Mag-log in白い朝。
霧が薄く、鐘がひとつ遅れて鳴った。音が空に吸われていく。 指先が少し冷たい。息を整える。 影の館の扉の前で、息をひとつ。香袋の匂いが静かに満ちて、胸の中のざわめきを沈める。 シアンが手袋をきゅっと引き上げて、横目だけよこす。 「緊張してるか?」 「少しね……」 「……やれるか?」 「やるしかない」 廊下の奥からミーナが来る。紙束を胸に抱えて、声は落ち着いていた。 「質問は“数字の行方”だけ。 深く吸って。吐いて。」 「手は震えても、声は届く。……忘れないで」 受け取った紙の重みは、思っていたより軽い。扉の向こうで、光と声のざわめきが揺れた。 外へ出る。 風が頬に触れ、ノクターンの気配が遠くでいちど、揺れた気がした。 商会の会議室は、白い。 大理石が太陽を跳ね返し、羽根ペンの金具だけが細く光る。座席が段になって、声が重ならないように組まれていた。 中央でロットが挨拶をする。笑みは整って、温度は一定。 私は傍聴席の端に座り、膝の上に紙を置いた。シアンは少し離れ、噂に混ざる顔。 屋根の上、風が線を描く。 (声が立つ場所を、見誤るな) 仮面の奥の視線が、街の呼吸を数えている気配だけがあった。 「傍聴の立場でも、声は届くはず」 自分にそう言い聞かせて、椅子の脚に指をかける。 評議長の声。「では、次の質疑」 立ち上がる。椅子の脚が小さく鳴って、ざわめきが一瞬だけ波打つ。 誰も私の名を知らない。けれど、声は落ちる場所を知っていた。 「昨季の海路出納に、……小さな抜けがあります」 紙を見ない。視線は机の端。呼吸は浅くない。 「帳簿の端、……おかしな点が一つ」 「寄進の金が、どこかで流れを変えています」 ロットの笑みが、ごくわずかに遅れる。 会場の空気が、軽く変わった。窓の布が揺れ、光が一段やわらぐ。 ロットは胸の前で手を組み直す。声はやわらかい。 「海風が強い日でしてね。香料が混ざることは、ときどき——」 その声は、誰も疑わないことを前提にしていた。 喉の奥の息が、少しだけ詰まる音をした。 私は下を向いたまま、紙の角を指で整える。 「帳簿は風で揺れても、印は滲まない」 ロットの視線が、わずかに沈む。 「でも……数字は、風には混ざらない!」 声がわずかに掠れた。胸の奥が熱くなる。 それでも、止める気はなかった。 声を出したあと、指先が震えていた。 声が一瞬、会議室の白に響いた。 沈黙。 羽根ペンの音が、一つ、止まる。 「確かに」 シアンが観客席から、冗談みたいに、声を落とす。 「風で数字が飛ぶなら、俺の借金も消してほしいな」 小さな笑いが波紋のように広がり、緊張が一度解ける。 それでも、ロットの額に、微かな汗。評議長の咳払い。温度が少し下がる。 屋根の上で風が強くなる。香袋の糸が、胸元でひとすじほどけた。 ロットが言葉を重ねようとしたとき、紙が一枚、風でめくれた。 露わになった署名欄。筆圧の濃淡。fの払う癖が、左へ、ほんの少し迷う。 書記が顔を見合わせる。ペン先が空中で止まり、目だけが紙の上を往復する。 誰も、まだ言葉にしない。 疑いだけが、色を持って空気に混ざった。 私は何も言わない。 香袋に触れる。ゆっくり、息を整える。 屋根の上で、風が一度、方向を思い出した。 「……」 ロットの笑みが、ゆっくり剝がれる。爪の先で、机をひとつ叩いた。 喉の音が生まれる前に、沈黙がそれを包んだ。 会場は、まだ“事件”とは呼ばない。 でも、真実はもう、歩き始めている。 評議長が木槌を軽く打つ。「次へ」 声は平坦。けれど視線の隙間に、さっきの筆跡が残っていた。 私は座る。膝の上の紙は、温かい。 