成瀬莉奈は佐々木俊介の胸に寄りかかり、甘えた声で言った。「俊介、ごめんなさい。電話に出るべきじゃなかったわ。彼女が何かあなたに急用があるのかと思って、うっかり出ちゃったの」「いいんだ、どうせいつまでも隠し通せることじゃないし、遅かれ早かれあいつには教えることだったんだ。伝えるタイミングを見定めるより、成り行きに任せたっていいや。あいつが疑ってるってんなら、帰って直接、正直に話してくるよ」佐々木俊介が成瀬莉奈を悲しませるような真似をするはずがない。彼の心はだいぶ前から成瀬莉奈に寄っていて、唯月にはまったく愛情の欠片も残っていなかった。しかし、両親と息子のことを考えて、ずっと我慢していたのだ。そうでなければ、唯月のことなどとっくの昔に追い出していたところだ。「俊介、もしあなた達が離婚するなら、あの女があなたの財産を半分持って行くってことになるの?」成瀬莉奈は佐々木俊介の財産の半分を佐々木唯月に持って行かれるのは嫌だったのだ。彼女は唯月には何一つ渡すことなく、裸同然で去って行かせたかった。佐々木唯月が仕事を辞めてから数年、子供もまだ小さく、2歳過ぎだ。彼女がまた職場復帰したくても、恐らくそれは難しいだろう。離婚して何もかも失った後、成瀬莉奈は唯月のどん底に落ちぶれた様子を拝むことができるのだ。もしかしたら、唯月は子供を背中におぶって、街中で乞食になっているかも。佐々木俊介は冷たく笑って言った。「あいつがよこせと言っても、俺が大人しく渡すと思うか?結婚してから、あいつはこの家のために一円だって稼いでないんだ。家は俺が結婚前に買った財産だし、結婚してからも俺がローンを返してきた。だから、あいつにこの家を分けてやることなんかないよ。あいつは家のリフォーム代をちょっと出しただけだ。どのみち俺はそのリフォーム代もあいつに払ってやる気はない。もし欲しいんだったら、内装の壁紙でも剥がして持ってけばいいんじゃね?俺の貯金は……」彼が部長になったのも、ここ二年のことだった。収入は以前と比べて何倍にもなってはいたが、普段の出費も増えている。それによく成瀬莉奈に高価な物を買ってプレゼントしているので、彼は稼いだ分からそんなに貯金していなかった。ただ三百万前後といったところだろう。しかし、彼の副収入のほうは多かった。その副業で稼いだお金は、会社
佐々木俊介は成瀬莉奈の耳元で低い声で何かを囁き、彼女は瞬時に満面の笑みになった。彼が機転が利く人間でよかった。この時、成瀬莉奈は安心した。彼女が彼と結婚したら、絶対に幸せな生活を満喫できる。もちろん彼女は自分を守る必要がある。彼と結婚した後、彼の給与が振り込まれる銀行カードを管理しなければ。彼は結婚後は家の不動産権利書に彼女の名前も加えると約束していた。自分の望みは全て実現させてもらう。とりあえず、彼女は絶対に佐々木唯月のような惨めな境地にはなりたくないのだった。「唯月に財産を渡さずに追い出すことは、実はとても簡単なんだ」「どうするの?」佐々木俊介の貯金は大した金額ではないが、できれば一円たりとも唯月に分けたくなかった。唯月に渡さなければ、そのお金は全部成瀬莉奈のものになるのだ。「彼女に財産の分与か陽の親権か、どちらかを選択させれば、あいつは必ず陽のほうを選ぶから、一円も渡さず追い出せるさ」成瀬莉奈はそれをきいてとてもがっかりして彼に言った。「あなた、息子の親権を放棄できるの?あの子は佐々木家で唯一の内孫でしょう。あなたがそうでも、昔の考え方であるご両親は納得しないと思うわよ」佐々木俊介「……陽は俺の子だ。もちろんあきらめたりしないさ」成瀬莉奈は甘えた声で言った。「だったら、なんでさっきみたいなこと言ったのよ」佐々木俊介は彼女にキスをして言った。「俺たちさ、早く……君が妊娠して男の子だったら、俺の父さんも母さんも喜んであいつに陽を渡すよ」この時、彼と成瀬莉奈はまだ体の関係を持ったばかりだった。成瀬莉奈はその後、ピルを買いに行って飲んでいて、そんなに早く子供を作る気がないのははっきりとしていた。今のところ彼には陽という息子だけで、佐々木俊介は一昔前の男尊女卑的な考え方を持っていた。だから、どうであれ、彼も陽を唯月に手渡す気などなかった。陽は生まれつき容姿もよく、聡明で可愛い。彼と成瀬莉奈が結婚して産んだ子供がどんな子供なのかは誰にもわからない。佐々木俊介もそんな危険を冒そうなどと考えてはいなかった。もし、成瀬莉奈が産んだ子供が女の子だったらどうする?だから、陽は絶対に彼のもとにいなければならない!「私が女の子を産んだら嫌だって言うの?」「そんなんじゃないさ。君が産んだ子なら俺は大好きだよ。でも、うちの
