「違う」翔太は辛そうな顔で否定した。「俺が無能だから、奴をこの手で殺せないんだ。それどころか、紀美子がそのことで晋太郎を受け入れないのを分かっていながら、復讐のために、彼女に晋太郎に頼むように要求した。俺なんか、所詮ただの臆病者だ」佳奈が暫く考えてから言った。「違うわ。紀美子さんと森川社長派もともと似合っていると思わない?」「君はそう思っているのか?」翔太は少し驚いた。「翔太さんはそう思ったことはないの?あなたは、紀美子さんがまだ森川社長を思っていることを知っているから、彼女にそう頼んだ、私はこう解釈したわ。今回のことにおいても、翔太さんはいつも紀美子さんの意見を伺っていたよね?強要なんか、これっぽちもないよね?」「何だか俺のために言い訳を作っているように聞こえるな」翔太は目を垂らした。「言い訳なんかじゃないわ。あなたは、森川社長が紀美子さんのことを思っていること、それに彼が彼女の助けになれると分かっているから、そう頼んだ。あとは……翔太さんが無意識で彼女を試している、とか?」翔太は、あの時は一体どんな心境で紀美子にそんな話をしたのか、自分もよく分からなかった。「やっと分かったわ。あなたは森川家が怖いのではなく、紀美子さんに申し訳ないと思っているのね」佳奈は立ち上がり、持ってきた袋から牛乳を出して翔太に渡した。翔太は沈黙したままだった。確かに彼は紀美子に申し訳ないと思って、ここ数日ずっと家に籠って色んな解決策を探していた。「翔太さん、あなたは紀美子さんに申し訳なく思う必要はないわ。あなたはただ、彼女に未来を選択する権利を与えたまでよ」翔太は何も言わなかった。「はいはい、今回のことはいずれ解決されるから、今はとりあえずご飯にしましょっ!」佳奈は翔太の肩を叩きながら言った。「食べ物を買ってきたんじゃなかったのか?」「いいの!気晴らしがてら!」佳奈は翔太の腕を引っ張った。……夜。田中晴は鈴木隆一を連れて杉浦佳世子の家に訪ねてきた。しかしそれは隆一が要求したのであり、晴が自発的に彼を誘ったわけではなかった。隆一は佳世子の名義を借りて入江紀美子に近づき、親友の恋を救ってあげたいと考えていた!彼らが訪ねてきた時、佳世子は家のソファに座っていて、
怒鳴られた杉浦佳世子は弱気になって首を縮めた。自分に非があるので、彼女はそれ以上田中晴にふざけようとしなかった。「晴、せっかくお友達を連れてきたんだから、もう喧嘩をやめようよ。今日のことはまた夜に話そう、とりあえずお友達をおもてなしして」「気にしなくていい!」「私が気にするわ!」佳世子は口をすぼめて文句をこぼした。「あんたも、友達の前で子供のように叱らないでくれる……?」「晴、アイスクリームごときで奥さんと喧嘩するなよ……」鈴木隆一も傍で慰めた。「お前は黙ってろ!」晴は思い切って佳世子を責めた。「子供はまだ形になっていないし、万が一アイスクリームの冷たさで何かがあったらどうする?」ついでに怒鳴られた隆一は、大人しく口を閉じた。晴はゴミ箱を置き、台所からお湯を一杯注いできて、佳世子に「飲め」と渡してから、隆一に向かって言った。「ささ、座って。うちは狭いけど、我慢して」「大丈夫」隆一は佳世子の隣のソファに腰を掛けた。「ここは奥さんが買った家なの?」「違う、借りたの」佳世子は説明した。「晴、奥さんに家を買ってやらないのか?」「違う、私が引っ越しが面倒なの。晴が、この家の家賃を3年間分払ってくれたし」「なるほど。そう言えば、君は紀美子の親友だよね?とても仲がいいと聞いているけど」それを聞いた佳世子は、すぐに警戒した。「どうして紀美子のことを聞いてくるの?」「俺が聞きたいのは、紀美子はまだ晋太郎のことを思っているかどうかだ」隆一は慌てて説明した。佳世子は答えずに視線を隆一から晴に移した。「あんたが彼に頼んだの?」「こいつが勝手についてきたんだ。俺は関係ないよ」晴は首を振って否定した。「ごめんね、紀美子のことは教えられないの!」「ちょっと助けてよ、俺はあの2人を別れさせるために来たわけじゃない」隆一は晴に助けを求めた。「彼は本当に助けてもらいたくてここに来たんだ。紀美子と晋太郎に仲直りしてもらいたいと」「この件は紀美子のプライベートなのに、何であんた達が横から手を出すのよ!」佳世子は怒った。「あんた達は自分の親友の為に頼んできたのかもしれないけど、私だって自分の親友を守りたいの!その頼み、私は断る!」「これは紀美子の為でもあ
