階段の最後の一段を踏むと、空気が変わった。薄い霧。鈍い金の朝。頬に触れる風がやわらかい。地上の匂い——焼きたてのパン、濡れた石、遠くの香辛料。胸が静かに広がる。「久しぶりの太陽、眩しそうだな」横に立つシアンが目を細める。私はフードを少しずらして、光に慣らすみたいに瞬きをした。「……少しだけ。悪くない」香袋に触れる。昨夜より、香りがほのかに戻っている。決意は、香りに似ている。強すぎると嘘くさく、薄すぎると届かない。「見張り役は散歩が仕事、ってのは贅沢だよな」シアンが肩をすくめる。「まあ、命令だから」「命令、ね」言葉の端に、ノクターンの気配が少しだけ混じった。私は深く吸う。冷たくない朝。歩き出す足取りが、昨日より軽い。*通りはもう動き始めていた。荷車の軋む音、呼び込みの声、笑う子ども。鐘の音が遠くで一度、溶けていく。市場の角を曲がると、見覚えのある紋章が瓦礫の中に眠っていた。かつての家の、欠けた盾。光を受けて、線が薄く浮く。シアンが立ち止まり、何も言わずに私の視線の先を追う。一拍の沈黙。風が瓦礫の粉塵を軽く舞い上げた。「この街、いつも風が正直すぎる」彼はそう言って、別の屋台の方へ顔を向けた。「胡椒、高いな」「ええ。涙が出るくらい」笑うと、頬の筋肉が思っていたより素直に動いた。痛みは、もう鋭くない。丸くなって、手のひらに収まるくらい。「急ぐか」シアンが歩幅を少しだけ合わせる。「目だけ開けとけ。口は……半分閉じとけ」「半分?」「賢そうに見える」「それは困るわ」ふっと、呼吸が軽くなる。影の館の冷たさは、この風でちょうどいい温度になった。*ヴェリド商会の支店は、石造りの壁に明るい庇。昼前の陽が布地を透かし、店内の埃まで金色に見せる。シアンが軽やかに前に出て、馴染みの客のように扉を押した。「書状の受け取りに。ほら、例の噂話のお代、払うって言ってたろ」店番が瞬きをして、うっかり奥の者を呼びに行く。私は棚の並ぶ側道へ滑り込む。文書室は、静かな匂いがする。インク、紙、木。指先に香をひとつ乗せる。息を小さく吹きかけ、薄く広げる。棚の三段目、右から二つ目。鍵穴の縁に微かに残る、見慣れた調合。香律の封印。——わたしの、言葉。黒印が手の中でかすかに温度を持つ。指で輪郭をなぞり、香を重ねる。箱は迷って
目を開けると、灰色の朝が地下の格子窓から少しだけ差し込んでいた。細かな埃が光の筋の中で、金粉みたいにゆっくり泳いでいる。枕元の香袋に手を伸ばす。昨夜より香りが薄い。まるで、胸の奥のざらついた怒りが少しだけ空へ昇っていったみたいだった。鏡をのぞく。瞳の奥に、黒い光がほんの少し強くなっている気がする。そこへ、淡い色の外套を羽織った女が扉から顔を出した。インクで指先を汚した、あの記録係だ。「おはよう。私はミーナ。契約者は朝食の前に“確認”を受ける決まりよ。怖がらなくていいわ、記録のための手順だから」「確認……誓印の?」「ええ。嘘がないかを確かめる儀式。すぐ終わるわ」ミーナに案内され、長い廊下を歩く。足音が石にやわらかく返ってくる。館の奥へ進むほど空気はひんやりして、だんだんと静けさが厚くなる。やがて小さな聖堂に出た。黒い石の祭壇。壁には文字も像もない。ただ、灯だけが淡く揺れている。ダリウスが無言で立っていた。背は高く、影のように動かない。シアンが柱にもたれて、片目でこちらを見て笑う。「早いね、新顔。地下の朝は短いんだ」ミーナが帳簿を開く。「記録を始めます」最後に、あの仮面の男が入ってきた。歩みの気配が、場の空気をひとつ結ぶ。「誓印は嘘を嫌う」低い声が聖堂に落ちる。「恐怖も、ときに嘘だ。お前はまだ震えている」「震えているから、立っているのよ」自分でも驚くほど素直に言葉が出た。ノクターンは小さく首を傾け、右手を上に向ける仕草を示す。「手を」掌を差し出すと、黒印の上にうすい光の紋が浮かびあがる。王家の印章に似ているが、ここでは色を持たない。光はゆっくり回り、やがて小さく脈打つ。黒印が内側から熱を帯び、針でなぞられるみたいに痛む。息を吸って、吐く。目は閉じない。背中に冷たい壁。足の裏は床の硬さをちゃんと拾っている。心臓が速くなる。けれど、逃げたいという思いではない。「怖くても進む。それは嘘じゃないわ」言うと、光紋がふっと薄くなり、そのまま消えた。黒印の疼きも静まる。ミーナが羽根ペンを滑らせる音が、ささやきみたいに長く続いた。「確認。誓印の反応は正常。虚偽反応なし」シアンが指笛を短く鳴らす。「やるじゃない」ダリウスは何も言わない。ただ、こちらを真っ直ぐ見て、一度だけゆっくり頷いた。それだけで、この場所に踏み入れ
