彼が晋太郎を裏切るなんて、絶対にありえない。肇には何か仕方のない事情があるに違いない。この点について、佳世子は肇を心から信じていた。「こちらのことはほぼ片付いた。いつ帰るんだ?」隆一は尋ねた。晴はふと佳世子に視線を向けた。その視線を感じ取った佳世子は、無意識に顔をそむけた。「佳世子、俺は……」晴の目に一瞬、迷いが浮かんだ。「言ったでしょ」佳世子は静かな声で言った。「今はそんなことを言うタイミングじゃない」「じゃあ、俺の連絡先、ブロック解除してくれない?」晴は唇を強く噛みしめた。隆一は晴を見て、思わずその卑屈な口調に驚いた。「もうしておいたわ。あなたたちが帰る時にもし紀美子に会えたらその様子を教えて」紀美子のことがあるとはいえ、晴は佳世子とまた連絡が取れるようになったことを心から喜んだ。こうなれば、少しずつでも佳世子を自分の側に引き寄せるチャンスがある。……国内。飛行機を降りると悟は肇とエリーを連れて病院へ向かった。病院に到着し「東恒医院」と書かれた大きな文字を見つめると、肇は胸が締め付けられるような痛みを覚えた。感情を押し殺しながら、悟と一緒に病院の中へと足を踏み入れた。エレベーターに乗りVIPフロアに上がったところで、肇はふと眉をひそめた。これは、誰かに会いに来たのか?エレベーターの扉が開くと、二つの病室の前にそれぞれボディーガードが立っているのが目に入った。悟が近づくと、ボディーガードは丁寧に悟に向かって「影山さん」と呼びかけた。悟は返事をせず、そのまま紀美子の病室のドアを押し開けた。病室に入り真っ白な顔で静かにベッドに横たわる紀美子の姿を見た瞬間、彼はひどく落ち込んだ。そしてすぐに、紀美子の手首に巻かれた厚い包帯を見た。悟は唇をかみしめ、紀美子のベッドの横に歩み寄った。肇とエリーも病室に入っていった。紀美子を見た瞬間、肇は驚いて立ちすくんだ。入江さん!?彼女がどうして病院にいるんだ?紀美子の頬が明らかに痩けているのを見て、肇は目を伏せた。晋様や渡辺様のことが入江さんに与えたショックが、あまりにも大きすぎたのか……肇がそんなことを考えていると、紀美子がゆっくりと目を開けた。悟の視線が微かに鋭くなり、紀美子の反応を
紀美子の言葉を聞いた肇はしばらく動けなかった。晋様はこのことを知っていて、だからこそそんなにも焦って帰りたがってたのだろうか?肇は悟に視線を向けた。これも、この男が事前に計画していたことなのだろうか?この男はどこまで計算しているのだろう?「紀美子、時間が解決してくれるよ」悟は穏やかな声で言った。「私を名前で呼ばないで!!」紀美子は突然、目を大きく見開いた。全身の力を振り絞り、彼女は怒りを込めて悟を睨みつけて叫んだ。「気持ち悪い!」悟は膝に置いた手をわずかに握りしめた。悟に言葉を発する隙も与えず、紀美子は皮肉を続けた。「殺したいんじゃなかったの?それなのにどうして私を止めるの?」言いながら、紀美子は唇を噛んだ。「分かったわ、私が死んでいるか確認しに戻ってきたのね?残念だけど、あなたの思い通りにはいかなかったわ!!」悟は何の感情も見せず、紀美子をただじっと見つめた。今の彼女には、以前のような元気は一切感じられない。少しの間見つめた後、彼はわずかに頭を傾けて言った。「エリー、君たちは外に出て」悟がその言葉を発すると、紀美子は初めて彼の後ろにいる人々に目を向けた。肇の姿を目にした瞬間、彼女の瞳に満ちていた憎しみがゆっくりと消え、「裏切り」という言葉が、彼女の心の中に浮かび上がった。紀美子は布団を握りしめ、怒りながら肇が病室を出て行くのを見つめた。その視線を感じながら、肇は唇をきつく結び、一言も発することなく立ち去った。ドアが閉まる音が響き、悟は姿勢を少し整えた。「紀美子、昔、俺の母の話を君にしたことがあっただろう?」悟は微かにため息をつきながら続けた。「その男が去った後、母も自分の体を傷つけてしまったんだ。たかが一人の男のために、そんなふうに自分の身体を傷つけるなんて、本当に価値のあることなのか?」たかが一人の男?紀美子は怒りで胸が押し潰されそうになりながら、涙で枕を濡らした。そして歯を食いしばって低い声で呟いた。「あなたのような、情のない、汚いやり方しかできないような人に、そんなことを言う資格なんてない!」悟は目を細めて彼女を見た。「つまり、君にとっては、三人の子どもたちよりも晋太郎の方が大事だということか?」子どもの話が出ると、紀美子の