「まあまあ、そう興奮するなよ、赤ちゃんに悪いし。俺も晋太郎からそう聞いただけ。最近、彼はその件を処理しているようだ」そう言ってから、田中晴は慌てて杉浦佳世子を落ち着かせた。「処理?父親の罪を隠すの?!」佳世子は感情を制御しきれない様子で再び尋ねた。「違う、何を考えてんだよ!彼は父親に法の裁きを受けさせるつもりだ」晴は説明した。その話を聞き、佳世子はほっとした。「まさか、晋太郎が紀美子の為にそこまでするとは」佳世子は感服した。鈴木隆一は、チャンスが来たと見てすかさず口を開いた。「だから、晋太郎の身になって考えてあげるべきじゃないか?」佳世子は暫く考えてから答えた。「じゃあ、先に紀美子の意思を聞いてみる。これでいい?」「今聞いてくれてもいいかな?」紀美子は呆れた。どうやら今この場で隆一に回答しないとケリがつかないようだ。彼女はテーブルに置いていた携帯を取り、紀美子に電話をかけた。電話派すぐに繋がった。「佳世子、どうかしたの?」「紀美子、今何してるの?」「顔を洗ってるけど」電話の向こうから水が流れる音がした。「あのね、あなたのお父さんのことを晴から聞いたんだけど……」そう言って佳世子は相手の反応を伺った。紀美子は、暫く沈黙してから口を開いた。「うん、その件で晋太郎の所に行ってきたわ」「えっ?」佳世子は驚いたふりをした。「彼の所に行ってきたの?彼は何て?」「あれ、晴が言ってなかった?」紀美子は戸惑った。「いいえ、まだ晴からはその話は聞いていないけど、晋太郎は何か言った?」「彼は、私の為にも、彼の母の為にもこの件を解決しなければならない、と言ったわ」「彼は本当にそう言ったの?たとえ自分の実の父と絶縁することになっても?」「そう。私も彼のその断固とした姿勢に驚いたわ」佳世子は足で晴に、お湯が入ったコップを持ってくるように合図をした。晴は大人しくすぐ持ってきた。「フン、恐妻家め」それを目撃した隆一は、心の中で彼を蔑んだ。「それで、あなたは今晋太郎に対してどう思っているの?」佳世子はお湯を一口飲んでから聞いた。「彼がここまで考えてくれているから、私もこれ以上彼にこの件で拗らせるつもりはないわ。なにしろもう過ぎたこ
入江紀美子は森川晋太郎の名前の所が「入力中」と表示されているのに気づいた。しかしいくら待ってもチャットメッセージが受信されないので、晋太郎が何かをためらっているのだと分かった。「言いたいことがあれば素直に話して?」晋太郎は紀美子のメッセージを見つめながら、まだ黙っていた。隠さずに言った方がいいかもしれない。「今日、狛村静恵が訪ねてきた。助けてほしいとのことだった」晋太郎は紀美子にそう伝えた。「どういうこと?」助けてほしいとはどういう意味?「彼女は次郎の奴に虐待されているらしい。オヤジの状況を探ってくれる代わりに、助けてほしいと」「静恵は何が分かったというの?」晋太郎は眉間をつまんだ。携帯でのチャットという連絡手段が面倒く感じたのだ。彼は暫く考えてから、携帯をしまいコートを持って書斎を出た。そうも知らず紀美子は大分待ったが、晋太郎からの返信がなかった。もともと眠かった彼女だが、晋太郎との会話で完全に眠気が覚めた。彼女はベッドから降り、下から果物を取ってきて相手の返信を待つことにした。しかしスリッパを履いた途端に、下から車のエンジンの音が聞こえてきた。こんな遅い時間に、誰が訪ねてきたんだろう。窓越しに下の様子を見て紀美子は驚いた。来たのは晋太郎の車だった。なぜ彼が急に来たのだろう。晋太郎は車から降りてきて、紀美子は慌ててソファにかけていたブラジャーを見た。彼女の顔は赤く染まり、慌ててクローゼットにそれを隠した。そして適当に服を整理していると、ノック音が聞こえてきた。紀美子が慌ててドアを開けると、晋太郎が玄関の外に立っていた。「こんな寒い時に何でわざわざ来たの?」紀美子が心配してくれるのを聞いて、晋太郎は微笑んだ。「いつまで俺を外に立たせる気?」紀美子は横によけて、晋太郎を中に入れた。ドアを閉め、2人はソファに腰を掛けた。紀美子の部屋にはソファが1つしかなく、小さいものではないが、2人が座るには、もう殆どスペースが残されていなかった。晋太郎は彼女の部屋を見渡した。寝る時間だったのだろうか、小さな暖かい光の電気しか着いていなかった。部屋には暖房が入っていたので、コートを着たままの晋太郎は、背中に汗がにじんだ。紀美子が口を開こうとすると、
