「分かった、彼女が止まったらすぐ位置情報をおくる」「気をつけてね、瑠美おばちゃん」「安心して!」携帯を置いた瞬間、入江佑樹ははっきりと森川念江のため息が聞こえた。「どうした?」「佑樹、もう探さなくていい。こんなの役に立たない」念江はベッドに横になって言った。佑樹は戸惑い、入江ゆみまで不思議に念江の方を見た。念江は疲れて天井を見つめた。「この型番の弾は沢山の売り手が扱っている」「通常なら、こんなに沢山の同じ型番のものはないはずなんだ」佑樹は言った。「ダークネット上の人達の慎重さを甘く見過ぎていた。彼らはわざと同じロットの弾を沢山の売り手に分散させたんだよ」念江は目を腕で覆いながら言った。「つまり、私達の調査を妨害しようと?」佑樹は眉を寄せた。「そう。買い手のことを考えたら……なおさら見つけようがないさ、佑樹」「たとえ手掛かりの調べようがなくてもかまわない、瑠美おばちゃんの追跡で、新たな問題が見つかったじゃないか」佑樹は諦めなかった。「瑠美おばちゃん、また位置情報を送ってきた?」念江は手をどかせて佑樹に尋ねた。「うん、その女性がさっきまた別の場所に移動したけど、その場所も特定したことある場所だったよ。相手の居場所を掴むたびにIPアドレスが消されていたけど、大まかな位置は覚えている」「だから今回の件は塚原悟が関わってるというのか?」佑樹は口をすぼめ、がっかりした眼差しをした。「でも、やっぱりどこかでその人が悟お父さんであってほしくないって思ってる」「僕だってそうだよ」念江は落ち込んだ様子で口を開いた。「悟お父さんはあんなにいい人なのに、どうしてこんなことをするのかわからない」「人は見かけによらずってことだね」念江は軽くため息をついた。「僕達は今できるのは、手掛かりを見つけお母さんの仇をとることだ」「うん」この時、露間朔也はドアを押し開け、入ってきた。「今日は何か新しい情報ない?」朔也は昼ご飯を持ったまま3人に尋ねた。念江は佑樹と目を合わせ、首を振った。「なかったらないで、とりあえずメシにしよ。食べたらICUに君たちのお母さんを見に行こうか」佑樹と念江は言われた通り大人しくテーブルの傍に座ったが、ゆみだけはベッドに座ったまま動か
ただその黒っぽいものが朔也おじさんの眉に近いところにあった。「まあいいや。ゆみお腹空いた。ご飯にしよう」入江ゆみは柔らかい声で言った。皆もゆみの話をそこまで深刻には考えず、ただ彼女の目の方を心配した。朔也は後でゆみを眼科医に連れていくことにした。ちょうど昼食を食べ終えた頃、長澤真由が来た。真由は子供達を新しい服に着替えさせ、着替えた服を持ってきた袋に入れ、朔也と一緒に彼らをICUに連れていった。ICUの外にて。渡辺翔太はずっとICUの外で待っていた。「ご飯を食べたかい?」子供達が見えると、彼は立ち上がり疲弊した声で尋ねた。「食べてきたよ。翔太おじちゃんは?」ゆみは丸く膨らんだお腹を触りながら言った。陽太は頷いた。「うん、真由お婆ちゃんが持ってきてくれたものを食べたよ」入江佑樹は、窓ガラス越しにICUの中の様子を覗こうとしたが、身長が足りずに中で寝ている母の姿を見ることができなかった。「朔也おじさん、ちょっと抱き上げてくれる?お母さんの様子がみたい」佑樹は朔也に頼んだ。朔也は頷き、窓の近くで佑樹を抱き上げた。入江紀美子はベッドに横たわっており、体には何本かのチューブが繋がれていた。ベッドの横には沢山のモニタリング装置が置かれていた。そして、佑樹は視線を紀美子の顔に落とした。たった2日しか経っていないのに、紀美子の顔は目に見えて痩けていた。顔色は紙のように真っ白で、佑樹はとても心配になった。目元は赤く染まり、今にも泣き出しそうになったため、朔也を軽く叩いて、自分を下ろすように示した。朔也もどう慰めたらいいのか分からず、ただため息をつくばかりだった。彼も紀美子が一日も早く意識不明の重体から回復することだけを願っていた。しかし、神様はちっとも彼のお願いが聞こえていないようだ。ゆみも母の様子が見たかったが、佑樹に止められた。「何でママの様子を見させてくれないの?」ゆみは悔しそうに兄を睨んだ。佑樹は心配な顔でゆみを見た。「ゆみを泣かせたくないから」「ママは……まだ沢山のチューブが繋がってるの?」ゆみは兄に尋ねた。「そう」ゆみの目元がすぐに赤く染まった。この時、看護婦が歩いてきた。ゆみは慌てて看護婦の方に向かって走った。皆はゆ