廊下は白く、窓の外を灰色の鳩が舞った。 評議がほどけた人の声が、階段の向こうで静かに解けていく。 シアンが並ぶ。歩幅を合わせる。 彼は前を見たまま、喉のあたりで言葉を転がした。 「お前の声、ちゃんと残ったぞ」 「——でも、それでいい。匂いは、残る。」 「……お前、やっぱり怖い女だな」 「怖いのは、黙ることよ」 「そう言えるうちは、まだ大丈夫だな」 私は笑って、答えない。 香袋が胸の前で、静かに揺れる。 遠くで風が通る。足音はしない。ノクターンの気配は、風の温度に溶けていた。 卓上に残された議事録を、書記が手早く束ねる。 “質問者:記録漏れ”——名の欄は灰のまま。 階段を降りると、街の匂いが戻ってきた。パンの焼ける香り。濡れた石。 薄群青の空に陽が輪郭をつくり、紙の端がふわりと浮く。 声は風に、名は灰に。 灰は冷えても、香りは消えなかった。朝の空気は薄く冷たくて、紙の粉の匂いがわずかに残っている。前夜に触れた端のざらつきが、まだ指の腹にいて、胸の鼓動は静かだ。机には封を終えた小さな香袋が三つ、転がる気配を止めている。ミーナが身をかがめてエリシアの顔をのぞき込み、眉尻を下げた。「目の下、ちょっと赤いよ。寝れてないんじゃない?」エリシアは椅子の背にもたれず、まぶたを一度だけ深く上げた。「目は開いてる。それで十分」シアンは窓辺から外を確かめ、肩だけこちらへ向ける。「今朝、角の工房に人が集まってた。何か噂になってる」ミーナは香袋を指で転がし、口角をわずかに上げた。「その噂、うまく使えるかもね」エリシアは机上の紙端を指でなぞり、視線を落としたまま続ける。「昨日の棚、綺麗に見えたけど……歪んでた。つまり、誰かが細工してる」一拍だけ、室内の音が減る。火は弱く、湯の表面だけが揺れた。外へ出ると、石畳はまだ湿っている。雲は低く、路地の向こうでガラス工房の排気が温かく吐き出される。蜂蜜と炭が混じった匂いが喉に触れて、少し甘い。ダリウスは足を止めず、顎で通りの先を示した。「巡回は二人一組。交代で回ってる」ダリウスが肩越しに短く振り返り、声を落とす。「さっきの通り、戻りが早すぎる。見張りが気づいてるかもしれない」シアンは手袋の口を締め直し、エリシアと目を合わせた。「例の合図、三回だ。早くなったら下がれ」エリシアは浅く息を吸い、指先で胸元を軽く押さえる。「わかってる。息を合わせればいいんでしょ」歩幅をそろえる。呼吸を短く、同じ拍で吐く。靴底が水分を薄く伸ばして、音を隠した。角へ近づくほど、街の温度が上がっていく。パン屋が焼き色を裂く音がして、猫が紙屑を蹴る。買い物袋を抱えた女が一度だけ足を止め、子どもが笑い声を残して走り抜ける。呼び声と囁きが絡まり、始まりのわからない話がいくつも同時に回る。人の息が渦になって、角そのものが大きく呼吸しているみたいだ。黒い帽子の噂屋が屋台の柱にもたれ、目だけこちらへ滑らせた。「昨夜、記録が勝手に動いたって話、聞いた?」エリシアは答える前に視線を一度だけ外し、噂屋の目に戻す。「記録は誰かが触れないと動かないわ」噂屋は口の端で笑い、二人の手元を見た。「言い方がきれいだね。手が慣れてる感じ」シアンは屋台の台上を指さし、手
