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第3話

ニワ
私は箱を閉じ、そのまま辰哉に返す。

辰哉はわずかに眉を寄せ、何か思い出したように気まずく言う。

「もう零時を過ぎた。あと一日待てば、冬実と離婚できる。

安心しろ。あの約束はずっと覚えてる。

明日、俺がお前の指にこの指輪をはめて、そのあと二人で婚姻届を出しに行こう」

私は彼の言葉に心を動かされることもなく、ただ淡々と答える。

「分かった。少し疲れたから休むね」

辰哉の笑みが固まり、初めて私の冷たさに気づく。

目の奥にわずかな焦りが走り、私の手を取ろうとしたそのとき――寝室から冬実が現れる。

私のパジャマを身にまとい、眠たげな目でこちらを見ると、すぐさま辰哉の腕に絡みつき、甘え声を出す。

「辰哉、穂花も帰ってきたし、早く休もうよ」

辰哉は慌てて私を見る。

「冬実は家族と喧嘩して、今日は別の部屋に泊めただけなんだ」

そう言って、慌てて私の顔をうかがう。誤解されまいとする視線。

私は軽く頷き、感情を見せずに言う。

「大丈夫。私は母のところで一晩過ごすから」

辰哉は立ち尽くし、私のあっさりした返事に言葉を失う。

けれど冬実は、私に言い返す隙すら与えず、勝ち誇ったように踵を返して部屋へと消えていく。

私はキャリーバッグを引きながら玄関へ向かう。その間も、辰哉はリビングに立ち尽くしたままだ。

彼は唇を固く結び、私の手を強く握ったまま離そうとしない。

その瞳には、後ろめたさがますます色濃く滲んでいく。

やがて冬実のせかす声が飛んできて、辰哉は押し殺した声で言う。

「明日、婚姻届を出したら、一緒にお母さんに会いに行こう」

――夜が明ける。

私はすべてを整理し、会社へ最後の引き継ぎに向かう。

会社のドアをくぐった瞬間、同僚たちの視線が刺さる。

通り過ぎるとひそひそ声が背中にまとわりつき、指先が私を指しているのを感じる。

視線の先に、私の席に腰掛ける冬実の姿。

その瞬間、この異様な空気の理由を悟る。

全員がパソコンの画面に目を落とすふりをしながら、視線だけが絶えずこちらに泳いでいる。

――まるで修羅場を見物しているかのように。

私が姿を見せると、冬実は勝ち誇ったように私を見下ろす。

「今日から入社するの。ここに座るわ。あなたは別の席に行って」

私は彼女を見つめ、静かに頷く。

「分かった。荷物を片づける」

言葉は淡々としているのに、私の姿を見た同僚たちは勘違いする。

――妻である冬実を前にして、不倫相手の立場にある私は気後れしたのだ、と。

けれど当人の私たちが目の前にいるため、誰も口には出せない。

ただキーボードを叩く音だけが響き、そこに込められた軽蔑を私に突きつける。

弁解したい気持ちはある。けれど言葉が見つからない。

事実、冬実は辰哉と婚姻届を出した「妻」なのだ。

これ以上何を言っても、私自身を貶めるだけ。

荷物をまとめ、席を離れようとしたとき、辰哉が現れる。

私が荷物を詰め込んだ箱を抱えているのを見て、彼の顔色が変わる。

「どこに行くんだ」

「私は……」

その言葉を遮るように、冬実が声を張る。

「ここは私の席よ。私が気に入ったから」

私が歩き出すのを見て、辰哉は慌てて腕を掴む。

「駄目だ。ここはお前の席だ。誰にも……」

最後まで言わせず、私は冷たく切り捨てる。

「彼女が気に入ったなら、譲ればいい。私はもう退職したんだから」

――誰がどこに座ろうと、私には関係ない。

辰哉はその場から動けず、暗い表情を浮かべたままだ。

私が箱を抱えて去っていく背中を見送るだけ。

そして我に返った瞬間、彼は机を片づけていた冬実を突き飛ばし、同僚たちの前でその頬を打つ。

「俺とお前は形だけの結婚だ。本気で勘違いするな!

俺が何度も言っただろう、穂花に手を出すなと!」

会社を離れたあと、私のスマホに辰哉からメッセージが届く。

【明日、区役所の前で待ってる。

お母さんのために専門医を呼んだから。

婚姻届を出したあと、一緒にお母さんに会いに行こう】

私は思わず笑みを浮かべ、すぐに苦く歪む。

――辰哉、もう二度と会わない。

荷物をすべて持ち、私は空港へ向かう。

翌日。

辰哉は、離婚届の受理証明を手に、区役所の前に立っている。

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