エリーはその様子を見て、前に出て尋ねた。「どうされましたか?」悟は視線を上げ、すぐに元の状態に戻した。そして穏やかな声で命じた。「紀美子以外の人は全員解放し、渡辺家に送り届けろ。そして、彼らの動きをボディーガードに監視させ、何かあればすぐに報告しろ」「わかりました」エリーは答えた。それを聞いて肇は悟を見つめた。彼には悟が紀美子とその子供たちを監視する目的がわからなかった。今や晋様は亡くなり、渡辺様は行方不明だ。何をそんなに警戒しているのだろうか?1時間後。子供たちと真由は渡辺家に送り返され、携帯も返された。真由は携帯を手にすると、すぐに瑠美にメッセージを送ろうとした。念江は真由を止め、ドアの外にいるボディーガードと別荘内の監視カメラを一瞥しながら言った。「おばあちゃん、今はメッセージを送らない方がいい」真由は少し驚いた。「私はおじいちゃんと瑠……」「おばあちゃん」佑樹は話を遮った。佑樹は真由のそばに歩み寄り、袖を軽く引っ張って、彼女に耳を貸すよう促した。真由が身をかがめると、佑樹は彼女の耳元でささやいた。「家で叔母さんのことを話さない方がいい。あの悪魔は叔母さんのことを気にしていないみたいだから」真由は驚いた表情で佑樹を見つめた。佑樹は静かにうなずいた。真由は大きく息を吐き、「わかった、おじいちゃんにだけ知らせるわ」と応じた。そう言うと、真由は裕也に「家に戻った」とだけメッセージを送った。その後、彼女は携帯を置き、執事を呼び、子供たちが何を食べたいか尋ねさせた。佑樹と念江はいつも通りどちらもあまり気にしなかったが、ゆみはソファに座ったまま、何の反応も示さなかった。真由は眉をひそめ、ゆみのそばに座って声をかけた。「ゆみ?」ゆみは視線を一点に固定したまま、ぼーっとしていた。「おばあちゃん、ゆみは何でも食べる。好き嫌いはないよ」ゆみは簡潔に答えた。佑樹と念江はお互いに顔を見合わせた。普段なら、ゆみは飛び跳ねてメニューを選んでいたはずだ。だが今、彼女はまるで別人のように、元気がなく、ソファに小さな体を縮めて座っている。佑樹は心配そうに言った。「いつまでそんな風に落ち込んでいるつもりだ?」念江は眉をひそめて、佑樹を引き止め
「余計なことを考えないで。おばあさんが美味しいものを作ってあげるわ」真由は目尻の涙を拭いながら言った。佑樹はうなずいた。階上。念江が部屋に入ると、ゆみが一人で隅っこにしゃがみ込み泣いている姿が目に入った。彼の胸はきゅっと痛んだ。念江はゆみのそばへ歩み寄り、彼女の隣にしゃがみこんだ。時が刻々と過ぎる中、ゆみはようやく小さな手で涙を拭き取り、念江の方を見上げた。「念江お兄ちゃん、ゆみは大丈夫だから、心配しなくてもいいよ」ゆみが言った。念江は口元を少し上げ、穏やかな笑みを浮かべながらゆみを見つめた。「ゆみ、なんだか一晩で大人になったみたいだね」泣き疲れたゆみは念江の胸に飛び込んだ。彼女の柔らかい声には鼻声が混じっていた。「念江お兄ちゃん、ママに会いたい……パパにも、叔父さんにも、朔也おじさんにも会いたい……」「兄ちゃんも会いたいよ」念江は目を伏せた。「念江お兄ちゃん、叔父さんとパパは、まだ生きてると思う?」「ゆみ、まだわからないということは希望を持ってもいいということだ思うんだ」まだわからないということはまだ希望がある……ゆみは念江の胸に顔を埋めたまま考えた。その言葉の意味が、彼女には分かる気がした。「ゆみ」念江はゆみの髪を優しく撫でながら言った。「ゆみは、自分が役に立たないなんて思わなくていいんだよ。ゆみには僕たちにはない才能があるんだから。」それを聞きゆみは顔を上げ、ぼんやりと念江を見つめた。念江は穏やかな目でゆみを見つめた。「ゆみには、僕たちには見えないものが見えるし、感じ取れる力がある。それが君の才能だよ」念江の漆黒の瞳はまるで広大な星空のようで、その光がゆっくりゆみの心を覆っていた霧を晴らしていった。そうだ……自分には才能がある……ただ、その才能がまだ十分に発揮されていないだけだ。もし……もし師匠について学ぶことができたら、自分はきっとパパと叔父さんを見つけられるだけの力を得られるだろう。そうなれば、ママも喜んでくれる。自殺なんて考えなくなるかもしれない。ゆみは深く息を吸い込み、心の中で決心した。師匠に会いに行こう。そして、師匠に弟子入りして技を学ぶんだ!!一週間後。紀美子はVIP病室のベッドに腰掛け、虚
