LOGIN私、露木ひより(つゆき ひより)は、冷徹な社長として知られる露木夏彦(つゆき なつひこ)と結婚した。 職場では旧姓の涼野(すずの)を使い、結婚していることを隠し続けて、もう6年。息子の鏡也(きょうや)も、父親にそっくりな、無愛想な子に育った。 職場の人から性的暴行を受けそうになった事件の裁判に、私が出廷した日。 夫と息子は、スイスへ飛んでいた。 夏彦が7年間交際していた元恋人、笠原紫苑(かさはら しおん)の気晴らしに付き合うために。 二人が悪びれもせず帰ってきたのは、裁判の日から一週間も経ってからだった。 夏彦は眉間を指で押さえ、疲れた顔で言った。 「紫苑は落ち込んでいたんだ。 今度何かあったら、必ずそばにいてあげるから」 鏡也も父親の真似をして、すました顔で私をなだめてくる。 「パパと、おみやげ買ってきたよ。 これあげるから、もう怒らないで。ね?」 私はただ、静かに頷いた。 以前のように取り乱して、声を荒らげることもなかった。 そんな私の態度に、今度は夫と息子のほうが戸惑い始めた。 ある日、親友の三浦莉奈(みうら りな)としゃぶしゃぶを食べていると、彼女はTikTokを見ながらぽつりと言った。 「ねえ、最近SNSでよく見るんだよね。長く付き合ってた元カノがいる男とは、結婚しないほうがいいんだって。 元カノに呼ばれたら、すぐそっちに戻っちゃうんだって。 ひよりも気をつけなよ。旦那さん、7年も付き合ってた元カノがいるでしょ」 私は肉をさっと湯にくぐらせながら、ふっと笑って答えた。 「別に、どうでもいいよ。戻りたいなら、鏡也も連れていけば? もう、二人ともいらないから」 その時、背後で物音がした。 思わず振り返ると、すぐ後ろに夏彦と鏡也が立っていた。 二人の顔は、揃いも揃って真っ青だった。
View More長い沈黙のあと、夏彦がかすれた声で言った。「ひより、今は信じてもらえなくてもいい。これからの人生をかけて、お前を愛していることを証明するから。離婚だけはやめてくれ。頼む。もう俺を好きじゃなくても、鏡也には母親が必要だ」私は鏡也を一瞥し、こう答えた。「新しい母親を探してあげればいいじゃない」鏡也は弾かれたように顔を上げ、ワッと声を上げて泣き出した。「嫌だ!ママがいい!ママじゃなきゃ嫌だ!」顔をくしゃくしゃにして、息を詰まらせながら激しく泣いていた。以前の私なら、すぐに駆け寄っていただろう。抱きしめて、背中を撫で、優しく声をかけたはずだ。けれど私は一歩後ろへ下がり、冷淡に、そして静かに告げた。「二人とも口数が少なくて、感情をあまり表に出さないんだと思ってた。だから、そのぶん私が愛情を伝えればいいって。でも、いつまでもあなたたちを追いかけ続ける義務なんて、誰にもないの。妻だから、母親だからって、何をされても受け入れて、一生そばにいなきゃいけないわけじゃない。冷たくされれば、私だって傷つくわ。ひどいことを言われたり、ほかの人ばかり優先されたりしたらね。この家族を守るために、私にできるだけのことはしてきた。愛情も十分すぎるほど注いだし、我慢も重ねてきた。だから、こうなったのは、私の忍耐が足りなかったからじゃない。私が駄目な妻や母親だったからでもない」二人をまっすぐ見つめる。「あなたたちが、その愛情を踏みにじり続けたからだよ」私はきびすを返し、ホテルの中へ向かって歩き出す。「これからは、自分たちで考えて生きていって。私はもう、あなたたちの人生には付き合いきれないわ」背後で、二人の泣き声が重なった。夏彦は、プライドの高い人だ。ここまで私にすがること自体、彼にとっては限界だったのだろう。私も言うべきことはすべてはっきりと伝えた。だから、あの夜を境に、彼が私の前に現れることはなくなった。それから数日後、私のもとに、夏彦の署名が入った離婚協議書が届いた。財産分与の条件が変更されており、私が受け取る額は、当初求めていた額の三倍近くになっていた。必要な手続きを済ませると、私たちの婚姻関係は終わった。財産分与を受け、私は当面働かなくても暮らしていけるほどの資産を手にした。
街灯の下で、夏彦が静かに立っていた。その端正な顔は、以前より少しやつれて見えた。鏡也は彼の隣に立ち、小さな顔を上げて私を見つめていた。目は赤く、涙がいっぱい溜まっていた。私が近づくと、夏彦は一歩進み出て、すがるような目で私を見た。「紫苑には、会社を辞めてもらった。彼女にもはっきりと伝えたよ。これからはもう、一切関わらないって。ひより、一緒に帰ろう。な?」彼がここまで下手に出る姿は、初めて見た。けれど、私には滑稽にしか思えなかった。「彼女と縁を切れば、これまでのことが全部なかったことになると思ってるの?あなたが私に負わせた傷まで、なかったことにできるとでも?」夏彦は慌てて首を振った。「そんなつもりじゃない。彼女との距離の取り方を間違えて、お前を傷つけたことは分かってる。これからの人生をかけて、必ず償うから」私は乱れた髪を耳にかけ、淡々と答えた。「必要ないわ。私のこれからの人生に、あなたはもういらないの。早く離婚協議書にサインして。このまま話し合いに応じないなら、家庭裁判所に離婚調停を申し立てるわ」夏彦はその場で固まった。しばらくして、呆然と問い返した。「どうしてだ?どうしてそこまでするんだ?昔付き合っていた相手だから、少し気にかけていたかっただけだ。肉体関係があったわけじゃない。