「こんな遅くに、一体誰だよ?」佐々木俊介はぶつくさと言いながら、機嫌の悪そうな顔をしてドアを開けに行った。彼がドアを開けると、ドアの前に太った人影が見え、彼は驚いてしまった。少し信じられないといった様子だった。唯月が本当にここまで来た!彼女はどうして彼がここにいると知っているのだ?夫婦二人は目を合わせた。佐々木唯月は上半身裸の彼を見て、頭の中で彼らの過去十数年に渡る付き合いを考えていた。なるほど、男が女性を裏切るのはあっという間で、すごく簡単なことなのだな。佐々木俊介は我に返ると、すぐに顔を暗く曇らせ、唯月に詰問を始めた。「なんでここにいる?陽は?こんな夜遅くに家で陽の面倒も見ずに、こんなとこまでやって来て……」「俊介、誰なの?あんなに力強くドアをノックしちゃって」佐々木俊介が唯月を責めている途中に、成瀬莉奈がゆったりと現れた。彼女はパジャマ姿で、髪は適当におろしていた。二人がさっきまで激しく愛し合っていたのか、彼女は見た感じ艶っぽい色気を出していて、首にはその痕がくっきりと残っていた。この状況を見れば、馬鹿でも何があったのかわかるだろう。「この泥棒猫!」佐々木唯月は彼女のふくよかな体で、ドアを塞いで立っていた佐々木俊介を押しのけ、電光石火の如く部屋の中へ押し入ると、瞬く間に成瀬莉奈の前に立ちはだかった。そして、成瀬莉奈のロングヘアを掴んで引っ張った。手を挙げ――パンパンパンッ立て続けに成瀬莉奈の顔に四回ビンタを食らわせた。その動作は速く、本当に一瞬の出来事だった。その行動には少しの躊躇いもなかった。「きゃあぁぁぁぁ――」成瀬莉奈は大声で叫んだ。「夫の世話をすると言っておきながら、この卑しい女、あなたの言ったお世話ってこういう意味のお世話だったのね。夫には私という妻がいるのよ。あんたなんかの世話がいると思う?このアバズレ、殺してやる!」佐々木唯月は怒鳴り声を上げながら、成瀬莉奈を引っ掻き殴った。成瀬莉奈はそれに抵抗しようとしてみたが、佐々木唯月に先手を取られて、彼女のその抵抗など唯月にとっては微々たるものだった。佐々木唯月の力は強い。彼女は成瀬莉奈を床へ押し倒すと、彼女の上に馬乗りになって、また何度もビンタを繰り返した。その音はまるで爆竹を鳴らすかのように、パンパンパンッ
内海唯花はすぐに部屋の中へ突入した。佐々木俊介はすでに我に返り、矢の如く部屋の中へと飛び込んでいった。そして成瀬莉奈の上に馬乗りになっていた唯月を蹴り飛ばした。部屋の中に突入した内海唯花は相当に怒りを爆発させて、彼女も一発蹴りをお見舞いした。空手を習っていた内海唯花は、あの内海陸の不良たちとやり合った時も優勢に立っていた。そんな彼女が唯月を蹴飛ばした佐々木俊介に力いっぱい蹴りを食らわせたのだから、彼も床に倒れ込んでしまった。「お姉ちゃん」内海唯花は姉のところまで行き、彼女を抱き起した。佐々木俊介も素早く床から起き上がり、急いで成瀬莉奈を支えて起き上がらせ、唯月姉妹二人に怒声を浴びせた。「唯月、てめえら何やってんだ?」唯月は成瀬莉奈に殴りかかって息を切らせながら、夫の怒声を聞いていた。そして彼女の怒りはまたふつふつと沸き上がり、彼女も怒鳴り散らした。「俊介、こんなことして許されるとでも思ってんの?私はあんたのために仕事を辞めて、家庭を守り、子供を産み育ててきたのよ。それなのにあんたは私を裏切って、こんなアバズレの泥棒猫なんかと一緒にいたくせに、私に何をしてるか聞くわけ?私は今最低な人間を懲らしめているのよ!」そう言って、彼女はまた突進していった。佐々木俊介は成瀬莉奈の前に立ちはだかり、成瀬莉奈にもう暴力を振るわせないというばかりに、唯月と揉み合った。そして口で罵った。「唯月、もうやめろ!言っておくがな、俺はかなり前からお前のことなんて愛していなかったんだよ。お前に嫌悪感を抱くようになってかなり経つ。今の自分の姿を見てみろよ。醜い所帯染みたババアになりやがって。大学まで出たってのに教養はねえのか、羞恥心はどこへやった!」唯月は怒りで笑いが込み上げてきた。彼女は成瀬莉奈を殴ることができないので、重たい一発を佐々木俊介の顔面に食らわせた。「私のこのおばさんの姿はあんたのせいでしょ。あんたこそ、大学まで行ったのに、恥も知らないわけ?その女も大学まで行って、倫理観や道徳心は学ばなかったの?なんでもかんでも学があるだのなんだのの責任にしてんじゃないわよ。世界中の教養ある人たちを汚すのはやめな」佐々木俊介はビンタを食らって、そのままお返しの一発を繰り出そうとしたが、内海唯花が急いで姉を引っ張り、彼のその手は虚空を切った。「あんた
