瑠美から何とか安心できる情報を引き出そうと、その瞳はとても切実だった。瑠美は唇を噛み、静かに答えた。「紀美子、私たちは現実を受け入れるしかないのよ」「どんな現実よ?」紀美子の唇が震え始めた。「兄さんがいないって現実を受け入れろってこと?彼の遺体も見つかってないのに」「見つからなかったの」瑠美は視線をそらした。「川はあんなに広いのよ。生き残るのはほとんど不可能だと思うわ」紀美子が握りしめていた瑠美の手は力を失い、布団の上に落ちた。瑠美はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。「それから晋太郎兄さんのことも……もう乗り越えるべきよ」紀美子の顔色はますます青白くなり、か細い声でつぶやいた。「晋太郎の……」その言葉を途中まで言いかけて、紀美子は深く息を吸った。「晋太郎の体の一部でも……見つかったの?」そう口にした時、彼女の唇も体も小刻みに震えていた。瑠美には、紀美子が必死に耐えようとしているのが分かった。布団を掴んだ手の関節は、白く浮き出ていた。瑠美は首を横に振った。「わからない。晴たちに連絡すれば、何か知っているかもしれない」紀美子は首を横に振った。「彼らに連絡する手段がないわ。悟が私の携帯を取り上げたから」瑠美は嘲笑交じりに鼻で笑った。「何も知らないくせに、自殺なんてよくもまあやったものね」紀美子はぎゅっと唇を結んだまま、何も言わなかった。「本当に幻滅したわ」瑠美は続けた。「私はてっきり、あなたはもっと芯の強い人間だと思っていた。実際には少しの衝撃で打ちひしがれてしまう無力な人間だったなんて」紀美子の目には涙があふれ視界を覆っていたが、彼女は黙ったままだった。その姿に瑠美はますます腹を立てた。「自分だけが苦しいと思ってるの?お兄ちゃんを失ったことで、私たちだって苦しんでるんだから!」そう言うと、瑠美は紀美子の包帯が巻かれた手首を力強く握りしめた。「痛いでしょ?こんなことをして、何か結果が出ると思ってるの?紀美子、あなたは復讐を考えたことがある?お兄ちゃんと晋太郎をこんな目に遭わせて、あなたの家族を引き裂き、あなたを囚われの身にした彼を、このまま放置するつもり?」紀美子の瞳が揺れ動いた。瑠美は彼女の手を振り払うと、冷たく言い放った。
「分かったわ。叔母さんに少し時間をちょうだい。どうすれば会えるか考えてみるから」瑠美は答えた。「待ってるね」ゆみは答えた。電話を切ると、佑樹と念江はじっとゆみを見つめた。「ゆみ、本当に決めたの?」念江は眉をきゅっと寄せながら尋ねた。ゆみはしっかりと頷いた。「決めたよ。ゆみもみんなを助けるために何かしたいの」「でも、修行はどのくらいかかるか分からないよ。もう一度考え直さない?」念江は言った。「もう決めたの、念江お兄ちゃん」ゆみは無理に笑顔を作って言い切った。「ゆみも強くなりたいの!」「でも……」「もういいよ、念江!」念江が続けようとしたところで、佑樹が強引に遮った。佑樹はぎゅっと唇を噛み締め、視線を逸らしながら言った。「行かせてあげて!」念江は少し怒りを込めて佑樹を見つめた。「佑樹、ゆみはまだ五歳だよ」「誕生日を過ぎたらもう六歳だ!」佑樹は鋭い目で念江を見返した。「もう自立し始めてもいい頃だろ!」「でも佑樹、ゆみは妹なんだよ……」「結局は、僕たちが役に立たないからだろ!」佑樹は拳をぎゅっと握り締めた。「もし僕たちがもっとちゃんとしていたら、ゆみは僕たちから離れる必要なんてなかった!」念江は自責の念に駆られ、目を伏せた。ゆみは深く息を吸い込んで言った。「お兄ちゃん、ゆみが決めたことに怒ってるのは分かるよ。でも、ゆみも強くなりたいの。お兄ちゃんたちがあんなに頑張ってるのに、ゆみはもう隠れていたくないの。