俺が愛しているのはずっとお前だけだし、心変わりしたことなんて一度もない」私を見つめる彼の目元が、かすかに赤くなっていた。「自分が間違っていたことは、もう分かってる。どうして、もう一度だけやり直す機会をくれないんだ?」彼の隣にいる鏡也も、小さくしゃくり上げながら、途切れ途切れに謝る。「ママ、ごめんなさい、ぼくが悪かったよ……紫苑ちゃんにママになってほしいなんて、本当は思ってないよ。ぼくのママは、ママだけだもん……もう悪いことしないから、もう一回だけ、パパとぼくを許して?」深く後悔しているように見える二人を前にしても、私には理解できなかった。どうして夏彦が離婚を拒むのか、ずっと分からなかった。あれほど紫苑を優先し、かばい、私が得るはずだったものまで彼女に与えてきたのに。それなら、離婚して彼女と一緒になればいい。そのほうが幸せなのではないのか。それなのに
正直なところ、浪花市に来たばかりの頃は、少し圧倒されていた。ネットで「街じゅうが芸人」なんて言われているだけのことはある。どこを歩いても、妙におもしろい人に出会うのだ。川では、年配の男性がウイングフォイルに挑戦していた。何度も水に落ちては、めげずにボードによじ登っていた。公園では、ミニブタを散歩させながら、ご機嫌な様子で歌っている女性を見かけた。人力車に乗った時には、車夫のお兄さんから、信号待ちの間にカラスが彼の帽子をくわえて逃げてしまったという笑い話まで聞いた。道を尋ねるだけでも、親切な人がまるで漫才のような口調で教えてくれる。「お姉さん、まずあっち行ってな。あの信号、見えるやろ?そうそう、あれや。そこ左曲がって、次を右。ほら、もう着いたようなもんや!」こちらに来てからの最初の1週間は、そんな驚きの連続だった。けれど、その気取らない、軽やかな空気に、私はいつの間にか救われていた。気づけば、あんなに沈んでいた気持ちがずいぶんと軽くなっていた。毎日、のんびりと美味しいものを食べて、あちこちをぶらぶらと歩き回る。楽しい。そんな単純な気持ちを、ずいぶん久しぶりに取り戻していた。しかし、そんな平穏も長くは続かなかった――夏彦が別のやり方で、私に連絡を取ろうとし始めたのだ。今度は、少しやり方を変えたらしい。しつこく私のスマホに電話をかけてくることはなくなった。代わりに、周囲の人を介して私に連絡を取ろうとしてきたのだ。一度目は、浜都市で雷を伴う大雨が降った夜のことだった。家政婦さんから電話があり、鏡也が雷を怖がって眠れず、「ママ、ママ」と泣いていると伝えられた。確かに、あの子は小さい頃から雷が苦手だった。そんな夜は、私がしばらく抱きしめ、背中を撫でながら子守歌を歌ってやらないと、眠れなかった。あんなひどい態度を取られても、私が産み、育ててきた子には変わりない。さすがに胸が痛んだ。しばらく黙ったあと、私は電話越しに子守歌を一曲歌うことにした。だが歌い始める前に、家政婦さんにこう告げた。「今から歌うので、録音しておいてください。次に雷が鳴ったら、それを聞かせてあげて。もう、このことで私に電話しないでください」歌い終え、電話を切ろうとした時、鏡也の泣き叫ぶ声が聞こえた。
子供の頃、私は『イタズラなKiss』という漫画が大好きだった。相手役の男の子は冷たくて、誰も簡単には近づけない完璧な存在だった。ヒロインの女の子は明るくて、かわいくて、いつも周りを照らしていた。彼女は少しずつ彼の凍った心をほどき、その内側へと入り込んでいった。あの物語が、私の恋愛観を形作ったのだと思う。そのせいか、大人になって夏彦に出会った時、私はこの口数が少なく、人との間に距離を置く青年に一目惚れしてしまった。そして、そのままのめり込んでいった。後先考えず、全力で愛した。彼のためなら、自分の持っているものをすべて差し出せると思っていた。あのヒロインのように、私も彼の心を温められると信じていたのだ。でも、そんな日は来なかった。6年間の結婚生活の末に残ったのは、ボロボロになった私だった。離婚を切り出した時、迷いはなかった。二人と離れることにも、未練はないつもりだった。それでも夜になると、抑え込んでいた感情が不意に湧き上がり、私を飲み込んでしまう。悲しいのか、悔しいのか、自分でも分からなかった。ただ、ひどく疲れていた。いくら体を休めてもなかなか抜けない、泥のような深い疲労感だった。この結婚で受けた傷は、思っていた以上に深かった。夏彦と鏡也に冷たくあしらわれ、思いを踏みにじられる日々の中で、人を愛する気持ちも、誰かを素直に信じる心も、すり減って消え失せてしまっていた。もう元には戻らないし、取り戻すこともできない。退職後、すぐに新しい仕事を探すつもりだった。けれど、そのための気力すら残っていないことに気づいた。そこで私は、ネットの掲示板に書き込んでみた。【心身ともに疲れ果ててしまった時、気晴らしに行くならどの街がいいですか?】一番多くの「いいね」が集まっていたのは、南の島を勧めるコメントだった。忙しい日常から離れて、何もせずに過ごしたい人に人気の場所らしい。海はきれいで、冬でも暖かい。少し惹かれた。けれど、コメントを読み進めていくうちに、浪花市を勧めるある長文の書き込みが目に留まった。【投稿読む限り、ただ仕事に疲れてリフレッシュしたいっちゅうわけやなさそうやな。長いことしんどい思いしてきて、もういっぺん前向く元気を取り戻したいんかなって感じたわ。それや