唯月は妹に向けて首を横に振って、その行動を制止させた。唯月と佐々木俊介がどう殴り合いをしても、それは夫婦同士の喧嘩で家庭内でのことだ。佐々木家の人間がこの間と同じように彼を家で静養させるだけの話になる。唯月が成瀬莉奈を殴るのは、妻が浮気相手を懲らしめただけで、世間からは唯月はよくやったと思われるだけだろう。成瀬莉奈のほうは心穏やかでなくても、唯月にどうこうすることはない。しかし、妹が手を出すとなるとまた話は違ってくる。妹が佐々木俊介と成瀬莉奈をボコボコにして姉の仕返しをしようとしたら、あの佐々木家のことだから、妹を訴えて医療費を請求してくるはずだ。成瀬莉奈も同じようにすることだろう。唯月は妹が弱みにつけこまれて脅される姿など見たくなかったのだ。唯月は妹をしっかりと引き留め、小さい声で言った。「お姉ちゃんを信じて、自分で解決できるから」妹夫妻が彼女のために、今の状況を録画しておいてくれるだけで十分なのだ。「俊介」唯月は涙を拭い彼に尋ねた。「あんた、本当に私と離婚するつもり?」俊介は強い口調で言った。「そうだよ、俺はお前と離婚する!」「陽はまだ小さいのに、無情にも私と息子を捨てるってこと?」佐々木俊介の瞳には少しのためらいの色もなく、冷たい声で言った。「唯月、先に帰ってろ。俺たち少し落ち着いて、二日後の土曜日になったら、また離婚について話し合おうじゃないか」唯月は悔しそうに歯を食いしばって、成瀬莉奈を睨みつけていた。そこへ佐々木俊介がまた成瀬莉奈の前に立ちはだかった。唯月がまた発狂して彼女に襲いかかるのを警戒してのことだ。「お姉ちゃん、ここは私が……」「唯花、行きましょう!」佐々木唯月は妹を引き留め、あのクズ人間二人をぎろりと睨みつけて言った。「俊介、土曜日の離婚話、忘れるなよ!」言い終わると、彼女は妹を連れて部屋を出ていった。部屋を出てから結城理仁を見ると彼女は小さな声で「全部録画できた?」と尋ねた。彼女がクズ男とアバズレ女に喧嘩を売っている最中、妹の夫が撮影しているのに気がついていた。結城理仁は頷いた。「行きましょう」佐々木唯月は妹の手を引っ張り先頭に立って歩き出し、結城理仁も黙ってそれに続いた。そして、三人はエレベーターに乗った。すると、唯月のさっきの勇猛な様子は消え去
この夜以降、彼女はもう二度と佐々木俊介のせいで傷つき、涙を流すことはなくなるだろう。「陽ちゃん」唯月は息子のことを思い出した。そしてその瞬間、緊張が走った。「お姉ちゃん、ベビーシッターの清水さんにお願いして陽ちゃんを見てもらってるわ。陽ちゃんなら朝までぐっすり眠ってるわよ、きっと」佐々木陽はやんちゃな時は本当にやんちゃで、遊び始めると床が彼のおもちゃで埋め尽くされてしまう。しかし、おとなしい時は本当におとなしい。特に夜寝ている時だ。どこか気持ちが悪いところがない限りは夜が明けるまでぐっすりと眠って目を覚ますことはないのだ。唯月はそれを聞いてようやく安心した。「唯花、結城さん、あなた達はどうやってここがわかったの?」息子の心配をする必要がなくなり、唯月は心に余裕ができて思いつきこう尋ねた。内海唯花は少し姉をとがめるように言った。「お姉ちゃん、私たち姉妹でしょ。お父さんとお母さんがいなくなってから、私たちは十五年も助け合って生きてきたじゃない。何か困ったことがあったら相談してた。でも今日は、私を遠ざけようとするなんて、私が安心できると思う?理仁さんの友達があいつの不倫の証拠を集めてくれたでしょ。彼の情報網はとてもすごくて、彼に聞いたらあっという間に佐々木俊介のいる場所がわかったの。それで、私は理仁さんと一緒に急いでここまで来たのよ。お姉ちゃん、これからはどんなことでも、絶対に私に教えてよ、わかった?一人で突っ込んでいくようなことはしないで。私はもう大人よ、あの頃みたいにお姉ちゃんの陰に隠れて守ってもらうような小さな女の子じゃないんだからね」唯月は暫く沈黙した後、言った。「さっきあなたを止めたのは、あいつらがわざと傷害罪だとか主張して、あなたに医療費を賠償金として渡せって言ってくるのが怖かったからよ。いくらあいつらが私にひどいことをしたとしても、あなたまでその中に入って殴ったりしたら、法的にも言い訳ができなくなってしまうかもしれないわ。私があいつらに手を出すのとは意味が違うの。あいつら二人が私にしてはいけないことをしたんだから、あの二人はきっと後ろめたい気持ちになるはずでしょ。私に殴られようが罵られようが、おとなしく黙ってそれを受け入れるしかないわよ。それで私にお金を請求するなんてことできないでしょう。唯花、お姉ちゃんの
姉が妹より結城理仁のことを信じているのは、それはまあいいのだ。しかし、彼女が小さい頃にこっそりと荒神様に捧げたお神酒を飲むという醜態を話してしまったのだ。結城理仁は内海唯花を見つめていた。その目線に唯花は穴があったら入りたいくらいだった。「お姉ちゃん、それって何年前のことよ。今それを持ち出して話すなんて」しかもそれを結城理仁の目の前で話された。唯月は笑って言った。「あの日あなたはご飯を食べ終わった後、ベッドに横になって一日中寝ていたわ。お酒に弱いのははっきりしているのに、飲むのが好きなんてね。飲んだらまったく起きやしないんだから。結城さん、覚えておいてね。何かお祝い事のある日以外は、この子にお酒を飲ませちゃだめよ」結城理仁は口を閉じてにやりと笑ってそれに返事した。