瑠美から何とか安心できる情報を引き出そうと、その瞳はとても切実だった。瑠美は唇を噛み、静かに答えた。「紀美子、私たちは現実を受け入れるしかないのよ」「どんな現実よ?」紀美子の唇が震え始めた。「兄さんがいないって現実を受け入れろってこと?彼の遺体も見つかってないのに」「見つからなかったの」瑠美は視線をそらした。「川はあんなに広いのよ。生き残るのはほとんど不可能だと思うわ」紀美子が握りしめていた瑠美の手は力を失い、布団の上に落ちた。瑠美はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。「それから晋太郎兄さんのことも……もう乗り越えるべきよ」紀美子の顔色はますます青白くなり、か細い声でつぶやいた。「晋太郎の……」その言葉を途中まで言いかけて、紀美子は深く息を吸った。「晋太郎の体の一部でも……見つかったの?」そう口にした時、彼女の唇も体も小刻みに震えていた。瑠美には、紀美子が必死に耐えようとしているのが分かった。布団を掴んだ手の関節は、白く浮き出ていた。瑠美は首を横に振った。「わからない。晴たちに連絡すれば、何か知っているかもしれない」紀美子は首を横に振った。「彼らに連絡する手段がないわ。悟が私の携帯を取り上げたから」瑠美は嘲笑交じりに鼻で笑った。「何も知らないくせに、自殺なんてよくもまあやったものね」紀美子はぎゅっと唇を結んだまま、何も言わなかった。「本当に幻滅したわ」瑠美は続けた。「私はてっきり、あなたはもっと芯の強い人間だと思っていた。実際には少しの衝撃で打ちひしがれてしまう無力な人間だったなんて」紀美子の目には涙があふれ視界を覆っていたが、彼女は黙ったままだった。その姿に瑠美はますます腹を立てた。「自分だけが苦しいと思ってるの?お兄ちゃんを失ったことで、私たちだって苦しんでるんだから!」そう言うと、瑠美は紀美子の包帯が巻かれた手首を力強く握りしめた。「痛いでしょ?こんなことをして、何か結果が出ると思ってるの?紀美子、あなたは復讐を考えたことがある?お兄ちゃんと晋太郎をこんな目に遭わせて、あなたの家族を引き裂き、あなたを囚われの身にした彼を、このまま放置するつもり?」紀美子の瞳が揺れ動いた。瑠美は彼女の手を振り払うと、冷たく言い放った。
「分かったわ。叔母さんに少し時間をちょうだい。どうすれば会えるか考えてみるから」瑠美は答えた。「待ってるね」ゆみは答えた。電話を切ると、佑樹と念江はじっとゆみを見つめた。「ゆみ、本当に決めたの?」念江は眉をきゅっと寄せながら尋ねた。ゆみはしっかりと頷いた。「決めたよ。ゆみもみんなを助けるために何かしたいの」「でも、修行はどのくらいかかるか分からないよ。もう一度考え直さない?」念江は言った。「もう決めたの、念江お兄ちゃん」ゆみは無理に笑顔を作って言い切った。「ゆみも強くなりたいの!」「でも……」「もういいよ、念江!」念江が続けようとしたところで、佑樹が強引に遮った。佑樹はぎゅっと唇を噛み締め、視線を逸らしながら言った。「行かせてあげて!」念江は少し怒りを込めて佑樹を見つめた。「佑樹、ゆみはまだ五歳だよ」「誕生日を過ぎたらもう六歳だ!」佑樹は鋭い目で念江を見返した。「もう自立し始めてもいい頃だろ!」「でも佑樹、ゆみは妹なんだよ……」「結局は、僕たちが役に立たないからだろ!」佑樹は拳をぎゅっと握り締めた。「もし僕たちがもっとちゃんとしていたら、ゆみは僕たちから離れる必要なんてなかった!」念江は自責の念に駆られ、目を伏せた。ゆみは深く息を吸い込んで言った。「お兄ちゃん、ゆみが決めたことに怒ってるのは分かるよ。でも、ゆみも強くなりたいの。お兄ちゃんたちがあんなに頑張ってるのに、ゆみはもう隠れていたくないの。ゆみも……ママを守りたい……私たちにはママしかいないから……」ゆみは話し終えると再び大粒の涙をぽろぽろとこぼした。本当は行きたくない。ママに抱かれて、そのまま成長していきたい。でもそれ以上に、自分が何もできないことが本当に辛くてたまらなかった。「分かった!もう言わなくていい!」佑樹は歯ぎしりしながら言った。ゆみは唇をぎゅっと噛みしめ佑樹を見上げた。そしてそっと手を伸ばし、佑樹をぎゅっと抱きしめた。「お兄ちゃん、ゆみも本当は行きたくないよ……」佑樹の体は緊張し、赤くなった瞳に涙が浮かんだ。ゆみは顔を佑樹の首元に埋め、すすり泣きながら続けた。「でも、パパを見つけたい……おじさんも……ただ、ママを笑顔にしたいだけな
「ママ……」ゆみは泣きながら言った。「ママに会いたかった……」「ゆみ、泣かないで……ママはここにいるよ。もう泣かなくていい……」紀美子はゆみをしっかりと抱きしめ、嗚咽交じりに言った。ゆみは必死で自分を紀美子の胸に押し込もうとしたが、母の胸の傷に触れないよう、力加減を慎重に保った。「ママ、もう自殺なんてしないで」 ゆみは泣きながら続けた。「ゆみはもう叔父さんもパパも朔也おじさんも失ってしまったの……ママまで失いたくない!」「ごめんね、ゆみ……ママが自分勝手で、弱かったから……ママが悪かった……」紀美子は胸が締め付けられるような思いで嗚咽しながら謝った。ゆみは首を横に振った。「ママが辛いのはわかってるよ。でもママにはゆみとお兄ちゃんがいる。私たちにはママが必要なの!」