LOGINその後、瀬奈は愛斗を玄関で見送った。ちょうど外が暗くなり始めていた頃だった。瀬奈は送っていこうかと言ったが、愛斗はそれほど遠くはないからと断った。黒川区は都会であるため、夜に出歩いたところで別に危なくはない。最近は夜遊びをしているヤンチャな学生たちをよく見かける。それに加え、ちょうど雨が上がっていた。今の状況であれば、徒歩で家に帰ることができるだろう。「瀬奈さん……今日はご迷惑をおかけしてすみません」「いえいえ、気にしないで。あなたをここへ連れてきたのは私なんだから」湊斗の服を着ている愛斗の姿は、正直かなり違和感がある。しかし、それ以外に着るものがないため仕方が無い。「では……失礼します。今日はありがとうございました。明日にでも服を返しに来ます」「あら、別にもらっていってもいいのよ?湊斗は服が一着無くなったことくらい気付かないだろうし」「い、いえそういうわけには……!」ハイブランド好きな湊斗は、かなりの量の服やアクセサリーを所有している。年を取ってからは購入品も少なくなったが、若い頃に買った服が未だに大量に残っている。そのため、仮に愛斗が借りパクしたところで彼はおそらく気付きもしないだろう。「と、とにかく……服はきちんとお返しします」「そう、待っているわ」待っている――というその言葉に、愛斗の顔が少しだけ赤くなった。そういえば、さっき彼と抱き合ってたんだっけ。二十近く年が離れているせいか、瀬奈はあまり気にしなかった。きっと愛斗もさほど気に留めてはいないだろうと、瀬奈は勝手に思い込んだ。しかし、実際愛斗は瀬奈と抱き合ったことがいつまでも頭から離れなかった。「じゃあね、愛斗君」「はい」瀬奈は愛斗を見送り、家に戻った。湊斗が帰ってくる前に終わらせることができてよかったと、瀬奈は安堵の息を吐いた。そんな彼女の元に、里亜がやってきた。里亜は瀬奈が湊斗を受け入れたあの日から、正式に湊斗の子――神宮司家の令嬢となった。とにかく里亜を甘やかそうとする湊斗に対し、瀬奈はお灸をすえることも多い。「ママ、お腹空いた」「そうね、今日もパパ遅くなるみたいだし……先に食べちゃいましょう」瀬奈はキッチンに行くと、エプロンを身体に巻き付け、夕食の支度を始めた。よほどお腹が空いていたのか、里亜もキッチンまでついて来て支度を手伝った。「あら、ありがと
全てを話し終えた愛斗は、切なそうな表情で俯いた。気のせいか、その瞳には涙が滲んでいるようにも見える。そんな彼の辛そうな様子を見ていると、瀬奈は胸が締め付けられた。どうしてこんなにも心優しい少年が、辛い目に遭わないといけないのだろうか。血の繋がった我が子に平然とそのような言葉を吐くことのできる沙織の異常さを改めて知った。「さっき言いましたよね。昔からずっと疑問に思っていたと。幼い頃は、なぜ両親が自分を愛していないのかを不思議に思っていました。だけど、姉さんも似たような状況だったせいかあまり深く考えることはありませんでした」「愛斗君、それは……」瀬奈は愛斗の愛されていないという考えを否定しようとしたが、言葉がどうしても出てこなかった。沙織が百合子と愛斗を愛しているのかと言われれば、答えは否だった。そんなことないよなんて、家庭の事情をよく知りもしない赤の他人に言われたところで何の慰めにもならない。それに、愛斗は慰めの言葉なんて望んではいないだろう。「子を愛していない母親なんていないと言いますが……本当にそうでしょうか?」愛斗の言っていることはごもっともだった。我が子を愛する母親が大半を占める中でも、当然例外は存在する。沙織だけではなく、瀬奈の母親も似たようなものだった。今は亡き母は、泰西にのみ愛を注ぎ、瀬奈と静香には関心を向けなかった。当時の母親の置かれた状況を思えば、彼女だけを責めるのも間違いかもしれない。わかってはいるものの、幼少期の瀬奈は寂しさを感じずにはいられなかった。――母親という存在は、それほどまでに子供にとっては大きなものなのである。おそらく愛斗も、心のどこかで沙織のことを信じていたのではないだろうか。「なら、俺は母さんの子供ではありませんね。この間もハッキリ言われたし――好きでもない遊び相手の男との子供なんて気持ち悪くてたまらないって」「そんな……沙織が……?」沙織の言動に、瀬奈は絶句した。なぜ、そこまでの暴言を吐けるのだろうか。知らない男の子供だから可愛くないと言うが、そんな人間は仮に愛する男性との間に生まれた子だったとしても、可愛がれないだろう。「さっき、元気だったかって聞きましたよね。正直に言うと、元気ではありませんでした。近頃はとくに、何も手につかなくなってしまって」「愛斗君」彼が何かを思い悩んでいることは、
