「気に入ったか?」急に、後ろのスパイラル階段の方から、森川晋太郎の声が聞こえてきた。彼はゆっくりと階段を降りてきたが、ライトに照らされた黒いスーツが薄く金色を光っており、生まれつきの貴族の気質が威厳を漂っていた。入江ゆみは晋太郎をまっすぐに見つめ、思わず声を低くして言った。「お父さんはまるで、おとぎ話の中の黒馬の王子様みたい!!」隣ではっきりと聞こえた入江佑樹は、驚きながら彼女を見て言った。「黒、黒馬の王子様??」ゆみの目は光り、しっかりと頷いて言った。「うん!だってお父さんは黒いスーツを着てるんだもん!」佑樹は急に脳裏で一つの画面が浮かんだ。顔が晋太郎のもので、首以下が黒い馬の化け物……モンスターだ……!直視できない……!晋太郎は2人の前に来た。彼がまだ口を開いていないうちに田中晴が寄ってきて、恥ずかしがり屋の人妻のような甘えた声で言った。「ああ、疲れたわ、こんなに遠い道を私一人で運転させるなんて!」晋太郎は顔色が変わり、きつい目線で晴を睨みながら、「近づくな!」と命令した。晴は悔しそうに口をへの時に曲げ、文句を言った。「薄情だ!悪役!訴えてやる!」すると晋太郎は冷たい声で言った。「酒蔵にお前が好きなペトリュスを1本取って置いた」「マジで?!取って来る!」晴ははしゃぎながら走っていった。2人の子供達は絶句した……晋太郎は優しい声で子供達に、「君たちの母親の事件が解決されるまで、安心してここに泊まっていい」と言った。ゆみは唇を舐めて、興奮した声で晋太郎に向かって言った。「この酒蔵、まるでお城のようだわ!ゆみをここの主に……痛っ!」話の途中で、佑樹はゆみの額にげんこつを入れた。ゆみは額を抑えながら兄に不満をこぼした。「お兄ちゃんがいつもゆみをイジメる!!」晋太郎は微かに指を動かし、娘の額を揉もうとした。よくも娘に手を出したな!佑樹はからかった。「主人?使用人の間違いじゃない?」そう言って、佑樹は晋太郎に、「パソコンが1台欲しい」と要求した。「分かった」晋太郎は口元に笑みを浮かべ、「ゆみは?」と聞いた。ゆみは口をすぼめて暫く考えてから、「ゆみはきれいなワンピースが着たい!」と答えた。「10着で足りるか?」晋太郎は
「それはお母さんは気にしなくていい」入江佑樹は答えた。「でもお母さんは気をつけてね」入江紀美子は背を壁に預けながら言った。「分かってるわ、もし特に用がなければ、もう会社に行かないから」佑樹は暫く黙ってから、「お母さん、僕が言っているのは、あなたが帝都から離れる前のことだ」と言った。紀美子は驚いて、顔から微かに血の気が引くのを感じながら、「佑樹くん、何か知ってるの?」と聞いた。佑樹は唇を動かし、小さな両手でキーボードを暫く叩いてから、「お母さん、これを見て」と言った。紀美子はメッセージを受信した。彼女は佑樹が送ってきた動画を開いた。暫く見ていると、紀美子は急に目を見開いた。「佑樹くん、この動画はどこから手に入れたの?」「念江くんが僕に送ってくれたんだ。ネットユーザーの情報収集の能力は侮れないね。これを反撃の武器に使うといいよ」驚きながら紀美子は頷いた。「分かった、この動画を大事に取っておくわ。もしあの事がまだ暴かれていなければ、一番役に立つタイミングでこれを出すから」佑樹は笑って言った。「お母さん、今回は必ず乗り越えられると信じてるよ」息子に肯定され、紀美子は嬉しかった。「佑樹くん、ちゃんと晴おじさんの言うことを聞くのよ」佑樹はちょっと気まずく笑いながら、手で頭を掻いた。「実は、僕達は今森川晋太郎の所にいる……」紀美子は眉を寄せ、「記者に見られなかった?」と尋ねた。「うん」佑樹はカメラを動かして紀美子に周囲の環境を見せた。「ここのセキュリティはかなり厳しいし、外にも沢山のボディーガードがいる。今のところ誰にも見られていない。ここは市内から車で2時間もかかるところだからね」紀美子は一目でそこが何処かが分かった。この前晋太郎と一緒に酒を取りに行ったノアン ワイナリーだ。彼女はほっとした。「彼がついていれば、お母さんも安心できる。この事件を片付けたら、迎えにいくから」紀美子は言った。「ところで、ゆみちゃんは?」佑樹の顔が少し曇った。「ゆみは今、多分ワンピースの試着で忙しい」紀美子は苦笑いをした。佑樹は顔を引き締め、真面目な顔で口を開いた。「お母さん、必ず乗り切ろうね」紀美子は頷いた。「分かってるわ、安心して」ビ