「分かったよ、ママはもうあなたたちを置いていかない……絶対に」紀美子は涙を拭い、小さく頷いた。「ママ、ゆみはパパと叔父さんを見つけに行くよ」ゆみはすすり泣きながら言った。「生きてるなら会いに、亡くなってるなら魂を見つける!」その言葉に、紀美子は愕然とした。彼女はそっとゆみを離し、その小さな顔を覗き込んだ。「ゆみ……何を言っているの……生きてるなら会いに、亡くなってるなら魂を見つけるって……どこで聞いたの?」「わからない。ただ、ゆみの頭にふと浮かんだの……」ゆみは涙を拭きながら言った。「……それで、パパと叔父さんを探しに行くって、どういうこと?」「ママ、ゆみは師匠に会いに行く」ゆみは真剣な目で紀美子を見つめた。「それって……小林さんのこと?」紀美子が尋ねた。ゆみはうなずき、小さな手で自分の頭を指しながら言った。「ゆみにはただ一つしか思いつかなかった。それは師匠に会いに行くこと。師匠を通じて叔父さんやパパを見つけられるかどうかはわからないけど、そうすべきだって感じるの」娘の成熟した考えに、紀美子は胸が痛むほどの辛さを感じた。「もう、行くの?」紀美子は別れを惜しんだ。子どもに次いつまた会えるかもわからないこの状況がつらかった。「明日出発するの」ゆみはそう言いながら、再び紀美子の胸に顔を埋めた。「ちゃんと自分を大事にしてね」紀美子はこの日がいつか来ると覚悟していた。
舞桜は紀美子の手を握りしめた。「しっかり体を治して、悟の犯罪の証拠を何としても掴み取って!朔也のためにも、翔太君のためにも、森川社長のためにも、そしてあなた自身と子どもたちのためにも!」紀美子は深く息を吸い込み、力を込めてうなずいた。「わかっているわ、舞桜。この仇は必ず晴らしてみせる!」舞桜はその言葉を聞いて頷いてさらに続けた。「紀美子さん、自分のことをちゃんと大事にしてね。私たちがずっとそばにいるから」紀美子はしばらく黙った後、ゆみの手をそっと舞桜の手に託した。「ゆみのこと、お願いね……」紀美子は声を震わせながら続けた。「彼女をしっかり守ってあげて。道中も気をつけてね」「はい、任せて!」……翌朝。真由はボディーガードが注意を払っていない隙を狙い、ゆみを舞桜の車にこっそりと乗せた。ゆみのために用意しておいた服も車のトランクに詰め込んだ。すべての準備が整うと、真由は車の横に立ち、ゆみの手をぎゅっと握りしめた。「ゆみ、到着したらおばあちゃんに教えてね」ゆみはうなずいた。「おばあちゃん、お願いだから兄ちゃんたちに伝えて。ゆみのことは心配しないでって」真由は涙を拭いながらうなずいた。「わかったわ、おばあちゃんが必ず伝えるからね。師匠の言うことをしっかり聞くのよ」「わかった!ゆみはお利口に、どんな困難も乗り越える!」ゆみは力強く頷いた。真由はゆみの頬を優しく撫でながら言った。「行きなさい。そして、自分の道を切り開くのよ。疲れたら帰っておいで。ここはいつまでも、あなたの帰る場所だから」「うん!ちゃんと覚えておくよ!」舞桜はエンジンをかけた。「そろそろ行く時間よ」真由はゆっくりと手を離し、別れの挨拶をした。「ゆみ、元気でね」ゆみは車の窓に身を乗り出しながら、別れを告げた。「おばあちゃんも元気でね!」車が走り出すと、真由はつい追いかけたい衝動に駆られたが、ゆみを泣かせないためにぐっと我慢した。ただ手を振って遠ざかっていくゆみを見送った。上階。佑樹と念江の二人は、窓際に立って下の光景をじっと見つめていた。佑樹は顔をこわばらせ、目元が赤く潤んでいた。念江もまた目を赤くし、視界から徐々に消えゆく車を見つめた。彼は感情を抑え、唇を震わせなが
紀美子は翔太に事情を簡単に説明した。話を聞いた翔太は深くため息をついた。「あの子たちはみんなしっかりした子たちだ。自分で決めたことなら、無理に引き止めるわけにはいかない。尊重してやらなきゃな。だが……こんな場所で気分転換するべきじゃない」「そういえば、翔太さんはここで何を?」佳世子は話題をそらすように尋ねた。翔太はバーの入口を一瞥しながら答えた。「あの連中は舞桜の遠縁の親戚たちなんだ」二人は顔を見合わせ、紀美子は怪訝そうに聞いた。「どうして舞桜の親戚と一緒に?」翔太は苦笑し、鼻をこすりながら答えた。「実はな、舞桜と一週間後に婚約する予定なんだ」「えっ!?」二人は声を揃えて叫んだ。「そんな大事なこと、どうして教えてくれなかったの?」紀美子は驚きを隠せなかった。佳世子は舌打ちした。「翔太さん、私たちより早いじゃない!」「彼らが帰ってから紀美子に話そうと思ってたんだ」紀美子は軽く眉をひそめた。「さっき見かけたけど、舞桜と同世代くらいの人たちみたいね。難しい人たちなの?」「なんというか……」翔太は小さくため息をついた。