LOGIN母が病に倒れ、余命わずかの中で、最後に望んでいたのは私の結婚だった。 私は高嶺辰哉(たかみね たつや)に二十七日間も頼み込み、ようやく一緒に婚姻届を出してくれると約束してもらった。 けれど、私は区役所で窓口が閉まる時間まで待っても、彼は現れなかった。 その日のうちに、辰哉の幼なじみ――村瀬冬実(むらせ ふゆみ)が、SNSに一枚の写真を載せた。 【早いなあ。あと三日で、入籍して一か月になるんだ】 その瞬間、私は気づく。最初に彼へ必死に頼み込んだあの日、辰哉はすでに幼なじみと婚姻届を出していたのだと。 同時に、スマホに彼からの謝罪のメッセージが届いた。 【穂花、冬実は家に無理やり結婚させられそうになっていた。放っておけなかったんだ。 あと三日で、俺たちは離婚する。 三日後、必ずお前を迎えに行く】 ――そして三日後。 正装姿の辰哉が区役所の前に現れたとき、彼のスマホに届いたのは、ただ一通の私からの言葉だった。 【辰哉、もう二度と会わない】
View More彼は彼女の手首に残る、かつて「家庭内暴力の傷」だと偽った痕を見つめ、ふっと鼻で笑う。「お前みたいな人間、地獄ですら汚れると嫌がるだろうな」冬実の瞳孔がぎゅっと縮み、次の瞬間、人混みに紛れて消えていく。三日後。東南アジアのある小国で、ヨット爆発事故のニュースが報じられる。残骸から発見された旅券の名前には、はっきりと「村瀬冬実」と記されている。……南浜市の雨季は、いつも突然訪れる。設計図の束を抱えてアトリエへ駆け込んだ私は、ちょうど入口で傘を差していた蓮とぶつかる。「篠原デザイナー、時間ぴったりに来るのは苦手みたいだね」彼は笑いながら傘を軽く振り、金縁の眼鏡には雨で薄い靄がかかっている。そのとき――雨音を裂くようなかすれ声が外から響いる。「……穂花」街角に立っていたのは、全身を雨に濡らした辰哉だ。高級なスーツは雑巾のようにしわくちゃになり、手には色あせたビロードの小箱を握りしめている。「約束を果たしに来た」震える指先で蓋を開けると、中の指輪は雨空の下で鈍く光るだけ。「お前、言っただろ……」「高嶺社長、記憶力が悪いのね」私はブローチのひび割れを指でなぞりながら、かすかに笑う。「その指輪の約束なんて、二十七回目に冬実のもとへ走った時点で、自分の手で打ち砕いたのよ。こんな指輪で罪を償えると思うのか?」蓮が一歩前に出て、私の肩を守るように抱き寄せる。「六年も彼女を壊してきて、今度は残った尊厳まで踏みにじるつもりか」辰哉はよろめきながらも、必死に手を伸ばす。「……もう一度だけチャンスをくれ。何もいらない。ただお前さえいれば……」「もう、あなたには何も残っていない」私は静かに言葉を遮る。「辰哉、あなたの懺悔なんて、母の墓前の草一本だって養えない」蓮が突然ポケットから取り出したのは、一つの羽根のブローチだ。銀色の羽が雨に濡れて冷たい光を放つ。「高嶺社長、これを覚えてるか?」辰哉の瞳孔が大きく開く――それは、かつて自分の手で破り捨てた設計図に描かれていたものだ。「君が破ったのはただの紙だ」蓮はブローチを私の襟にそっと留める。「だが、彼女は新しい翼を得た」「ふざけるな!」最後の体裁が砕け散り、辰哉は狂ったように笑いながら蓮を指差す。「勝っ
ファッションショーの前夜。楽屋で衣装に着替えていると、襟元のレースに髪が絡まってしまう。そのとき、更衣室の扉が勢いよく開き、蓮がドア枠に寄りかかって口笛を吹く。「困ってるお姫様を助ける騎士が必要かな?」「社長の騎士道精神、使いどころを間違えてるわ」私は顔を赤くしながら髪を引き抜こうとするが、手首を押さえられる。「動くな」いつの間にか彼の手に銀色のハサミが握られている。冷たい刃先が首筋をかすめるが、その声は穏やかだ。「安心しろ。母の服を直すとき、何度もウエストラインを詰めたことがある」ぱらぱらと髪が落ちるたびに、彼の吐息が後ろ首をかすめる。天井のライトがふっと瞬き、交錯する影の中、鏡にはほとんど触れ合うほど近い二人の姿が映る。蓮の指先が無意識に、肩に落ちた髪の先をくるりと巻き取る。外から司会者のカウントダウンが聞こえてきた瞬間――「出番だ」半歩下がり、ハサミをポケットに戻したときには、もう余裕をまとった社長の顔に戻っている。「忘れるなよ。今夜の拍手は全部、檻を破った鳥のためのものだ」……カーテンコールを終えたあと。私は舞台裏から、客と談笑する蓮を見つめている。完璧な仮面をつけたようなスーツ姿。だが、人の波が引いた瞬間、彼はネクタイを引き緩め、そのまま雨の中へ駆け出す。そして振り返り、手を差し伸べる。「来い。見せたいものがある」黒い車が夜の闇を切り裂き、海崖の前に止まる。蓮はトランクから鉄の鳥籠を取り出した。中では十数羽の白い鳩が羽ばたき、籠を揺らしている。「これが『籠の鳥』の本当のフィナーレだ」ばさりと扉が開かれ、月光が羽根に降り注ぎ、銀色の光が飛沫のように散る。「ほら、篠原デザイナー。自分の手で放してやれ」震える手で鳩の羽を撫でると、その羽ばたきの力強さが掌を痺れさせる。最後の一羽が飛び立った瞬間、蓮の腕が背後から私を包む。濡れたスーツが、私の薄い背中に貼りつく。「……まるで君の代わりに飛んでいるみたいだ」熱を帯びた唇が耳朶をかすめ、すぐに離れる。「悪い。どうやら我を忘れた」私は彼が離れようとする手を強くつかみ、そのまま唇の端に口づける。潮の塩気と柑橘の香りがまざり合い、舌の先に広がる。蓮は一瞬息を呑むが、すぐに後頭部を押さえ込
