結城理仁は彼女の両手を掴み、彼女の頭の両側に力強く押さえつけ、素早く彼女の唇を塞いだ。今回のキスは全く優しいものではなかった。彼は怒りを発散させているようだった。まるで獣が噛みつくかのような強制的で荒いキスだった。内海唯花は彼のこの行為に怒りが込み上げてきて、彼の唇を血が出るほど力いっぱい噛んだ。彼はその痛みでようやく彼女から離れた。彼が呆然としている隙に、内海唯花は素早く彼を押し返し、床に突き落とした。そして彼女は跳ね起きると、彼からかなりの距離を取り、警戒した様子で彼を見ていた。結城理仁はゆっくりと起き上がり、唇の血を拭った。彼はとても機嫌が悪そうだった。「結城さん、おかしくなったの?お酒を数杯飲んだだけで、逆にお酒に吞まれてるわよ」結城理仁は陰気な顔つきで彼女を睨んでいた。そしてまた冷ややかな声で言った。「もう一回おまえに聞くが、今日は本当に義姉さんの家に行っていたのか?」「だから私はお姉ちゃんの家に……」内海唯花はそう言いかけて止まった。結城理仁は冷たく笑った。「どうした、何か思い出したのか?おまえと金城琉生はビストロ・アルヴァで食事してただろ。おまえらは楽しそうに笑って話して、あいつに料理を分けてやってたじゃないか。あの親しそうな雰囲気ときたら、俺たちよりよっぽど夫婦らしかったぞ。内海唯花、俺は前言ったよな。俺たちが契約結婚期間中は、おとなしくしていろと。俺がいながら、浮気など許さんぞ!俺にも我慢の限界というものがある。また同じような真似をしたら、おまえに容赦しないからな!」内海唯花はようやくどういうことなのか理解した。なるほど彼が酒に酔って暴れるわけだ。つまり、彼女と金城琉生が一緒に食事しているところを見られたわけだ。また彼女が金城琉生を離婚後の次の男にしようとしていると疑い、彼女に仕返ししようとしたと。普段、彼は彼女に襲われるのではないかと警戒しているくせに、今夜は逆に……なるほど彼の男としてのプライドが彼をあのようにさせたのか。彼女は自分の唇を触った。彼にさっき噛みつかれてまだ少し痛みを感じた。「あなた、私と金城琉生が一緒にご飯を食べているのを見たの?」結城理仁は何も言わなかった。「明凛も一緒にいるのを見なかった?あなたってどうしてそう変な方向に物事を考えるの
彼が何か壊したいなら好きにすればいい。どうせこの家は彼のものなのだから。何かが壊れれば、それは彼自身が損するだけだし。結城理仁はその床にこぼれたハチミツ水をちらりと見て、部屋へと戻った。浴室へと向かい、浴槽に冷たい水を溜めてその中に入り、頭をスッキリさせようとした。彼は多くのお酒を飲んでいたが、実際はまだ完全には酔っておらず、理性は保てていた。ただたくさん飲んでしまうと、いつも衝動的に行動してしまう。リビングの電気も後から内海唯花が出てきて消したのだ。これは彼の家だから、電気代を節約してあげようと思ってだ。この夜、夫婦二人はどちらも寝返りを打ってばかりで眠れなかった。二人ともイライラしていたせいだ。内海唯花は結城理仁に疑われたことに腹を立てていた。結城理仁は彼女と金城琉生が一緒にいたことに腹を立てていた。自分が見たものは絶対に間違いなく浮気だと堅く信じていたのだ。彼女は金城琉生と知り合ってからもう十数年間彼の成長を見守ってきただけだと言っていた。彼女と牧野明凛は親友同士で、金城琉生は明凛の従弟だ。結城理仁は彼女と金城琉生が知り合って十数年の仲だということは信じていた。彼女は金城琉生を本当の弟のように見ていると言っていた。しかし、金城琉生は彼女の弟ではないじゃないか。彼らの間には一切血縁関係など存在していない。それに、金城琉生が彼女を見つめる瞳には深い愛情が隠れている。彼は彼女のことが好きなのだ。そのことを彼女は本当に知らないのか、それともただ知らないふりをしているのか。結局、結城理仁のあの怒りはどうしても消し去ることはできなかった。翌日、日曜日。内海唯花は朝早く店に行った。以前なら週末にはお店は普通開けないのだが。彼女と結城理仁は昨夜喧嘩したといえるので、彼と言い争って彼女の気分が悪かったからだ。それに、結城理仁のあの厳しく冷たい恐ろしい顔を見たくないので、朝早くに店に来たのだった。彼女は喜んで店で一日中ハンドメイドしていられる。機嫌が悪かった内海唯花は、朝食も結城理仁には作らなかった。彼女は今日自分の分だけ朝食を作って食べた。結城理仁がお腹が空いて目を覚ました時にはすでに午前十時を過ぎていた。服を着替えた後、結城理仁は部屋の中で長い間沈黙してからようやく部屋を出た。彼は心の中で、これは彼自