携帯を置いて、入江紀美子は伸びをした。外のきれいな夜景を見て、彼女は思わず笑みを浮かべた。これから、ショーが始まる!2日後。Tycのキャンセルの勢いが段々と落ち着いてきた。一部の顧客はGの名声で商品を購入したので、キャンセルしなかった。顧客への弁償を終わらせた頃、社員達はほぼ全員疲れ果てていた。竹内佳奈が事務所に入って、キャンセルの統計を紀美子に渡した。「社長、やっと落ち着いてきました」「会社のキャッシュフローはどうなってる?」「あと2100万ほど残っています」紀美子は平静に頷き、「まだ予想範囲以内だ」と言った。「社長、本当に回答しなくていいのですか?」佳奈が心配して尋ねた。「記者達がまだ下にいます」「回答しなくていい」紀美子は椅子の背もたれに背を預け、「緊急時こそ、怠ってはいけない」と言った。佳奈は紀美子の話の意味が分からなかった。「社長、あともう一件あります」「何?」「MKもここ数日、これまでない数のキャンセルが発生していて、損失はうちの倍以上です」紀美子は沈黙した。今回の事件の起因は自分だった。知らないうちにまた森川晋太郎に借りができてしまったようだ。彼女は苦笑いをした。「分かった、下がっていいわ」佳奈は紀美子の事務所を出た。ドアが閉まってから、紀美子は携帯を出して渡辺翔太に電話をかけた。すぐ、翔太が電話を出た。そして、彼の焦った声が聞こえてきた。「紀美子?」「うん」「今どうなってる?」翔太は慌てて尋ねた。「君が忙しいだろうから、ずっと電話するか躊躇していたんだ」紀美子は笑みを浮かべながら言った。「私は大丈夫よ、心配しなくていい。ところで、お兄ちゃんの会社も影響を受けたの?」「多少な。でもそこまで大きくなくて、多分晋太郎が受けた影響の方が大きい、あと悟さんも」紀美子は驚いた。「悟さんが?」「彼は職務停止を受けたようだ」「そんな、たとえ私と親しかったとしても、停職なんて重すぎるわ!」と紀美子は眉を寄せながら言った。通りであの事件が起きて以来、塚原悟からの連絡が一切なかったわけだ。彼は自分に心配をかけたくなかったのだろうか?「病院の方にも、悟さんを取材しようとして沢山の記者達が集まってい
入江紀美子は言葉が詰った。弁償なんてできるものだろうか?今の彼女は、たとえMKの損失の一部だけを補おうとしても出来ないだろう。「今、その余裕はないわ」「彼に償うことを考えたことはあるのか?」塚原悟はさらに問い詰めた。「……」正直に言うと、そう考えたことはなかった。悟に言われなかったら、その点に気づくこともなかった。二人がお互いに知りすぎたからだろうか?紀美子は黙り込んだ。「こう比較してみると分かるよ。私と晋太郎の、君の心の中での地位」悟は軽く笑いながら言った。「ごめん」今の紀美子に残っているのは申し訳ない気持ちだけだった。「謝罪などいらないさ」悟は気楽な口調で言った。「言っただろ、私は自分がそうしたいからしているだけだと」「今回の事件が落ち着いたら、ご飯を奢るわ」「もうすぐ新年だ」「うん、今年は一緒に大晦日を過ごそう」紀美子は酷く落ち込んだ。「そうしよう」悟は笑って答えた。ノアン ワイナリーにて。晋太郎は子供達と、買ってきたばかりのレゴブロックで遊んでいた。頭脳で言えば、もちろん晋太郎の方が上だ。しかし、手の器用さは子供達に劣っていた。入江ゆみは、未だにまともに一パーツも組めていない晋太郎を見て呆れた。「もう無理しなくていいよ、そのスピード、お兄ちゃんと比べ物にならないわ」ゆみは嘆いた。娘にバカにされるなんて。晋太郎は言葉を失った。彼は持っていたブロックを置いて、「残りは俺がやっておく、お前達はそろそろ寝る時間だ」と言った。「手、切れてるよ」入江佑樹は手を止めて言った。「レゴブロックは軽いから、そんなに力を入れて組まなくても」「組むならしっかりと固めないと、だめだ」晋太郎は手の中のブロックを見つめて言った。たかが子供のおもちゃだと彼はおもっていたが、まさかここまで難しいとは思わなかった。佑樹は伸びをして、晋太郎の携帯画面が灯ったのに気づいた。「携帯が鳴ってるよ」佑樹は晋太郎に注意した。晋太郎が携帯見ると、顔色が曇った。森川貞則からの電話だった。彼は2人の子供に、「先にお風呂に入ってきて」と指示しながら携帯を取った。そして、晋太郎は休憩室を出た。「なんだ?」晋太郎は電話に出た。「