「こんな安っぽい写真立て、捨てればよかったのよ!辰哉、目を覚ましなさい。穂花なんて、今ごろどこの男のベッドに――」ざばっ!汚水が冬実の頭から一気に降りかかる。総務部の社員が、空になったバケツを握りしめながら震えている。「村瀬……穂花さんのサボテンを汚したときから、ずっとこうしてやりたかったんだ!」……潮の匂いを含んだ海風が、半開きの窓から吹き込む。私は最後の線を描き終え、顔を上げた瞬間、蓮がドア枠にもたれかかってこちらを見ているのに気づく。彼の手にはコーヒーが二つ。金縁の眼鏡の奥、瞳が細められ、やわらかく弧を描く。「『籠の鳥』の最終稿――翼の模様、初稿より三本ひびが増えているね」ペン先が止まる。図面の中で羽ばたく鳥は、折れた翼をそれでも必死に伸ばしている。あの夜、倉庫で膝を抱えて描いたときの自分そのままに。私はコーヒーを受け取り、舌の上に広がる苦味を感じながら言う。「ひびは……檻を破ろうとした代償。でも、そのひびから光は差し込む」蓮はふいに身をかがめ、長い指先で図面の端をなぞる。袖口が私の手の甲に触れ、ぬくもりに思わず身を引いた。彼は小さく笑い、一束の写真を私の前に置く。「クライアントが来月のファッションウィークで『籠の鳥』を発表してほしいと言っている。本物の羽根を使って飾りたいんだ。君、鳥は平気?」「前は……怖かった」写真に写る白鷺の羽ばたきに指をなぞりながら、かつて辰哉が私の窓辺の雀の模型をゴミ箱に投げ捨てた光景がよみがえる。「でも今は……檻に閉じ込められるほうが、もっと怖い」蓮の視線がしばし私の指先にとどまり、それから突然振り返って引き出しを開ける。リボンで結ばれた箱を取り出し、こちらに差し出す。「開けてみて」中に入っていたのは羽根のブローチ。銀の糸で包まれた羽根に小さなダイヤが埋埋め込まれている。息が止まりそうになる――これは、二年前に辰哉に破り捨てられた草稿に描いたデザイン。今、その図案が蓮の手によって実体を得ている。「展示が中止になったあの日、紙切れ一枚を拾ったんだ」潮霧のように静かな声が落ちる。「持ち主に返すときが来た……気に入ってくれるといい」……深夜のアトリエには、デスクライトの明かりだけが灯っている。私はペンを噛みな
「折られた翼で自由を描くなんて――それ自体が面白い」蓮は金縁の眼鏡を押し上げ、レンズの奥で目元を三日月のように細めて笑う。「僕があのときの審査員だったんだ。最高点をつけたのは僕だよ。明日から来い。給料は前の三倍。条件は、『籠の鳥』シリーズを最後まで仕上げることだ」「……はい!」――その頃。「高嶺社長、また村瀬さんが……」秘書が戸口に立ち、言いにくそうに口を開く。「追い返せ!」辰哉はスマホを床に叩きつける。蜘蛛の巣のように画面が砕け散ったその刹那、ヒールの音が廊下から近づいてくる。「辰哉、どうしたの?穂花、本当にあなたを捨てたの?」冬実は新作のバッグをぶら下げ、車にもたれかかりながら紅い唇で嘲るように笑う。「今や世間中が知ってるわよ。あなたが元恋人のために、新婚の妻を捨てたって。情の深い男ねえ」「お前、まだそんな口がきけるのか!」辰哉はその手首をつかみ、骨が砕けそうなほどの力を込める。「お前が『無理やり結婚させられる』なんて嘘をついて、俺に形だけの結婚を頼んだから――穂花は去ったんだ!」冬実は顔を蒼白にしながらも、笑みを崩さない。「言ったのはあんたでしょ?『俺はずっと冬実の味方だ』、『家の問題が片づいたらすぐ離婚する』って。今さら全部、私ひとりのせいにするの?」彼女は勢いよく腕を振り払い、丁寧に整えた髪が乱れて唇に張りつく。「辰哉、この会社がここまで大きくなったのは、うちの父の支援があったからよ。今さら都合よく切り捨てる気?」ガラスの壁に映る二人の影は、歪んだ影絵のように揺れている。辰哉は幼い頃から「妹」と呼んできた女を見つめ、ぞっとするほどの異質さを覚える。「……最初から仕組んでたんだろ。穂花の母親が危篤のときにわざと婚姻届を出して、わざと写真を投稿して――」「そうよ。それがどうしたの?」冬実は辰哉の言葉を鋭く遮る。涙がアイラインと混じり、黒い筋を作って頬を伝う。「十二歳のとき、あんたが私の膝の傷に絆創膏を貼ってやったあの日から――あたしは誓ったの。あんたの目に映るのはあたしだけだって!あの穂花なんて何?あんたと安アパートでカップ麺すすってた貧乏学生でしょ?会社が大きくなった今、あんな子が社長夫人にふさわしいと思うの?忘れるなよ。最初の資金は私の父から騙し取っ
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