「茂の親戚と似たような連中だ。だから君には早く知らせたくなかったんだよ。彼らは本当に面倒を起こすから」「舞桜が止めないの?」佳世子は聞いた。「いつまでも我慢してばかりじゃダメよ!」「止めないわけじゃない」翔太は言った。「舞桜の父親からの試練のようなものだ。舞桜は彼らのことで父親と大喧嘩したんだ。でも、父親は自分だけでは決められないと言ったらしい。舞桜の祖父の意向もあるみたいで」紀美子は話の裏を読み取って聞いた。「もしかして、その祖父って……舞桜と兄さんの関係に反対してるの?」「そうだ」翔太は率直に認めた。「舞桜の祖父は、海軍の偉いさんでさ。我々のような商人のことを、なかなか認めてはくれない」「今どきそんな家柄を気にするなんて!」佳世子は呆れたように言った。紀美子はしばらく考え込んでから言った。「でも、そうでなければ、舞桜もここまで来て兄さんと出会うこともなかったわね」「うん、その通りだ。前に舞桜が俺に会いに来たことが、余計に彼女の祖父の反感を買ったらしい」「舞桜は良い子よ」紀美子は翔太を見つめて言った。
「結婚を発表する日に、この件も公表する」晋太郎はペンを置いてから答えた。今のところ、自分はまだ紀美子を正式に口説き落としていない。いきなりこんな話をしても、笑いものになるだけだ。夜。紀美子は佳世子に連れられ、帝都に新しくオープンしたバーに来ていた。入り口に入った瞬間耳をつんざくような音楽が聞こえてきて、紀美子は鼓動が早くなるのを感じた。彼女は佳世子の手を引き寄せ、耳元で叫ぶように言った。「佳世子、ここはやめようよ。あの人たちに知られたら、飛んでくるに決まってる」「どうしていけないの?」佳世子は紀美子の手を引っ張って中へ進んだ。「あの人たちはあの人たち、私たちは私たちよ。付き合ってるからって、こういう場所に来ちゃいけないルールでもあるの?正しく楽しんでるんだから、平気でしょ!」紀美子は佳世子が気分転換のために連れてきてくれたのだとわかっていた。だが、こういう騒がしい場所は苦手だった。理由は主に二つあった。一つは環境が乱雑なこと、もう一つは晋太郎の性格だ。彼が知れば、このバーごとひっくり返しかねない。自分でトラブルを起こすつもりもなければ、晋太郎に誰かに迷惑をかけさせるつもりもなかった。ボックス席に着いても、紀美子はまだ佳世子の手をしっかり握っていた。「佳世子、やっぱりここは嫌だわ。静かなバーに変えようよ?」「え、何?!」佳世子は聞き取れなかった。紀美子はもう一度繰り返し言った。「紀美子、まず座って落ち着いて話を聞いてよ」佳世子は言った。紀美子は彼女の意図を察し、しぶしぶ一緒に座った。佳世子は紀美子の耳元に寄った。「晋太郎、まだ記憶が戻ったって認めてないでしょ?」紀美子は彼女を見て尋ねた。「それがここに来ることと何の関係が?まさか、彼を刺激したいの?」佳世子は激しく頷いた。「男ってのはみんなそうよ。何か起こさないと本当のことを言わないのよ!」「だめだめ」紀美子は慌てて首を振った。「言わないのは彼の勝手よ。私がどうするかは私の自由。佳世子、本当にここにいたくないの」佳世子はまだ何か言いたげだったが、ふと目の端に映った人影に気づき、言葉を止めた。そしてじっとその見覚えのある姿を見つめながら言った。「紀美子、あの人……あなたのお兄
二人は涙を見せれば、ゆみがますます別れを惜しんでしまうことを恐れていたのだ。「ゆみ、待ってるから!毎日携帯見て、お兄ちゃんたちからの連絡を待ってるからね……ゆみはちゃんと大きくなるよ。ご飯もいっぱい食べて、悪さしないで……うう……早く帰ってきてね……」紀美子も、堪えきれず涙をこぼした。晋太郎がそっと近寄り、彼女を優しく抱き寄せた。この別れは、誰の胸にも重くのしかかっていた。ゆみは学校に行かなければならなかったので、佑樹と念江を見送った後、昼食を取るとすぐに急いで飛行機で帰って行った。紀美子は、がらんとした別荘を見回し胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われ、ソファに座ったまま呆然としていた。今にも、子供たちが階上から駆け下りてきてキッチンで牛乳を飲むような気がしてならなかった。そんな紀美子の様子を見て、晋太郎は携帯を取り出し佳世子にメッセージを送った。1時間も経たないうちに、佳世子が潤ヶ丘に現れた。ドアが開く音に、紀美子がさっと振り向いた。佳世子と目が合うと、一瞬浮かんだ期待の色はすぐに消えていった。佳世子は小さくため息をつき、紀美子の隣に座った。「紀美子、まだ子供たちのことで頭がいっぱいなの?」紀美子は微かに頷いた。「うん……なかなか慣れなくて。