屋見沢は星城の高級住宅地で、ここに住んでいるのは数少ない大金持ちか、権力のある名家の者ばかりだ。結城理仁は内海唯花と結婚する前、ほぼ毎日ここに住んでいた。実家にはたまに帰り、お年寄りの相手をするくらいだった。彼が住んでいたのは、もともと何軒かの小さな一軒家をまとめて買い取り、一つの大きな家に建て直したもので、前にも後ろにも庭園がついていた。実家ほど広くないが、一人の住処としては十分快適なところだ。執事である吉田は彼が帰ってくるのを知り、お腹をすかせないように、先に昼食を用意していた。結城理仁は起きるのが遅かったので、朝食を食べず、そのまま昼食にした。慣れ親しんだ家で腹一杯食べているうちに、結城理仁の機嫌はいくらか良くなってきた。そして、ソファーに座り、九条悟に電話をした。一方その頃、九条悟はまだ目を覚ましていなかった。昨日東隼翔と一緒に結城理仁に付き合ってがっつりお酒を飲んでいたのだ。結城理仁はお酒に強く、そこまで酔っていなかったが、九条悟は誰かに家まで送ってもらわなければならないほど酔っていた。東隼翔は結城理仁よりお酒が強く、少しも酔っていなかったが、お酒を飲む以上、車を運転することができず、そのままホテルに泊まっていた。「社長」九条悟は少しかすれた声で挨拶した。「おはよう」暫く沈黙した結城理仁は言った。「おはようも何も、俺はもう昼食も食べ終わったぞ」九条悟「……」携帯を少し耳から離し、時間を確認すると、本当にもう昼だと気づいた。どうりで社長様がじきじきモーニングコールしてきたわけだ。少々お腹が痛いが、幸い頭は痛くなっていない。さもなければ、彼は一日中ベッドの中に封印されるかもしれない。「どうした?」「午後はどこかへ遊びに行かないか?」九条悟は、さっと身を起こし、もう一度携帯を耳から離し、着信通知をじっくり確認した。電話をかけてきたのは間違いなく、彼の上司兼親友、結城理仁である。確認すると、彼は笑い出した。「どうした理仁、君からどこかへ遊びに行こうと聞かれるなんて、今日は太陽が西から出てきたのか。奥さんと一緒にいなくてもいいのか」結城理仁の顔色がどれほど不機嫌なものか、九条悟は確認するすべがなかった。夫婦喧嘩したことを結城理仁は口に出すわけがなく、わざと淡々とした口調でいった。「彼女は休み
夜景を眺めているうちに、どんどん眠くなり、内海唯花はブランコにもたれて、何分くらいか居眠りをしようと思って結局寝入ってしまった。目が覚めた時、もう午前五時過ぎで、夜が明けようとしていた。ベランダで一晩中眠っていたなんて。目が覚めると、内海唯花は結城理仁が昨夜帰らなかったことに気づいた。もし帰ってきていたら、彼は必ず彼女を起こすだろう。彼は冷たい性格をしているが、決して冷血無情な人じゃない。彼女にもなかなかよくしていて、妻に与えるべきものは、確かに全部与えてくれたのだ。ハンモックチェアから立ち上がり、リビングに戻って電気をつけた。暫くローテーブルに置いておいた二つのハンドメイドを黙って見ていて、結城理仁の部屋へ向かった。ドアの鍵がかかっていて、その部屋の鍵を持っていない彼女はドアを開けることができなかった。多分、本当に帰って来ていないのだろう。今日は月曜日、また新しい一週間の始まりだ。結城理仁が一晩中帰ってこないし、内海唯花に電話もかけてこなかったから、まだ怒っているに決まっている。彼女もわざわざ彼を気にかける必要はないと思っていた。どうせ彼に電話をかけても、絶対出ないだろう。結城理仁が家にいないので、内海唯花も家で朝食を取らないことにした。外が明るくなると、車の鍵を持ち家を出て、外で適当に食べてから姉の家に甥の佐々木陽を迎えに行こうと決めた。佐々木唯月は今日も仕事を探しに行くから。内海唯花はマンションの下にとまっていた結城理仁のホンダ車を見て、思わず立ち止り、じっくり車のナンバーを確認して、確かに彼の車だと確定した。結城理仁は車で出かけたわけじゃないのか。少し迷ってから、携帯を取りだして、結城理仁にメッセージを送った。彼女は彼に聞いた。『今日は会社へ行かないの?マンションの下に車がとまってるの見たけど』メッセージを送った後、彼女は自分の車に向かった。そして、車のエンジンをかけ走らせた。姉の家に着くと、意外なことに義兄の佐々木俊介が帰ってきていた。「唯花か、おはよう」佐々木俊介は先に義妹に声をかけた。少しきょとんとしていたが、内海唯花は彼にも挨拶して尋ねた。「お姉さんと陽ちゃんはもう起きましたか」「唯月はキッチンで朝食作ってる。陽はまだ起きていないよ」帰ってきた佐々木俊介が随分自分に丁