「義姉さん、しっかり覚えておきますよ」唯月が昔の思い出を話し、三人は笑い合った後、この日に起こった辛いことが一気に流されていった。離婚するなら離婚するまでだ。別に大したことではない。地球は別に誰か一人がいなくなっても、止まらずに周り続ける。佐々木俊介と別れても、唯月は今までどおりしっかりと生きていけるのだから。ホテルを出て、唯月は上を仰ぎ暗い夜空を眺めた。そして後ろを振り返り、妹夫婦に呼びかけた。「行きましょう。今日は私が夜食をおごるわ。いえ、朝食ね。私の独身回帰祝いをフライングでしちゃうわよ」この時すでに明け方の五時をまわっていた。内海唯花と結城理仁はお互いに目を合わせ、姉の誘いを受け入れた。三人は朝食を食べに行き、結城理仁が車で義姉を久光崎のマンションまで送った後、妻を連れて帰宅した。家に着いた頃には、太陽がもう昇っていた。「結城さん」結城理仁が彼女を見た時、内海唯花はとても嬉しそうに言った。「結城さん、今日はどうもありがとう」結城理仁は一歩踏み出し内海唯花の前にやって来ると、手を伸ばし彼女の肩に手を置いた。彼女が彼を見上げた時、彼の懐の中に引き込まれ、ぎゅっと抱きしめられた。手を緩め自分から彼女を少し離すと、彼女のほうへ目線を下に向け、優しい声で言った。「俺たちは夫婦だろ。当然のことをしたまでだよ」内海唯花は暫く彼と見つめ合ってから、突然彼の首に手を回し、自分から彼にキスをした。その時の結城理仁は以前のような俺様的な態度で
暫く彼に見つめられて、内海唯花はようやく何かを悟り、彼に探るように尋ねた。「結城さん、あなた、もしかして私に顔を洗ってもらいたいとか考えてるんじゃないよね?」「俺は君を助けるために、こうやって顔を黒く塗ったんだけどな」それはつまり、これを洗い流すのは彼女の役目だということだ。内海唯花は口をぽかんと開けて、何も言えなくなった。彼女はなんだかこの男が少し恥もなく、だだをこねるようになってきたと思った。「わかった、私が洗ってあげるわよ。まったく何が私を助けるために顔を黒く塗ったよ。むしろもうその顔全部黒に塗りたくって、まっくろくろすけにでもなってしまえばいいのよ」内海唯花はそう言いながら、彼を引っ張ってキッチンのほうへ向かっていった。結城理仁は彼女に合わせて二歩進むと、足を止め、眉間にしわを寄せて唯花に尋ねた。「なんでキッチンに行くの?」「キッチンに水道があるじゃないの。あなたの部屋は立ち入り禁止区域だし、私に入るなって言ってたじゃない。キッチンで洗わないなら、一体どこでその顔を洗ってあげればいいの?それか、ここで待ってて。タオルを濡らしてきて拭いてあげる。それで綺麗に落ちないかやってみてもいいわ」結城理仁「……」彼はどうやら自分で運んできた石が、うっかり自分の足に落ちて痛がっているようだ。足の骨まで見事にポキッと折れてしまった。自業自得だ、身から出た錆。少し黙った後、彼は淡々と言った。「俺の部屋の洗面所には普段使っているメンズ用の洗顔フォームがあるから、それでもインクは落とせるだろう」そう言って、彼は自分の部屋のほうに向かっていった。部屋のドアを開けた後、彼は唯花に顔を向けて指示を出した。「早く来て顔を洗うのを手伝って!」内海唯花は「あら」と一言漏らし、部屋のほうへ向かいながら言った。「結城さん、あなたが入れって言ったんだからね。私が勝手に入っていったんじゃないんだから。今後喧嘩した時に、今日のことを持ち出して私を責めたりしないでよ。私はずっと契約に書かれている通りに、約束を守ってやってるんだからね」結城理仁は顔を曇らせ、彼女の前まで近づくと、堪らず彼女の額にデコピンをお見舞いした。「俺と喧嘩するのを望んでいるのか?」「付き合いが長くなれば、どうしたって喧嘩くらいするでしょ。喧嘩をしない夫婦なんてこの世にい
清水は自分が仕える結城家の坊ちゃんをかばった。「内海さん、私があなた方のところで働いてそう時間は経っていませんが、私の人を見る目には自信があります。結城さんと唯月さんの元旦那さんとは全く別次元の人間ですよ。結城さんは責任感の強いお方ですから、彼があなたと結婚したからには、一生あなたに対して責任を負うことでしょう。結城さんは女性をおだてるのが得意な方ではないですし、若い女性が自分に近づくのを嫌っていらっしゃいます。見てください、牧野さんに対しても会った時にちょっと会釈をする程度で、あまりお話しにならないでしょう。このような男性はとてもスペックの高い人ですけど、誰かを愛したらその人だけに一途です。内海さん、お姉さんの結婚が失敗したからといって、自分の結婚まで不安になる必要はないと思いますよ。愛というものは、やはり美しいものだと思います。結婚だって、幸せになれるものなんですよ。みんながみんな結婚してお姉さんのような結婚生活を送るわけではありませんでしょう。私は以前、結城さんの一番下の弟さんのベビーシッターをしていました。