LOGIN黒川区、楽名区からだいぶ離れた稲田町。都会から遠ざかった田舎町では、夜に外を出歩いている者はほとんどいない。明かりの点いている家がほとんどない中で、誠也の居酒屋は通常通り営業していた。「――そういえば、近所に住んでいたあの綺麗な女の子……引っ越しちゃったのかい?」「……!」常連客の何気ない一言に、誠也はピクリと動きを止めた。彼は平然を装って振り返ると、笑顔で応えた。「……ええ、元々都会の人でしたので」「そうか……人がいなくなるのは、何だか寂しいね」稲田町は都内に位置しているが、小さな田舎町だ。出て行く若者は多くとも、新しく入ってくる者は少ない。特に瀬奈のような若く綺麗な女性は、近所でもかなり話題になった。今日はちょうど両親が不在で、彼が一人で店を切り盛りしていた。(俺がやらないと……跡継ぎは俺しかいないんだから……)瀬奈がいなくなってからというもの、誠也は以前にも増して仕事に打ち込むようになった。彼が彼女と最後の挨拶を済ませたのは、一部の近しい人間しか知らないことだ。あの日のことを考えると、誠也の手が止まった。瀬奈から渡された薔薇の花は、今でも大切に花瓶に生けてある。あの花を見ると、自然と彼女のことが思い浮かんだ。そんな彼の元を、珍しい客が訪れた。「――久しぶりねぇ、誠也君」「……静香さん?」深夜の一時、誠也の元を訪れたのは瀬奈の実姉である静香だった。静香は店内の椅子に座りながら、親し気に誠也に話しかけた。「元気にしてた?誠也君」「ええ、おかげさまで」よく知った人物の来訪に、張り詰めていた誠也の気も緩んだ。彼がかつて心から愛した瀬奈の実の姉である彼女だが、似ているところが全くない。見た目も違えば、性格も正反対だ。しかし、彼にとっては頼りになる姉御分のような存在だった。「今日は久々に飲もうと思って」「そうだったんですね」静香はサワーを注文すると、優雅に飲み始めた。元々暁家の令嬢であるせいか、酒を飲んでいる姿がやけに美しかった。「瀬奈さんは……元気ですか」「……」予期せぬ問いに、静香は顔を上げた。あの日以降、彼から瀬奈の話を聞いたことがなかったため、少し驚いてしまった。「ええ、元気にやっているわ。湊斗とも……ラブラブすぎて近所中で話題になっているそうよ」「そう……だったんですね」辛い思いをしていたらどうしようか
その日の夜、瀬奈は予期せぬ形で風邪を引いてしまった。以前ほど重症ではないし、熱も微熱だが、辛いことに変わりはない。瀬奈はしばらくの間、自宅での安静を余儀なくされた。ストレスが溜まっていたこともあり、彼女は大人しく受け入れた。「ママ、大丈夫?」「ええ、平気よ……すぐに治るから心配しないで」里亜に風邪を移すわけにはいかないと、彼女はメイドに里亜を部屋に戻すよう命じた。人を全員外に出すと、瀬奈は一人になった部屋でポツリと呟いた。「何だか不思議な気分ね……昔に戻ったみたい……」――昔とは、もちろん湊斗との関係が疎遠になっていた時期である。あの頃は毎日のように一人寂しく過ごしていた。彼はほとんど家に帰らず、瀬奈はお飾りの妻としてメイドたちからも疎まれていた。一時でも幸せを感じてしまったせいだろうか。瀬奈は以前よりも一人に耐えられなくなっていた。彼は今日も帰りが遅くなると聞いた。理由はわからない。もしかすると、あのマナミって女と会っているのかもしれないし、違う女かもしれない。『何かあったらすぐに俺に言えよ。お前のためなら何でもするから』彼にそう言われた記憶が、今でも鮮明に残っている。「……………嘘つき」瀬奈は口から零れ落ちたその言葉と同時に、倒れるようにベッドに横たわった。目が覚めた頃には彼が帰ってきていたらいいなと願いながら、彼女はゆっくりと瞳を閉じた。***瀬奈が眠りに就いた頃、隣の楽名区にて。楽名区のタワーマンションに住んでいる涼は、つい最近スキャンダルを週刊誌に掲載された翔也と久しぶりに飲んでいた。既に酔いが回っている翔也は、赤くなった顔で机に突っ伏した。「あーあ、何で俺がこんな目に遭わないといけないんだろうなぁ……」「お前、何を言っているんだ。全部自分のせいだろう」涼は呆れたように翔也を眺めた。彼が女遊びを繰り返しているのは、今に始まったことではない。しかし、今回ばかりは相手が問題だった。翔也を週刊誌に売った女は、本気で彼の妻の座を狙っていた。だが、彼にはそこそこ名の知れた女優の妻と離婚する気なんて毛頭なかった。二人のすれ違った思いがトラブルに発展し、女は週刊誌に暴露するという最悪の選択をした。そのせいで翔也には批判が殺到し、女優である妻もサレ妻という印象が定着してしまっていた。おかげで彼と同じチームに所属するメンバーの