佐々木俊介は振り向き、部屋の中を見た。彼は昨夜自ら帰ってきたのだ。両親と姉に散々言い聞かせられて、彼はやっと帰ると決めた。さもなければ、まだ実家に何日も滞在するつもりだった。実家にいると、何もはばかることなく、成瀬莉奈と二人で一緒にいることができるからだ。普段佐々木唯月はあまり義理の親の家に行かない。行くたびに義母と義姉にけちをつけられるから、煩わしく思い、何事もなかったら夫の実家に行かないのだ。だから、佐々木俊介は遠慮もせずに、図々しく成瀬莉奈と二人の世界を作りあげた。彼が怪我をして休暇を取り、家にいた数日で、成瀬莉奈は仕事が終わるとすぐ彼の世話をしに来て、たくさん栄養食品とおいしいものを買ってきてくれた。これで二人の感情が急速に近づいた。成瀬莉奈は彼の離婚を待つと言い張っていた。何も知らないまま彼と一緒にいてもいいと思っていたら、今頃二人はとっくに最後の一線を超えていることだろう。成瀬莉奈と最後までは関係を持っていなかったが、佐々木俊介は彼女にもっとよくしていた。完全には得られないという状況が、一番良いということだ。それをわかっている成瀬莉奈は、たとえ佐々木俊介と実の夫婦のように仲良くなっても、最後の一線を死守していて、彼の思うようにさせなかった。「彼女が謝ったぞ、今後は二度と俺に手をあげないとも約束した」佐々木俊介は嘘をついた。実際、彼が帰ってくると、夫婦二人は別々の部屋で寝ていたのだ。佐々木唯月に部屋から追い出されたのではなく、一緒のベッドで寝てしまったら、佐々木唯月にズタズタに殺されてしまうのではないかと怯えていたからだ。佐々木唯月は彼に謝らず、逆に、また乱暴したら包丁を持って地獄まで彼を追いかけて、思い切り恥をかかせてやると警告した。佐々木俊介は唯月の恐れも知らない猛々しさに怯えた。帰ってくる前に、両親も彼に注意したのだ。何かあったら佐々木唯月が激しく反抗してくるから、今後彼女に手を出さないほうがいいと。さもなくば、夫婦喧嘩の最後、一体どちらが損するのかは誰もわからないのだ。その返事を見て、成瀬莉奈は嘲笑したように笑った。佐々木唯月が夫に暴力を振るわれたのに、まさか先に佐々木俊介に謝るなんて、本当に気性がいいことで。多分、彼女はまだ佐々木俊介に深い愛情を持っているのかもしれない。それに、佐々木唯月は今無
ためらいながら、佐々木唯月は彼に声をかけた。「朝ごはんを食べないの?」「いいよ、外で適当に食べるから。お前たちだけで食べてくれ」佐々木唯月がただその一言を言っただけで、以前のようにコートとカバンを持ってきてくれ、王様の付き人のように送ってくれなかったので、佐々木俊介は密かに不満を抱いた。佐々木唯月が彼のお金で衣食住を得たのに、彼の世話をちゃんとしてくれなかったからだ。俊介の姉の英子は夫にとてもよくしていて、王様の付き人のようにしていながら、仕事もちゃんとこなしているのだ。逆に佐々木唯月は何もできないくせに、彼にも尽くしてくれなかった。不合格な妻に不満を抱いて、愛してあげないのは当たり前のことだろう。佐々木俊介は勝手に自分の浮気に合理的な理由を見つけた。彼は自分でスーツの上着、カバンと鍵を取り、息子に言った。「陽、パパは会社に行くぞ、じゃあね」息子が彼に手を振ったのを見て、家を出ていった。家を出ると、車でスカイロイヤルホテルへ行った。しかし、成瀬莉奈がスカイロイヤルホテルで彼を待っているとは思っていなかった。「佐々木部長」成瀬莉奈はきちんとスーツを着こなしていて、まだまだ若いのに、しっかり仕事をこなせるエリートに見える。今きれいに化粧を施した彼女は、佐々木唯月より何倍も美しく見えるのだ。「どうして来たんだ?持って行くって言ったじゃない?外で俺のことを俊介って呼んでって約束しただろう。莉奈にこう呼ばれるのが好きなんだ」佐々木俊介は車を降り、愛人に近づくと、手を彼女の肩に回して、自分の胸の中に抱きしめながら、ホテルへ歩いた。「来てくれたなら、ホテルでいっぱい食べてから会社に戻ろう」成瀬莉奈は恥ずかしく笑った。「俊介、一緒にご飯を食べたいから、わざわざここで待っていたの。どう?嬉しくない?」「もちろん、嬉しいさ」佐々木俊介は愛おしそうに返事して、成瀬莉奈の頬に軽くキスをした。成瀬莉奈は顔を赤くして、彼の体を軽く押しながら小声で言った。「やだあ、まだ外だよ。万が一誰かに見られて、奥さんの耳に入ったら、私はみんなに憎まれる泥棒猫になっちゃうわよ。愛しているって言ったでしょ、私はそう言われて本当にいいの?」彼女の目標は佐々木俊介の合法的な妻となり、佐々木唯月に代わって、その家の持ち主の一人になることな
「結婚した後、彼女は無職だから、収入がもちろんないじゃない?全部俺が養ってやってるんだよ。家のものは全部俺の金で買ったんだ。俺の財産を分ける資格があると思うか?」佐々木俊介は偉ぶった顔で言った。「俺と離婚したら、彼女が家から持っていけるものはなにもないさ」前に、離婚するなら、当時家のリフォームの代金を返してくれと佐々木唯月は言っていたが。佐々木俊介はお金は一円たりとも渡さないと当然のように返事した。今離婚しないのは、息子がまだ小さくて、世話をする人が必要だからだ。それまで、佐々木唯月をただのベビーシッターにしよう。この金のかからないベビーシッターは息子を虐待する心配もなく、献身的に世話をしてくれるだろう。成瀬莉奈が言いたいのは彼の貯金も夫婦二人の共有財産に含まれるということだ。佐々木唯月が訴えたら、貯金の半分も取ることができる。