佑樹と念江も行っちゃったし、ゆみもすぐ帰っちゃったし……」「あの子たち、本当にあなたに似てるわ」佳世子は言った。「あなたが帝都を離れてS国に行った時も、こんな風に自分の目標に向かって突き進んでたもの」紀美子はぽかんとし、思わず苦笑した。「あれは状況に迫られてのことよ」「そんなこと言ったら、まるで子供たちがあなたから離れたくてたまらないみたいじゃない」佳世子は紀美子の手を握った。「そんな話はやめましょう。午後はショッピングに行くわよ!」「ちょっと!」紀美子は驚いたように彼女を見つめて言った。「どうして急に来たの?」佳世子はきょろきょろと周りを見回し、晋太郎の姿がないのを確認すると、小声で言った。「実は、あなたのご主人に頼まれて来たのよ!」紀美子は、ご主人様という言葉を聞いて顔が赤くなった。「え、え?ご主人なんて……私、彼とはまだそんな関係じゃないのよ……」「遅かれ早かれ、そうなるんだから!」佳
俊介は淡く微笑んだ。「晋太郎、子供たちは俺にとって実の孫同然だ。心配する必要はない」その言葉を聞いて、紀美子は少し安心した。一行は保安検査場の目の前まで来ると、紀美子は子供たちの前にしゃがみ込んだ。彼女は無理に笑顔を作りながら、子供たちの腕に手を置いて言った。「一時間後には搭乗よ。誰と一緒でも、自分のことはきちんと守って。無理しないでね」佑樹と念江は頷いた。「ママ、心配しないで。僕たち、できるだけ早く帰るから」佑樹は言った。「ママも体に気をつけてね」念江は笑みを浮かべて言った。「パパと一緒に、今度は妹を作ってよ」紀美子は一瞬固まり、念江の鼻をつまんで言った。「ママとパパはまだ何も決めてないの。その話はまた今度ね」ゆみを待っている晋太郎は、周囲を見回しながらふと紀美子の方を見た。口を開こうとした瞬間、背後から慌ただしい足音が聞こえてきた。「お兄ちゃん!!念江お兄ちゃん!!」ゆみの声が響き、一同が振り返った。ゆみは小さな体で次々と乗客の間を縫うように駆け抜け、全力で佑樹と念江の元へ突進してきた。そして両手で二人の首にしっかりと抱きついた。「間に合ったよ!」ゆみは泣きながら二人の肩に顔を埋めた。「お兄ちゃんたちの見送り、間に合って良かった」佑樹と念江は呆然と立ち尽くした。まさかゆみがこんなに遠くまで見送りに来てくれるとは思ってもいなかったのだ。二人の目が一瞬で赤くなった。これ以上の別れの贈り物はないだろう。二人はゆみをしっかりと抱きしめ、必死に冷静さを保ちながら慰めた。「もう、泣くなよ!」佑樹はゆみの背中を叩いた。「人がたくさんいるんだぞ。恥ずかしくないのか」念江の黒く大きな目は優しさに溢れていた。「ゆみ、わざわざ来てくれてありがとう。大変だったろう」ゆみは二人から手を放した。「向こうに行ったら、絶対に自分のことをちゃんと気遣ってね。時間があったら、必ず電話してよ。分かった?」佑樹と念江は、思わず俊介を見た。その視線に気づいたゆみは、俊介を睨みつけた。「あなたのくだらない規則なんて知らないよ!お兄ちゃんたちを連れて行くのはいいけど、連絡を絶たせるなんてひどいよ!ゆみは難しいことは言えないけど、家族は連絡を取り合うべきだってわか
紀美子は箸を握る手の力を徐々に強めながら、優しく言った。「念江、大丈夫よ。本当にママに会いたくなったら、会いに来ればいい」念江はぽかんとした。「でもあそこは……」紀美子は首を振って遮った。「確かにルールはあるけど、抜け道だってあるはずでしょう?」念江はしばらく考え込んでから頷いた。「うん。僕たちが認められれば、きっとすぐにママに会える」紀美子は安堵の表情でうなずいた。子供たちと食事を終えると、彼女は階上へ上がり、荷造りを手伝った。今回は晋太郎の部下に任せず、自ら佑樹と念江の衣類や日用品をスーツケースに詰めていった。一つ一つスーツケースに収める度に、紀美子の胸の痛みと寂しさは募っていった。ついに、彼女は手を止め俯いて声もなく涙をこぼし始めた。部屋の外。晋太郎が階下へ降りようとした時、子供たちの部屋の少し開いた扉から、一人背を向けて座っている紀美子の姿が目に入ってきた。彼女の細い肩が微かに震えているのを見て、晋太郎の表情は暗くなった。しばらく立ち止まった後、彼はドアを押して紀美子の傍へ歩み寄った。足音を聞いて、紀美子は子供たちが来たのかと慌てて涙を拭った。顔を上げ晋太郎を見ると、そっと視線を逸らした。「どうしてここに……」「俺が来なかったら、いつまで泣いてるつもりだったんだ?」晋太郎はしゃがみ込み、子どもたちの荷物をスーツケースに詰めるのを手伝い始めた。「手伝わなくていいわ、私がやるから」「11時のフライトだ。いつまでやてる気だ?」晋太郎は時計を見て言った。「もう8時半だぞ」紀美子は黙ったまま、子供たちの服を畳み続けた。最後になってやっと気付いたが、晋太郎は服のたたみ方すら知らないようだった。ただぐしゃぐしゃに丸めて、スーツケースの隙間に押し込んでいるだけだった。紀美子は思わず笑みを浮かべて彼を見上げた。「あなた、本当に基本的なことさえできないのね」晋太郎の手は止まり、一瞬表情がこわばった。彼は不機嫌そうに顔を上げ、紀美子を見つめて言った。「何か文句でもあるのか?」紀美子は晋太郎が詰めた服を再び取り出しながら言った。「文句を言ったところで直らないだろうから、邪魔しないでくれる?」「この2日間で、弁護士に書類を準備させた。明日届く