森川晋太郎はゆっくりと手を伸ばし、彼女の髪をまとめた。「俺は、君が警戒せずに俺と落ち着いて会話してくれる姿が好きだ」入江紀美子は呆然と彼を見た。心は彼の言葉に合わせて強烈に鼓動していた。晋太郎に少し冷たい指で肌を触られた紀美子は、一瞬で全ての理性を失った。彼女は唇を動かし何かを言ってその気まずい空気を打破しようとした。しかしまるで喉が塞がれたかのように全く声が出なかった。もしかしたら、彼女自身がそれを望んでいなかったのか……晋太郎の視線は彼女の薄紅色の潤った唇に止まり、手も視線に合わせて彼女の顎まで動かした。体が近づいてくると同時に、彼は細長い指に力を入れ、彼女の顔を軽く持ち上げた。久しぶりに彼の息が彼女の鼻先にかかり、彼女の呼吸も合わせて早くなった。晋太郎にキスされた瞬間、2人の心の間にあった壁が一気に崩れ去った。絡み合う接吻は優しくて長かった。紀美子の意識が朦朧になりかけた瞬間、晋太郎は彼女の体を抱き上げ、自分の上にのせた。彼は首を傾げ、唇を紀美子の耳元に当て、かすれた声で囁いた。「紀美子、俺から離れるな」……翌日。竹内佳奈のいない日、家にいる皆が太陽が高く昇る頃まで寝ていた。子供達が顔を洗って下に降りると、書斎にもリビングにも紀美子の姿が見つからなかった。入江ゆみは減り切ったお腹を揉みながら、「お母さんはどこ?ゆみお腹空いたよ」と言った。入江佑樹はあくびをしながら、「多分まだ寝てるだろう、ちょっとみてこよう」と答えた。森川念江とゆみが頷き、佑樹と一緒にまた2階に上がった。紀美子の部屋の前に来て、佑樹はノックした。「お母さん、起きた?」しかし暫く経っても返事が一切なかった。佑樹は眉を寄せながら、ノブを回してドアを押し開いた。中を覗くと、電気が点けっぱなしの寝室のベッドの上に、布団を被った2つの人の形をした凹凸が見えた。彼はすぐに察して慌ててドアを閉めた。後ろで部屋の中の様子がよく見れなかった2人は呆然として佑樹を見た。「何でドアを閉め……」ゆみがまだ最後まで話さなかったうちに、口を兄に手で塞がれた。そして彼は念江に、まずは部屋に戻ってから話そうと目で合図をした。こうして、子供達は部屋に戻って、ドアを閉めた。佑樹は緊張した様子でツ
子供達が朝食を食べ終わる頃になっても、入江紀美子と森川晋太郎はまだ部屋から出てこなかった。先に起きたのは露間朔也だった。子供達だけがリビングで遊んでいるのを見て、朔也は戸惑いながら周りを見渡した。「君たちのお母さんは?」「晋太郎がお母さんを抱いて寝てるよ」「なに?!彼はここにいるのか?いつ来た?何で教えてくれなかった?!」質問攻めにされた入江佑樹は、どれも答えられなかった。「僕だって分からないよ」「佑樹くん、お父さんが来たことに怒ってるの?」森川念江が尋ねた。「当たり前だろ」佑樹は悶々とした様子で答えた。念江はため息をついた。一体どうやって佑樹に説明したらいいか分からなかった。ことの経緯を整理できた朔也は、子供達の後ろにきて、手を佑樹の肩に置いた。「あのな、佑樹くん、お母さんはただお父さんと恋をしているんだよ」朔也はにニヤニヤしながら説明した。佑樹は朔也の手を振り落として、「彼達が何をやってるか、僕は分かってるんだよ!」と言った。「おいおい、何でそんなことが分かるんだよ!」朔也は真顔で注意した。佑樹は「フン」と鼻を鳴らした。「こう考えるべきだ、お父さんがいなかったら君たちも生まれていない、そうだろ?何と言っても、彼は君たちの実の父だからね!」「実の父がどうしたの?」佑樹はあざ笑いをした。「彼は父親としての責任を果たしてくれた?」佑樹は、自分でもどうしてそんなことを口にしたか分からなかった。しかし、そのことが母の自発的な行動ではなかったことを思い出すと、心の中で怒りと苛立ちを感じた。「そうだったかもしれない。でも彼の心の中では君たちのお母さんが、とても重要な人に違いないんだ!」朔也は確信した。「あなたが確信してどうすんだよ」佑樹は反論した。「まあまあ、佑樹さんよ、もうそっとしてあげなよ。君のお母さんは晋太郎のことが好きなんだから!だってこの時間になっても起きてこないんだろ?」佑樹は口をすぼめながら、小さな顔を曇らせた。もともと備わっていた優雅さが、憂鬱な気分によって失われた。「佑樹さん、たとえばお母さんが晋太郎のことを受け入れたら、君はどうする?」朔也は尋ねた。「お母さんがいいなら、僕も同じだよ」佑樹は即答した。
2人が顔を洗い、部屋から出ようとした時、森川晋太郎は急に口を開いた。「隣の別荘って、まだ売り出していないよな?」「うん、土地が高いから、なかなか見に来る人もいないのよ」入江紀美子は答えた。「そうか」晋太郎は淡々と返事して、部屋のドアを開けた。「行こう」紀美子はあまり彼の話を気にせず、一緒に階段を降りた。1階にて。足音に気づいた子供達は、一斉に晋太郎と紀美子の方を見た。階段の曲がる所まで降りてきた紀美子は、一瞬で複雑な感情を持つ視線を感じた。一方、前を歩いていた晋太郎は明らかなる敵意を感じた。その敵意は入江佑樹からのものだった。弱気になった紀美子は、子供達に目を合わせられなかった。