それに、佐々木俊介が普段浮気相手の彼女に使ったお金さえ佐々木唯月に知られ、まとめて訴えられたら、そのお金や買ったものなど全部返さなければならないのだ。しかし、内海姉妹はただごく普通の一般人で、逆に佐々木俊介は大企業の部長だ。職場でうまくやっていて、顔も広い。離婚した後、佐々木唯月がどう足掻いても、彼に敵わないはずだから、成瀬莉奈はあえて考えていたことを言わなかった。言ったところで、佐々木俊介に彼女がお金目当てで近づいたと思われるかもしれない。成瀬莉奈は佐々木俊介に対して、いくつかの真心をもって付き合ってきた。会社の多くの重役のうちで、佐々木俊介だけが一番若かった。まだ30代前半で、普段自分のメンテナンスにはとても気を配っていて、毎日スーツと革靴姿でびしっと決めて、落ち着いた大人のイケメンに見える。もちろん、一番重要なのは、お給料が高いことだ。彼女の兄は佐々木俊介の一ヶ月分の給料が、彼の一年分の収入に匹敵すると言っていたのだ。彼女が佐々木俊介と結婚したら、実家の近所の娘の中で、誰よりもいい結婚相手を捕まえたことになる。その時、ホテルの警備員が素早く出入りしているお客たちを両サイドに誘導すると、黒いスーツを着た大勢の男たちが一人の男性を囲みながら、ホテルを出てきた。警備員に案内され、ボディーガードの大男たちに視界を遮られていた。ホテルから大物が出ていったことがその場にいる全員はわかったが、その真ん中に囲
結城家の御曹司だと聞いて、佐々木俊介は少しぼうっとしながら言った。「さすが結城家の坊ちゃんだな。悔しいぜ、彼だとわかってれば、一目でもいいから拝みたかった」噂によると、結城家の御曹司は非常に端正な顔をしているという。そのおじさんは佐々木俊介を一瞥し、笑いながら言った。「お前さんもなかなかのイケメンだけど、結城家の坊ちゃんと比べたら、さすがに勝ち目が見えないな」それを聞いた佐々木俊介は全く気にしなかった。「わかるよ、レベルが違い過ぎると。星城で結城さんと張り合えるのは神崎社長くらいだろう?今日は結城さんに会えて、もう結構ついていると言えるよ。あとで宝くじでも引いて、大当たりが出るかもな」おじさんは佐々木俊介の話を聞いて、思わず笑い出した。成瀬莉奈はうっとりした顔で話を聞いていた。おじさんと別れた後、佐々木俊介の腕を組みながら、ホテルのカフェテリアに向かった。「結城さんは星城で神様のような存在ね。どのような女性が彼の心を手に入れるでしょうね。」結城家は大都市である星城の名家でトップに君臨しているものだ。結城家の御曹司は当代の当主で、結城グループを仕切りながら、副業もやっているそうだ。彼は間違いなく他の人が到底及ばない大金持ちなのだ。それに、結城家の御曹司には彼女がいないと聞く。彼を慕っている女性もそんなに多くいないが、おそらく普段直接彼に会える人が限られているからだ。会えなかったら、彼を好きになる可能性も低くなるに決まっている。もちろん、彼のことを深く愛している人が確かにいた。それは神崎家の令嬢である神崎姫華だ。神崎姫華は公に結城家の御曹司に告白しただけでなく、一心に彼を追いかけていた。成瀬莉奈はもし自分が神崎姫華のような出身なら、彼女にも彼を追いかける自信があると思った。「さっき結城さんの姿を見て、なんだか見覚えがあるようで、どこかで会ったことがあるかもな」佐々木俊介は自分の疑問を口にした。成瀬莉奈は水を差すようなことを言いたくないが、事実に背を向けることができず、口を開けた。「それは難しいんじゃないの?うちの会社は結城グループとの取引がないでしょ。あったとしても、私たちのような人間は結城さんに会うこともできないわ。それに、うちは結城グループの支社と競争関係だから、今後も提携するはずがないの」少なくとも今のと
姫華は唯花たちが引っ越し作業を終えてから、ようやく自分がそんなに面白いことを逃したのだと知ったのだった。だから彼女は明凛と唯花に不満を持っていた。明凛は唯花に姫華にも教えるよう言ったが、唯花が彼女はお嬢様だから家をめちゃくちゃにするという乱暴なシーンは見せたくないと思い姫華には伝えなかったのだ。確かに姫華は名家の令嬢であるが、神崎姫華だぞ。神崎姫華は星城の上流社会ではあまり評判が良くない。他人が彼女のことを横暴でわがまま、理屈が通じないというくらいなのだから、そんな彼女が家を壊すくらいのシーンで音を上げるとでも?逆に、彼女自身も機嫌が悪い時にはハチャメチャなことをしでかすというのに。「姉がもらうべき分はしっかりと財産分与させました。ただ内装費に関しては佐々木家が拒否したので、私たちが人を雇ってその内装を全て剥がしたんです」詩乃はそれを聞いて「それはそうすべきよ。どうして佐々木家においしい思いをさせる必要なんてあるかしら」と唯花たちの行動を当たり前だと言った。そして最後にまた残念そうにこう言った。