入江ゆみは兄が自分のことを思ってそうしたことを分かっていた。だから彼女は抵抗せず、入江佑樹に体を任せた。「分かってる。ゆみはもう泣かない、ゆみはお母さんが出てくるのを待つ」「いい子だ」佑樹は頷いた。A国にて。森川晋太郎は会社から出てきた。彼の周りには数十名のボディーガードがついていた。杉本肇は晋太郎の傍で黒い傘を差して頭上を覆った。その威厳のある行列に、通りかかった人達はみんな彼らに目線を落とした。人混みの中に、傘の下のスーツを纏った男性を見つめるバケットハットを被った一人の女性がいた。彼女は少し腰をかがめ、傘の下の男の顔を確かめてから、振り向いて横へ走っていった。走り出した人影を見てボディーガード達はすぐに英語で指示を出した。「あの女を捕まえろ!」晋太郎と肇も一斉にその方向に目を向けた。女性の後ろ姿をみて、2人は微かに眉を寄せた。見覚えのある後ろ姿だ!女性から一番近いボディーガードがすぐに彼女に追いついた。彼は女性の腕を掴み、そのまま彼女を晋太郎の前に引きずって連れてきた。女性は抵抗したものの、終始声を出さなかった。彼女は、晋太郎の前に連れて来られても、目を下向けにしたまま晋太郎と目を合わせようとしなかった。晋太郎はしばらく彼女を見つめてから口を開いた。「佳世子?」女性は明らかに一瞬体を強張らせたが、低い声で否定した。「違う、人違いだわ!」「クスっ……」肇は急に笑った。「杉浦部長、そのネイティブな日本語で身分がバレちゃいますよ」杉浦佳世子は悔しそうに歯を食いしばった。つい焦って英語を忘れてしまった。もういい!どうせもうバレたし、もうこれ以上隠す必要はない!佳世子は頭を上げ、晋太郎と目を合わせた。「君もA国に来てたんだ」晋太郎は彼女を見て淡々とした様子で口を開いた。「本当に偶然ね。まさか森川社長もここにいらっしゃるなんて」佳世子はあざ笑いをした。そう言って、佳世子は周りを見渡した。「紀美子は一緒に来てないの?何だか随分と貫録のある行列だけど、何してるの?」「場所を変えて話そう。一緒に食事をしよう」晋太郎は、佳世子の拒絶を許さなかった。佳世子はいやいやながらも晋太郎の車に乗るしかなかった。レストランに着
「一緒にいない限り、彼が感染されることはないわ。幸せな家庭を作り、可愛くて健康な子供を育てて……」「誰にも自分の未来を選択する権利がある。君は彼のこと考えてそう言っているかもしれないが、結局は利己的だ」「り、利己的ですって?」杉浦佳世子は不満げに森川晋太郎を見た。「これのどこが利己的なのよ!私は彼の為に考えているのに!」「彼の為にと言っているが、全然彼の気持ちを考えていないじゃないか」晋太郎はあざ笑いをした。「彼に、私と同じように一生薬を飲み続けろっていうの?私の為に、家族に反対されても全てを捨てて受け止めてくれるとでも?たとえ私と一緒になっても、将来私の病気のことで喧嘩しない保証はある?」佳世子もあざ笑って聞き返した。「まずは、君の病気は自分のせいではないじゃないか。晴はその点よく分かっている。だから喧嘩はしない。それどころか、彼は今までの倍以上に君に優しくするだろう。先ほどの二つの質問に対しては、君が自ら彼に聞くといい。彼は、君と一緒に歩いて行きたいと言っていたよ」親友の為なら、晋太郎は自分が説得役になってもよかった。それは入江紀美子の為にもなる。佳世子は彼女の一番の親友だからだ。紀美子にとって彼女は、国内で唯一プライベートの話や心事を相談できる女友達だ。佳世子が帰国してくれるなら、それは良いことに違いない。「彼が、私と一緒に歩きたいと言っていたって?」佳世子は信じられなかった。「疑ってるのか?」晋太郎は彼女を見つめた。「自分の耳で聞いてないから」佳世子は視線を逸らした。晋太郎は携帯を出して、そのまま晴に電話をかけた。呼び出し音が鳴り出した瞬間、佳世子は目を大きく開いた。「社長、あなた……」「もしもし」佳世子の話がまだ終わっていないうち、電話から晴の声が聞こえてきた。随分彼の声を聞いていないせいか、佳世子の心臓は一瞬ドキりと高鳴った。彼女は緊張感が混ざった重々しい気持ちになった。佳世子は、太ももに置いていた両手を思わずきつく握りしめた。「晴、女を作って結婚しろ」晋太郎は携帯をテーブルの上に置いてから口を開いた。「はっ?何言ってんだ?」晴はいきなり激昂した。「言ったろ?俺は佳世子以外の女は要らないって!まさか、うちの両親が