森川貞則の目じりは、怒りで痙攣した。森川次郎に副社長の職位を与えたが、MKに彼の言うことを聞く人は1人もいなかった。利益か愛息子の選択を迫られた貞則は、最終的に利益を選んだ。森川家は潰れてはならん!そのようなことは絶対に許さん!翌日の朝、Tyc社にて。竹内佳奈が慌てて事務所に駆け込み、まだ寝ていた入江紀美子に報告した。「社長、大変です!」呼び覚まされた紀美子は目を揉みながら、「どうしたの?」と尋ねた。「あの人達、社長に会えないからって会社のガラスドアに塗料をかけて……酷いことを…」紀美子は驚きながら聞いた。「何を書かれた?」佳奈は言い出せず、口をすぼめて黙った。「教えて」紀美子は腰を曲げて靴を履いた。「社、社長のことを、『誰とでも寝るビッチ』と」佳奈の声が段々と低くなっていった。しかし紀美子はそれをはっきりと聞き取った。紀美子は数秒沈黙してから立ち上がり、「無視していいよ」と告げた。「社長」佳奈は紀美子を見て言った。「これ以上黙っていたら、今度は何をされるか、分かりませんよ」「これくらいの騒ぎで取り乱れてどうするの?相手はうちが理性を失うのを待っているのよ」紀美子は落ち着いた様子で佳奈に言った。彼女の携帯が鳴り出した。杉浦佳世子からの電話だった。紀美子は佳奈に、一旦外に出て落ち着かせてくるようにと指示した。「かしこまりました、社長」佳奈が出ていってから、紀美子は佳世子の電話に出た。まだ口を開いていないうちに、佳世子の声が電話から聞こえてきた。「紀美子、ボディーガードがやつらに石を投げられて怪我したわ!」佳世子は泣きながら言った。「家の玄関も、汚物が混ざった水をかけられて、今家中が酷い匂いよ」紀美子は思わず拳を握りしめながら言った。「落ち着いて話を聞いて」「うん!聞くわ!」「長くてもあと5日間だけ持ち堪えて!この5日間の間、ボディーガードに彼らを調査させ、騒ぎを起こした人達のことを全部記録させて」「わ、分かったわ!名簿を作成するわ!」「ごめんね、ありがとう」「もうこんな時でも、親友として助けてあげるのは当たり前のことよ!」佳世子は涙を拭きながら言い放った。「地獄までもついていってあげるわ」「うん、共に戦
竹内佳奈は不満げにポッドを置いて反論した。「事実ではない!私は、社長がそのような人間ではないと信じている!」「君が信じるかどうかの問題ではない」男性社員は怒って反論した。「信じるから事実になるのか?君のような秘書は、俺達アフターサービス部の大変さが分からない!社長のせいで俺達も『悪徳商人の手先』とまで言われた!なのに俺達は、礼儀正しく答えなければならない。君には分かるわけがない!」佳奈は彼を見つめ、大きな声で指摘した。「それくらいの屈辱も耐えられないのか?社長が毎日どれほどの罵声を浴びているか分かるの?」「知ったこっちゃねえ!俺は耐えられん!」男性社員は適当に髪の毛を整理してから言った。「社長は絶対に何かを隠している、このままだと、会社が潰れるのも時間の問題だろう!」「気に入らないなら出てってよ!」佳奈は本気で怒った。「社長が可哀想だわ。ここ数日、毎日あんた達に良い食事を食わせているのに、本当に恩知らずだわ!」「誰が恩知らずだと?!」「あんたよ!この恩知らずが!」佳奈は怒りを抑えきれず、男性社員の顔に平手打ちをした。「クソ、よくも俺の顔を打ったな?!」男性社員は佳奈に打ち返そうとしたが、他の社員達が慌てて彼を止めた。通りすがりの入江紀美子と露間朔也は、会議室の騒ぎを聞いて、急いで向かった。朔也がドアを押し開くと、中は激しく騒いでいた。彼は社員達を見回し、「昼休みの時間に休まずに喧嘩してどうする?!」と怒鳴った。社員の1人が朔也を見て、慌てて先ほどの状況を説明した。朔也は聞けば聞くほど顔色が曇った。彼は紀美子に、「この人達をどうするか、あなたが決めて!」と言った。紀美子は頷き、会議室に入った。彼女はゆっくりと皆の顔を見回して口を開いた。「私は、皆さんの気持ちがよく分かっている。皆さんから見れば、私はただ逃げ回っているだけ。会社も潰れそうになっているのに。ここでいくら説明しても意味がないので、辞めたい人がいれば、止めはしないわ」「俺は辞める!」男性社員が社員証を地面に叩きつけながら言った。「未来が見えないような会社には、残っても意味がない!」「わ、私も辞めるわ……」「社長、申し訳ありません、私も……」「……」社員達が次々と辞めていくのを
露間朔也の表情は一瞬引き攣った。そして気まずそうに鼻先を揉み、「だってあなたが何も返事しないんだもん」と言った。入江紀美子は笑みを浮かべてジュースを置き、「朔也、服を3セット用意して」と指示した。朔也は少し驚いた。「スタイルは?」「カジュアルウェア2セット、正装1セットで。正装は赤にして、できるだけ鮮やかなものがいい。あとヘアメイク師を1人手配して」「何をするつもり?」紀美子は時間を見ながら答えた。「明日、渡辺グループの100年目セレモニーに出る」「正気か?!100年目セレモニーとかに出る場合じゃないだろ?!奴らに袋叩きにされたらどうする?!」朔也は紀美子を見つめながら問い詰めた。紀美子はただ朔也に笑顔を見せ、何も答えなかった。朔也は急に悟ったかのように、驚いた顔で言った。