「もし伯母さんが知っていれば、あなた達の家族として、大勢で彼らのところまで押しかけて内装費を意地でも出させてあげたものを。これは正当な権利よ」この時、唯花はふいに姫華の性格は完全に母親譲りなのだと悟った。「唯花ちゃん、もうちょっとしたらお店を閉めて私たちと一緒に神崎家に帰りましょう。家族みんなで食事をするの。そうだ、あなたの旦那さんはお時間があるのかしら?彼も一緒にいらっしゃいよ」唯花は「夫は今日出張に行ったばかりなんです。たぶん暫くの間帰ってきません。彼が帰ってきたら、一緒に詩乃伯母さんのお宅にお邪魔します」と返事した。「出張に行ってらっしゃるのね。なら、彼が帰って来てからお会いしましょう」詩乃はすぐに姪の夫に会えなくても特に気にしていなかった。彼女にとって、二人の姪のほうが重要だったからだ。今、彼女は姪を見つけることができて、姪二人にはこの神崎詩乃という後ろ盾もできた。ちょうど唯花に代わってその夫が頼りになる人物なのか見極めることができよう。「あなたのお姉さんは五時半にお仕事が終わるのよね?」「ええ」神崎夫人は時間を見て言った。「お姉さんはどこで働いていらっしゃるの?」「東グループです」神崎夫人は「そ
姫華は父親である神崎航と一緒に母親を気にかけていたので、理紗が忘れずにこの鑑定結果を持ってきたのだった。唯花は理紗から渡された鑑定結果を受け取って見た。彼女はその結果を見た後、少しの間沈黙してからそれをテーブルの上に置いた。「唯花ちゃん、あなたは私の姪よ。私のことは詩乃伯母さんって呼んでね」今世では妹と再会を果たすことはできなかったが、妹の娘である二人の姪を見つけることができただけでも、神崎詩乃(かんざき しの)にとっては一種の慰めになった。彼女は唯花の手をとり、自分のことを「詩乃伯母さん」と呼ばせた。「唯月ちゃんは?それから陽ちゃんも」神崎詩乃はもう一人の姪のことも忘れていなかった。「姉は昼にはここへは来ないんです。夕方五時半に退勤したら帰ってきますよ」唯花はそう説明して、明凛のほうを見た。明凛が陽を抱っこして近づいて来て、唯花が彼を抱っこした。「神崎おば様……」唯花がそう言うと、詩乃は言った。「唯花ちゃん、私のことは詩乃伯母さんって呼んでね。私はずっとあなた達を見つけられるのを夢見ていたのよ。ようやく見つけたんだから、そんな距離感のある言い方で呼ばれると寂しいわ」唯花は少し黙った後「詩乃伯母さん」と言い直した。DNA鑑定結果はもう出てきたのだ。彼女が神崎詩乃の血縁者であることが証明されたのだから、神崎夫人はまさに彼女の伯母にあたるのだ。本当にまるでドラマのようだ。詩乃は唯花に詩乃伯母さんと呼ばれて、目をまた赤くさせた。そして姫華がこの時急いで言った。「お母さんったら、もう泣かないで。陽ちゃんもいるのよ、お母さんが泣いたりしたら、陽ちゃんを驚かせちゃうでしょ」明凛と清水はみんなにお茶とフルーツを持ってやってきた。詩乃は陽を抱っこしたいと思っていたが、陽のほうはそれを嫌がり、背中を向けて唯花の首にしっかりと抱きついた。「陽ちゃん、こちらはおばあちゃんのお姉さんなのよ」詩乃は立ち上がって、陽をなだめようとした。「いらっしゃい、おばあちゃんが抱っこしてあげる、ね」しかし陽は彼女の手を振り払い「やだ、やだ、おばたんがいいの」と叫んだ。詩乃は陽が過剰な反応をしたのを見て、諦めるしかなかった。そして少し前の出来事を思い出し、彼女はまた容赦なくこう言った。「あの最低な一家が、陽ちゃんにショックを
数台の高級車が遠くからやって来て、星城高校の前を通り過ぎ、唯花の本屋の前に止まった。隣の高橋の店で暇だからおしゃべりをしていた結城おばあさんが、道のほうに目を向けると数台の高級車がやって来ていた。そしてすぐに顔をくるりと元の位置に戻し、わざと頭を低くした。あの数台の車から降りてきた人に見られないようにしたのだ。「唯花、唯花」姫華が車から降りて、唯花の名前を呼びながら店の中へと小走りに入ってきた。その時は隣の店でおしゃべりしていた結城おばあさんを全く気にも留めていなかった。その後ろの車から降りてきた神崎夫人の夫の神崎航がボロボロに泣いている妻を支えながら、娘の後ろに続いて店の中に入ってきた。理紗はボディーガードたちに入り口で待機するように伝え、それから彼女も店の中へと入ってきた。唯花は三分の一ほどビーズ細工のインコを作り終えたところで、姫華に呼ばれる声を聞き、その手を止めて姫華のほうへ視線を向けた。「姫華、来たのね。ご飯は食べた?もしまだなら……」その時、神崎夫人が夫に支えられて入ってきて、夫人が涙で顔を濡らしているのを見て、唯花は状況を理解した。神崎夫人はDNA鑑定の結果を手にしたのだ。神崎夫人のその顔を見れば、聞くまでもなく彼女と神崎夫人には血縁関係があるのだということがわかった。「唯花ちゃん――」神崎夫人は急ぎ足で、レジ台をぐるりを回って彼女のもとへとやって来て、唯花を懐に抱きしめ泣きながら言った。