晋太郎は彼女の意向に従って、「ない」と答えた。晴はしばらく黙った後、声を詰まらせながら言った。「もし彼女の情報がわかれば、必ず教えてくれ」「分かった」「それと……」晴は深く息を吸って気持ちを整えた。「そちらの状況はどうなっている?いつ帰ってくるんだ?」「あと数日はかかる」晋太郎は素直に答えた。「帰国の時間はまだ決まっていない」「晋太郎……実は……紀美子は……」紀美子の名前を聞いた瞬間、晋太郎の胸は急に締め付けられるような感覚を覚えた。晴の口ごもり方を感じ取った晋太郎は、何かおかしいと直感した。晋太郎は眉をひそめ、焦った声で問いかけた。「紀美子がどうしたんだ?」晴は歯を食いしばりながら言った。「いや、別に…ただ、もしお前が帰らなかったら、彼女は本当にお前を許さないかもしれない」晋太郎の顔色が少し険しくなった。「ちゃんと謝るつもりだ。ただ、彼女は電話もメッセージも無視している」「俺が紀美子の立場でも、絶対無視するよ」晴は冗談交じりに言った。「……」晋太郎は言葉を失った。「はいはい、じゃあ、もう切るよ!」「分かった」電話を切った後、晋太郎は紀美子のことを思いながら、しばらくぼんやりとしていた。「そういえば……」佳世子は涙を拭いながら、鼻をすすって言った。「紀美子は私にもまだ返信してくれていないわ」晋太郎はふと彼女を見た。「いつメッセージを送ったんだ?」「ちょうどあなたたちの婚約式の日、お祝いのメッセージを送ったんだけど、ずっと返事が来ない」佳世子は言った。晋太郎の心には言葉では表せない空虚感が広がった。「彼女は気性が激しいけど、君にまであたることはないはずだ」「じゃあ……紀美子に電話してみようか?」佳世子は試しに聞いてみた。「そうしよう」そして佳世子は携帯を取り出し、紀美子の番号を見つけてかけた。すぐに電話が繋がった。「紀美子?」佳世子は急いで口を開いた。「俺は翔太だ」翔太の声は疲れ切っていて、少しかすれていた。佳世子は驚き、晋太郎も眉をひそめた。また翔太か??まだ紀美子に携帯を返していないのか??「翔太君?紀美子はどこ?」佳世子は言った。「紀美子は……」翔太はガラス窓を見な
彼は机の上に置かれた携帯を手に取り通話を接続した。「影山さん!」ある男性の声が響き、彼は英語で言った。「昨晩、また相手のファイアウォールを突破して、機密ファイルを見つけました!」影山は眉をひそめ、冷たい口調で言った。「俺が命令もしていないのに、勝手に行動したのか?誰がそんなことを許した?」相手は気まずそうに黙り込んだ後、言った。「ただ、もっとお手伝いしたくて」男はソファに腰を下ろし、「その機密情報とは何だ?」と尋ねた。「脳と機械の接続技術です!相手が追跡してくるかもしれないので、ちらっと見ただけで退却しました」「脳と機械の接続?」影山は少し考え込んでから続けた。「そのファイルは以前見たことないのか?」「ありません!調べましたが、この特許は非常に取得が難しいものです!研究しているのはMKだけです!もし私たちがこの機密を手に入れれば、影山さんにとって絶対に大きなプラスになるはずです!」「確かに」その言葉が終わると、携帯の向こうからキーボードの音がパチパチと響いた。相手は興奮して言った。「影山さん!私が必ずこの機密情報を手に入れます!その時は、どうかボーナスを多めにください!」相手の言葉を聞いた影山は、眉をひそめて言った。「その機密情報には手を出すな!」「どうしてですか?」相手は聞き返したが、手を止めることはなかった。こんなに素晴らしいものを手に入れたら、もう生活に困ることはないだろう。せっかく得たチャンスを、そう簡単に諦めることはできない。「彼らがアップロードしたんだ。明らかに罠だ」影山は説明した。「違います、影山さん!彼らは分散させようとしているだけです!それに、あちらの技術なんてゴミ同然ですよ!私を信じてください。絶対に簡単に手に入れます!」相手が全く引こうとしないので、影山は怒鳴った。「やめろと言っただろ!」「パチッ」最後のキーボードの音がはっきりと響くと、相手は興奮して言った。「影山さん、成功しました!すぐに送り……」しかし、途中で相手は突然言葉を止めた。「ファイルが……破損している?!」相手は震えた声で言った。その後、再びキーボードを叩き始めた。「あり得ない!あり得ないはずだ!あいつら……くそっ!!俺のパソコンが!」
念江は男性の写真と表示された情報をじっと見つめながら言った。「アンジェ?」「この人は誰だ?」佑樹も少し混乱した様子で言った。「もしかして、この人物が黒幕なのか?」「外国人が黒幕?」念江は疑念を抱きながら言った。「そんなはずはないだろう?」佑樹は念江を見ながら言った。「君が電話をかけて、アンジェという人を知っているか聞いてみて。僕はこれを続けて見てるから」念江は佑樹が指す人物をすぐに理解し、携帯を取り出して、晋太郎に電話をかけた。その時、晋太郎はちょうど会社に到着したばかりだった。副社長が電話をかけてきて、相手の位置を追跡できたことを知らせてきた。技術部に入ろうとしたそのとき、携帯が鳴った。念江からの電話だとわかると、晋太郎は少し躊躇した後、通話ボタンを押した。