教会の鐘が遠くで一度だけ鳴り、雨がやんだ。契約書の蝋はまだぬくもりを残し、香袋の香りが空気の底に沈んでいる。「契約は成立した」仮面の男が静かに言った。「だが、代償を払え」「代償?」エリシアは指先の熱に気づく。右の薬指——黒い印の痕がじわりと疼いた。男は短い針のような銀具を取り出し、彼女の前に差し出す。「怒りを貸すと書いたな。感情は形がない。だから、形に変える。血で」エリシアは頷き、指先に針先を触れさせた。ちくり、と小さな痛み。一滴の赤が黒印に落ちる。蝋の上でじゅ、と音がして、紋が吸い込むように消えていった。血の熱が指から胸へ滲み、貼り付いていた恐れが一枚、剝がれ落ちる。泣き声も迷いも、蝋の下に縫い留められた気がした。痛みはすぐ引いたのに、胸のどこかが軽くなった気がした。「これでお前の怒りは、誓印に縫い止められた」男は仮面の奥から目だけで彼女を見た。「無駄遣いはするな」「使い道は、決めているわ」彼は短く肯いた。「安全な場所まで案内しよう」二人は夜明け前の街を歩いた。濡れた石畳が色を戻し、窓辺の蝋燭が一つ、また一つと消えていく。城壁の影を外れ、人通りのない路地へ折れると、古い階段が地下へ口を開けていた。「ここから先は“国の外”だ」階段の先に重い扉。鉄に黒い印が刻まれている。王家の印章を反転させた紋——黒印。男が軽く叩くと、内側で錠が連続して外れる音がした。扉の先は、静かな明かりと紙の匂いに満ちていた。長い卓、壁一面の棚、広げられた地図。低い声が三つ、同時に止まる。「新顔か」無言の巨漢が立ち上がり、視線だけで測る。——ダリウス。「身元は?」インクで指先を汚した女が、羽根ペンを止めた。——ミーナ。「貴族上がりの匂い、消えてない」帽子のつばを深くしている青年が、片目だけで笑う。——シアン。冷たい視線が集まる。エリシアは視線を返さない。仮面の男が一言だけ落とす。「彼女は怒りを貸した。それで十分だ」視線が三人を射抜く。「だが返す時は——命ごとだ」空気がわずかに沈んで、すぐ従順に静まる。三人は一歩だけ退き、各々の持ち場に戻った。エリシアは卓の端に置かれた布で指先の血を拭き、問いを飲み込む。「ここが、あなたの居場所?」彼女が尋ねると、男は首を横に振った。「居場所ではない。通路だ。——上へも下へも通じ
金の灯りが、夜会を昼のように照らしていた。弦の音。笑い声。香炉から立つ白い煙。エリシア・ヴァン=ローデンは、礼儀作法どおりに一礼し、舞踏の輪へ足を入れる。「今夜は、少し……匂いが強いわ」隣で手を取ったルシアンが、いつもの微笑をつくる。その微笑は、いつもよりわずかに硬かった。「緊張しているだけだよ、エリシア」ミレイユが小声で囁く。「大丈夫。あなたは完璧よ」握ったミレイユの指先は、かすかに震えていた。——完璧。その言葉に、胸のどこかがかすかに軋んだ。香が、いつもより甘く重い。壇上に宰相オルドが現れた。「諸卿。本夜は王家への忠誠を新たにする、記念すべき夜である」拍手。杯が触れ合う音。エリシアは礼を整え、微笑を返す。ここは王都アストリア。舞踏会は、王国の顔だ。「——エリシア・ヴァン=ローデン。前へ」司会の澄んだ声に、場の空気がすっと冷えた。視線が集まる。エリシアは進み出る。宰相が一枚の証書を掲げる。王家の印。赤い蝋。「汝、国家財務記録の改竄に加担した疑い。ここに断ずる」「……何を、仰って?」「証人、二名。ルシアン・グレイス。ミレイユ・エルフォード」ルシアンが一歩。ミレイユが震える手で台本のような紙を持つ。「僕は、見た。彼女が帳簿に触れているのを」「わ、わたしも……彼女の部屋の机で、記録が……」笑わない。驚かない。エリシアは呼吸を整える。「その帳簿を、こちらへ」宰相が顎を動かす。書記官が差し出したのは、彼女の署名が入った帳簿の写し。王の印章の下、すべてが“真実”として整っていた。「その筆跡は——」「鑑定済みだ」宰相は淡々と遮る。「国家の印章は嘘をつかない」父レオンは壇下で目を閉じていた。弟ジュリアンは視線を落とし、拳を握りしめている。エリシアは父の名を呼ぼうとし、やめた。音楽が止む。香炉の煙だけが揺れ続ける。オルドが最後の紙を読み上げた。「婚約者ルシアン・グレイスより、婚約破棄の申し出がある」ルシアンが、よそゆきの声で続ける。「国のために、ふさわしい選択をしたい」胸に痛みは来なかった。空白だけが広がった。拍手が起こる。形式どおりの、乾いた音。王の椅子から短い声。「名の抹消。署名権の剥奪。追放」香の甘さが、ひどく遠くなった。祝宴の眩しさを背に、エリシアは静かに踵を返し、ひとりで廊を出