自分が爆睡しただけではなく、晋太郎が来てここで寝泊まりしたことさえ、前もって彼らに教えていなかったからだ。晋太郎は何も無かったかのように、子供達の前に来た。「飯につれていってやる」「やったー!」入江ゆみは立ち上がってはしゃいだ。「アイチバーガーに行きたい!前連れていってくれたお店!」「だらしないよ!」佑樹は妹を睨んだ。ゆみは兄の言葉をの意味をしっかり受け取った。「お兄ちゃんったら、もう捻くれるのやめて!本当に子供みたい!」紀美子も彼らの傍に来ていた。ゆみの話を聞いて、彼女は顔色が暗くなった息子を見つめた。「佑樹くん?」紀美子は彼に声をかけた。佑樹はまっすぐと立ち上がり、紀美子の腕を横に引っ張った。「お母さん、ちょっと2人きりで話したいことがある!」紀美子は、晋太郎に「ちょっといってくる」と目で合図を送った。しかし晋太郎はそんなことも構わずに、手を伸ばして紀美子の腕を掴み、佑樹に言った。「要件があれば俺に言って」「何であなたに話さなきゃならないんだよ!」佑樹は晋太郎の方に振り向いて言った。「お前は男だろ?男なら男同士で語り合うべきだ!」晋太郎は冷たい声で言った。「晋太郎」隣で焦って紀美子が彼に注意した。「佑樹くんはまだ小さいから、そんなに厳しく言わなくても」「彼のハッキングの腕は、俺の会社のエンジニア達を完全に上回っている。そんな彼に俺の話が分からんとでも?」紀美子は驚いた。息子はそんなに凄かったのか。「さぁ、男同士で話
入江佑樹は唇をへの字にして視線を逸らした。「答えられないのか?それともこれじゃあ足りないと思っているのか?」森川晋太郎はさらに聞いた。「それはある程度の説得力はあるけど、お母さんを愛していると証明するにはまだ足りない!」佑樹は言い返した。「じゃあ、どうすれば認めてくれる?」「僕は男と女とのことが分からないけど、ただ、お母さんが楽しくて、あなたの為に泣いたりしなければ、それが愛だと思う!」「その通りだ。」晋太郎は佑樹の話を肯定した。「しかし、大人の間では、意見が分かれたり、お互いのやり方に不満があったりするのもよくあるということを、分かってもらいたい。俺と紀美子はこれまでたくさんの誤解があった。しかしその誤解を一つずつ解いていけば、もう喧嘩や食い違いは生じないはずだ」「つまり、あなたはもうお母さんと仲直りしたの?」佑樹は続けて聞いた。「大体な」晋太郎は答えた。「一つ約束してもいい」「約束?」「もし君のお母さんが俺と一緒になってくれれば、俺は彼女を世界で一番幸せな女にする」「それって、本当?」佑樹は晋太郎を見上げて聞いた。「そうだ」晋太郎は真顔で答えた。「じゃあ、拳を当てて誓って!」佑樹は立ち上がり、晋太郎の前に来た。「嘘をつく人は死んだら地獄に落ちる!」晋太郎の俊美な顔が厳しくなった。「誰からそんなことを教わった?」「誓えないのなら話は終わりだ!」「今回はそれでいいが、今度そのようなことを口にしたら、厳しく正してやるからな!」晋太郎は目を細くして言った。「分かった!」晋太郎は手を出して佑樹と拳を当て合った。晋太郎は、佑樹のような物知りの子供に対しては、約束さえしてあげれば、これ以上捻くれることはないと分かっていた。子供とは、それほど単純な生き物だ。それと同じく、晋太郎の誓いも本気だった。彼は約束通りに紀美子を幸せにし、すべての悔しさを償ってあげると決めた。そして、2階から降りてきた時、佑樹は既にいつもの顔に戻っていた。「佑樹くん?」紀美子は慌てて状況を確認しようとした。「まだ怒ってるの?」佑樹は優雅に笑みを浮かべた。「僕はそんな話の通らない人か?」「フンだ、さっきの捻くれてたヤツはだ~れだ?」ゆみが
紀美子は箸を握る手の力を徐々に強めながら、優しく言った。「念江、大丈夫よ。本当にママに会いたくなったら、会いに来ればいい」念江はぽかんとした。「でもあそこは……」紀美子は首を振って遮った。「確かにルールはあるけど、抜け道だってあるはずでしょう?」念江はしばらく考え込んでから頷いた。「うん。僕たちが認められれば、きっとすぐにママに会える」紀美子は安堵の表情でうなずいた。子供たちと食事を終えると、彼女は階上へ上がり、荷造りを手伝った。今回は晋太郎の部下に任せず、自ら佑樹と念江の衣類や日用品をスーツケースに詰めていった。一つ一つスーツケースに収める度に、紀美子の胸の痛みと寂しさは募っていった。ついに、彼女は手を止め俯いて声もなく涙をこぼし始めた。部屋の外。晋太郎が階下へ降りようとした時、子供たちの部屋の少し開いた扉から、一人背を向けて座っている紀美子の姿が目に入ってきた。彼女の細い肩が微かに震えているのを見て、晋太郎の表情は暗くなった。