「念江」晋太郎は電話を取りながら技術部に入ろうとした。「父さん、アンジェという人を知ってる?」念江は尋ねた。「社長!」念江の言葉が終わると同時に、部屋の中から男性の声が響いた。彼は晋太郎を呼んでいた。晋太郎の注意が副社長に引き寄せられ、彼は尋ねた。「今の状況は?」「相手の位置は正確に把握しました。私たちは彼のコンピュータから情報を取得しようと試みましたが、すでに空っぽでした。それと、ちょっとおかしなことがありまして、相手が反応すると思ったのに、全く動きがありませんでした」「コンピュータに何もなかったのか?」晋太郎は眉をひそめて言った。「どういうことだ?」この言葉を聞いて、念江は軽く咳払いをした。「お父さん、実は僕たちが相手のコンピュータから全ての情報を取り出したんだ」念江は耐えきれずに言った。佑樹も続けて言った。「相手があなたたちの機密を盗もうとしている時、僕はちょうどファイアウォールを突破して、彼のコンピュータを直接ハッキングした」「……」晋太郎は言葉に詰まった。自分の二人の息子は、まったく手強い!何も知らない副社長は呆然と晋太郎を見つめ、晋太郎は彼に軽く視線を送った後、椅子に座った。そして佑樹に向かって尋ねた。「佑樹、使える手がかりはあるか?」「今わかっていることは、この人がずっと裏であなたの会社を攻撃していたということ。名前はアンジェ、知ってる?」
瑠美の言葉を聞いた晋太郎はすぐに副社長に向かって言った。「肇を探して、彼にこの場所で人を探させろ!」「はい、社長!」「それと」瑠美は続けて言った。「このエリーと悟は知り合いだよ!この女性が悟の家から出てくるのを見たわ。ただ、その時彼女はドイツ語を話していて、彼らが何を言っているのかは分からなかった」この言葉を聞いた晋太郎は言った。「彼女は悟をどんな名前で呼んでいた?」瑠美は少し驚いた様子で言った。「つまり、悟がこの影山さんかもしれないってこと?」言い終わるや否や、瑠美はまた急いで言った。「ちょっと待って、エリーを見つけた!」皆が息を呑んで聞き入る中、佑樹が言った。「どこだ?」瑠美は声をひそめて言った。「私は今、アンジェの家の向かいにある古いアパートにいる」それを聞いて、佑樹は唇をかみながら言った。「どうやって入ったんだ?」瑠美はカーテンの隙間から外を見ながら、部屋の中の人影をじっと見ていた。「これについては後で説明するけど、エリーは今回は食べ物を持って入っていなかったんだよ……」晋太郎は言った。「まずはその部屋で待機しろ。肇にすぐに人を送らせるから、彼らが到着したらすぐに帰っていい」「分かったわ。でも今は結構安全だよ。でも、ちょっと気になるの。悟が本当に彼らのいう影山さんなのか……」その言葉が終わらないうちに、携帯から突然叫び声が聞こえてきた。みんなは驚いて言葉を止めた。「おばさん?!」念江が急いで叫んだ。「……問題ないわ」瑠美は心臓の鼓動が速くなるのを感じた。彼女は向かいの窓を見つめながら、喉をゴクリと鳴らした。あの声はアンジェのものだ!彼女はエリーが部屋に入るのを見たが、エリーの正確な位置は分からなかった。そして、アンジェの悲鳴が聞こえてきた。一体何が起こったのだろうか?向かいの窓にいる影が部屋を離れたのを見た瑠美は、急いで窓から離れた。「今の声は何だったんだ?」晋太郎は尋ねた。「晋太郎兄さん、私の推測が正しければ、あれはアンジェの叫び声だったと思う」瑠美は声を低くして答えた。瑠美は見たことを皆に伝えた。「おばさん、気をつけて!このエリーって、どう考えてもただ者じゃないと思う!」「分かってる、心配しな
紀美子は箸を握る手の力を徐々に強めながら、優しく言った。「念江、大丈夫よ。本当にママに会いたくなったら、会いに来ればいい」念江はぽかんとした。「でもあそこは……」紀美子は首を振って遮った。「確かにルールはあるけど、抜け道だってあるはずでしょう?」念江はしばらく考え込んでから頷いた。「うん。僕たちが認められれば、きっとすぐにママに会える」紀美子は安堵の表情でうなずいた。子供たちと食事を終えると、彼女は階上へ上がり、荷造りを手伝った。今回は晋太郎の部下に任せず、自ら佑樹と念江の衣類や日用品をスーツケースに詰めていった。一つ一つスーツケースに収める度に、紀美子の胸の痛みと寂しさは募っていった。ついに、彼女は手を止め俯いて声もなく涙をこぼし始めた。部屋の外。晋太郎が階下へ降りようとした時、子供たちの部屋の少し開いた扉から、一人背を向けて座っている紀美子の姿が目に入ってきた。彼女の細い肩が微かに震えているのを見て、晋太郎の表情は暗くなった。しばらく立ち止まった後、彼はドアを押して紀美子の傍へ歩み寄った。