彼の家でもう何年も働かせてもらって、結城家の家風はとても良いということをよく知ってるんです。結城さんのご両親世代は愛や結婚というものに対してとても真剣に受け止めていらっしゃいます。とても責任感の強い方々ですよ。結婚したら、一生奥さんに誠実でいます。結城さんもそのようなご家庭で育ってらっしゃったから、責任感のあって、誠実な結婚というものをたくさん見て来られたでしょうし、彼自身も一途な愛を持っていることでしょう。今後、内海さんが結城さんと何かわだかまりができるようなことがあったり、結城さんが内海さんに何か隠し事をしていて、それが発覚したりした時には、しっかりと彼と話し合ってみてください。立場を逆にして、相手の立場に立ってみれば、それぞれの人にはその決断をした理由というものがあるんですから」唯花は理仁のあのプライドが高い様子を思い出し、確かに佐々木俊介よりも信頼できるだろうと思った。それに、結婚当初、彼女に何か困ったことがあった時に、彼女と理仁は一切の感情を持っていなかったが、彼はいつも彼女のために奔走して解決してくれた。今までのことを思い返してみれば、理仁が俊介よりも責任感が強いということがすぐ見て取れた。そして、唯花は言った。
夜十時半、唯花はやっと姉の家から自分の家に帰ってきた。玄関のドアを開けると、部屋の中は真っ暗だった。おばあさんは家にいないのだろうか?それとも、もう寝てしまったのか?唯花は部屋に入った後、明りをつけて玄関のドアを閉め、内鍵をかけた。そして少し考えた後、またドアを開け理仁のベランダ用スリッパを玄関の前に置いておいた。人にこの家には男がいるのだと主張するためだ。そうしておいたほうが安全だ。「内海さん、おかえりなさい」この時、清水が玄関の音が聞こえて、部屋から出てきた。唯花は「ええ」と答えて彼女に尋ねた。「おばあちゃんはもう寝ましたか?」「おばあさんはお帰りになりましたよ。お孫さんが迎えに来たんです。おばあさんは内海さんが今晩お戻りにならないかと思って、明日お話するよう言付かっていたんですが」唯花は驚いた。「おばあちゃん、家に帰っちゃったんですか?」清水は言った。「おばあさんが当初、ここに引っ越して内海さんたちと一緒に住むのは、息子さんと喧嘩したからだとおっしゃっていました。今、お二人は仲直りしたそうで、また家にお戻りになったようですよ」清水はおばあさんが神崎家にばれてしまうかもしれないと考え、先に自分の家に帰ったのだろうと思っていた。結城家の若奥様は神崎詩乃の姪であると証明されたのだから、今後、神崎家との関わりは多くなっていくことだろう。若旦那様が自分の正体を明かしていないので、おばあさんは神崎家を避けておく必要があるのだ。だから、おばあさんはさっさと姿をくらましたのだ。唯花は「そうですか」とひとこと返事した。彼女はおばあさんが彼女と一緒に住んでいて楽しそうにしていたので、こんなに早く自分の家に帰ってしまうとは思っていなかった。「内海さんは、伯母様のお家にお泊りにならなかったんですね?」唯花はソファのほうへ歩いて行き、腰を下ろして言った。「神崎家には行かなかったんです。佐々木家の母親と娘がまたお姉ちゃんのところに騒ぎに来て、警察署に行ってたんです。だから伯母さんの家には行かないで、明後日の週末、休みになってからまた行こうって話になって」それを聞いて清水は心配そうに尋ねた。「お姉さんは大丈夫ですか?佐々木家がどうしてまたお姉さんのところに?もう離婚したというのに」「姉が前住んでいた家の内装
俊介が母親を抱き起こすと、今度は姉のほうが床に崩れ落ち、彼はまたその姉を抱き起こして本当に困っていた。もう二度と唯月に迷惑をかけるなと二人には釘を刺していたというのに、この二人は全く聞く耳を持たず、どうしても唯月のところに騒ぎに行きたがる。ここまでの騒ぎにして彼も相当頭が痛かった。どうして少しも彼に穏やかな日々を過ごさせてくれないのか?彼は今仕事がうまく行っておらず、本当に頭の中がショートしてしまいそうなくらい忙しいのだ。仕事を中断してここまでやって来て、社長の怒りはもう頂点に達している。俊介は家族がこのように迷惑をかけ続けるというなら、唯月に二千万以上出してまで守った仕事を、家族の手によって失いかねない。陽はこんな場面にかなり驚いているのだろう。両手で母親の首にしっかりと抱きつき、自分の祖母と伯母には見向きもしなかった。そんな彼の目にちょうど映ったのが東隼翔だった。隼翔はこの時、唯月の後ろに立っていて、陽が自分の顔を母親の肩に乗っけた時に目線を前に向けると隼翔と目が合ったのだ。隼翔の陽に対する印象はとても深かった。彼はすごく荒っぽく豪快な性格の持ち主だが、実はとても子供好きだった。陽の無邪気な様子がとても可愛いと思っていた。彼は陽の頭をなでなでしようと手を伸ばしたが、陽がそれに驚いて「ママ、ママ」と呼んだ。