しばらく立ち止まった後、彼はドアを押して紀美子の傍へ歩み寄った。足音を聞いて、紀美子は子供たちが来たのかと慌てて涙を拭った。顔を上げ晋太郎を見ると、そっと視線を逸らした。「どうしてここに……」「俺が来なかったら、いつまで泣いてるつもりだったんだ?」晋太郎はしゃがみ込み、子どもたちの荷物をスーツケースに詰めるのを手伝い始めた。「手伝わなくていいわ、私がやるから」「11時のフライトだ。いつまでやてる気だ?」晋太郎は時計を見て言った。「もう8時半だぞ」紀美子は黙ったまま、子供たちの服を畳み続けた。最後になってやっと気付いたが、晋太郎は服のたたみ方すら知らないようだった。ただぐしゃぐしゃに丸めて、スーツケースの隙間に押し込んでいるだけだった。紀美子は思わず笑みを浮かべて彼を見上げた。「あなた、本当に基本的なことさえできないのね」晋太郎の手は止まり、一瞬表情がこわばった。彼は不機嫌そうに顔を上げ、紀美子を見つめて言った。「何か文句でもあるのか?」紀美子は晋太郎が詰めた服を再び取り出しながら言った。「文句を言ったところで直らないだろうから、邪魔しないでくれる?」「この2日間で、弁護士に書類を準備させた。明日届く
「それは――龍介さんが自分で瑠美とちゃんと話すしかないんじゃない?」紀美子は微笑みながら言った。「紀美子、今夜は瑠美を呼んでくれてありがとう」龍介はグラスを持ち上げた。紀美子もグラスを上げて応じた。「龍介さんにはお世話になりっぱなしなんだから、こんな簡単なことでお礼言われると困るわ」夜、紀美子と晋太郎は子供たちを連れて家に戻った。紀美子が入浴を終えたちょうどその時、ゆみから電話がかかってきた。通話を繋ぐと、ゆみはふさぎ込んだ声で聞いてきた。「ママ、明日お兄ちゃんたち行っちゃうんでしょ?」紀美子はぎょっとした。「ゆみ、それは兄ちゃんたちから聞いたの?」「うん」ゆみが答えた。「ママ、お兄ちゃんたち何時に行くの?」浴室から聞こえる水音に耳を傾けながら、紀美子は言った。「ママも正確な時間わからないの。パパがお風呂から出たら聞いてみるから、ちょっと待っていてくれる?」「わかった」ゆみは言った。「ママ、それまで他の話しよっか」紀美子はゆみと雑談をしながら、十分ほど時間を過ごした。すると、晋太郎がバスローブ姿で現れた。ゆみの元気な声が携帯から聞こえてきたため、晋太郎は髪を拭きながらベッドの側に座った。「もう11時なのに、まだ起きてるのか?」紀美子が体を起こした。「佑樹たち明日何時に出発するのか知ってる?」晋太郎は紀美子の携帯を見て尋ねた。「ゆみはもう知ってるのか?」「知ってるよ!」ゆみは即答した。「パパ、私お兄ちゃんたちを見送りに行きたい」「泣くだろう」晋太郎は困ったように言った。「だから来ない方がいい」「嫌だ!絶対に行くの。だって次に会えるのいつかわからないんだもん」ゆみは強く主張した。その声は次第に震え始め、今にも泣き出しそうな顔になった。晋太郎は胸が締め付けられる思いがした。「分かったよ……専用機を手配して迎えに行かせる」そう言うと彼はベッドサイドの携帯を取り上げ、美月に直ちにヘリコプターを手配するよう指示した。翌日。紀美子は早起きして、子どもたちのために豪華な朝食を用意した。子供たちは、階下に降りてきてテーブルいっぱいに並んだ見慣れた料理を目にすると、驚いたように紀美子を見つめた。「これ全部、ママが一人
龍介は瑠美に笑いかけて言った。「瑠美、この前は助けてくれてありがとう」彼がアシスタントに目配せすると、用意してあった贈り物が瑠美の前に差し出された。「ささやかものだけど、受け取ってほしい」瑠美は遠慮なく受け取り、龍介に聞いた。「開けていい?」「どうぞ」瑠美は上にかけられていたリボンを解き、丁寧に箱のふたを開けた。中身を目にした瞬間、彼女は驚いて目を見開いた。「えっ!?これどうやって手に入れたの?!瑠璃仙人の作品でしょ!?」「前に君が玉のペンダントしてたから、好きなんだろうと思って」「めっちゃ好き!!」瑠美は興奮して紀美子に言った。「姉さん!これ梵語大師の作品よ!前に兄さんに探させたけど全然ダメだったのに!」紀美子は玉のことには詳しくないため、梵語大師が誰なのかもわからなかった。彼女はただ穏やかに微笑んで言った。「気に入ってくれて良かったわ」一方、晋太郎の視線は龍介に留まった。龍介の目には、かすかな熱意のようなものがある。紀美子を見る時には決して見せたことのない眼差しだ。もしかして、龍介は瑠美に気があるのか?晋太郎は探るように口を開いた。「吉田社長の狙いがこんなに早く変わるとはな」龍介は瑠美の笑顔から視線を外し、晋太郎の目を見つめて言った。「森川社長、それはどういう意味だ?」