足音を聞いて、紀美子は子供たちが来たのかと慌てて涙を拭った。顔を上げ晋太郎を見ると、そっと視線を逸らした。「どうしてここに……」「俺が来なかったら、いつまで泣いてるつもりだったんだ?」晋太郎はしゃがみ込み、子どもたちの荷物をスーツケースに詰めるのを手伝い始めた。「手伝わなくていいわ、私がやるから」「11時のフライトだ。いつまでやてる気だ?」晋太郎は時計を見て言った。「もう8時半だぞ」紀美子は黙ったまま、子供たちの服を畳み続けた。最後になってやっと気付いたが、晋太郎は服のたたみ方すら知らないようだった。ただぐしゃぐしゃに丸めて、スーツケースの隙間に押し込んでいるだけだった。紀美子は思わず笑みを浮かべて彼を見上げた。「あなた、本当に基本的なことさえできないのね」晋太郎の手は止まり、一瞬表情がこわばった。彼は不機嫌そうに顔を上げ、紀美子を見つめて言った。「何か文句でもあるのか?」紀美子は晋太郎が詰めた服を再び取り出しながら言った。「文句を言ったところで直らないだろうから、邪魔しないでくれる?」「この2日間で、弁護士に書類を準備させた。明日届く
「それは――龍介さんが自分で瑠美とちゃんと話すしかないんじゃない?」紀美子は微笑みながら言った。「紀美子、今夜は瑠美を呼んでくれてありがとう」龍介はグラスを持ち上げた。紀美子もグラスを上げて応じた。「龍介さんにはお世話になりっぱなしなんだから、こんな簡単なことでお礼言われると困るわ」夜、紀美子と晋太郎は子供たちを連れて家に戻った。紀美子が入浴を終えたちょうどその時、ゆみから電話がかかってきた。通話を繋ぐと、ゆみはふさぎ込んだ声で聞いてきた。「ママ、明日お兄ちゃんたち行っちゃうんでしょ?」紀美子はぎょっとした。「ゆみ、それは兄ちゃんたちから聞いたの?」「うん」ゆみが答えた。「ママ、お兄ちゃんたち何時に行くの?」浴室から聞こえる水音に耳を傾けながら、紀美子は言った。「ママも正確な時間わからないの。パパがお風呂から出たら聞いてみるから、ちょっと待っていてくれる?」「わかった」ゆみは言った。「ママ、それまで他の話しよっか」紀美子はゆみと雑談をしながら、十分ほど時間を過ごした。すると、晋太郎がバスローブ姿で現れた。ゆみの元気な声が携帯から聞こえてきたため、晋太郎は髪を拭きながらベッドの側に座った。「もう11時なのに、まだ起きてるのか?」紀美子が体を起こした。「佑樹たち明日何時に出発するのか知ってる?」晋太郎は紀美子の携帯を見て尋ねた。「ゆみはもう知ってるのか?」「知ってるよ!」ゆみは即答した。「パパ、私お兄ちゃんたちを見送りに行きたい」「泣くだろう」晋太郎は困ったように言った。「だから来ない方がいい」「嫌だ!絶対に行くの。だって次に会えるのいつかわからないんだもん」ゆみは強く主張した。その声は次第に震え始め、今にも泣き出しそうな顔になった。晋太郎は胸が締め付けられる思いがした。「分かったよ……専用機を手配して迎えに行かせる」そう言うと彼はベッドサイドの携帯を取り上げ、美月に直ちにヘリコプターを手配するよう指示した。翌日。紀美子は早起きして、子どもたちのために豪華な朝食を用意した。子供たちは、階下に降りてきてテーブルいっぱいに並んだ見慣れた料理を目にすると、驚いたように紀美子を見つめた。「これ全部、ママが一人
龍介は瑠美に笑いかけて言った。「瑠美、この前は助けてくれてありがとう」彼がアシスタントに目配せすると、用意してあった贈り物が瑠美の前に差し出された。「ささやかものだけど、受け取ってほしい」瑠美は遠慮なく受け取り、龍介に聞いた。「開けていい?」「どうぞ」瑠美は上にかけられていたリボンを解き、丁寧に箱のふたを開けた。中身を目にした瞬間、彼女は驚いて目を見開いた。「えっ!?これどうやって手に入れたの?!瑠璃仙人の作品でしょ!?」「前に君が玉のペンダントしてたから、好きなんだろうと思って」「めっちゃ好き!!」瑠美は興奮して紀美子に言った。「姉さん!これ梵語大師の作品よ!前に兄さんに探させたけど全然ダメだったのに!」紀美子は玉のことには詳しくないため、梵語大師が誰なのかもわからなかった。彼女はただ穏やかに微笑んで言った。「気に入ってくれて良かったわ」一方、晋太郎の視線は龍介に留まった。龍介の目には、かすかな熱意のようなものがある。紀美子を見る時には決して見せたことのない眼差しだ。もしかして、龍介は瑠美に気があるのか?晋太郎は探るように口を開いた。「吉田社長の狙いがこんなに早く変わるとはな」龍介は瑠美の笑顔から視線を外し、晋太郎の目を見つめて言った。「森川社長、それはどういう意味だ?」