ゆみも……ママを守りたい……私たちにはママしかいないから……」ゆみは話し終えると再び大粒の涙をぽろぽろとこぼした。本当は行きたくない。ママに抱かれて、そのまま成長していきたい。でもそれ以上に、自分が何もできないことが本当に辛くてたまらなかった。「分かった!もう言わなくていい!」佑樹は歯ぎしりしながら言った。ゆみは唇をぎゅっと噛みしめ佑樹を見上げた。そしてそっと手を伸ばし、佑樹をぎゅっと抱きしめた。「お兄ちゃん、ゆみも本当は行きたくないよ……」佑樹の体は緊張し、赤くなった瞳に涙が浮かんだ。ゆみは顔を佑樹の首元に埋め、すすり泣きながら続けた。「でも、パパを見つけたい……おじさんも……ただ、ママを笑顔にしたいだけな
「ママ……」ゆみは泣きながら言った。「ママに会いたかった……」「ゆみ、泣かないで……ママはここにいるよ。もう泣かなくていい……」紀美子はゆみをしっかりと抱きしめ、嗚咽交じりに言った。ゆみは必死で自分を紀美子の胸に押し込もうとしたが、母の胸の傷に触れないよう、力加減を慎重に保った。「ママ、もう自殺なんてしないで」 ゆみは泣きながら続けた。「ゆみはもう叔父さんもパパも朔也おじさんも失ってしまったの……ママまで失いたくない!」「ごめんね、ゆみ……ママが自分勝手で、弱かったから……ママが悪かった……」紀美子は胸が締め付けられるような思いで嗚咽しながら謝った。ゆみは首を横に振った。「ママが辛いのはわかってるよ。でもママにはゆみとお兄ちゃんがいる。私たちにはママが必要なの!」「分かったよ、ママはもうあなたたちを置いていかない……絶対に」紀美子は涙を拭い、小さく頷いた。「ママ、ゆみはパパと叔父さんを見つけに行くよ」ゆみはすすり泣きながら言った。「生きてるなら会いに、亡くなってるなら魂を見つける!」その言葉に、紀美子は愕然とした。彼女はそっとゆみを離し、その小さな顔を覗き込んだ。「ゆみ……何を言っているの……生きてるなら会いに、亡くなってるなら魂を見つけるって……どこで聞いたの?」「わからない。ただ、ゆみの頭にふと浮かんだの……」ゆみは涙を拭きながら言った。「……それで、パパと叔父さんを探しに行くって、どういうこと?」「ママ、ゆみは師匠に会いに行く」ゆみは真剣な目で紀美子を見つめた。「それって……小林さんのこと?」紀美子が尋ねた。ゆみはうなずき、小さな手で自分の頭を指しながら言った。「ゆみにはただ一つしか思いつかなかった。それは師匠に会いに行くこと。師匠を通じて叔父さんやパパを見つけられるかどうかはわからないけど、そうすべきだって感じるの」娘の成熟した考えに、紀美子は胸が痛むほどの辛さを感じた。「もう、行くの?」紀美子は別れを惜しんだ。子どもに次いつまた会えるかもわからないこの状況がつらかった。「明日出発するの」ゆみはそう言いながら、再び紀美子の胸に顔を埋めた。「ちゃんと自分を大事にしてね」紀美子はこの日がいつか来ると覚悟していた。
舞桜は紀美子の手を握りしめた。「しっかり体を治して、悟の犯罪の証拠を何としても掴み取って!朔也のためにも、翔太君のためにも、森川社長のためにも、そしてあなた自身と子どもたちのためにも!」紀美子は深く息を吸い込み、力を込めてうなずいた。「わかっているわ、舞桜。この仇は必ず晴らしてみせる!」舞桜はその言葉を聞いて頷いてさらに続けた。「紀美子さん、自分のことをちゃんと大事にしてね。私たちがずっとそばにいるから」紀美子はしばらく黙った後、ゆみの手をそっと舞桜の手に託した。「ゆみのこと、お願いね……」紀美子は声を震わせながら続けた。「彼女をしっかり守ってあげて。道中も気をつけてね」「はい、任せて!」……翌朝。真由はボディーガードが注意を払っていない隙を狙い、ゆみを舞桜の車にこっそりと乗せた。