晋太郎は唇を歪めて冷笑した。「吉田社長、新しい対象ができたのに、なぜまだ紀美子に執着してるんだ?」それを聞いて、瑠美は驚いて顔を上げ、龍介と紀美子を交互に見た。紀美子は瑠美の視線を感じ取って、説明した。「私と吉田社長は何もないから、誤解しないで」「誤解なんてしてないよ」瑠美は言った。「でも晋太郎兄さんが言ってた『吉田社長の狙い』って、私のこと?」紀美子も、晋太郎のその言葉の真意はつかめていなかった。龍介のような、感情を表に出さず落ち着いていて慎重なタイプが、活発で明るい瑠美に興味を持つのだろうか。もしかすると、あの時瑠美が龍介を助けたことがきっかけなのか?二人の年齢差は10歳ほどあるはずだ。でも、性格が正反対なほど惹かれ合うって話もある。もし瑠美が龍介と結婚したら、みんな安心できるだろう。「もしよければ、瑠美さん、連絡先を教えてくれないか?」
そう言うと、晋太郎はさりげなく紀美子から車の鍵を受け取った。佑樹が傍らで晋太郎をじっと見て言った。「パパ、違うよ。ママが誰かとお見合いするわけじゃん」晋太郎は生意気な佑樹を見下ろしながら聞き返した。「じゃあ、何だって言うんだ?」佑樹は笑いながら紀美子を見て言った。「ママみたいな美人、お見合いなんて必要ないじゃん。ママに告白したい人を並ばせたら、地球を一周できるよ」念江も付け加えた。「前におばさんから聞いたけど、ママの会社の重役や課長さんたちもママに気があるらしい」晋太郎の端整な顔に薄ら笑いが浮かんだが、その目には陰りがあった。「ろくでもない奴らだ。君たちのママはそんなやつらに興味ない」重役と課長か……晋太郎は鼻で笑った。計画を早める必要がありそうだな。「そろそろ時間よ。遅れちゃうわ。三人とも、もう出発できる?」紀美子は腕時計を見て言った。一時間後。紀美子と晋太郎は二人の子供を連れてレストランに到着した。龍介が予約した個室に入ると、彼はすでに待っていた。紀美子を見て龍介は笑顔で立ち上がった。「紀美子、来たね」紀美子が前に出て謝った。「龍介さん、ごめん。渋滞でちょっと遅れちゃった」「気にしないで」龍介は晋太郎を見上げて言った。「森川社長、久しぶりだな」晋太郎は鼻で嗤い、皮肉をこめて言った。「永遠に会わなくてもいいんじゃないか」龍介はその言葉を無視し、子供たちにも挨拶してから席に着いた。紀美子が子供たちに飲み物を注いだ後、龍介に尋ねた。「今日は何の用?」「じゃあ単刀直入に言うよ」龍介の表情が急に真剣になった。「紀美子、瑠美は君の従妹だよね?一度彼女に会わせてくれないか?」紀美子は驚き、晋太郎と視線を合わせてから龍介を見た。「この前の件で瑠美に会いたいの?」龍介は頷き、率直に答えた。「ああ、命の恩人に対して、裏でこっそり調べたり連絡するのは失礼だと思ってね」「紹介はできるけど、彼女が会ってくれるかどうかはわからないよ」「頼むよ。あれからずっと、ちゃんとお礼も言えてなかったから」紀美子は頷き、携帯を取り出して瑠美の番号を探し出した。「今連絡してみる」電話がつながると、瑠美の声が聞こえた。「姉さん?どうした?
どっちみち焦っているのは晋太郎の方で、こっちじゃないんだから。これまで長い年月を待ってきたのだから、もう少し待っても構わない。2階の書斎。晋太郎はむしゃくしゃしながらデスクに座っていた。紀美子が龍介と電話で話していた時の口調を思い出すだけで、イライラが募った。たかが龍介ごときに、あんなに優しく対応するなんて。あの違いはなんだ?ちょうどその時、晴から電話がかかってきた。晋太郎は一瞥してすぐに通話ボタンを押した。「大事じゃないならさっさと切れ!」晋太郎はネクタイを緩めながら言った。電話の向こうで晴は一瞬たじろいだ。「晋太郎、家に着いたか?なぜそんなに機嫌が悪いんだ?」晋太郎の胸中は怒りでいっぱいになっており、必然と声も荒くなっていた。「用があるなら早く言え!」「はいはい」晴は慌てて本題に入った。「さっき隆一から電話があってな。出国前にみんなで集まろうってさ。あいつまた海外に行くらしい」「無理だ!」晋太郎は即答した。「夜は予定があるんだ」「午後、少しカフェで会うだけなのに、それも無理か?」午後なら……夜の紀美子と龍介の待ち合わせに間に合う。ついでに、あの件についても聞けるかもしれない「場所を送れ」30分後。晋太郎は晴と隆一と共にカフェで顔を合わせた。隆一は憂鬱そうにコーヒーを前にため息をついた。「お前らはいいよな……好きな人と結婚できて」晴はからかうように言った。「どうした?また父親に、海外に行って外国人とお見合いしろとでも言われたのか?」「今回は外国人じゃない」隆一は言った。「相手は海外にいる軍司令官の娘で、聞くところによると性格が最悪らしい」晴は笑いをこらえながら言った。「それはいいじゃないか。お前みたいな遊び人にはぴったりだろ?」「は?誰が遊び人だって?」隆一はムッとして睨みつけた。「お前みたいなふしだらな男、他に見たことないぞ!」「俺がふしだらだと?!」晴は激しく反論した。「俺、今はめちゃくちゃ真面目だぞ!」隆一は嘲るように声を上げて笑った。「お前が真面目?笑わせんなよ。佳世子がいなかったら、まだ女の間でフラフラしてたに決まってるだろ!」「お前だってそうだったじゃないか!よく俺のことを言える