隼翔が伸ばしたその手は気まずそうに空中で止まってしまっていて、唯月が息子をなだめた時にそれに気がついた。「お、俺はただ、お子さんがとても可愛いと思って、ちょっと頭を撫でようとしただけだ。しかし、彼は俺にビビッてしまったようだが」隼翔は行き場のない気まずいその手を引っ込めて、釈明した。唯月は息子をなだめて言った。「陽ちゃん、この方は東お兄さんよ、お兄さんは悪い人じゃないの、安心して」それでも陽はまだ怖がっていて、隼翔を見ないように唯花のほうに手を伸ばして抱っこをおねだりしようと、急いで彼女を呼んだ。「おばたん、だっこ、おばたん、だっこ」そして、唯花は急いで彼を抱きかかえた。唯月は申し訳なくなって、隼翔に言った。「東社長、陽は最近ちょっと精神的なショックを受けたので、あまり親しくない人は誰でも怖がってしまうんです」隼翔は小さな子供のことだから、特に気にせず「いいんだ。俺がお子さんを怖がらせてしまった
「母さん」俊介が警察署に駆けつけた時、母親が椅子から崩れ落ちているのを見て、すぐにやって来て彼女を支え起き上がらせようとした。しかし、母親はしっかり立てずに足はぶるぶる震えていた。「母さん、一体どうしたんだよ?」俊介は椅子を整えて、母親を支え座らせた。この時、彼の母親が唯月を見つめる目つきは、複雑で何を考えているのかよくわからなかった。それから姉の表情を見てみると、驚き絶句した様子で、顔色は青くなっていった。「おば様、大丈夫ですか?」俊介と一緒に莉奈も来ていて、彼女は心配そうに佐々木母にひとこと尋ねた。そして、また唯月のほうを見て、何か言いたげな様子だった。離婚したからといって、このように元義母を驚かすべきではないだろうと思っているのだ。しかし、姫華を見て莉奈は驚き、自分の見間違いかと目を疑った。彼女は神崎夫人たちとは面識がなかったが、神崎姫華が結城社長を追いかけていることはみんなが知っていることで、ネットでも大騒ぎになっていたから、莉奈は彼女のことを知っていたのだ。その時、彼女は姫華が結城社長を追いかけることができる立場にある人間だから、とても羨ましく思っていたのだ。「神崎お嬢様ですか?」莉奈は探るように尋ねた。姫華は顎をくいっとあげて上から目線で「あんた誰よ?」と言った。「神崎さん、本当にあの神崎お嬢様なんですね。私は成瀬莉奈と言います。スカイ電機の佐々木部長の秘書をしています」莉奈はとても興奮して自分の名刺を取り出し、姫華にさし出した。姫華はそれを受け取らず、嫌味な言い方でこう言った。「なるほど、あなたが唯月さんの結婚をぶち壊しなさった、あの不倫相手ね。それ、いらないわ。私はちゃんとした人間の名刺しか受け取らないの。女狐の名刺なんかいやらしすぎて、不愉快ったらありゃしないわ」莉奈「……」彼女の顔は恥ずかしくて赤くなり、それからまた血の気が引いていった。そして悔しそうに名刺をさし出した手を引っ込めた。俊介は母親と姉がひとこともしゃべらず、また唯月と姉が傷だらけになっているのを見て、二人がまた喧嘩したのだとわかった。見るからに、やはり母親と姉が先に手を出したらしく、彼は急いで唯月に謝った。「唯月、すまん。うちの母さんと姉さんが何をしたかはわからないが、俺が代わって謝罪するよ。本当に
神崎詩乃は冷ややかな声で言った。「あなた達、私の姪をこんな姿にさせておいて、ただひとこと謝れば済むとでも思っているの?私たちは謝罪など受け取りません。あなた達はやり過ぎたわ、人を馬鹿にするにも程があるわね」彼女はまた警察に言った。「すみませんが、私たちは彼女たちの謝罪は受け取りません。傷害罪として処理していただいて結構です。しかし、賠償はしっかりとしてもらいます」佐々木親子は留置処分になるだけでなく、唯月の怪我の治療費や精神的な傷を負わせた賠償も支払う必要がある。あんなに多くの人の目の前で唯月を殴って侮辱し、彼女の名誉を傷つけたのだ。だから精神的な傷を負わせたその賠償を払って当然だ。詩乃が唯月を姪と呼んだので、隼翔はとても驚いて神崎夫人を見つめた。佐々木母はそれで驚き、神崎詩乃に尋ねた。「あなたが唯月の伯母様ですか?一体いつ唯月にあなたのような伯母ができたって言うんですか?」唯月の母方の家族は血の繋がりがない。だから十五年前にはこの姉妹と完全に連絡を途絶えている。唯月が佐々木家に嫁ぐ時、彼女の家族はただ唯花という妹だけで、内海家も彼女たちの母方の親族も全く顔を出さなかった。しかし、内海家は六百万の結納金をよこせと言ってきたのだった。それを唯月が制止し、佐々木家には内海家に結納金を渡さないようにさせたのだ。その後、唯月とおじいさん達は全く付き合いをしていなかった。佐々木親子は唯月には家族や親族からの支えがなく、ただ一人だけいる妹など眼中にもなかった。この時、突然見るからに富豪の貴婦人が表れ、唯月を自分の姪だと言ってきたのだった。佐々木母は我慢できずさらに尋ねようとした。一体この金持ちであろう夫人が本当に唯月の母方の親戚なのか確かめたかったのだ。どうして以前、一度も唯月から聞かされなかったのだろうか?唯月の母方の親族たちは、確か貧乏だったはずだ。詩乃は横目で佐々木母を睨みつけ、唯月の手を取り、つらそうに彼女の傷ついた顔を優しく触った。そして非常に苦しそうに言った。「唯月ちゃん、私と唯花ちゃんがしたDNA鑑定の結果が出たのよ。私たちは血縁関係があるのあなた達姉妹は、私の妹の娘たちなの。だから私はあなた達の伯母よ。私のこの姪をこのような姿にさせて、ひとことごめんで済まそうですって?」詩乃はまた佐々木親子を睨