ゆみのために用意しておいた服も車のトランクに詰め込んだ。すべての準備が整うと、真由は車の横に立ち、ゆみの手をぎゅっと握りしめた。「ゆみ、到着したらおばあちゃんに教えてね」ゆみはうなずいた。「おばあちゃん、お願いだから兄ちゃんたちに伝えて。ゆみのことは心配しないでって」真由は涙を拭いながらうなずいた。「わかったわ、おばあちゃんが必ず伝えるからね。師匠の言うことをしっかり聞くのよ」「わかった!ゆみはお利口に、どんな困難も乗り越える!」ゆみは力強く頷いた。真由はゆみの頬を優しく撫でながら言った。「行きなさい。そして、自分の道を切り開くのよ。疲れたら帰っておいで。ここはいつまでも、あなたの帰る場所だから」「うん!ちゃんと覚えておくよ!」舞桜はエンジンをかけた。「そろそろ行く時間よ」真由はゆっくりと手を離し、別れの挨拶をした。「ゆみ、元気でね」ゆみは車の窓に身を乗り出しながら、別れを告げた。「おばあちゃんも元気でね!」車が走り出すと、真由はつい追いかけたい衝動に駆られたが、ゆみを泣かせないためにぐっと我慢した。ただ手を振って遠ざかっていくゆみを見送った。上階。佑樹と念江の二人は、窓際に立って下の光景をじっと見つめていた。佑樹は顔をこわばらせ、目元が赤く潤んでいた。念江もまた目を赤くし、視界から徐々に消えゆく車を見つめた。彼は感情を抑え、唇を震わせなが
午前九時。ゆみがいなくなったと知った悟は、真っ先に病院へ向かった。病室の扉に近づいたその瞬間、苛立った口調のボディーガードの声が耳に入った。「絶食したところで、君を解放するとでも思っているのか?全く馬鹿げた考えだ!」悟は足を止め、軽く眉をひそめた。傍らにいたエリーが彼の様子を見て問いかけた。「影山さん、あの者を始末しましょうか?」エリーの言葉が終わるか終わらないうちに、再び中からボディーガードの声が聞こえてきた。「食べないつもりなら、無理やり口に押し込むぞ!」悟の顔色が次第に曇り、扉を押し開けて病室に入った。すると、窓の外をじっと見つめて物思いにふける紀美子の姿が目に飛び込んできて、彼の胸の奥には言いようのない不快感が広がった。悟の登場に驚いたボディーガードは、一瞬固まったが、すぐに頭を下げて挨拶した。「影山さん!」悟は冷え切った目でボディーガードを見た。「お前に、彼女にそんな態度で接する権利を与えた覚えはない」その声は穏やかだったが、どこか冷たい威圧感が漂っていた。ボディーガードは体を硬直させ、すぐに弁解しようとした。「申し訳ありません、影山さん。ただ、彼女はもう何日もまともに食事を取っていなくて、彼女の体が心配で……」「エリー」悟はボディーガードの言葉を遮った。エリーが一歩前に出た。「はい」「もう必要ない」エリーは即座に頷いた。「かしこまりました」そのやり取りを耳にしたボディーガードの目は大きく見開いた。紀美子もは眉をひそめ、エリーがボディーガードに近づく様子を不安げに見つめた。次の瞬間、エリーが急に素早く動いた。ボディーガードが反応する間もなく、その喉元が切り裂かれた。空中に血が弧を描くように飛び散った。その光景を目にした紀美子は、目を大きく見開いたまま凍りついた。恐怖が彼女の理性と思考をすべて奪い去っていった。つい先ほどまで自分に食事を強要していた男が、悟のたった一言で命を失った。しかし、悟は何事もなかったかのように冷静で、平然としていた。彼は紀美子のベッドの傍らまで歩み寄ると、椅子に腰を下ろした。そして食事にまで血が飛び散ったのを見ると、顔に嫌悪の色を浮かべた。「エリー、これ、変えてきてくれ」「かしこまりました