愛斗と百合子が湊斗の子ではないこと。瀬奈も既に知っていた事実だったが、当の本人の口から直接聞くことになるとは想像もしていなかった。しかも、その事実を伝えたのが他でもない沙織だなんて。彼が今一体どんな気持ちでいるのか、瀬奈は頭を抱えた。「愛斗君……どうして……」「ずっと疑問に思っていたんです。母は常に何かを隠しているようだったし、父に本妻がいると知ってからは……もしかすると自分は父の子供ではないんじゃないかって少しずつ思うようになりました」愛斗は瀬奈と湊斗と話したあの日、沙織に直接尋ねた。自分は湊斗の子供ではないのかではなく、自分の本当の父親は一体誰か、と。確信があったわけではないが、どうしても真実を知りたくてかまをかけたのだ。沙織はそんな質問をされてもなお、動揺する素振りすら見せなかった。『どうしてそんなことを聞くのかしら?誰かに何か言われたの?』『そういうわけじゃないけど……ただ、そうなんじゃないかって思っただけで』『ふーん、そう』そこで沙織は、愛斗から顔を背けた。馬鹿げたこと言わないでよね、そんなわけないでしょう――なんて言葉を彼は期待していたのかもしれない。しかし、現実はどこまでも残酷で、沙織はどこまでも冷たい人間だった。『父親が誰かって言ったわよね?わからないわ、そんなの気にしたこともない』『…………え?』理解が追い付かない息子に、沙織はもう一度言い放った。『父親はわからない。それが答えよ。これで満足したかしら?』『母さん……』沙織の答えは、彼が望んでいたものとはかけ離れていた。たとえ父親が湊斗ではなかったとしても、他にきちんと存在しているのならまだ耐えられた。しかし、誰かわからないだなんて。彼女の放った一言は、愛斗にとってはもっとも最悪なものだった。『……どうして』『どうしてですって?それに関してはきちんと答えられるわ――適当な男たちと遊んでたら運悪く出来ちゃったのよ』その答えに、愛斗は絶句した。愛し合って生まれた子ではなく、望まれなかった子。父親は彼の存在すら知らず、母親ですら彼の誕生を喜ばなかった。自分は両親にとってその程度の存在だったのか。もちろん愛された実感なんてなかったけれど、生まれたときから疎まれていたのか。『仕方ないでしょう?できちゃったんだから』『もしかして、姉さんも……』沙織はもはや
瀬奈は愛斗を神宮司邸に入れると、すぐに風呂に入らせた。長時間雨に打たれた後だ。風邪を引いてしまっているかもしれない。受験が近いというのに、体調を崩してしまうのは大変だ。瀬奈は愛斗の世話をメイドに任せ、一度部屋へ戻った。「奥様、あの方は一体どちら様ですか?」「愛斗君よ。沙織の息子の」「沙織さんの息子……って、ええ!?」メイドは衝撃を受け、思わず声を上げた。神宮司家にいる人間で、沙織のことを知らない者はいない。瀬奈と沙織の立場を考えれば、驚くのも当然だろう。ここにいるメイドたちが瀬奈を聖母だと敬っている以上、沙織の息子である愛斗に良くない感情を抱く者もいるかもしれない。「お客様だから、あまり無礼な真似はしないようにね」「は、はい……」メイドは驚きながらもコクリと頷いた。それから一時間後、風呂から上がった愛斗が瀬奈の前に姿を現わした。彼は気まずそうに開いた扉の隙間から顔を覗かせた。「あ、あの……」「あら、愛斗君。お風呂から上がったのね」瀬奈は愛斗を怖がらせないように、笑顔で手招きした。遠慮がちに部屋に入ってきた愛斗は、ダボダボのシャツとズボンを着ていた。「……湊斗の服、ちょっと大きかったわね」「しゃ、社長の服だったんですか……」それもよく見たらシャツ一枚で数十万もする超高級ブランド。そのことを知った愛斗の顔が急に青くなった。瀬奈の暮らす神宮司邸には湊斗以外に男がいないため、彼の服以外に愛斗が着れるようなものはなかったのだ。しかし、サイズはどう見ても合わなかった。身長百八十を超える湊斗に対し、まだまだ成長途中の愛斗は百七十センチほど。ズボンの裾が床に付き、シャツは萌え袖状態。何か可愛い。瀬奈はこみ上げてくる笑いを抑えながら、愛斗に声をかけた。「あらあら、そんなに心配しないで。湊斗はそういうの気にしないから」「ほ、本当ですか……?」愛斗を安心させるための嘘、というわけではない。湊斗はシャツ一枚汚したところで別に何とも思わないだろう。彼にとっては大した額ではないうえに、代わりなんていくらでもあるのだから。「さぁ、座ってちょうだい。愛斗君」「は、はい……」瀬奈は愛斗に正面の席を勧め、彼はそっと腰を下ろした。瀬奈が準備した紅茶と、クッキーが机の上に置かれている。「久しぶりね、元気にしてた?」「……」瀬奈のその質問に、愛斗