「あなた、まさか……」「そう」紀美子は朔也の話を中断して言った。「私達、そろそろどん底を抜け出すわよ!」……12月30日。渡辺グループの100年目セレモニー当日。殆どの上流階級の人々が、午後5時までに帝都において最も豪華なホテルに集まるように招待を受けた。ホテルの外、ボディーガード達が2列に並び、沢山の記者達が参加者の写真を撮っていた。しかし残念なことに、参加者は皆マスクを被っていた。ホテルの化粧室。ヘアメイク師は狛村静恵に精細な化粧をしていて、彼女が着ているイブニングドレスはその美しさを一層目立たせていた。渡辺野碩は、満面の笑で化粧室に入ってきた。静恵の美しい姿を見て、濁っていた両目は愛情に満ちた。「うちの静恵ちゃんが今日こんなに美しいとは」野碩の声が聞こえて、静恵は振り返った。「外祖父様、それは褒めすぎですわ」野碩は彼女の手を握り、「静恵ちゃんが美しいのに、褒めちゃいけないのか?」と言った。静恵は恥ずかし気に野碩の肩に寄り添い、「外祖父様、私を見つけ、更にこんなに素敵な生活をくれたことを感謝していますわ」と言った。野碩は気分が良くなり、静恵の手を握りながら言った。「静恵ちゃん、ワシは一番いい物を全部君にあげるから!」時を同じくして。Tyc社にて。紀美子はカジュアルウェアの姿でボディーガードに囲まれて会社を出た。外で待っていた記者達は、彼女が
車の中にて。「事前に大きめの帽子を用意していて良かった。でないと髪の毛までやられていたよ」露間朔也はティッシュで入江紀美子の顔を拭きながら言った。紀美子はティッシュを受け取った。「トレンドでトップになった?」「まだそんなことを気にする余裕があるのかよ?!」朔也は目を大きくして、言った。「そろそろ自分の心配をしたらどうだ?」紀美子は朔也の話を気にせず、携帯を出してトレンドの状況を確認した。自分の動画がトップに上がったのを見て、彼女は笑みを浮かべた。100年目セレモニー?そう順調に行わせるワケがないでしょ?携帯をしまい、紀美子は渡辺翔太にメッセージを送った。「モノは用意できたの?」「安心して、準備万全だ。あとは君が来るのを待つだけ」翔太がすぐに返信してきた。紀美子の目の奥の闇が深くなった。「お兄ちゃん、今回の件で、渡辺野碩がかなりのショックを受けるはずだわ」「彼にもそろそろ、自分がどれほど愚かなことをやらかしたかを分かってもらう時期さ」紀美子は唇をすぼめ、携帯を置いてから窓越しに外を眺めた。今回は必ず成功する!20分後。紀美子はホテルの隣にある、朔也が事前に買収しておいた洋服屋に着いた。僅か10数分後、彼女はイブニングドレスに着替え、化粧まで済ませた。彼女が化粧室から出てくると、朔也の表情は一瞬で引き攣った。元々紀美子は美しかったが、口紅を塗った今、一層凛として見えた。赤いイブニングドレスが、彼女の肌をもっと白く引き立たせた。「G!今後はずっと真っ赤な服にしたらどう?マジでオーラ―が強すぎる!まるで女王様のイメージだ!!」朔也が思わず称賛した。紀美子は朔也に、「マスクは?」と聞いた。朔也は持っていた黒色の半面マスクを手渡した。紀美子はマスクをつけ、朔也の腕を組んだ。「よし、行こう」朔也は頷き、自分もマスクを身につけ、紀美子と一緒に洋服屋を出た。彼女達はボディーガードに声をかけてから、ホテルへ向かった。翔太からもらった招待状があったので、2人は順調にホテルに入れた。マスクをつけていたので、記者達は紀美子のことが分からなかったようだ。しかし、紀美子達がホテルに入った途端、森川晋太郎もマスクをつけて車から降りてきた。その見慣
紀美子は箸を握る手の力を徐々に強めながら、優しく言った。「念江、大丈夫よ。本当にママに会いたくなったら、会いに来ればいい」念江はぽかんとした。「でもあそこは……」紀美子は首を振って遮った。「確かにルールはあるけど、抜け道だってあるはずでしょう?」念江はしばらく考え込んでから頷いた。「うん。僕たちが認められれば、きっとすぐにママに会える」紀美子は安堵の表情でうなずいた。子供たちと食事を終えると、彼女は階上へ上がり、荷造りを手伝った。今回は晋太郎の部下に任せず、自ら佑樹と念江の衣類や日用品をスーツケースに詰めていった。一つ一つスーツケースに収める度に、紀美子の胸の痛みと寂しさは募っていった。ついに、彼女は手を止め俯いて声もなく涙をこぼし始めた。部屋の外。晋太郎が階下へ降りようとした時、子供たちの部屋の少し開いた扉から、一人背を向けて座っている紀美子の姿が目に入ってきた。彼女の細い肩が微かに震えているのを見て、晋太郎の表情は暗くなった。しばらく立ち止まった後、彼はドアを押して紀美子の傍へ歩み寄った。