だったなんて、受け入れられないみたいで。ここ数日、何度も泣くほど落ち込んでいたから、気晴らしに付き合うことにした」スイスからの電話の向こうで、夏彦は悪びれる様子もなく淡々と説明した。私は何も答えなかった。ただ静かに目を閉じ、自嘲気味に笑っただけだった。その日の法廷では、相手側の要求により、証拠として提出した動画の原本データを確認することになっていた。けれど、当事者席でスマホを開いた私は、目を疑った。あの日、隙を見て隠し撮りした最も重要な動画が、完全に消去されていた。裁判官は眉をひそめ、事務的な口調で私と弁護士に告げた。「スマホの元の動画データが確認できないとなると、提出されたコピーの信憑性や証明力について、相手方から厳しく争われる可能性が高くなります。ほかの証拠と合わせて被害の事実を判断することになりますが、よろしいですね?」私は青ざめた顔で答えた。「はい」その日の審理が終わった後、私は再び夏彦に電話をかけた。ここ数日、私のスマホに触れる機会があったのは、彼と鏡也だけだ。すると、電話の向こうから鏡也の声がし
Read more
第6話
車内には、沈黙が流れていた。私が何も言わないでいると、夏彦はわずかに眉を寄せた。「なんだ、その顔は。結婚を公表するのは、お前がずっと望んでいたことだろ?」私はスマホの画面を消し、静かに答える。「結構よ。今さら、公表する必要はないと思う」夏彦は、ハンドルを握る手にぐっと力を込めた。喉仏を上下させ、少し掠れた声で尋ねた。「どういう意味だ?お前、まさか……」そのとき、夏彦のスマホが鳴った。明るくなった画面に、紫苑の名前が表示された。夏彦が通話をつなぐと、スピーカーから甘えた声が流れてくる。「東城の案件なんだけど、いくつか分からないところがあって。ねえ夏彦、教えてくれない?」夏彦の返事を待たず、彼女はふと何かを思い出したように、わざとらしく付け加えた。「あ、そうだ。こんな時間に電話したら、また奥さんに怒られちゃうかな?」夏彦は淡々と答えた。「あいつのことは気にするな」そうして、夏彦は案件の要点を説明し始めた。普段とは別人のような優しい口調で、同じことを何度聞かれても、丁寧に答えている。しばらく話したところで、夏彦はちらりと横を向き、私の反応をうかがった。私は頬杖をつき、ただ窓の外を眺めている。表情は穏やかで、何の感情も浮かんでいない。窓ガラスに映る彼は、一瞬呆気にとられたように固まり、それから訝しげに眉を寄せた。無理もない。以前の私は、二人が親しげにしているだけで夏彦を問い詰め、取り乱していた。今日はどうしてこんなにも無関心でいられるのか、理解できないのだろう。紫苑はまだ、電話の向こうで楽しそうに話し続けている。それを聞いていた私は、小さくため息をつき、静かな声で言った。「電話、やめてもらえる?」夏彦の口元に、やっぱりそうか、とでも言いたげな笑みが一瞬浮かんだ。「前にも言っただろ。紫苑とは、もう終わってる。くだらないやきもちはよせ」「そんなんじゃないわ」私は首を横に振る。「運転に集中してって言っているの。私、自分の命は惜しいから。事故に巻き込まれるのはごめんだわ」夏彦は気まずそうに視線を前に戻し、そのまま、何も言えなくなった。……翌日は土曜日だった。私は親友の莉奈と、その息子の陸(りく)と一緒に、湖畔へデイキャンプに出かけた。陸は鏡也よ
Read more
第7話
鏡也は顔を真っ赤にして、荒い息をしていた。地面に倒れてわあわあ泣き出した陸を、憎々しげに睨んでいた。私は鏡也を厳しく睨み返し、しゃがみ込んで陸を抱き起こした。背中を撫でながら、落ち着かせようとした。鏡也に全力で突き飛ばされた陸は膝をすりむき、血を滲ませている。彼は私の腕の中で痛そうに泣きじゃくり、丸い頬は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。その光景を見た鏡也は、怒り狂ったように叫んだ。「そいつを抱っこするな!ぼくのママなのに、なんで他の子を抱っこするの!」彼は再び陸に掴みかかろうと、突進してきた。私は我慢の限界に達し、鏡也を強く押し返した。鏡也はバランスを崩し、すぐ隣の芝生に尻もちをついた。