「伯母さんにもっと早く見つけさせてよ――」彼女はそれ以上他に言葉が出てこないらしく、ただ唯花を抱きしめて泣き続けた。唯花は彼女に慰める言葉をかけたかったが、自分もこの時何も言葉が出せなかった。「私の可哀想な妹――」神崎夫人は妹がすでに他界していることを思い、また大泣きした。唯花は彼女と一緒に涙を流した。明凛は陽を抱っこして清水と一緒に遠くからそれを見守っていた。陽は全くどういうことなのかわかっていない様子だった。姫華と理紗も目を真っ赤にさせていた。神崎航がやって来て、妻を唯花から離し、優しい声で慰めた。「泣かないで、姪っ子さんが見つかったんだ、良かったじゃないか。私たちは喜ぶべきだろう。そんなふうにずっと泣いてないで、ね」神崎夫人は夫に支えられて椅子に腰かけた。妹の不幸な境遇と、二人の
「内海のクソじじい、あんたはしっかり私から百二十万受け取っただろうが。現金であげただろう、あれは私がずっと貯めていたへそくりだったんだよ。あの金を受け取る時にあんたは唯花を説得してみせると豪語してたじゃないか。それがあんたは何もできずに、うちの息子はやっぱり唯月と離婚してしまったんだぞ。だからさっさと金を返すんだよ。じゃないと本気で警察に通報するわよ」佐々木母は内海じいさんがどうしても認めようとしないので、怒りで顔を真っ赤にさせていた。内海じいさんは冷たい顔で言った。「もし通報するってんなら、通報すりゃええだろ。俺がそんなことを怖がるとでも思ってんのか。俺はお前から金を受け取ってないし、もし受け取っていたとしてもそれが何だって言うんだ?それは唯月が結婚した時の結納金の補填だろう。うちの孫娘がお宅の息子と結婚する時に一円も出しゃあしなかったくせによ。結納金に代わって百万ちょいの補填だけで済んだんだぞ。お宅にも娘がいるだろ。その娘が結婚する時に一円も結納金を受け取らずにタダで娘を婿側に送ったのか?」佐々木母はそれを聞いて腹を立てて言った。「なにが結納金だ、お前は唯月を育ててきたのか?そうじゃないくせに結納金を受け取る資格があんたにあるとでも?彼らはもう離婚したってのに、馬鹿みたいにあんたらに結納金を今更補填してあげるわけないでしょうが。さっさと金を返すんだよ!」「金なんかねえ。命ならあるけどな。それでいいなら持って行くがいい」内海じいさんは、もはやこの世に何も恐れるものなど何もないといった様子で、佐々木母はあまりの怒りで彼に飛びかかって引き裂いてやりたいくらいだった。そこに英子が母親を引き留めた。「お母さん、あいつに触っちゃダメよ。あいつはあの年齢だし、床に寝転がりでもされちゃったら、私たちが責任を追及されちゃうわよ」「ああ、じいさんや、私はすごくきついよ。もう息もできないくらいさ。こいつらがここで大騒ぎしたせいで私まで気分が悪くなってきたみたいだ。死にそうだよ……」病床に寝ていたおばあさんが突然、気分が悪そうな様子で胸元を押さえて荒い呼吸をし始めた。内海じいさんはすぐにナースコールを押して、医者と看護師に来るように伝えた。そして、佐々木母たち三人に向って容赦なく言った。「もしうちのばあさんがお前らのせいで体調を悪化させた
唯花は笑って言った。「姫華が言ってたの、九条さんって情報一家らしいわ。彼と一緒にいたら、ありとあらゆる噂話が聞けるわよ。あなたって一番こういうのに興味があるでしょ。九条さんってまさにあなたのために生まれてきたみたいな人だわ、あなた達二人とってもお似合いだと思うけど」明凛「……」彼女が彼氏を探しているのは、結婚したいからなのか、それとも噂話を聞くためなのか。「そういえば、お姉さんの元旦那のあの一家がまた来たって?」明凛は急いで話題を変えた。親友に自分の噂話など提供したくないのだ。「お姉ちゃんと佐々木のクソ野郎が離婚して、お姉ちゃんがあの家から出て行ったでしょ。あいつらは待ってましたと言わんばかりに引っ越して来ようとしてたわけ。だけど、今は部屋を借りるかホテル暮らしするか、はたまた実家に帰るしかなくなったでしょ。あの一家は絶対市内で年越ししたいと思ってるはずよ。実家には帰らないでしょうね」佐々木一家は絶対に実家のご近所たちに、年越しは市内でするんだと言いふらしていたはずだ。だから、住む家がなくとも、彼ら一家は部屋を借りるまでしてでも、市内で正月を迎えようとするに決まっている。唯花は幽体離脱でもして佐々木家に向かい、彼らの様子を見てみたいくらいだった。「あの人たち、家の内装がなくなってめちゃくちゃになった部屋を見て、きっと大喜びして失神したことでしょうね」唯花はハハハと大笑いした。「そりゃそうね」唯花が今どんな状況なのか興味を持っている佐々木家はというと、この時、すでに内海じいさんがいる病院までやって来ていた。内海ばあさんは術後回復はなかなか順調で、もう少しすれば退院して家で休養できるのだった。佐々木母は娘とその婿を連れて病室に勢いよく入っていった。佐々木父は来たくなかったので、ホテルに残って三人の孫たちを見ていた。ただ佐々木父は恥をかきたくなかったのだ。「このクソじじい」佐々木母は病室に勢いよく入って来ると、大声でそう叫んだ。内海じいさんは彼女が娘とその婿を連れて入ってきたのを見て、不機嫌そうに眉をしかめた。彼の息子や孫たちはどこに行ったのだ?誰もこの狂ったクソババアを止めに入りやしないじゃないか。「これは親戚の佐々木さんじゃないですか、うちのばあさんはまだ病気なんで、静かにしてもら