足音を聞いて、紀美子は子供たちが来たのかと慌てて涙を拭った。顔を上げ晋太郎を見ると、そっと視線を逸らした。「どうしてここに……」「俺が来なかったら、いつまで泣いてるつもりだったんだ?」晋太郎はしゃがみ込み、子どもたちの荷物をスーツケースに詰めるのを手伝い始めた。「手伝わなくていいわ、私がやるから」「11時のフライトだ。いつまでやてる気だ?」晋太郎は時計を見て言った。「もう8時半だぞ」紀美子は黙ったまま、子供たちの服を畳み続けた。最後になってやっと気付いたが、晋太郎は服のたたみ方すら知らないようだった。ただぐしゃぐしゃに丸めて、スーツケースの隙間に押し込んでいるだけだった。紀美子は思わず笑みを浮かべて彼を見上げた。「あなた、本当に基本的なことさえできないのね」晋太郎の手は止まり、一瞬表情がこわばった。彼は不機嫌そうに顔を上げ、紀美子を見つめて言った。「何か文句でもあるのか?」紀美子は晋太郎が詰めた服を再び取り出しながら言った。「文句を言ったところで直らないだろうから、邪魔しないでくれる?」「この2日間で、弁護士に書類を準備させた。明日届く
「それは――龍介さんが自分で瑠美とちゃんと話すしかないんじゃない?」紀美子は微笑みながら言った。「紀美子、今夜は瑠美を呼んでくれてありがとう」龍介はグラスを持ち上げた。紀美子もグラスを上げて応じた。「龍介さんにはお世話になりっぱなしなんだから、こんな簡単なことでお礼言われると困るわ」夜、紀美子と晋太郎は子供たちを連れて家に戻った。紀美子が入浴を終えたちょうどその時、ゆみから電話がかかってきた。通話を繋ぐと、ゆみはふさぎ込んだ声で聞いてきた。「ママ、明日お兄ちゃんたち行っちゃうんでしょ?」紀美子はぎょっとした。「ゆみ、それは兄ちゃんたちから聞いたの?」「うん」ゆみが答えた。「ママ、お兄ちゃんたち何時に行くの?」浴室から聞こえる水音に耳を傾けながら、紀美子は言った。「ママも正確な時間わからないの。パパがお風呂から出たら聞いてみるから、ちょっと待っていてくれる?」「わかった」ゆみは言った。「ママ、それまで他の話しよっか」紀美子はゆみと雑談をしながら、十分ほど時間を過ごした。すると、晋太郎がバスローブ姿で現れた。ゆみの元気な声が携帯から聞こえてきたため、晋太郎は髪を拭きながらベッドの側に座った。「もう11時なのに、まだ起きてるのか?」紀美子が体を起こした。「佑樹たち明日何時に出発するのか知ってる?」晋太郎は紀美子の携帯を見て尋ねた。「ゆみはもう知ってるのか?」「知ってるよ!」ゆみは即答した。「パパ、私お兄ちゃんたちを見送りに行きたい」「泣くだろう」晋太郎は困ったように言った。「だから来ない方がいい」「嫌だ!絶対に行くの。だって次に会えるのいつかわからないんだもん」ゆみは強く主張した。その声は次第に震え始め、今にも泣き出しそうな顔になった。晋太郎は胸が締め付けられる思いがした。「分かったよ……専用機を手配して迎えに行かせる」そう言うと彼はベッドサイドの携帯を取り上げ、美月に直ちにヘリコプターを手配するよう指示した。翌日。紀美子は早起きして、子どもたちのために豪華な朝食を用意した。子供たちは、階下に降りてきてテーブルいっぱいに並んだ見慣れた料理を目にすると、驚いたように紀美子を見つめた。「これ全部、ママが一人
龍介は瑠美に笑いかけて言った。「瑠美、この前は助けてくれてありがとう」彼がアシスタントに目配せすると、用意してあった贈り物が瑠美の前に差し出された。「ささやかものだけど、受け取ってほしい」瑠美は遠慮なく受け取り、龍介に聞いた。「開けていい?」「どうぞ」瑠美は上にかけられていたリボンを解き、丁寧に箱のふたを開けた。中身を目にした瞬間、彼女は驚いて目を見開いた。「えっ!?これどうやって手に入れたの?!瑠璃仙人の作品でしょ!?」「前に君が玉のペンダントしてたから、好きなんだろうと思って」「めっちゃ好き!!」瑠美は興奮して紀美子に言った。「姉さん!これ梵語大師の作品よ!前に兄さんに探させたけど全然ダメだったのに!」紀美子は玉のことには詳しくないため、梵語大師が誰なのかもわからなかった。彼女はただ穏やかに微笑んで言った。「気に入ってくれて良かったわ」一方、晋太郎の視線は龍介に留まった。龍介の目には、かすかな熱意のようなものがある。紀美子を見る時には決して見せたことのない眼差しだ。もしかして、龍介は瑠美に気があるのか?晋太郎は探るように口を開いた。「吉田社長の狙いがこんなに早く変わるとはな」龍介は瑠美の笑顔から視線を外し、晋太郎の目を見つめて言った。「森川社長、それはどういう意味だ?」晋太郎は唇を歪めて冷笑した。