晋太郎は思わず唾を飲み込んだ。言葉に詰まる彼を見て、紀美子は笑いながら頬の髪を耳にかけた。「晋太郎、隠してもね、ふとした瞬間に本心は漏れるものよ。言いたくないなら無理強いはしない。いつかきちんと考えがまとまったら、また話しましょう」そう言うと、紀美子は先を行く子供たちの手を取って笑いながら歩き出した。紀美子の後姿を見ながら、晋太郎は考え込んだ。……翌日。一行は荷物をまとめ、帝都に戻った。別荘に着くとすぐ、紀美子は龍介から電話を受けた。彼女はスピーカーをオンにし、子供たちのためにフルーツを準備しながら応答した。「龍介さん」そう言うと、電話の向こうから龍介の心配そうな声が聞こえてきた。「紀美子、大丈夫か?」ちょうどキッチンに入ってきた晋太郎は、はっきりとその言葉を聞いた。彼は眉をひそめ、テーブルに置かれた紀美子の携帯を不機嫌そうに睨みつけた。「相変わらず情報通だね。大丈夫だよ、心配しないで」「いや、情報通ってわけじゃない」龍介は言った。「今、トレンド一位が悟の件だ。まさか自殺するとは」紀美子はリンゴの皮をむく手を止めた。「もうその話はいいよ。過去のことだし」「悪い。今晩、空いてる?食事でもどうだ?」「無理だ!」突然、晋太郎の声が紀美子の背後から響いた。びっくりして振り向くと、彼はすでに携帯を奪い取っていた。龍介は笑いながら言った。「森川社長、盗み聞きするなんて、よくないね」「陰で俺の女を誘う方がよほど下品だろ」「森川社長、俺と紀美子はビジネスパートナーだ。食事に誘うのに許可が必要か?」晋太郎は冷笑した。「お前みたいなパートナー、認められない」「森川社長と紀美子はまだ何もないはずだ。『俺の女』って言い方、どうかしてるぞ」「……」紀美子は言葉を失った。この二人のやり取り、いつまで続くんだろう……「龍介さん、何か急ぎの用?」紀美子は携帯を取り返し、呆れた様子で晋太郎を一瞥した。「相談したいことがある。家族連れでも構わない」「わかった。後で場所と時間を教えて」「ああ」電話を切ると、紀美子は晋太郎を無視してリンゴの皮むきを続けた。晋太郎は腕を組んでキッチンカウンターに寄りかかり、不機嫌そうに聞いた。「俺とあいつが同
「お前の両親は納得したのか?」晋太郎がさらに尋ねた。「俺はあいつらと縁を切ったのさ。だから何を言われようと、俺は気にしない」晴は肩をすくめた。「子供たちを海外に送りだしたら、準備する」晋太郎は視線を紀美子と子供たちに向けた。「そう言えば、佑樹たちはいつ出発するんだ?」晴はハッと気づいた。「明日、まず彼らを帝都に連れ帰る。明後日には隆久と一緒に出発する予定だ」晋太郎は日数を計算した。「ゆみには言わないのか?兄たちを見送らせてやらなくていいのか?」晴は軽くため息をついた。「必要ない」晋太郎は即答した。「ゆみを泣かせたくない」「お前のゆみへの態度、日に日に親バカ度が上がってるように感じるよ。昨日佳世子と話してたんだ。『もう一人産んで、その子を譲ってくれ』って」晴は眉を上げた。「寝言は寝てから言え」晋太郎は足を止め、不機嫌そうに彼を見た。「お前と紀美子はまだ産めるだろうが、俺は無理なんだよ!」晴は言った。「今の医療技術なら、子供への感染を防ぐ方法も試せる」晋太郎は彼をじっと見た。「『試せる』って言ったろ」晴は落ち込んだ。「もし運が悪くて子供に感染したらどうする?」「たとえお前が俺の子供を自分の子のように育てられても、お前たちには大きな悔いが残るだろう」晋太郎は言った。「もういい。佳世子に毎日苦しみと自責の念を味わわせたくない。病気だけでも十分辛いんだ」晴はため息をついた。「俺は子供をやるつもりもない」そう言うと、晋太郎は紀美子たちの後を追った。「晋太郎!酷いこと言うなよ!金は弾むよ。少しは人情を持てよ!」晴は目を見開いた。晴の見えないところで、晋太郎の唇がかすかに緩んだ。夕食後。紀美子と晋太郎は、二人の子供を連れて外を散歩した。「会社の合併について考えたことはあるか?」しばらく歩くと、晋太郎は傍らの紀美子に尋ねた。「合併ってどういう意味?」紀美子は彼を見上げた。「文字通りの意味だ」晋太郎は、もし紀美子がまた妊娠したら、彼女に産休を取らせるつもりだった。「あんたの力に頼って会社を発展させる気はないわ。全てが無意味になる」「MKを見くびっているのか?」晋太郎は足を止めて彼女を見た。「MKの実力を馬
