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第2話

Author: べつに
私は慌てて目をそらした。彼に突然赤くなった目元を見られるのが怖い。

「わかった。送ってくれてありがとう、信二さん。もう遅いから、先に上がるね」

私はその場を離れようと足を踏み出したが、彼に手首を掴まれた。

信二は優しく私の涙を拭い、その顔には「やっぱりな」と言いたげな表情が浮かんでいた。

「そんなに泣き虫なのに、どうしてもう少し頑張って、俺のそばにいようとしないの?

千尋の顔に免じて、もう少し甘やかしてやってもいいかもしれないのに」

彼の言い方は冗談めいていたが、私はもう信じることができない。

彼の上着の右ポケットには、四角い形がはっきりと浮かんでいる。それは、他の女性と使うために用意したコンドームだ。

私は一歩後ずさりし、できるだけ平静を装って声を出した。「いいえ、信二さん。今夜は楽しんで来てね」

そう言い残して、私は信二の表情を一切見ずに、彼を避けるようにして団地の中へまっすぐ歩いていった。

冷たい夜気の中、私は足早に歩いた。息は荒く、白い吐息となって闇に溶けていった。

もう涙なんて出ないと思っていた。けれど、鍵を開けて部屋に入り、ベランダから下を見下ろすと、信二はまださっきの場所に立ち尽くしたまま、ぼんやりしていた。

彼が私の部屋の明かりがつくのを待っているのだと、すぐに分かった。そうすれば、安心して帰れるのだろう。

でも、どうして彼は平気で私を傷つけながら、その一方で何の躊躇もなく優しくできるの?

私はベランダのカーテンを引き、床に座り込んで、ついに声をあげて泣き出した。

涙が枯れるほど泣いた。これまでの悔しさや、やりきれなさを、すべて吐き出すように。

スマホの通知音が鳴った。信二からのメッセージだった。

【寧子ちゃん、若いうちにもっと外に出て、いろんな世界を見た方がいいよ】

【男なんて星の数ほどいるんだから、一人にこだわらないで】

【それから、お休み】

真っ暗な夜、並んだ三つのメッセージが画面に映し出されていて、見れば見るほどおかしくなってきた。

ふと、どうでもよくなった。心の奥に五年間抱えていた執着が、この三つの言葉でふっと消えていった気がした。

私は涙を拭いて、画面にいくつか文字を打ち込み、送信した。

【うん、そうする】

少し考えてから、母に電話をかけた。

「もしもし、ママ。七日後の修一(しゅういち)との縁談、受けることにしたよ」

母との電話を切ったあと、私は力が抜けたようにベッドに倒れ込んだ。何度も過去を思い出さないよう自分に言い聞かせてきたけれど、理性では抑えられても、心までは抑えきれなかった。

どうしても昔のことが頭をよぎる。千尋が信二を私の前に連れてきた、あの最初の出会いを。

あの日、黒いトレーニングウェア姿の彼がスリーポイントを決めた瞬間、グラウンド中の女子の歓声が湧き上がったのを今でも覚えている。

でも彼は、まっすぐ私のところへ走ってきて、私が半分飲んだ水を受け取った。

彼は千尋にこう聞いた。「この子、誰?前に見たことなかったけど?」

あんな出会いに心を奪われない人なんていない。

私も同じだった。

私は何もかも顧みず、彼にのめり込んでいった。

彼のために家族と縁を切り、立場も求めず、五年間も影の恋人でいることを甘んじて受け入れた。

でも、後になってわかったのは、私がまるでアイドルドラマのようだと思っていたあの初対面は、ただの偶然に過ぎなかったということだった。

彼はどの女の子にも、同じことを言っていたのだ。

……

「えっ?結婚するの?」

信二と別れて三日後、千尋は私が別れたと知って、わざわざ食事に誘ってくれた。まさかそこで、そんな衝撃的な話を聞くことになるとは思ってもみなかった。

彼女は私の隣に座り、心配そうに私を見つめている。
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