晋太郎は唇を歪めて冷笑した。「吉田社長、新しい対象ができたのに、なぜまだ紀美子に執着してるんだ?」それを聞いて、瑠美は驚いて顔を上げ、龍介と紀美子を交互に見た。紀美子は瑠美の視線を感じ取って、説明した。「私と吉田社長は何もないから、誤解しないで」「誤解なんてしてないよ」瑠美は言った。「でも晋太郎兄さんが言ってた『吉田社長の狙い』って、私のこと?」紀美子も、晋太郎のその言葉の真意はつかめていなかった。龍介のような、感情を表に出さず落ち着いていて慎重なタイプが、活発で明るい瑠美に興味を持つのだろうか。もしかすると、あの時瑠美が龍介を助けたことがきっかけなのか?二人の年齢差は10歳ほどあるはずだ。でも、性格が正反対なほど惹かれ合うって話もある。もし瑠美が龍介と結婚したら、みんな安心できるだろう。「もしよければ、瑠美さん、連絡先を教えてくれないか?」
そう言うと、晋太郎はさりげなく紀美子から車の鍵を受け取った。佑樹が傍らで晋太郎をじっと見て言った。「パパ、違うよ。ママが誰かとお見合いするわけじゃん」晋太郎は生意気な佑樹を見下ろしながら聞き返した。「じゃあ、何だって言うんだ?」佑樹は笑いながら紀美子を見て言った。「ママみたいな美人、お見合いなんて必要ないじゃん。ママに告白したい人を並ばせたら、地球を一周できるよ」念江も付け加えた。「前におばさんから聞いたけど、ママの会社の重役や課長さんたちもママに気があるらしい」晋太郎の端整な顔に薄ら笑いが浮かんだが、その目には陰りがあった。「ろくでもない奴らだ。君たちのママはそんなやつらに興味ない」重役と課長か……晋太郎は鼻で笑った。計画を早める必要がありそうだな。「そろそろ時間よ。遅れちゃうわ。三人とも、もう出発できる?」紀美子は腕時計を見て言った。一時間後。紀美子と晋太郎は二人の子供を連れてレストランに到着した。龍介が予約した個室に入ると、彼はすでに待っていた。紀美子を見て龍介は笑顔で立ち上がった。「紀美子、来たね」紀美子が前に出て謝った。「龍介さん、ごめん。渋滞でちょっと遅れちゃった」「気にしないで」龍介は晋太郎を見上げて言った。「森川社長、久しぶりだな」晋太郎は鼻で嗤い、皮肉をこめて言った。「永遠に会わなくてもいいんじゃないか」龍介はその言葉を無視し、子供たちにも挨拶してから席に着いた。紀美子が子供たちに飲み物を注いだ後、龍介に尋ねた。「今日は何の用?」「じゃあ単刀直入に言うよ」龍介の表情が急に真剣になった。「紀美子、瑠美は君の従妹だよね?一度彼女に会わせてくれないか?」紀美子は驚き、晋太郎と視線を合わせてから龍介を見た。「この前の件で瑠美に会いたいの?」龍介は頷き、率直に答えた。「ああ、命の恩人に対して、裏でこっそり調べたり連絡するのは失礼だと思ってね」「紹介はできるけど、彼女が会ってくれるかどうかはわからないよ」「頼むよ。あれからずっと、ちゃんとお礼も言えてなかったから」紀美子は頷き、携帯を取り出して瑠美の番号を探し出した。「今連絡してみる」電話がつながると、瑠美の声が聞こえた。「姉さん?どうした?
どっちみち焦っているのは晋太郎の方で、こっちじゃないんだから。これまで長い年月を待ってきたのだから、もう少し待っても構わない。2階の書斎。晋太郎はむしゃくしゃしながらデスクに座っていた。紀美子が龍介と電話で話していた時の口調を思い出すだけで、イライラが募った。たかが龍介ごときに、あんなに優しく対応するなんて。あの違いはなんだ?ちょうどその時、晴から電話がかかってきた。晋太郎は一瞥してすぐに通話ボタンを押した。「大事じゃないならさっさと切れ!」晋太郎はネクタイを緩めながら言った。電話の向こうで晴は一瞬たじろいだ。「晋太郎、家に着いたか?なぜそんなに機嫌が悪いんだ?」晋太郎の胸中は怒りでいっぱいになっており、必然と声も荒くなっていた。「用があるなら早く言え!」「はいはい」晴は慌てて本題に入った。「さっき隆一から電話があってな。出国前にみんなで集まろうってさ。あいつまた海外に行くらしい」「無理だ!」晋太郎は即答した。「夜は予定があるんだ」「午後、少しカフェで会うだけなのに、それも無理か?」午後なら……夜の紀美子と龍介の待ち合わせに間に合う。ついでに、あの件についても聞けるかもしれない「場所を送れ」30分後。晋太郎は晴と隆一と共にカフェで顔を合わせた。隆一は憂鬱そうにコーヒーを前にため息をついた。「お前らはいいよな……好きな人と結婚できて」晴はからかうように言った。「どうした?また父親に、海外に行って外国人とお見合いしろとでも言われたのか?」「今回は外国人じゃない」隆一は言った。「相手は海外にいる軍司令官の娘で、聞くところによると性格が最悪らしい」晴は笑いをこらえながら言った。「それはいいじゃないか。お前みたいな遊び人にはぴったりだろ?」「は?誰が遊び人だって?」隆一はムッとして睨みつけた。「お前みたいなふしだらな男、他に見たことないぞ!」「俺がふしだらだと?!」晴は激しく反論した。「俺、今はめちゃくちゃ真面目だぞ!」隆一は嘲るように声を上げて笑った。「お前が真面目?笑わせんなよ。佳世子がいなかったら、まだ女の間でフラフラしてたに決まってるだろ!」「お前だってそうだったじゃないか!よく俺のことを言える