机の上に、薄い布と硝子玉と細い紐と紙小刀を並べた。 雨の前の湿気が、指先にまとわりつく。 窓の外は灰色で、音だけが近い。 ミーナが小瓶を二つ、静かに置く。 ひとつは封のため、もうひとつは息を戻すため。 栓をわずかに傾けると、薄荷が白檀に触れて、冷たい匂いが立った。 「封印は薄くしてね」 ミーナが言う。 「濃くすると、跡が残るから」 「跡が残れば戻れるけど、追われることにもなる」 エリシアが頷く。 「戻るときだけ残ってればいい」 戸口でダリウスが耳を澄ます。 屋根を叩く前の雨の音を、彼はいつも先に聞く。 「合図は三回。間隔が短ければ、すぐに引け」 シアンは手袋の指先を曲げ伸ばす。 言葉が少し噛んだ。 「心臓、うるさいな……」 「聞こえるってことは、生きてる証拠だよ」 エリシアが短く笑い、手首に“戻り香”を一度だけ触れさせる。 ミーナは瓶を引きながら、目線で息の高さを指示した。 「足音と同じリズムで息を吸って」 「吐くときも同じ高さで。そうすれば気づかれない」 「わかった」 硝子玉を薄布に包む。 紐は一重で足りる。 余計を持たない。 外へ出ると、雨はまだ細い。 傘は使わず、外套の裾だけが重くなる。 石畳の匂いが、夜を近づけた。 曲がり角の影で、ダリウスが二本の指を立てる。 間を置いて一本。 「今、警備がゆるい」の合図。 扉の鉄に指を置いた。 冷たさが骨に触れる。 錠の油は薄い。 「開ける音は短いほうが助かる」 シアンが囁く。 「息を短く」 エリシアは顎だけ動かした。 ピンがひとつ、遅れて落ちる。 腹にカチ、と小さく落ちた音が、合図のように広がる。 シアンが扉を数指だけひらく。 外の雨の息を、内の空気に混ぜた。 温度が、すこし均る。 二人は滑るように入り、押しで扉を戻す。 蝶番は鳴らなかった。 中は白い。 棚が高く、天井は低い。 紙の乾いた匂いが、薄く鼻に触れる。 音を立てない灯りが、廊下の奥から滲む。 硝子玉を指で転がし、光を割らずに受けて返す。 麦束の影が、水の底みたいに淡く浮いた。 「……浅いな」 エリシアが小声で言う。 「棚は、もっと奥だ」 束ね線を爪先でなぞる。 右へ寄る癖が、均一に繰り返されている。 背の糸が太い束と、細い束が、同じ棚で肩を並べて
窓の桟に、朝の白が薄く乗っていた。 格子のすきまを、冷たい風が静かに抜ける。 指先がかすかにかじかむ。 隅で白いものが揺れていた。 羽根ではない。 雨で角がやわくなった薄い紙片。 そっと摘む。光に透かす。 麦束の細い影――それが、紙の奥に沈んでいた。 「……麦だ」 背後でミーナが小さく息を吸う。 人差し指で縁をなぞり、紙端に寄った細い筋を示す。 「監査倉庫の束ね方だな。押しが弱い。奥の棚でよく見るタイプだ」 「棚の印?」 「うん。古い在庫の場所だ」 机に紙片を置くと、下からもう一枚、薄い紙がすべった。 宛名欄だけが広い呼出状。 日付と印だけが冷たく残る。 「行くなら、帰りの目印を残していって」 ミーナが小瓶を引き出しから出す。 薄荷と白檀の軽い匂いが、ふわりと立つ。 「ほんの少しでいい。帰ってくるときの合図になるから」 「少しでも戻れるの?」 「帰りたくなったときに、思い出せるくらいにはね」 寝癖を撫でつけながら、シアンが台所から顔を出す。 紙を持ち上げ、噛むように言葉を出す。 「行くのか……いや、行くしかないよな」 「逃げたら、流れが変わる」 「じゃあ、俺も行く」 小瓶の栓を軽く戻す。 香袋は閉じきらず、紐を一度だけ巻く。 戻り道の印は、それで十分だ。 玄関で靴紐を結ぶ。 革の固さが、朝の温度に似ている。 扉の取っ手は冷たい。 ミーナが小瓶をもう一度押しつける。 「不安になったら、これを嗅いで。落ち着くから」 うなずく。 シアンが扉を少しだけ開け、外の風を測る。 「向かい風だな。顔を上げすぎると目が乾くぞ」 「目、閉じないでね」 「閉じないさ。……ゆっくり行こう」 外気が頬に触れる。 歩幅がそろうまで、三歩。 街路の白灰が薄金に変わり始めていた。 その風はまるで、見えない誰かの意思に導かれるように、進む道を撫でていった。 監査局の白い壁は、近くで見るほど冷たい。 案内役は何も言わず、手だけで方向を示す。 小室の扉が短く鳴る。 中は低い机と、水差しと、折り畳まれた椅子。 石と紙のうすい匂い。 書類の匂いに混じる鉄のような冷気が、胸の奥を静かに刺した。 窓は開かない。 聴取官は笑わないが、目は柔らかい。 声は低く、語尾は上がらない。 「名前は言わなくていい」