カフェに移動すると、松永は二人分のドリンクを注文した。元々暁家の令嬢であり、今は神宮司家の夫人である瀬奈をこんなチェーンの店に連れてくるのは憚られたが、仕方がない。他に良い店もなさそうだし、何より瀬奈自身が気にしてなさそうだ。松永は正面に座る瀬奈に、優しく声をかけた。「俺の奢りだから気にしないで」「いえ……そこまでしてもらうわけにはいきません。お代はきちんと払いますから」「いやいや、本当に良いから。今回くらい俺に出させてよ」瀬奈は遠慮していたが、松永が強引に押し通した。たった数百円のドリンクで、女性に割り勘させるわけにはいかなかった。たとえ大企業の社長を夫に持つご夫人だったとしても同じだ。女性を傷付けてきた経験のほうが圧倒的に多い松永だが、意外と紳士的な一面もあるようだ。しばらくすると、熱々のコーヒーとカフェラテが運ばれてきた。暑い夏が終わり、秋に入って間もない。最近は特に肌寒くなってきている。今日は湊斗が他の女性と一緒に歩いているところを見たからだろうか。いつもよりとても身体が冷えているように感じてしまう。(どうしてこんなにも寒いんだろう……)瀬奈は自身の身体を抱きしめるようにギュッと腕を掴んだ。そんな彼女に気付いた松永が、そっと椅子から立ち上がった。「――神宮司さん、これ着てな」「………松永さん」彼は自身の着ていた上着を、そっと瀬奈の肩にかけた。彼の気遣いに、身体だけでなく胸まで温かくなった。「ありがとうございます……」「ああ」テーブルの上に置かれたカフェラテを一口飲むと、その温かさで瀬奈の身体は徐々に落ち着きを取り戻していった。「神宮司さん、旦那さんのことで何かあったのか?」「……彼を疑っているわけではないんですけど、女の人と二人で歩いているところを見てしまって」瀬奈はついさっき見た光景を素直に打ち明けた。とても信じたくはなかったけれど、あれは紛れもなく現実だった。松永は憔悴している瀬奈に、かける言葉が見つからなかった。そのとき、瀬奈が突然テーブルに手をついて身を乗り出した。「それで一つ聞きたいんですけど」「何だ?」「――奥さんをどれだけ愛していても、綺麗な女の人がすり寄ってきたら、やはり関係を持ってしまうものなんでしょうか!?」瀬奈は助言を求めるように、松永に詰め寄った。何とも答えにくい質問に、彼は呆
その日、ちょうど瀬奈は仕事が休みだった。偶然か、休みなのは松永も同じで、彼は家で何もせずにくつろいでいた。そのため、すぐにでも瀬奈の元へ駆けつけることができた。「――神宮司さん!」「松永さん……」瀬奈は黒川区にある公園で、一人ベンチに縮こまって座っていた。その表情は暗く、今にも泣きだしてしまいそうだった。一体何があったのか、松永は事の顛末を聞いていなかった。何となく予想はつくものの、自分が知ってしまってもいいことなのか躊躇われた。瀬奈は自分のためにわざわざここまでやって来てくれた彼を見上げた。あのときはあまりのショックから、冷静な判断ができなかった。「松永さん……来てくださったんですか……」「神宮司さんが悩んでいるようだったから……心配で……」松永はベンチに座る瀬奈の横にそっと腰を下ろした。瀬奈が呼んだわけではない、ここに来たのは松永の意思だった。とはいえ、彼の家は黒川区ではなく隣の区にある。決して近いというわけでもないこの場所まで、わざわざ車を走らせて訪れるだなんて。俺はどうかしている――と、松永自身も感じた。彼はしばらくの間、何も言わずに横にいる瀬奈をじっと見つめていた。誘惑しようとしてキッパリ断られたときはなんて強い女性なんだと思ったが、今はとても弱々しく感じる。みんなの前では強い姿を見せておきながら、裏ではこんなふうに落ち込むこともあるのか。松永は瀬奈の意外な一面に、面食らっていた。とても、今の彼女を一人になどしてはおけなかった。「松永さん、ありがとうございます……」「気にしないでくれ、俺が自分からここに来たんだから」瀬奈が今何に悩んでいるのか、聞かずともわかる。おそらく夫のことで何かあったのだろう。夫を信用できないかもしれないと電話でたしかに言っていたし。夫と聞いた松永は、瀬奈の夫である湊斗を初めて見たあの飲み会の日のことを思い浮かべた。神宮司湊斗は、同じ男である彼から見てもカッコいいと思えるような人だった。整った顔立ち、引き締まった身体、放たれる異様なオーラ。まるでテレビに出てくる人気アイドルのような人だった。あんな見た目なら、既婚者だったとしても女性たちが放ってはおかないだろう。日常生活において常に誘惑が潜む中で生きているのだ。瀬奈の不安は尽きないだろう。しかし、松永は彼がどれだけ瀬奈を溺愛しているかを知って