「吉田社長、新しい対象ができたのに、なぜまだ紀美子に執着してるんだ?」それを聞いて、瑠美は驚いて顔を上げ、龍介と紀美子を交互に見た。紀美子は瑠美の視線を感じ取って、説明した。「私と吉田社長は何もないから、誤解しないで」「誤解なんてしてないよ」瑠美は言った。「でも晋太郎兄さんが言ってた『吉田社長の狙い』って、私のこと?」紀美子も、晋太郎のその言葉の真意はつかめていなかった。龍介のような、感情を表に出さず落ち着いていて慎重なタイプが、活発で明るい瑠美に興味を持つのだろうか。もしかすると、あの時瑠美が龍介を助けたことがきっかけなのか?二人の年齢差は10歳ほどあるはずだ。でも、性格が正反対なほど惹かれ合うって話もある。もし瑠美が龍介と結婚したら、みんな安心できるだろう。「もしよければ、瑠美さん、連絡先を教えてくれないか?」
そう言うと、晋太郎はさりげなく紀美子から車の鍵を受け取った。佑樹が傍らで晋太郎をじっと見て言った。「パパ、違うよ。ママが誰かとお見合いするわけじゃん」晋太郎は生意気な佑樹を見下ろしながら聞き返した。「じゃあ、何だって言うんだ?」佑樹は笑いながら紀美子を見て言った。「ママみたいな美人、お見合いなんて必要ないじゃん。ママに告白したい人を並ばせたら、地球を一周できるよ」念江も付け加えた。「前におばさんから聞いたけど、ママの会社の重役や課長さんたちもママに気があるらしい」晋太郎の端整な顔に薄ら笑いが浮かんだが、その目には陰りがあった。「ろくでもない奴らだ。君たちのママはそんなやつらに興味ない」重役と課長か……晋太郎は鼻で笑った。計画を早める必要がありそうだな。「そろそろ時間よ。遅れちゃうわ。三人とも、もう出発できる?」紀美子は腕時計を見て言った。一時間後。紀美子と晋太郎は二人の子供を連れてレストランに到着した。龍介が予約した個室に入ると、彼はすでに待っていた。紀美子を見て龍介は笑顔で立ち上がった。「紀美子、来たね」紀美子が前に出て謝った。「龍介さん、ごめん。渋滞でちょっと遅れちゃった」「気にしないで」龍介は晋太郎を見上げて言った。「森川社長、久しぶりだな」晋太郎は鼻で嗤い、皮肉をこめて言った。「永遠に会わなくてもいいんじゃないか」龍介はその言葉を無視し、子供たちにも挨拶してから席に着いた。紀美子が子供たちに飲み物を注いだ後、龍介に尋ねた。「今日は何の用?」「じゃあ単刀直入に言うよ」龍介の表情が急に真剣になった。「紀美子、瑠美は君の従妹だよね?一度彼女に会わせてくれないか?」紀美子は驚き、晋太郎と視線を合わせてから龍介を見た。「この前の件で瑠美に会いたいの?」龍介は頷き、率直に答えた。「ああ、命の恩人に対して、裏でこっそり調べたり連絡するのは失礼だと思ってね」「紹介はできるけど、彼女が会ってくれるかどうかはわからないよ」「頼むよ。あれからずっと、ちゃんとお礼も言えてなかったから」紀美子は頷き、携帯を取り出して瑠美の番号を探し出した。「今連絡してみる」電話がつながると、瑠美の声が聞こえた。「姉さん?どうした?
どっちみち焦っているのは晋太郎の方で、こっちじゃないんだから。これまで長い年月を待ってきたのだから、もう少し待っても構わない。2階の書斎。晋太郎はむしゃくしゃしながらデスクに座っていた。紀美子が龍介と電話で話していた時の口調を思い出すだけで、イライラが募った。たかが龍介ごときに、あんなに優しく対応するなんて。あの違いはなんだ?ちょうどその時、晴から電話がかかってきた。晋太郎は一瞥してすぐに通話ボタンを押した。「大事じゃないならさっさと切れ!」晋太郎はネクタイを緩めながら言った。電話の向こうで晴は一瞬たじろいだ。「晋太郎、家に着いたか?なぜそんなに機嫌が悪いんだ?」晋太郎の胸中は怒りでいっぱいになっており、必然と声も荒くなっていた。「用があるなら早く言え!」「はいはい」晴は慌てて本題に入った。「さっき隆一から電話があってな。出国前にみんなで集まろうってさ。あいつまた海外に行くらしい」「無理だ!」晋太郎は即答した。「夜は予定があるんだ」「午後、少しカフェで会うだけなのに、それも無理か?」午後なら……夜の紀美子と龍介の待ち合わせに間に合う。ついでに、あの件についても聞けるかもしれない「場所を送れ」30分後。晋太郎は晴と隆一と共にカフェで顔を合わせた。隆一は憂鬱そうにコーヒーを前にため息をついた。「お前らはいいよな……好きな人と結婚できて」晴はからかうように言った。「どうした?また父親に、海外に行って外国人とお見合いしろとでも言われたのか?」「今回は外国人じゃない」隆一は言った。「相手は海外にいる軍司令官の娘で、聞くところによると性格が最悪らしい」晴は笑いをこらえながら言った。「それはいいじゃないか。お前みたいな遊び人にはぴったりだろ?」「は?誰が遊び人だって?」隆一はムッとして睨みつけた。「お前みたいなふしだらな男、他に見たことないぞ!」「俺がふしだらだと?!」晴は激しく反論した。「俺、今はめちゃくちゃ真面目だぞ!」隆一は嘲るように声を上げて笑った。「お前が真面目?笑わせんなよ。佳世子がいなかったら、まだ女の間でフラフラしてたに決まってるだろ!」「お前だってそうだったじゃないか!よく俺のことを言える