窓を少し開けた。朝の気配が、格子の間を静かに通る。 昨日、あの人に宛てて出した封筒のことを思い出す。香りだけの返事。宛名なし。 外は白灰。王都の音がまだ遠い。 あの人に出したはずの言葉が、まだ世界のどこかに漂っている気がした。 「あれ?」 窓の隅で、白いものが揺れていた。羽根……じゃない。薄い紙片。角が雨で少し丸い。 指でつまむと、ひゅっと風が弱まる。 背後で気配。 「……また、あの気持ちが近づいてきたのか?」 シアンが肩越しに覗き込む。眠たそうな目、声はいつもどおり。 「……返事、かもしれない。もう、いらないと思ってたのに」 二人で紙をひっくり返す。何も書いていない。 けれど、香りが少し違う。昨夜の香袋とも、館の香とも違う。 手の中でかすかに残るのは、通りの朝の匂い。濡れた石、焼き始めのパン、あと……ほんの少し、誰かの衣の香。 「香り、昨日のとは違うな」 「……誰かの気配。通り過ぎた後の匂い」 「それでも、返事だって思うんだな」 「思いたいだけ、かもしれない」 「でも、そう思う方が前に進める」 窓辺の椅子に並んで座る。沈黙のほうがやさしい朝。 外で鳥が一度、低く鳴いた。 「ノクターンは?」 「さあな。どこかで見てるだろ。……あいつ、静かに見守るタイプだし」 「……見られてる感じ、嫌いじゃないな」 「変わってるな」 笑って、静けさにまぎれた。紙片は机の上で乾き、香りを薄く置いていく。 昼前。影の館の奥は、いつもより明るい。 ミーナが机の上を片づけ、紙束を帯でまとめる。 私は香袋の内布を縫い直す。糸の目は細かく、母の手の癖に似せて。 シアンは書類を運びながら、途中で埃を吹いて怒られる。 「ねえ、想いってさ、誰が動かしてるんだろう?」 ミーナが何気なく言う。声はいつもより柔らかい。 「自然に、じゃないのか?」 縫い目を止めずに返す。 「“自然”も、誰かの願いかもしれないわ」 「詩人みたいなこと言うな」 シアンが笑う。喉に笑いが引っかかった。 ミーナは肩をすくめて、羽根ペンの先を布で拭った。 「たまにはいいでしょ。理屈よりも、気持ちの方が真実に近い時があるの」 「……想いも、何かを願ってるのかな」 手を止めて、窓のほうを見る。 「きっと。あなたが、もう一度“声”を出すことを」 「声か……」
灯が、ほとんど消えかけている。 窓の布が息をして、薄い影が机の上をなでた。 便箋が一枚。白が、夜の色を少し吸って、灰に近い。 あの夜の声が、まだ部屋のどこかに残っている気がした。 指先で端をなぞる。角が冷たい。 ペンを転がす。細い音が、静けさを少しだけ動かす。 まだ、何も書けていない。 廊下で足音が一つ、ためらって止まる。 シアンが戸口に寄りかかって、欠伸を無理に飲み込んだ。 「まだ起きてたのか?」 「……ちょっと、考えごとしてて」 「考えてるときの顔、静かすぎてちょっと怖いな」 息だけで笑う。笑う音は出さない。 窓辺の布がふくらんで、すぐしぼむ。外の風は、まだ夜の温度。 「紅茶、入れてくる」 シアンが言って、廊下に消える。しばらくして、湯の音が近づいた。 同じテーブル。湯気が細く重なる。 カップの縁に指を置く。熱が、呼吸の速度を決める。 「手紙の相手、誰か分からないんだろ?」 