見たところ、ズボンに泥がついただけで、怪我をするような強さではなかったはずだ。だが、鏡也はその場に座り込んだまま、信じられないというように目を見開いていた。その瞳にはみるみる涙が溜まっていく。「なんで?なんでそいつのためにぼくを押すの?ママのバカ!ひどい!」そのとき、紫苑がヒールを鳴らしながら、ゆっくり歩いてきた。「どうしたの?」鏡也は彼女にとても懐いており、休日はよく一緒に遊んでいた。今日彼を連れて出かけたのも彼女だったらしい。まさかこんな所で出くわすとは。紫苑は私をチラリと見て言う。「あら、涼野さんじゃないの」彼女は鏡也の手を取り、無造作に立たせた。「自分の子より、よその子の味方をするなんて。これでよく母親と言えるわね」彼女は口元を押さえてフフッと笑う。「ああ、鏡也くんが嫌がるのも無理はないわ。いつも私に、ママのことを愚痴ってるもの。もう少し、お母さんらしくしてあげたら?」その言葉を聞くと、鏡也の目にまた涙がにじんだ。泥のついた手で乱暴に涙を拭い、私に怒鳴った。「そうだよ、ママなんか、大っ嫌い!」ずっと言葉を飲み込んでいた莉奈が、とうとう耐えきれずに口を開いた。「……お母さんに、そんなことを言っちゃだめでしょう」鏡也は勢いよく振り向き、怒りでその小さな顔を歪めた。「うるさい!おまえに言われたくない!おまえもそいつも、もううちに来るな!来たら犬に噛ませてやる!二人とも死んじゃえ!」その鋭く甲高い声に、陸はすっかり怯えて、私の腕の中にしがみついた。私は
Read more
第8話
離婚協議書の条件については、私なりに考え抜いていた。この結婚のために、私は青春も、キャリアも、プライドも、そして世間体も、すべてを犠牲にしてきた。紫苑が現れてからは、なおさらだった。惨めで、みっともなくて、泣き叫ぶしかできない人間になってしまった。だから、それに見合う金銭的な補償を求めようと、財産分与や慰謝料について、希望する条件を書き込んだ。けれど、夏彦はその内容を一行も読まなかった。彼はただ「離婚協議書」という表題をじっと見つめていた。目に動揺が浮かび、顔から血の気が引いた。結婚して6年。いつも余裕があり、冷淡で、誰にも隙を見せなかった夏彦が、こんな顔をするのを初めて見た。書類を持つ手まで震えていた。しばらくして、彼はようやくその震えを押さえ込むと、持っていた書類を乱暴に床へ叩きつけた。バサバサと音を立てて、白い紙が足元に散らばる。彼は血走った目で私を睨みつけた。「絶対に認めない!離婚なんて、するものか!」彼の傍らにいた鏡也も顔を真っ青にして、目に涙を浮かべながら、怯えきった表情で立ち尽くしている。やがて鏡也はしゃがみ込み、床に散った紙を一枚ずつ拾い上げた。自分の名前を見つけたのか、鏡也の手が止まった。そこは、離婚後の親権者を夏彦とする条件を書いたページだった。難しい文章は読めない鏡也が、震える指で自分の名前を指さした。「ここ、なんて書いてあるの?」「これからは、鏡也はパパと暮らすってことよ。もうママとは一緒に住めないの」私が淡々と答えると、鏡也はとうとう声を上げて泣き出した。涙が、ぽたぽたと紙の上に落ちる。「ママ、ぼくのこと、いらないの?本当に、ぼくを捨てるの!?」傷つき、信じられないと訴えるような声だった。夏彦は言葉を失い、鏡也は床にへたり込んで泣きじゃくっていた。それはあまりにも滑稽で、惨めな光景だった。何を今さら取り乱しているのだろう。私は二人を冷めた目で見つめ、背を向けて部屋を出た。そして、紫苑へ電話をかける。私たちの結婚生活に、何度も割り込んできた女。夏彦とは、よく深夜まで電話で楽しそうに話していた。彼女は社長である夏彦の権力を利用して、私の担当案件や企画を奪い、次々と昇進していった。鏡也を遊びに連れ出し、私がアレルギーに気
Read more
第9話