「そうね、姫華にも彼女のプライドっていうものがあるんだもの。神崎家の娘は条件も整ってるから結婚に悩む必要もないし」神崎夫人は娘のことをやはりよく理解しているのだった。姫華が諦めると言えば、必ず諦めるのだから。その時、外から車の音が聞こえてきた。理紗が立ち上がり、外のほうへと歩いていき言った。「きっと姫華ちゃんが帰ってきたんです」彼女が外に出ると、やはり義妹が帰ってきたのだった。姫華は車を降りて義姉のほうへとやって来ると、キラキラと輝く笑顔を見せて言った。「お義姉さん、お母さんはまだ家にいる?」義妹が輝くような笑顔を送ってきたので、それを見た理紗は心がとても痛んだ。彼女は義妹がつらい気持ちを吐き出すために、このように無理して笑うより、泣いたほうが良いと考えていた。姫華がこんな笑顔を見せるたびに、彼女の心が傷ついているというのは明らかだからだ。ああ。自分を愛してくれない男を好きになってしまうのは、こんなにもつらいことなのだ。その相手が結婚したばかりだと知ったら、その苦しみはもっと深くなるだろう。「お義母さんは家にいるわよ。姫華ちゃん、あなた大丈夫?」「お義姉さんったら、そんなふうに見える?心配しないで、私は大丈夫だから。ただ過去と決別してきただけよ」姫華はもう吹っ切れたような言い方だったが、それでもあまり理仁のことについては話したくなかった。彼女は親しそうに義姉の手を引っ張って言った。「お義姉さん、さあ、中に入りましょうよ」姫華が帰って来ると、神崎夫人はさらに居ても立ってもいられなくなった。それで、神崎夫人は家族に付き添われて、鑑定機関へと赴いた。神崎夫人がとても緊張しているのと比べて、唯花のほうはとても落ち着いていた。彼女はレジの後ろでハンドメイドをしていた。陽と一緒に遊ぶおばあさんと清水をちらりと見て、明凛に言った。「うちの理仁さんは出張に行ったわ。ここ数日なにか面白いことがあって、私も参加できそうなら一声かけてよね」最近嫌なことが多すぎて、日々は張り詰めた空気に包まれていた。だから親友と一緒に遊んで、気分を上げる必要があるのだ。その時は姉と陽の二人も一緒に連れ出そう。明凛は笑って言った。「それなら、ショッピングか、美味しい物を食べるか、唯花が好きなことって他に何があるかしら?社交界のパ
それを聞いて姫華は笑った。笑ってはいたが、手で瞳に滲んだ涙を拭きとり顔をそむけて遠くの方を見つめていた。そして少ししてから、ようやくまた顔を理仁のほうへと向けて、落ち着いた表情になりまた笑って言った。「理仁、あなたからそんな言葉が聞けて、それだけでもよかったわ。何年もあなたに片思いしてた甲斐があったっていうものよ」彼女はおおらかにも理仁のほうへ手を差し出し、理仁も同じようにして彼女と握手を交わした。「理仁、奥さんと年を取るまで、いつまでも幸せでいてちょうだいね」「ありがとう、神崎さん」「あなた達が結婚式を挙げるなら、私も参加させてもらえたら嬉しいわ」理仁は手を引っ込め、優しく言った。「良い日取りを決めて、結婚式を挙げる時は、神崎社長と、君に招待状を送るよ」「じゃ、あなた達をお祝いできる日を楽しみにしているわね」姫華は笑って言った。「結城社長は忙しいでしょうから、貴重な時間の邪魔はもうしないわ。さようなら」彼女は理仁に手を振り、背中を向けて彼女のスポーツカーに乗り、すぐに結城グループの前から去っていった。さようなら、はじめて深く愛した人。今後は二度と彼女がここに現れることはない。彼女は傷を癒したら、また新たに自分の人生を歩んでいくのだ。理仁が車に戻ると、運転手は急いで車を出した。運転手はこの二人がまた揉めるのかと思っていたが、まさか神崎家の令嬢が祝福を送りに来るとは思わなかった。神崎お嬢様は正直に人を愛し、また憎み、そしてすぐに決断してスカッと自分の気持に区切りがつけられる性格の持ち主なのだ。運転手にしろ、ボディーガードたちにしろ、みんな神崎姫華への考えを改めた。少なくとも、彼女が引き続き彼に纏わりつくことはなくなったのだ。姫華は唯花のところに行こうと考えていたのだが、行く途中でまた考えを変えた。彼女は家に帰って母親と一緒にDNA鑑定機関に赴き、その結果を取りに行かなければならない。それで、姫華はUターンできるところで引き返し、家へとルート変更して車を走らせていった。家に到着した時には、すでに午前九時過ぎだった。神崎夫人は早く出かけて結果を知りたがっていたが、夫に「まだ早いだろう。そんなに焦らないで。結果が出るのは出るんだから、誰もそれを取って行ったりなんかしないって」と繰り返し諭して