一行が人だかりの中に入っていった時、唯花が「お姉ちゃん」と叫ぶ声が聞こえた。陽も「ママ!」と叫んでいた。唯花は英子たち親子が一緒にいるのと、姉がボロボロになっている様子を見て、どういうわけかすぐに理解した。彼女はそれで相当に怒りを爆発させた。陽を姉に渡し、すぐに後ろを振り向き、歩きながら袖を捲り上げて、殴る態勢に移った。「唯花ちゃん」詩乃の動作は早かった。素早く唯花のところまで行き、姉に代わってあの親子を懲らしめようとした彼女を止めた。「唯花ちゃん、警察の方にお任せしましょう」すでに警察に通報しているのだから、警察の前で手を出すのはよくない。「神崎さん、奥様、どうも」隼翔は神崎夫婦が来たのを見て、とても驚いた。失礼にならないように隼翔は彼らのところまでやって来て、挨拶をした。夫婦二人は隼翔に挨拶を返した。詩乃は彼に尋ねた。「東社長、これは一体どうしたんですか?」隼翔は答えた。「神崎夫人、彼女たちに警察署に行ってどういうことか詳しく話してもらいましょう」そして警察に向かって言った。「うちの社員が被害者です。彼女は離婚したのに、その元夫の家族がここまで来て騒ぎを起こしたんです。まだ離婚する前も家族からいじめられて、夫からは家庭内暴力を受けていました。だから警察の方にはうちの社員に代わって、こいつらを処分してやってください」警察は隼翔が和解をする気はないことを悟り、それで唯月とあの親子二人を警察署まで連れていくことにした。隼翔と神崎夫人一家ももちろんそれに同行した。唯花は姉を連れて警察署に向かう途中、どういうことなのか状況を理解して、腹を立てて怒鳴った。「あのクズ一家、本当に最低ね。もしもっと早く到着してたら、絶対に歯も折れるくらい殴ってやったのに。お姉ちゃん、あいつらの謝罪や賠償なんか受け取らないで、直接警察にあいつらを捕まえてもらいましょ」唯月はしっかりと息子を抱いて、きつい口調で言った。「もちろん、謝罪とか受け取る気はないわよ。あまりに人を馬鹿にしているわ!おじいさんが彼女たちを恐喝してお金を取ったから、それを私に返せって言ってきたのよ」唯花は説明した。「あの元義母が頭悪すぎるのよ。うちのおじいさんのところに行って、お姉ちゃんが離婚を止めるよう説得してほしいって言いに行ったせいでしょ。あ
佐々木親子二人は逃げようとした。しかし、そこへちょうど警察が駆けつけた。「あの二人を取り押さえろ!」隼翔は親子二人が逃げようとしたので、そう命令し、周りにいた社員たちが二人に向かって飛びかかり、佐々木母と英子は捕まってしまった。「東社長、あなた方が通報されたんですか?どうしたんです?みなさん集まって」警察は東隼翔と知り合いだった。それはこの東家の四番目の坊ちゃんが以前、暴走族や不良グループに混ざり、よく喧嘩沙汰を起こしていたからだ。それから足を洗った後、真面目に会社の経営をし、たった数年だけで東グループを星城でも有数の大企業へと成長させ、億万長者の仲間入りをしたのだった。ここら一帯で、東隼翔を知らない者はいない。いや、星城のビジネス界において、東隼翔を知らない者などいないと言ったほうがいいか。「こいつらがうちまで来て社員を殴ったんです。社員をこんなになるまで殴ったんですよ」隼翔は唯月を引っ張って来て、唯月のボロボロになった姿を警察に見てもらった。警察はそれを見て黙っていた。女の喧嘩か!彼らはボロボロになった唯月を見て、また佐々木家親子を見た。佐々木母はまだマシだった。彼女は年を取っているし、唯月はただ彼女を押しただけで、殴ったり手を出すことはしなかったのだ。彼女はただ英子を捕まえて手を出しただけで、英子はひどい有り様になっていた。一目でどっちが勝ってどっちが負けたのかわかった。しかし、警察はどちらが勝ったか負けたかは関係なく、どちらに筋道が立っているかだけを見た。「警察の方、これは家庭内で起きたことです。彼女は弟の嫁で、ちょっと家庭内で衝突があってもめているだけなんです」英子はすぐに説明した。もし彼女が拘留されて、それを会社に知られたら、仕事を失うことになるに決まっているのだ。彼女の会社は今順調に行ってはいないが、彼女はやはり自分の仕事のことを気にしていて、職を失いたくなかったのだ。「私はこの子の義母です。これは本当にただの家庭内のもめごとですよ。それも大したことじゃなくて、ちょっとしたことなんです。少し手を出しただけなんですよ。警察の方、信じてください」佐々木母はこの時弱気だった。警察に連れて行かれるかもしれないと恐れていたのだ。市内で年越ししようとしていたのに、警察に捕ま