「それは――龍介さんが自分で瑠美とちゃんと話すしかないんじゃない?」紀美子は微笑みながら言った。「紀美子、今夜は瑠美を呼んでくれてありがとう」龍介はグラスを持ち上げた。紀美子もグラスを上げて応じた。「龍介さんにはお世話になりっぱなしなんだから、こんな簡単なことでお礼言われると困るわ」夜、紀美子と晋太郎は子供たちを連れて家に戻った。紀美子が入浴を終えたちょうどその時、ゆみから電話がかかってきた。通話を繋ぐと、ゆみはふさぎ込んだ声で聞いてきた。「ママ、明日お兄ちゃんたち行っちゃうんでしょ?」紀美子はぎょっとした。「ゆみ、それは兄ちゃんたちから聞いたの?」「うん」ゆみが答えた。「ママ、お兄ちゃんたち何時に行くの?」浴室から聞こえる水音に耳を傾けながら、紀美子は言った。「ママも正確な時間わからないの。パパがお風呂から出たら聞いてみるから、ちょっと待っていてくれる?」「わかった」ゆみは言った。「ママ、それまで他の話しよっか」紀美子はゆみと雑談をしながら、十分ほど時間を過ごした。すると、晋太郎がバスローブ姿で現れた。ゆみの元気な声が携帯から聞こえてきたため、晋太郎は髪を拭きながらベッドの側に座った。「もう11時なのに、まだ起きてるのか?」紀美子が体を起こした。「佑樹たち明日何時に出発するのか知ってる?」晋太郎は紀美子の携帯を見て尋ねた。「ゆみはもう知ってるのか?」「知ってるよ!」ゆみは即答した。「パパ、私お兄ちゃんたちを見送りに行きたい」「泣くだろう」晋太郎は困ったように言った。「だから来ない方がいい」「嫌だ!絶対に行くの。だって次に会えるのいつかわからないんだもん」ゆみは強く主張した。その声は次第に震え始め、今にも泣き出しそうな顔になった。晋太郎は胸が締め付けられる思いがした。「分かったよ……専用機を手配して迎えに行かせる」そう言うと彼はベッドサイドの携帯を取り上げ、美月に直ちにヘリコプターを手配するよう指示した。翌日。紀美子は早起きして、子どもたちのために豪華な朝食を用意した。子供たちは、階下に降りてきてテーブルいっぱいに並んだ見慣れた料理を目にすると、驚いたように紀美子を見つめた。「これ全部、ママが一人
龍介は瑠美に笑いかけて言った。「瑠美、この前は助けてくれてありがとう」彼がアシスタントに目配せすると、用意してあった贈り物が瑠美の前に差し出された。「ささやかものだけど、受け取ってほしい」瑠美は遠慮なく受け取り、龍介に聞いた。「開けていい?」「どうぞ」瑠美は上にかけられていたリボンを解き、丁寧に箱のふたを開けた。中身を目にした瞬間、彼女は驚いて目を見開いた。「えっ!?これどうやって手に入れたの?!瑠璃仙人の作品でしょ!?」「前に君が玉のペンダントしてたから、好きなんだろうと思って」「めっちゃ好き!!」瑠美は興奮して紀美子に言った。「姉さん!これ梵語大師の作品よ!前に兄さんに探させたけど全然ダメだったのに!」紀美子は玉のことには詳しくないため、梵語大師が誰なのかもわからなかった。彼女はただ穏やかに微笑んで言った。「気に入ってくれて良かったわ」一方、晋太郎の視線は龍介に留まった。龍介の目には、かすかな熱意のようなものがある。紀美子を見る時には決して見せたことのない眼差しだ。もしかして、龍介は瑠美に気があるのか?晋太郎は探るように口を開いた。「吉田社長の狙いがこんなに早く変わるとはな」龍介は瑠美の笑顔から視線を外し、晋太郎の目を見つめて言った。「森川社長、それはどういう意味だ?」晋太郎は唇を歪めて冷笑した。「吉田社長、新しい対象ができたのに、なぜまだ紀美子に執着してるんだ?」それを聞いて、瑠美は驚いて顔を上げ、龍介と紀美子を交互に見た。紀美子は瑠美の視線を感じ取って、説明した。「私と吉田社長は何もないから、誤解しないで」「誤解なんてしてないよ」瑠美は言った。「でも晋太郎兄さんが言ってた『吉田社長の狙い』って、私のこと?」紀美子も、晋太郎のその言葉の真意はつかめていなかった。龍介のような、感情を表に出さず落ち着いていて慎重なタイプが、活発で明るい瑠美に興味を持つのだろうか。もしかすると、あの時瑠美が龍介を助けたことがきっかけなのか?二人の年齢差は10歳ほどあるはずだ。でも、性格が正反対なほど惹かれ合うって話もある。もし瑠美が龍介と結婚したら、みんな安心できるだろう。「もしよければ、瑠美さん、連絡先を教えてくれないか?」