遠くのスナイパーも急いでライフルの安全装置を外したが、悟は自分のこめかみに銃を向けた。晋太郎は呆然とした。言葉を発する間もなく、悟は笑みを浮かべながら引き金を引いた…………紀美子が目を覚ました時、自分が元の部屋にいないことに気づいた。佳世子が傍らに座り、二人の子供たちと話していた。彼女がゆっくりと体を起こすと、その音に三人が一斉に振り向いた。「紀美子!」佳世子が駆け寄った。「目が覚めたんだね!」「どうやって戻ってきたの?」紀美子は尋ねた。「晋太郎が連れ帰ってくれたの。もう全部終わったわ」佳世子は明るく笑った。「終わったって……?」紀美子は理解できずに聞いた。「悟は?自首したの?」「彼、自殺したの」佳世子の瞳が少し潤んだ。自殺……紀美子は凍りついた。「晋太郎と二言三言交わした後、自分のこめかみに銃を向けて、みんなの目の前で死んだらしいわ。あの時彼があんたを再び部屋に連れ戻した理由が分かる気がする。自分の死に様を見せたくなかったんでしょうね」佳世子は続けて言った。紀美子は、ホテルのロビーで大河が撃たれた後、悟が彼女の目を覆ったことを思い出した。悟の結末を聞いて、紀美子は複雑な心境になった。悲しい?悟は数々の非道なことをしたのに、なぜ悲しいのか分からなかった。少しも嬉しい気持ちになれない。目が次第に赤くなっていく紀美子を見て、佳世子は心の中でそっとため息をついた。二人は、長年共に過ごした仲間だ。たとえ悟がどれほど冷血なことをしたとしても、紀美子は彼が優しくしてくれた日々を思い出さずにはいられないだろう。だって、あの優しさは本物だったから。「晋太郎は?」紀美子は長い沈黙の後、ようやく息をついて話題を変えた。「隣の部屋で会議中よ。会社の用事で、晴も一緒だわ」佳世子は答えた。紀美子は頷き、視線を子供たちに向けた。「この二日間、怖い思いをさせちゃったね」彼女は両手を広げ、微笑みながら言った。二人の子供は母の懐に飛び込んだ。「お母さん、怪我はない?」念江が心配そうに尋ねた。「うん、とくに何もされなかったわ」紀美子は首を振って答えた。「あの悪魔はもういないし、僕と念江も安心して出発できる」「うん、外でしっか
悟は紀美子をじっと見つめた。まだ語り尽くせない思いは山ほどあったが、全ては言葉にできなかった。長い沈黙の後、悟は紀美子の手を離し、立ち上がってドアに向かった。ドアノブに手をかけた瞬間、彼は再びベッドに横たわる彼女を振り返った。淡い褐色の瞳には純粋で、ただ未練と後悔だけが満ちていた。ゆっくりと視線を戻すと、悟は決然とドアを開けた。ドアの外で、ボディガードは悟が出てくるのを見て一瞬たじろいだ。「お前は私の部下ではない。何もしなくていい。私が自分で行く」悟は彼を見て言った。「悟が降りてきます!」悟の背中を見送りながら、ボディガードは美月に報告した。報告を受け、美月は晋太郎を見た。悟が紀美子にかけた言葉をはっきりと聞いていた晋太郎は、端正な顔を険しくした。次に……彼は唇を強く結び、ドアを開けて車から出た。美月も続いて降りてきた。晋太郎たちがホテルの入り口で立ち止まると、悟が中から出てきた。「あんたと俺は同じ汚れた血が流れている。たとえあんたが認めたくなくても、これが事実だ」悟は平静な笑みを浮かべた。「上で紀美子に何をした?」晋太郎は怒りを抑え、冷たい声で詰め寄った。「私が彼女に本当に何かしたとして、あんたの出番などないだろう」悟は反問した。「だが心配するな。彼女はただ眠っているだけだ」「お前は自分で自首するか、俺がお前をムショに送るか選べ」「刑務所だと?」悟は嘲笑った。「私があの男と同じ場所に行くと思うか?」「それはお前が決めることじゃない!」「降りてきたのは、ただ一つ聞きたいことがあったからだ」悟は一歩踏み出し、ゆっくりと晋太郎に近づいた。二人の距離が縮まるのを見て、美月は慌てて止めに入ろうとした。「来るな」背後からの気配に、晋太郎は軽く振り返って言った。美月は焦りながらもその場で止まった。社長は目の前の悟がどれほど危険か分かっているのか?本当に傲慢で思い上がりも甚だしい!!「最後のチャンスだ。聞きたいことは一度で済ませろ」晋太郎は視線を戻し、悟の目を見据えた。「貞則があんたの母親にあんなことをしたのを知って、彼を殺そうと思ったことはあるか?」「お前があの老害を始末してくれたおかげで、俺は手を汚さずに済んだ。礼を言