松永の話を、瀬奈は黙って聞いていた。彼のことを女好きで不真面目な男だと勝手に思っていた彼女だったが、そのような悲しい過去を抱えていることは知りもしなかった。松永は幼い頃複雑な家庭環境で育ったこともあって、若いときから女遊びに走るようになった。そんな彼がようやく巡り会えた最愛の女性。夢のような暮らしを経て、絶対に幸せになれると信じて疑わなかっただろう。しかし、関係は上手くいかず、彼は最愛の人に捨てられてしまった。松永が何かをしたわけではない。ただ信用できないからという理由で。「あのとき、妻に言われた言葉は今でもよく覚えてるんだ。そう簡単には忘れられないさ」電話越しに聞こえる彼の声はとても悲しそうだった。愛する人を信用できない、信用されないことの辛さ苦しさは瀬奈もよく知っていた。彼女もまた、つい最近まで湊斗を愛しながらも彼を完全に信用できずにいたからだ。そして今も、彼に対して疑念を抱いてしまっている。湊斗は変わったのだから不倫なんてするはずがないという気持ちと、やはり人の性格は変わらないという気持ちの間で揺れていた。「だから、私に対して試すような真似をしたんですか?」「ああ、君と旦那さんの仲を壊そうと思ったわけではないよ」「そんなことばかりしていたら……周囲の人々に誤解されてしまいますよ」瀬奈の忠告に、松永はクスリと笑みを溢した。「まぁ、元々俺は同僚たちから好かれてないんでね……下がる評判もないから、特に気にしたことはないよ」そうは言いながらも、自身を気遣うような瀬奈の言葉を松永は嬉しく思っていた。社内で好かれていない彼にとって、誰かに優しくされるのは久しぶりだった。前妻と離婚してからというもの、彼は再婚することもなくずっと一人で暮らしていた。女遊びはするものの、誰も愛せなかった。そんな彼にとって、瀬奈との通話は新鮮で楽しかった。こんな純粋な子には絶対に手なんて出せない――と彼は思った。「松永さんの言葉を聞いて、考えが変わりました」「そう?それはよかった」松永の明るい声が聞こえてくる。やはり誰かの役に立つのは嬉しいのだろう。「私、夫のことを信じてみます!松永さん、ありがとうございました!」「ああ、頑張れ。また困ったことがあったら、いつでもかけてきていいから」いつでも相談に乗るよ――と松永は付け加えた。彼のその言葉を最後に、
松永に電話をかけると、彼は三コールほどで応答した。「もしもし、神宮司さん?」「あ、松永さん……急に電話してしまってすみません」電話の向こうから、いつものチャラチャラした松永の声が聞こえる。いくら心に余裕がないとはいえ、彼に電話をかけるだなんて。自分でもありえないと思っていた。「全然、気にしないで。だけど本当にかけてくるとは思わなかったから驚いたなぁ」「わ、私も電話をかけることになるとは思ってもいませんでした」その言葉に、松永はアハハッと声を上げて笑った。一生繋がることがないと思っていたのは、お互い様だ。「どうかしたの?旦那さんのことで何かあった?」「あ、いえ……そういうわけではないんですけど……」瀬奈は松永相手に、正直に事情を話すことができなかった。そもそも彼はつい最近出会ったばかりで、湊斗とは話したこともない。そんな彼にこのような話をするのは正解なのだろうか。そのような思いから素直に打ち明けることが出来ずにいたものの、松永はそんな瀬奈の気持ちを見抜いていたようだ。「いやぁ、神宮司さんがわざわざ俺に電話かけてくるってことは旦那さん関連だろ?」「そ、それは……」心の中を見透かされたようで、瀬奈は認めざるを得なかった。「旦那さんと上手くいかなくて寂しくなっちゃった?なら、俺が一日相手してあげようか?今から君の家に――」「冗談はやめてください、松永さん」瀬奈は松永の馬鹿げた提案に、即座に断りを入れた。悩んでいたから電話したというだけであって、彼女まで不倫をしようなんて意思はない。「まぁ、そうだな……俺が神宮司さんと関係持っちゃったら旦那さんが可哀相だもんな」「前から思ってたんですけど、私と夫どっちの味方なんですか?」松永は瀬奈のその質問には答えなかった。代わりに、彼はしみじみと過去を思い返していた。「神宮司さんを見ていると、昔を思い出すな……俺もそういうときがあったなぁ」「そういえば、松永さんって昔結婚してたんでしたっけ」「ああ、そうだよ。社員の誰かから聞いたのか」松永が過去に結婚しており、その後離婚したという話は飲み会で隣に座った女性社員から聞いた話だった。今どき夫婦の離婚なんてそれほど珍しいことではない。離婚したというだけで色眼鏡で見るのも間違いだろうと思い、そこまで気にはしなかった。「前に神宮司さんが旦那さんを