そう言うと、晋太郎はさりげなく紀美子から車の鍵を受け取った。佑樹が傍らで晋太郎をじっと見て言った。「パパ、違うよ。ママが誰かとお見合いするわけじゃん」晋太郎は生意気な佑樹を見下ろしながら聞き返した。「じゃあ、何だって言うんだ?」佑樹は笑いながら紀美子を見て言った。「ママみたいな美人、お見合いなんて必要ないじゃん。ママに告白したい人を並ばせたら、地球を一周できるよ」念江も付け加えた。「前におばさんから聞いたけど、ママの会社の重役や課長さんたちもママに気があるらしい」晋太郎の端整な顔に薄ら笑いが浮かんだが、その目には陰りがあった。「ろくでもない奴らだ。君たちのママはそんなやつらに興味ない」重役と課長か……晋太郎は鼻で笑った。計画を早める必要がありそうだな。「そろそろ時間よ。遅れちゃうわ。三人とも、もう出発できる?」紀美子は腕時計を見て言った。一時間後。紀美子と晋太郎は二人の子供を連れてレストランに到着した。龍介が予約した個室に入ると、彼はすでに待っていた。紀美子を見て龍介は笑顔で立ち上がった。「紀美子、来たね」紀美子が前に出て謝った。「龍介さん、ごめん。渋滞でちょっと遅れちゃった」「気にしないで」龍介は晋太郎を見上げて言った。「森川社長、久しぶりだな」晋太郎は鼻で嗤い、皮肉をこめて言った。「永遠に会わなくてもいいんじゃないか」龍介はその言葉を無視し、子供たちにも挨拶してから席に着いた。紀美子が子供たちに飲み物を注いだ後、龍介に尋ねた。「今日は何の用?」「じゃあ単刀直入に言うよ」龍介の表情が急に真剣になった。「紀美子、瑠美は君の従妹だよね?一度彼女に会わせてくれないか?」紀美子は驚き、晋太郎と視線を合わせてから龍介を見た。「この前の件で瑠美に会いたいの?」龍介は頷き、率直に答えた。「ああ、命の恩人に対して、裏でこっそり調べたり連絡するのは失礼だと思ってね」「紹介はできるけど、彼女が会ってくれるかどうかはわからないよ」「頼むよ。あれからずっと、ちゃんとお礼も言えてなかったから」紀美子は頷き、携帯を取り出して瑠美の番号を探し出した。「今連絡してみる」電話がつながると、瑠美の声が聞こえた。「姉さん?どうした?
どっちみち焦っているのは晋太郎の方で、こっちじゃないんだから。これまで長い年月を待ってきたのだから、もう少し待っても構わない。2階の書斎。晋太郎はむしゃくしゃしながらデスクに座っていた。紀美子が龍介と電話で話していた時の口調を思い出すだけで、イライラが募った。たかが龍介ごときに、あんなに優しく対応するなんて。あの違いはなんだ?ちょうどその時、晴から電話がかかってきた。晋太郎は一瞥してすぐに通話ボタンを押した。「大事じゃないならさっさと切れ!」晋太郎はネクタイを緩めながら言った。電話の向こうで晴は一瞬たじろいだ。「晋太郎、家に着いたか?なぜそんなに機嫌が悪いんだ?」晋太郎の胸中は怒りでいっぱいになっており、必然と声も荒くなっていた。「用があるなら早く言え!」「はいはい」晴は慌てて本題に入った。「さっき隆一から電話があってな。出国前にみんなで集まろうってさ。あいつまた海外に行くらしい」「無理だ!」晋太郎は即答した。「夜は予定があるんだ」「午後、少しカフェで会うだけなのに、それも無理か?」午後なら……夜の紀美子と龍介の待ち合わせに間に合う。ついでに、あの件についても聞けるかもしれない「場所を送れ」30分後。晋太郎は晴と隆一と共にカフェで顔を合わせた。隆一は憂鬱そうにコーヒーを前にため息をついた。「お前らはいいよな……好きな人と結婚できて」晴はからかうように言った。「どうした?また父親に、海外に行って外国人とお見合いしろとでも言われたのか?」「今回は外国人じゃない」隆一は言った。「相手は海外にいる軍司令官の娘で、聞くところによると性格が最悪らしい」晴は笑いをこらえながら言った。「それはいいじゃないか。お前みたいな遊び人にはぴったりだろ?」「は?誰が遊び人だって?」隆一はムッとして睨みつけた。「お前みたいなふしだらな男、他に見たことないぞ!」「俺がふしだらだと?!」晴は激しく反論した。「俺、今はめちゃくちゃ真面目だぞ!」隆一は嘲るように声を上げて笑った。「お前が真面目?笑わせんなよ。佳世子がいなかったら、まだ女の間でフラフラしてたに決まってるだろ!」「お前だってそうだったじゃないか!よく俺のことを言える