晋太郎は思わず唾を飲み込んだ。言葉に詰まる彼を見て、紀美子は笑いながら頬の髪を耳にかけた。「晋太郎、隠してもね、ふとした瞬間に本心は漏れるものよ。言いたくないなら無理強いはしない。いつかきちんと考えがまとまったら、また話しましょう」そう言うと、紀美子は先を行く子供たちの手を取って笑いながら歩き出した。紀美子の後姿を見ながら、晋太郎は考え込んだ。……翌日。一行は荷物をまとめ、帝都に戻った。別荘に着くとすぐ、紀美子は龍介から電話を受けた。彼女はスピーカーをオンにし、子供たちのためにフルーツを準備しながら応答した。「龍介さん」そう言うと、電話の向こうから龍介の心配そうな声が聞こえてきた。「紀美子、大丈夫か?」ちょうどキッチンに入ってきた晋太郎は、はっきりとその言葉を聞いた。彼は眉をひそめ、テーブルに置かれた紀美子の携帯を不機嫌そうに睨みつけた。「相変わらず情報通だね。大丈夫だよ、心配しないで」「いや、情報通ってわけじゃない」龍介は言った。「今、トレンド一位が悟の件だ。まさか自殺するとは」紀美子はリンゴの皮をむく手を止めた。「もうその話はいいよ。過去のことだし」「悪い。今晩、空いてる?食事でもどうだ?」「無理だ!」突然、晋太郎の声が紀美子の背後から響いた。びっくりして振り向くと、彼はすでに携帯を奪い取っていた。龍介は笑いながら言った。「森川社長、盗み聞きするなんて、よくないね」「陰で俺の女を誘う方がよほど下品だろ」「森川社長、俺と紀美子はビジネスパートナーだ。食事に誘うのに許可が必要か?」晋太郎は冷笑した。「お前みたいなパートナー、認められない」「森川社長と紀美子はまだ何もないはずだ。『俺の女』って言い方、どうかしてるぞ」「……」紀美子は言葉を失った。この二人のやり取り、いつまで続くんだろう……「龍介さん、何か急ぎの用?」紀美子は携帯を取り返し、呆れた様子で晋太郎を一瞥した。「相談したいことがある。家族連れでも構わない」「わかった。後で場所と時間を教えて」「ああ」電話を切ると、紀美子は晋太郎を無視してリンゴの皮むきを続けた。晋太郎は腕を組んでキッチンカウンターに寄りかかり、不機嫌そうに聞いた。「俺とあいつが同
「お前の両親は納得したのか?」晋太郎がさらに尋ねた。「俺はあいつらと縁を切ったのさ。だから何を言われようと、俺は気にしない」晴は肩をすくめた。「子供たちを海外に送りだしたら、準備する」晋太郎は視線を紀美子と子供たちに向けた。「そう言えば、佑樹たちはいつ出発するんだ?」晴はハッと気づいた。「明日、まず彼らを帝都に連れ帰る。明後日には隆久と一緒に出発する予定だ」晋太郎は日数を計算した。「ゆみには言わないのか?兄たちを見送らせてやらなくていいのか?」晴は軽くため息をついた。「必要ない」晋太郎は即答した。「ゆみを泣かせたくない」「お前のゆみへの態度、日に日に親バカ度が上がってるように感じるよ。昨日佳世子と話してたんだ。『もう一人産んで、その子を譲ってくれ』って」晴は眉を上げた。「寝言は寝てから言え」晋太郎は足を止め、不機嫌そうに彼を見た。「お前と紀美子はまだ産めるだろうが、俺は無理なんだよ!」晴は言った。「今の医療技術なら、子供への感染を防ぐ方法も試せる」晋太郎は彼をじっと見た。「『試せる』って言ったろ」晴は落ち込んだ。「もし運が悪くて子供に感染したらどうする?」「たとえお前が俺の子供を自分の子のように育てられても、お前たちには大きな悔いが残るだろう」晋太郎は言った。「もういい。佳世子に毎日苦しみと自責の念を味わわせたくない。病気だけでも十分辛いんだ」晴はため息をついた。「俺は子供をやるつもりもない」そう言うと、晋太郎は紀美子たちの後を追った。「晋太郎!酷いこと言うなよ!金は弾むよ。少しは人情を持てよ!」晴は目を見開いた。晴の見えないところで、晋太郎の唇がかすかに緩んだ。夕食後。紀美子と晋太郎は、二人の子供を連れて外を散歩した。「会社の合併について考えたことはあるか?」しばらく歩くと、晋太郎は傍らの紀美子に尋ねた。「合併ってどういう意味?」紀美子は彼を見上げた。「文字通りの意味だ」晋太郎は、もし紀美子がまた妊娠したら、彼女に産休を取らせるつもりだった。「あんたの力に頼って会社を発展させる気はないわ。全てが無意味になる」「MKを見くびっているのか?」晋太郎は足を止めて彼女を見た。「MKの実力を馬