晋太郎は思わず唾を飲み込んだ。言葉に詰まる彼を見て、紀美子は笑いながら頬の髪を耳にかけた。「晋太郎、隠してもね、ふとした瞬間に本心は漏れるものよ。言いたくないなら無理強いはしない。いつかきちんと考えがまとまったら、また話しましょう」そう言うと、紀美子は先を行く子供たちの手を取って笑いながら歩き出した。紀美子の後姿を見ながら、晋太郎は考え込んだ。……翌日。一行は荷物をまとめ、帝都に戻った。別荘に着くとすぐ、紀美子は龍介から電話を受けた。彼女はスピーカーをオンにし、子供たちのためにフルーツを準備しながら応答した。「龍介さん」そう言うと、電話の向こうから龍介の心配そうな声が聞こえてきた。「紀美子、大丈夫か?」ちょうどキッチンに入ってきた晋太郎は、はっきりとその言葉を聞いた。彼は眉をひそめ、テーブルに置かれた紀美子の携帯を不機嫌そうに睨みつけた。「相変わらず情報通だね。大丈夫だよ、心配しないで」「いや、情報通ってわけじゃない」龍介は言った。「今、トレンド一位が悟の件だ。まさか自殺するとは」紀美子はリンゴの皮をむく手を止めた。「もうその話はいいよ。過去のことだし」「悪い。今晩、空いてる?食事でもどうだ?」「無理だ!」突然、晋太郎の声が紀美子の背後から響いた。びっくりして振り向くと、彼はすでに携帯を奪い取っていた。龍介は笑いながら言った。「森川社長、盗み聞きするなんて、よくないね」「陰で俺の女を誘う方がよほど下品だろ」「森川社長、俺と紀美子はビジネスパートナーだ。食事に誘うのに許可が必要か?」晋太郎は冷笑した。「お前みたいなパートナー、認められない」「森川社長と紀美子はまだ何もないはずだ。『俺の女』って言い方、どうかしてるぞ」「……」紀美子は言葉を失った。この二人のやり取り、いつまで続くんだろう……「龍介さん、何か急ぎの用?」紀美子は携帯を取り返し、呆れた様子で晋太郎を一瞥した。「相談したいことがある。家族連れでも構わない」「わかった。後で場所と時間を教えて」「ああ」電話を切ると、紀美子は晋太郎を無視してリンゴの皮むきを続けた。晋太郎は腕を組んでキッチンカウンターに寄りかかり、不機嫌そうに聞いた。「俺とあいつが同
「お前の両親は納得したのか?」晋太郎がさらに尋ねた。「俺はあいつらと縁を切ったのさ。だから何を言われようと、俺は気にしない」晴は肩をすくめた。「子供たちを海外に送りだしたら、準備する」晋太郎は視線を紀美子と子供たちに向けた。「そう言えば、佑樹たちはいつ出発するんだ?」晴はハッと気づいた。「明日、まず彼らを帝都に連れ帰る。明後日には隆久と一緒に出発する予定だ」晋太郎は日数を計算した。「ゆみには言わないのか?兄たちを見送らせてやらなくていいのか?」晴は軽くため息をついた。「必要ない」晋太郎は即答した。「ゆみを泣かせたくない」「お前のゆみへの態度、日に日に親バカ度が上がってるように感じるよ。昨日佳世子と話してたんだ。『もう一人産んで、その子を譲ってくれ』って」晴は眉を上げた。「寝言は寝てから言え」晋太郎は足を止め、不機嫌そうに彼を見た。「お前と紀美子はまだ産めるだろうが、俺は無理なんだよ!」晴は言った。「今の医療技術なら、子供への感染を防ぐ方法も試せる」晋太郎は彼をじっと見た。「『試せる』って言ったろ」晴は落ち込んだ。「もし運が悪くて子供に感染したらどうする?」「たとえお前が俺の子供を自分の子のように育てられても、お前たちには大きな悔いが残るだろう」晋太郎は言った。「もういい。佳世子に毎日苦しみと自責の念を味わわせたくない。病気だけでも十分辛いんだ」晴はため息をついた。「俺は子供をやるつもりもない」そう言うと、晋太郎は紀美子たちの後を追った。「晋太郎!酷いこと言うなよ!金は弾むよ。少しは人情を持てよ!」晴は目を見開いた。晴の見えないところで、晋太郎の唇がかすかに緩んだ。夕食後。紀美子と晋太郎は、二人の子供を連れて外を散歩した。「会社の合併について考えたことはあるか?」しばらく歩くと、晋太郎は傍らの紀美子に尋ねた。「合併ってどういう意味?」紀美子は彼を見上げた。「文字通りの意味だ」晋太郎は、もし紀美子がまた妊娠したら、彼女に産休を取らせるつもりだった。「あんたの力に頼って会社を発展させる気はないわ。全てが無意味になる」「MKを見くびっているのか?」晋太郎は足を止めて彼女を見た。「MKの実力を馬