「分からないけど……なんとなく知ってる気がする」 「……風のクセっていうか、似た感じがする」 「風が書いた手紙だったら、どうすればいいの?」 「返さないってことが、答えになることもある」 言葉が止まる。湯気だけが動く。 夜の匂いと、紅茶の渋みが同じ高さで混ざった。 「……でも、何か伝えたい」 「うまく言葉にできなくても書いてみろよ。誰も読まなくていいから」 頷く。ペン先を持ち上げ、また置く。 紙はまだ、音を立てない。 「ミーナはまだ起きてるかな?」 「起きてると思うぞ」 そのとおりに、廊下の向こうで小さな欠伸。 扉が少しだけ開いて、ミーナが顔を出した。 「夜更かし組、仲良くしなさいよ」 軽く言って、テーブルにカップをひとつ足す。 目は冗談じゃない温度で、こちらの手元を見る。 「返事を書かなくても、匂いで伝わることがあるの」 シアンが眉を上げる。 「どういう理屈だ?」 「理屈じゃないの。香りは“気持ちが届いた証拠”だから」 カップを受け取りながら、笑う。 「……じゃあ、香りで返事しようか」 「そうね。香りって嘘つけないもの」 ミーナは私の肩越しに窓を見た。外の色が、ほんの少し薄くなっている。 「風が変わるわ、もうすぐ」 「起こしたら悪いし、俺は廊下で見張ってるよ」 シアンが椅子を引く。音を出さないように
午後の光は、霧雨みたいにやわらかかった。 窓を少し開けると、街のざわめきが薄く入ってくる。どこかで笑って、どこかでため息をついて、同じ高さで混ざる。 ミーナが帳簿をぱたんと閉じて、湯気の立つ急須を持ち上げた。 「噂って、広まるの早いのね」 「追いかけてもキリがないぞ」 シアンが指先で本棚の埃を払うふりをして、片目だけで笑う。 私も笑いかけて、やめた。窓から入った風が香を押して、部屋の角が丸くなる。 「人が集まると、言葉が音になる」 廊下の方から、低い声が一度だけ落ちて、すぐ静かになった。 「仕入れのついでに、少し歩こうか」 シアンが軽く手を振る。香紙の束を入れる布袋を肩にかけ、扉を押す。 雨上がりの道。傘を畳む音。足音が湿って響く。 誰かが囁く。 「昨日、あの質問した人のことだろ」「名前はまだ出てない」「帳簿の端の件だ」と、 空気の表面で弾む。 角を曲がったところで、シアンがふっと歩調を落とす。 「人が話すと、周りの空気が変わるだろ」 「……空気、ね」 「でも、それって誰の言葉でもない。ただ流れが形になっただけ」 少し間を置いて、彼が低く続けた。 「……噂の根、もう俺たちの名前にも触れてるかもしれない」 「じゃあ……それを止めるには?」 「止めたら、誰も話せなくなる」 言葉がそこで切れて、靴音だけが続く。 市場の女が籠を抱えてすれ違いざま、眉を上げた。 「昨日の人ね」 私は何も言わず、微笑んだ。女は言葉を胸の中へ戻して、頷くのか頷かないのか、曖昧な角度で去っていく。 周りの声がいったん遠くなって、またすぐ戻ってきた。 「香紙は、あの店のやつ?」 「知ってる。安いけど、すぐに滲むんだ」 「滲む?」 「雨の日は、紙も涙もろくなる」 私たちの会話も、風に紛れて、どこにも残らない。 軒の深いカフェの前で、シアンが立ち止まる。木の庇から、水がひと筋落ちた。 紙袋を足元に置いて、彼は喉のところで言葉を転がす。 「……言葉にするって、案外しんどいな」 私は顔を上げる。 「聞いてくれる人がいれば、少しは楽かも」 「うん。でも、誰かが聞いてくれるってことは、もう独りじゃないってことだろ。それが怖い」 「怖いの?」 「“届いた”ってことは、誰かと繋がったってことだ。……それが一番怖い」 まつ毛が、少しだけ