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二十七日の懇願、三日遅れの離婚
二十七日の懇願、三日遅れの離婚
Author: ニワ

第1話

Author: ニワ
霊安室で、私は母の顔を見つめ、涙がとめどなくあふれ落ちる。

母はたった一人で私を育ててくれた。何ひとつ望みを押しつけたことはなかった。

こんな彼女が病に倒れた後、余命わずかの中で、最後に望んでいたのは私の結婚だった。

それなのに、私は最後の願いすら叶えてあげられなかった。

母の病状を知ってから、私は六年間付き合ってきた高嶺辰哉(たかみね たつや)に婚姻届を出そうと頼み込んだ。母がいなくなった後も、私には寄り添ってくれる人がいると知らせたかったからだ。

二十七日間、必死にお願いした。

けれど辰哉は、いつも理由をつけては先延ばしにした。

最初の日は、幼なじみ――村瀬冬実(むらせ ふゆみ)の車が壊れたと聞いて迎えに行った。

二日目は、彼女の引っ越しを手伝うからと言った。

……

二十六日目には、冬実が胃を悪くしたと言って、看病に行った。

もし今日、冬実がSNSに婚姻届受理証明書の写真を載せていなければ――私は今も騙されたままだろう。

辰哉を信じ、彼にありとあらゆる理由をつけてきた。けれど、唯一思い至らなかったのは、彼がすでに結婚しているという事実だ。

私は母の前に跪き、夕暮れまで泣き続ける。そんなとき、辰哉から電話がかかってくる。

受話口の向こうから、いつもの優しい声が響く。

「こんな遅くまで、まだ帰らないのか。どこにいる?迎えに行くよ」

口を開きかけたのに、声にならない。

これまでなら、わざと拗ねたふりをして、甘えて彼に機嫌を取ってもらった。そして素直に喜びながら迎えを待っただろう。

だが今は、もう一言も甘えられない。

辰哉の声に、焦りが混じる。

「穂花(ほのか)、今どこにいる?」

「病院にいる」

辰哉は息を呑み、ようやく気づいたようだ。私がこの日々、母の看病を続けていることに。

「……待ってろ。すぐ病院に行く。一緒にいるから」

電話を切り、私は悲しみを堪えて母の後のことを整え始める。

しかし十分後、スマホに届いたのはまた別のメッセージだ。

【穂花、ごめん。冬実の両親に呼ばれて、一緒に顔を出さなきゃならない。また今度必ずお母さんに会いに行くから!】

驚きはない。

ここ二年、彼の口から最も多く出たのは「また今度」という言葉だった。

記念日に来なかった彼は、「また今度必ず埋め合わせる」と言った。

母に会う約束を破った彼は、「次こそ必ず行く」と言った。

婚姻届を出すことを先延ばしにした彼は、「明日なら時間がある」と言った。

私が許してしまうと分かっているからこそ、辰哉は平気で私を傷つける。

けれど――もう二度と「次」はない。

母にとっても、私にとっても。

その夜、私は家に帰らず、病院で一晩を過ごす。

辰哉からは夜通しメッセージが届き、スマホは鳴り続けているのに、私は見ないし、出ようともしない。

翌朝、私は会社に早く出て、退職届を準備する。

辰哉は会社の創業者。

私はただのデザイナーにすぎない。

彼が何も持たなかった頃から、共に立ち上げた会社。

けれど今の私は、この場所で何の意味も持たなくなっている。

消えても、辰哉は気づきもしないだろう。

退職届を書いていると、不意に背後に辰哉の気配を感じる。

振り返らなくても分かる。視線が突き刺さる。

私は平然と紙を手に取る。

「終わった?」

優しい声。

「……うん」

私は答えるが、その声に熱はない。

私の冷たさに気づいていないかのように、辰哉は軽く咳払いする。

「篠原穂花(しのはら ほのか)、ちょっと来てくれ」

その瞬間、周囲の同僚たちの視線が一斉に集まり、ざわめきが走る。

「ねえ、知ってる?高嶺社長、もう結婚してるんだって」

「うそでしょ?じゃあ篠原さんって、ずっと社長の隠し彼女だったってこと?まさか――不倫相手?」
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