電話を切った後、理仁は七瀬に指示を出した。「俺がいない間、しっかりと妻の警護にあたってくれ」「若旦那様、ご安心ください。私がしっかり若奥様をお守りしますので」若奥様はもともと強いお方だ。そんな彼女を警護する仕事なら楽勝だ。さらにさらに、ボーナスが倍に!七瀬はそれを考えただけで顔がほころんだ。これこそ若奥様とお近づきになる最大のメリットなのだ!「もし妻が何か困って助けが必要な時には、ばあちゃんに言えば解決方法を指示してくれるだろう。それか、辰巳に相談してくれてもいい」「若旦那様、ご安心を。若奥様が何かお困りになられたら、おばあ様がすぐにおわかりになることでしょう」おばあさんはもはや、神的存在だ。そんな彼女の孫たちは神の掌の上で泳ぐしかない。理仁は祖母の能力を考え、それ以上は何も言わなかった。それから、理仁にある意外な出来事が起こった。暫くの間、会社の前に現れなかった神崎姫華がこの日また現れたのだ。彼女は自分の赤いスポーツカーに寄りかかっていて、理仁の専用車の列がゆっくりと近づいてくるのを見ていた。それを見て運転手が言った。「若旦那様、神崎お嬢様がまたいらっしゃったようです」理仁は少し黙って、運転手に言いつけた。「神崎さんの前で車を止めてくれ」それを聞いた運転手と七瀬はとても意外だった。確かに神崎家の令嬢と若奥様は仲のいい友人同士である。しかし、今まで若旦那様は一度も神崎家の令嬢には優しくしたことはなかった。少しだけ彼が優しくしているのは牧野家のお嬢さんだ。彼女は若旦那様と交友関係にあるからだ。それに、牧野家のお嬢さんは若奥様と一緒に本屋を経営している。理仁にそう指示されて、運転手は言われた通りにした。姫華はその時どうしようか迷っていた。以前と同じように死ぬ気で彼の車を妨害しようかと思っていたところ、理仁が乗ったあのロールスロイスのほうから彼女の前に止まってくれた。車のドアが開き、理仁が車から降りてきた。暫くの間会っていなかったが、彼は彼女の瞳には依然として超絶な美形に映っていた。姫華は暫くじいっと彼に見惚れていたが、すぐに自分自身にそれを止めるよう言い聞かせた。彼はすでに他の女性の夫なのだから。「結城社長、あまり警戒しないで、今日私がここに来たのは、あなたに付き纏うためじゃないから
顔をあげて彼を暫く見つめ、唯花は仕方なく彼の首に手を回し、自分のほうへ引き寄せて甘いキスを彼に捧げた。理仁は妻のほうからキスをしてもらい、上機嫌になって、片手でスーツケースを引き、もう片方の手で唯花の手を繋いで一緒に家を出ていった。おばあさんは一階でこの二人を待っていた。その時、おばあさんと一緒にいて話をしていたのは七瀬だった。唯月の引っ越しを手伝った時、唯花は七瀬も手伝いに来てくれたことに気づき、彼はきちんと報酬がもらえれば、どんな仕事でも請け負うと言っていた。そして、また唯花に会った時、七瀬はもうわたわたと焦ることはなかった。正当な理由をようやく見つけて堂々とできるという感じだ。「結城さん、内海さん、おはようございます」七瀬のほうから挨拶をしてきた。唯花はそれに微笑んで、ついでに「お名前は?あの日、すっかり名刺をいただくのを忘れていました」と言った。七瀬はその時、素早く主人である理仁のほうをちらりと確認し、彼の表情が変わらないのを見て何も恐れることなく彼女に答えた。「私は七瀬と申します」そして、ポケットから一枚の紙を取り出して唯花に渡し、申し訳なさそうに言った。「家に帰って名刺がもう切れていることに気づいたんです。まだ印刷しに行っていないので、携帯番号を紙に書いておきました」唯花は彼の電話番号が書かれた紙を受け取り、自分の横にいる夫に言った。「七瀬さんがどんな仕事でも受けてくれるらしいわ。今後自分でできないことは七瀬さんにお願いしようと思って」こう言って理仁がまたヤキモチを焼き始めるのを阻止しようとしたのだ。理仁は低い声で言った。「七瀬さんはとても頼りになるからね。何か力仕事があれば、彼に頼むといい」七瀬は素直に笑った。「はい、その通りです。きちんとお金をいただければ、どんな仕事だっていたしますよ。ところで、結城さん、出張ですか?」理仁は「ええ」とひとこと言った。「では、私はこれで」七瀬は夫婦二人に挨拶をしてからおばあさんに手を振り、自然にその場を離れた。今回、若旦那様は出張に半分のボディーガードしか連れて行かない。その中に七瀬は含まれておらず、ここに残って若奥様の護衛をするのだった。自分の主人の出張について行けないことを七瀬は少しも残念には思っていなかった。なぜなら、女主人にゴマすりで