遠くのスナイパーも急いでライフルの安全装置を外したが、悟は自分のこめかみに銃を向けた。晋太郎は呆然とした。言葉を発する間もなく、悟は笑みを浮かべながら引き金を引いた…………紀美子が目を覚ました時、自分が元の部屋にいないことに気づいた。佳世子が傍らに座り、二人の子供たちと話していた。彼女がゆっくりと体を起こすと、その音に三人が一斉に振り向いた。「紀美子!」佳世子が駆け寄った。「目が覚めたんだね!」「どうやって戻ってきたの?」紀美子は尋ねた。「晋太郎が連れ帰ってくれたの。もう全部終わったわ」佳世子は明るく笑った。「終わったって……?」紀美子は理解できずに聞いた。「悟は?自首したの?」「彼、自殺したの」佳世子の瞳が少し潤んだ。自殺……紀美子は凍りついた。「晋太郎と二言三言交わした後、自分のこめかみに銃を向けて、みんなの目の前で死んだらしいわ。あの時彼があんたを再び部屋に連れ戻した理由が分かる気がする。自分の死に様を見せたくなかったんでしょうね」佳世子は続けて言った。紀美子は、ホテルのロビーで大河が撃たれた後、悟が彼女の目を覆ったことを思い出した。悟の結末を聞いて、紀美子は複雑な心境になった。悲しい?悟は数々の非道なことをしたのに、なぜ悲しいのか分からなかった。少しも嬉しい気持ちになれない。目が次第に赤くなっていく紀美子を見て、佳世子は心の中でそっとため息をついた。二人は、長年共に過ごした仲間だ。たとえ悟がどれほど冷血なことをしたとしても、紀美子は彼が優しくしてくれた日々を思い出さずにはいられないだろう。だって、あの優しさは本物だったから。「晋太郎は?」紀美子は長い沈黙の後、ようやく息をついて話題を変えた。「隣の部屋で会議中よ。会社の用事で、晴も一緒だわ」佳世子は答えた。紀美子は頷き、視線を子供たちに向けた。「この二日間、怖い思いをさせちゃったね」彼女は両手を広げ、微笑みながら言った。二人の子供は母の懐に飛び込んだ。「お母さん、怪我はない?」念江が心配そうに尋ねた。「うん、とくに何もされなかったわ」紀美子は首を振って答えた。「あの悪魔はもういないし、僕と念江も安心して出発できる」「うん、外でしっか
悟は紀美子をじっと見つめた。まだ語り尽くせない思いは山ほどあったが、全ては言葉にできなかった。長い沈黙の後、悟は紀美子の手を離し、立ち上がってドアに向かった。ドアノブに手をかけた瞬間、彼は再びベッドに横たわる彼女を振り返った。淡い褐色の瞳には純粋で、ただ未練と後悔だけが満ちていた。ゆっくりと視線を戻すと、悟は決然とドアを開けた。ドアの外で、ボディガードは悟が出てくるのを見て一瞬たじろいだ。「お前は私の部下ではない。何もしなくていい。私が自分で行く」悟は彼を見て言った。「悟が降りてきます!」悟の背中を見送りながら、ボディガードは美月に報告した。報告を受け、美月は晋太郎を見た。悟が紀美子にかけた言葉をはっきりと聞いていた晋太郎は、端正な顔を険しくした。次に……彼は唇を強く結び、ドアを開けて車から出た。美月も続いて降りてきた。晋太郎たちがホテルの入り口で立ち止まると、悟が中から出てきた。「あんたと俺は同じ汚れた血が流れている。たとえあんたが認めたくなくても、これが事実だ」悟は平静な笑みを浮かべた。「上で紀美子に何をした?」晋太郎は怒りを抑え、冷たい声で詰め寄った。「私が彼女に本当に何かしたとして、あんたの出番などないだろう」悟は反問した。「だが心配するな。彼女はただ眠っているだけだ」「お前は自分で自首するか、俺がお前をムショに送るか選べ」「刑務所だと?」悟は嘲笑った。「私があの男と同じ場所に行くと思うか?」「それはお前が決めることじゃない!」「降りてきたのは、ただ一つ聞きたいことがあったからだ」悟は一歩踏み出し、ゆっくりと晋太郎に近づいた。二人の距離が縮まるのを見て、美月は慌てて止めに入ろうとした。「来るな」背後からの気配に、晋太郎は軽く振り返って言った。美月は焦りながらもその場で止まった。社長は目の前の悟がどれほど危険か分かっているのか?本当に傲慢で思い上がりも甚だしい!!「最後のチャンスだ。聞きたいことは一度で済ませろ」晋太郎は視線を戻し、悟の目を見据えた。「貞則があんたの母親にあんなことをしたのを知って、彼を殺そうと思ったことはあるか?」「お前があの老害を始末してくれたおかげで、俺は手を汚さずに済んだ。礼を言