瀬奈が車で家に帰っていたのは、ちょうど中高生たちの下校時刻だった。外は豪雨で、大半の中学生は親に迎えに来てもらっている。しかし、愛斗だけは誰からの迎えも無く、傘も持たないまま一人学校を出た。家に帰る気にもなれなかった彼は、ただ一人下校途中にある公園で立ち尽くしていたのだ。――まるで、現実逃避をするかのように、雨の中じっと。つい最近受け入れがたい現実に直面した彼は、自然と家に帰るのを避けていた。「母さん……」彼が家に帰りたがらない理由。それは母親との確執だった。昔から後継者やら進路やらで衝突してばかりの母だったが、今回は問題の重みが違った。すぐに受け入れることのできない、彼にとっては衝撃的なことだった。愛斗はもう三十分以上この場所にいる。そのせいで、彼の身体は頭のてっぺんからつま先まで全身がびしょ濡れになっている。しかしそれでもかまわない。少なくとも、母親のいる家よりかは雨が降りしきる外のほうがマシだと愛斗は考えたからだ。彼を心配した近所の大人たちが何度か声をかけたが、彼が振り返ることはなかった。今、彼には他人を気にしている暇はなかった。「俺は……母さんにとってその程度の人間だったのか……」愛斗は雨を浴びながら、ボソッと呟いた。雨音にかき消され、その声は誰にも届かない。と思っていたそのとき、突如雨の音を遮るような大声が耳に入った。「―――愛斗君!」「…………瀬奈さん?」突然聞こえた大きな声に驚いて振り向くと、少し前に会った瀬奈がこちらに向かって走ってきていた。どうして彼女がこんなところにいるのか。愛斗は理解も追い付かないまま、彼女をただ見つめていた。仕事帰りなのか、今日の瀬奈はカジュアルなオフィスコーデをしていた。雨に濡れてはいたが、相変わらず美しい姿のままだった。彼女は愛斗の腕を掴むと、引きずって歩き出した。「愛斗君、行こう!」「瀬奈さん……どうして……」「いいから早く!いつまでもここにいるわけにはいかないでしょう!」瀬奈は愛斗を車の後部座席に乗せると、そのまま神宮司邸まで向かった。運転手は突然車から飛び出し、見知らぬ少年を連れて戻ってきた瀬奈に驚いていた。「お、奥様……そちらのお方は……」「ああ、気にしないでください。私の知り合いなので」全身ずぶ濡れで俯く愛斗。普段はそこまで愛想が悪い子ではないため、きっと何かあっ
瀬奈が松永の頬を打ったあの日から、彼は彼女にとって良き先輩となった。以前のように変に絡んでくることもなければ、いやらしい視線も感じられない。理由はハッキリしないものの、やはりあの一件がきっかけだろう。それ以外には考えられない。(……一件落着したってことでいいのかしら?)社長が何度注意しても態度を改めなかった男が、突然真面目になった。「松永さん最近大人しくない?何があったか知らないけど助かるわ~」「黙ってればいい男なのよね、彼」どうやら瀬奈だけではなく、他の女性社員に対しても変わったようだ。社員たちは彼の変化を喜んでいるようで、瀬奈は何だか社会貢献をしたような気分になった。ビンタがきっかけになるとは思わなかったが、彼が真面目になったのは良いことだ。手荒な真似を使うことになるかもしれないと思っていたが、案外話のわかる人だったようだ。とにかく、湊斗の手を借りずに済んだようでよかった。(もし、湊斗が彼に目を付けたとしたら……)湊斗が松永に狙いを定めたときのことを想像した瀬奈の顔が、みるみるうちに青くなった。もし湊斗が本気を出せば、彼は絶対にこの世に存在していないだろう。――よかったわね、松永さん!彼が命拾いしたことに、瀬奈は安堵の息を吐いた。***松永の件が一段落ついてしばらく経った頃、瀬奈は同僚たちに退勤の挨拶をした。元々覚えが早い瀬奈はすぐに仕事にも慣れ、平和な日々を送っていた。「神宮司さん、お疲れ様」「お疲れ様です、松永さん」最後に彼女に挨拶をしたのは、少し前まで彼女にアプローチしていた松永だ。彼は軽く手を振りながら、瀬奈に声をかけた。「じゃあ、またね」「は、はい……」アプローチはやめても、フランクで軽い接し方は相変わらずのようだ。(彼もバツイチって聞くし……色々あるのかしらね)瀬奈はそのまま彼の前から立ち去り、外へ出た。ちょうど外は土砂降りの雨だった。こんなにも大雨が降るのは久しぶりだ。カバンを頭にかぶせて大慌てで帰るサラリーマン、レインコートを着て自転車を飛ばす高校生、建物の舌で雨宿りをする若い女性。外に出ている全員が突然の豪雨に困惑しているようだった。(変ねぇ……天気予報では晴れるって言ってたのに……)いくらプロが予測しているとはいえ、たまにくらい外れてしまうのも仕方がないだろう。瀬奈は雨に濡れる人たちに対