けれど、どういうわけか、紫苑は一向に行動を起こさなかった。夏彦も先延ばしにするばかりで、どうしても署名しようとはしなかった。私はもう、あの父子の顔を見たくなかったから、荷物をまとめ、その夜のうちに家を出た。月曜日の朝、会社で仲の良かった同僚が、朝礼の様子をLINEで教えてくれた。夏彦は、ひどく機嫌が悪かったらしい。普段から近寄りがたい人だが、その朝はいつにも増して威圧的で、誰も声をかけられないほどだったという。会議室に入ると、夏彦は出席者の顔を見回していたそうだ。まるで、誰かを探しているかのように。朝礼が終わる頃、夏彦は低い声で「伝えておきたいことがある」と切り出した。紫苑は話の内容を察したらしく、唇を噛んで夏彦に小声で話しかけたという。「ねえ夏彦、やっぱりもう少し待たない?じゃないと、私、会社にいづらくなっちゃう……」しかし夏彦は冷酷な目で彼女を一瞥し、会議室全体に聞こえる声で言った。「私が妻の存在を公表するのに、どうしてお前が困るんだ?」紫苑はばつが悪そうにうつむいた。他の社員たちは顔を見合わせ、ひどく驚いていた。社内では、誰もが夏彦を独身だと思っていた。社長と親しい女性として知られていたのは、元カノの紫苑くらいだったからだ。一体いつの間に妻なんてできたのか?戸惑いの視線が集まる中、夏彦は口を開いた。「私の妻は、涼野ひよりだ。結婚して6年になる。今後、私と特定の社員の関係について、くだらない噂を流すのはやめてもらいたい」その言葉に、社員たちは顔を見合わせた。何人かが紫苑に視線を向け、小声で言葉を交わし始めた。「えっ……社長、結婚してたの?」「じゃあ笠原さん、社長が既婚者だって知ってて、あんなにべったりしてたわけ?」「人の旦那を狙ってたってこと?信じられない……」「しかも彼女、普段から涼野さんの案件を横取りしたり、目の敵にしてたよね。まさか奥さんだって知ってて、わざとあんな嫌がらせを……?」紫苑は席に座ったまま顔を真っ赤にし、居たたまれない様子だった。やがて堪えきれなくなり、涙をこぼしながら会議室を飛び出した。夏彦は彼女の後ろ姿を見ていたが、その顔には何の感情も浮かんでいなかった。それから、人事担当者へ低い声で尋ねた。「ひよりは?今日はどうし
Read more
第10話
【もう、あのときの顔、ひよりにも見せたかった!】と、親しい同僚が面白がって伝えてきた。さすがに会議室では、社長に面と向かって非難することはできなかったらしい。けれど、気の合う仲間だけのグループチャットでは、みんな遠慮がなかった。クズ男だの、結婚しているのに元カノとズルズル関係を続けるなんて非常識だの。そのうえ、妻を隠し、職場で愛人を贔屓してモラハラするなんて、ひどすぎる、と。私はLINEのやり取りを読みながら、思わず吹き出してしまった。実のところ、あの日、車の中で夏彦が結婚を公表すると言った時、私が感じたのは喜びではなく、強い抵抗感だった。むしろ「やめてくれ」と懇願したいほどに。私は上司やコネ入社の社員たちから、6年間も嫌がらせを受け続けてきた。それなのに、会社のトップである夫はそれを見て見ぬふりをした。それどころか、元カノの肩を持って私を貶め、昇進の機会まで奪っていった。こんな惨めな結婚生活を送ってきたと同僚たちに知られたら、陰でどれほど笑われるのか、想像するだけで怖かった。幸い、実際に公表されても、私が恐れていたほど周囲の反応は冷たくなかった。様子を知らせてくれた同僚をはじめ、事情を汲んで寄り添ってくれる人もいた。彼女たちは夏彦に腹を立てながら、私にはこう言ってくれた。【男を見る目がなかっただけだよ。自分を責めないで】離婚すると決めた私のことも、心から応援してくれた。それからも、夏彦の動向をこまめに教えてくれた。どうやら今、彼には当然の報いが下っているらしい。会社の最大の取引先は「啓光グループ」だ。そこの社長は地方の小さな村の出身で、若い頃に妻と二人三脚で起業し、大企業を築き上げた今でも有名な愛妻家である。彼は以前から、「妻を大切にしない人間は、仕事でも信用できない」と話していたという。誰がチクったのかは分からないが、夏彦のしたことがその社長の耳にも入ったらしい。啓光の社長はこの件を不快に思い、取引の継続を見直しているという。夏彦は、その事態の収拾に追われていた。昼間は取引先への説明や対応に奔走し、夜は違う番号から何度も私に電話をかけてくる。「離婚には同意しない」言うことは、いつも同じだった。私は彼から電話が来るたびに、その番号を着信拒否リストに放り込
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status