遠くのスナイパーも急いでライフルの安全装置を外したが、悟は自分のこめかみに銃を向けた。晋太郎は呆然とした。言葉を発する間もなく、悟は笑みを浮かべながら引き金を引いた…………紀美子が目を覚ました時、自分が元の部屋にいないことに気づいた。佳世子が傍らに座り、二人の子供たちと話していた。彼女がゆっくりと体を起こすと、その音に三人が一斉に振り向いた。「紀美子!」佳世子が駆け寄った。「目が覚めたんだね!」「どうやって戻ってきたの?」紀美子は尋ねた。「晋太郎が連れ帰ってくれたの。もう全部終わったわ」佳世子は明るく笑った。「終わったって……?」紀美子は理解できずに聞いた。「悟は?自首したの?」「彼、自殺したの」佳世子の瞳が少し潤んだ。自殺……紀美子は凍りついた。「晋太郎と二言三言交わした後、自分のこめかみに銃を向けて、みんなの目の前で死んだらしいわ。あの時彼があんたを再び部屋に連れ戻した理由が分かる気がする。自分の死に様を見せたくなかったんでしょうね」佳世子は続けて言った。紀美子は、ホテルのロビーで大河が撃たれた後、悟が彼女の目を覆ったことを思い出した。悟の結末を聞いて、紀美子は複雑な心境になった。悲しい?悟は数々の非道なことをしたのに、なぜ悲しいのか分からなかった。少しも嬉しい気持ちになれない。目が次第に赤くなっていく紀美子を見て、佳世子は心の中でそっとため息をついた。二人は、長年共に過ごした仲間だ。たとえ悟がどれほど冷血なことをしたとしても、紀美子は彼が優しくしてくれた日々を思い出さずにはいられないだろう。だって、あの優しさは本物だったから。「晋太郎は?」紀美子は長い沈黙の後、ようやく息をついて話題を変えた。「隣の部屋で会議中よ。会社の用事で、晴も一緒だわ」佳世子は答えた。紀美子は頷き、視線を子供たちに向けた。「この二日間、怖い思いをさせちゃったね」彼女は両手を広げ、微笑みながら言った。二人の子供は母の懐に飛び込んだ。「お母さん、怪我はない?」念江が心配そうに尋ねた。「うん、とくに何もされなかったわ」紀美子は首を振って答えた。「あの悪魔はもういないし、僕と念江も安心して出発できる」「うん、外でしっか
悟は紀美子をじっと見つめた。まだ語り尽くせない思いは山ほどあったが、全ては言葉にできなかった。長い沈黙の後、悟は紀美子の手を離し、立ち上がってドアに向かった。ドアノブに手をかけた瞬間、彼は再びベッドに横たわる彼女を振り返った。淡い褐色の瞳には純粋で、ただ未練と後悔だけが満ちていた。ゆっくりと視線を戻すと、悟は決然とドアを開けた。ドアの外で、ボディガードは悟が出てくるのを見て一瞬たじろいだ。「お前は私の部下ではない。何もしなくていい。私が自分で行く」悟は彼を見て言った。「悟が降りてきます!」悟の背中を見送りながら、ボディガードは美月に報告した。報告を受け、美月は晋太郎を見た。悟が紀美子にかけた言葉をはっきりと聞いていた晋太郎は、端正な顔を険しくした。次に……彼は唇を強く結び、ドアを開けて車から出た。美月も続いて降りてきた。晋太郎たちがホテルの入り口で立ち止まると、悟が中から出てきた。「あんたと俺は同じ汚れた血が流れている。たとえあんたが認めたくなくても、これが事実だ」悟は平静な笑みを浮かべた。「上で紀美子に何をした?」晋太郎は怒りを抑え、冷たい声で詰め寄った。「私が彼女に本当に何かしたとして、あんたの出番などないだろう」悟は反問した。「だが心配するな。彼女はただ眠っているだけだ」「お前は自分で自首するか、俺がお前をムショに送るか選べ」「刑務所だと?」悟は嘲笑った。「私があの男と同じ場所に行くと思うか?」「それはお前が決めることじゃない!」「降りてきたのは、ただ一つ聞きたいことがあったからだ」悟は一歩踏み出し、ゆっくりと晋太郎に近づいた。二人の距離が縮まるのを見て、美月は慌てて止めに入ろうとした。「来るな」背後からの気配に、晋太郎は軽く振り返って言った。美月は焦りながらもその場で止まった。社長は目の前の悟がどれほど危険か分かっているのか?本当に傲慢で思い上がりも甚だしい!!「最後のチャンスだ。聞きたいことは一度で済ませろ」晋太郎は視線を戻し、悟の目を見据えた。「貞則があんたの母親にあんなことをしたのを知って、彼を殺そうと思ったことはあるか?」「お前があの老害を始末してくれたおかげで、俺は手を汚さずに済んだ。礼を言