東隼翔は顔を曇らせて尋ねた。「これはどういうことだ?」英子は地面から起き上がり、まだ唯月に飛びかかって行こうとしていたが、隼翔に片手で押された。そして彼女は後ろに数歩よろけてから、倒れず立ち止まった。頭がはっきりとしてから見てみると、巨大な男が暗い顔をして唯月を守るように彼女の前に立っていた。その男の顔にはナイフで切られたような傷があり非常に恐ろしかった。ずっと見ていたら夜寝る時に悪夢になって出てきそうなくらいだ。英子は震え上がってしまい、これ以上唯月に突っかかっていく勇気はなかった。佐々木母はすぐに娘の傍へと戻り、親子二人は非常に狼狽した様子だった。それはそうだろう。そして唯月も同じく散々な有様だった。喧嘩を止めようとした警備員と数人の女性社員も乱れた様子だった。彼らもまさかこの三人の女性たちが殴り合いの喧嘩を始めてあんな狂気の沙汰になるとは思ってもいなかったのだ。やめさせようにもやめさせることができない。「あんたは誰よ」英子は荒い息を吐き出し、責めるように隼翔に尋ねた。「俺はこの会社の社長だ。お前らこそ何者だ?俺の会社まで来てうちの社員を傷つけるとは」隼翔はまた後ろを向いて唯月のみじめな様子を見た。唯月の髪は乱れ、全身汚れていた。それは英子が彼女を地面に倒し殴ったせいだ。手や首、顔には引っ掻き傷があり、傷からは少し血が滲み出ていた。「警察に通報しろ」隼翔は一緒に出てきた秘書にそう指示を出した。「東社長、もう通報いたしました」隼翔が会社の社長だと聞いて、佐々木家の親子二人の勢いはすっかり萎えた。しかし、英子はやはり強硬姿勢を保っていた。「あなたが唯月んとこの社長さん?なら、ちょうどよかった。聞いてくださいよ、どっちが悪いか判定してください。唯月のじいさんが私の母を恐喝して百二十万取っていったんです。それなのに返そうとしないものだから、唯月に言うのは当然のことでしょう?唯月とうちの弟が離婚して財産分与をしたのは、まあ良いとして、どうして弟が結婚前に買った家の内装を壊されなきゃならないんです?」隼翔は眉をひそめて言った。「内海さんのおじいさんがあんたらを脅して金を取ったから、それを取り返したいのなら警察に通報すればいいだけの話だろう。内海さんに何の関係がある?内海さんと親戚がどんな状況なの
その時、聞いていて我慢できなくなった人が英子に反論してきた。「そうだ、そうだ。自分だって女のくせに、あんなふうに内海さんに言うなんて。内海さんがやったことは正しいぞ。内海さん、私たちはあなたの味方です!」「こんな最低な義姉がいたなんてね。元旦那が浮気したから離婚したのは言うまでもないけど、もし浮気してなくたって、さっさと離婚したほうがいいわ、こんな最低な人たちとはね。遠く離れて関わらないほうがいいに決まってる」野次馬たちはそれぞれ英子を責め始めた。そのせいで英子は怒りを溜め顔を真っ赤にさせ、また血の気を引かせた。唯月が彼女に恥をかかせたと思っていた。そして彼女は突然、力いっぱい唯月が支えていたバイクを押した。バイクは今タイヤの空気が抜けているから、唯月がバイクを押すのも力を入れる必要があった。それなのに英子が突然押してきたので、唯月はバイクを支えることができず、一緒に地面に倒れ込んでしまった。「金を返せ。あんたのじいさんがお母さんから金を受け取ったのを認めないんだよ。じいさんの借金は孫であるあんたが返せ、さっさとお母さんに金を払うんだよ」英子はバイクと一緒に唯月を地面に倒したのに、それでも気が収まらず、彼女が持っていたかばんを振り回して力を込めて唯月を叩いた。さらには足も使い、立て続けに唯月を蹴ってきた。唯月はバイクを放っておいて、立ち上がり乱暴に英子からそのかばんを奪い、狂ったように英子を殴り返した。彼女は英子に対する恨みが積もるに積もっていた。本来離婚して、今ではもう佐々木家とは赤の他人に戻ったので、ムカつくこの佐々木家の人間のことを忘れて自分の人生を送りたいと思っていた。それなのに英子は人を馬鹿にするにも程があるだろう、わざわざ問題を引き起こすような真似をしてきた。こんなふうに過激な態度に出れば、善悪をひっくり返せるとでも思っているのか?この間、唯月と英子は殴り合いの喧嘩をし、その時は英子が唯月に完敗した。今日また二人が殴り合いになったが、佐々木母はもちろん自分の娘に加勢してきた。この親子は手を組んで、唯月を二対一でいじめてきたのだ。「警察、早く警察に通報して!」その時、誰かが叫んだ。「すみません警備員さん、こっちに来て喧嘩を止めてちょうだい。この女二人がうちの会社まできて社員をいじめてるんです」