その言葉を聞いた瞬間、悟の瞳が冷たく光った。「紀美子、俺の限界を試すな」「限界?」紀美子は抑えきれない笑いを漏らした。「限界があるって言うの?好き勝手に人を殺し、侮辱して!あなたなんて、この世に存在すべきじゃない!死ぬべきよ!」悟の目に暗い影がよぎった。「感情に任せて言いたいことを言う前に、子どもたちの状況を考えろ」その一言で、紀美子の怒りは瞬く間に消えた。ハッと我に返り、子どもたちが悟の手中にあることを思い出した。紀美子が静かになったのを見ると、悟も態度を改めた。「今日は二つ話がある」悟は言葉を続けた。「一つ目だが、ゆみはどこに行った?」紀美子がシーツをぎゅっと掴み何かを言いかけたその時、悟がまた口を開いた。「紀美子、嘘をつこうとするな。俺のことはよく分かっているだろう?」紀美子は唇をかみしめ、しばらく考えた末、正直に答えた。「ゆみは師匠について修行に行ったの。私は、子どもたちの選んだ道は邪魔しない」「分かった」悟はあっさりとした様子で頷いた。「それについては約束しよう。ゆみのことにはこれ以上口を出さない」悟があまりにもあっさりと承諾したので、紀美子は一瞬、耳を疑った。「それから」悟は続けて言った。「俺はMKを引き継いだ。明日のニュースで取り上げられるだろう」引き継いだ!?紀美子は驚いた。彼は一体どうやってMKを引き継いだのか。晋太郎がいなかったとしても、次郎や裕太がいるはずだ。悟と森川家には何の関係もないのに、どうやって実現させたのだろうか?また幹部達を脅迫したのか?「どうして俺がMKを引き継げたのか、不思議だろう?」悟は薄く笑った。「次郎はすでに死んだ。そして裕也は、いまだに行方不明だ。さらに……俺の手には遺言書がある」「どうしてあなたが遺言書を持っているの!?」悟の言葉に、紀美子は背筋が凍るような感覚に襲われた。まさか悟は貞則と関係があるのか!?悟は唇をわずかに動かし、ゆっくりとベッドサイドテーブルにある水を手に取り、紀美子に差し出した。「喉を潤せ。それから話してやる」コップの水を見た瞬間、紀美子は先ほど鮮血が飛び散ったボディーガードの姿を思い出した。胃の奥から嫌悪感が込み上げ、思わず顔を背けた。そん
しかし、表情に出すわけにはいかなかった。何しろ悟の思考は非常に緻密だからだ。紀美子は、感情を抑え込み冷淡な声で言った。「好きにすれば」「分かった」悟は立ち上がりながら言葉を続けた。「三日後に迎えに来る」病室を出ると、エリーはすでに遺体の処理を終えて戻ってきていた。彼女は病室にちらりと目をやり、悟を見つめて言った。「影山さん、この女……」言いかけたところでエリーは言葉を止めた。悟が眉をひそめ、不快感をあらわにしていたからだ。「何だ?」悟は短く問いかけた。エリーは言葉に詰まりつつ、思い切って口を開いた。「影山さん、この女はあなたの秘密を知りすぎています。どうして殺さないのですか?」どうして殺さないか?悟は視線を落とした。時折自分もその問題については考えていた。紀美子が銃で撃たれたその瞬間を目にした時から、自分の中で何かが揺らぎ始めたのは感じていた。紀美子を手放せないというわけではない何しろ、紀美子には利用価値しか感じておらず、一片の感情もない。では、この胸騒ぎの正体は何なのか?おそらく今は、その答えを探るためだけに、紀美子を生かしている。「エリー、自分の仕事をきちんとしろ。これはお前には関係のないことだ」悟は冷たく言い放った。「影山さん!」エリーは焦った様子で言った。「彼女をずっと閉じ込めておけないなら、災いは起こり続けます!」「俺が決めたことに、お前が口出しする権利はない!」悟の声には、怒りがあらわれていた。「影山さん、まさか彼女のことを好きになったのではないですか?」悟の温和な表情に、不機嫌の影が差した。「今日は余計なことばかり話すな」しかし、エリーは心配そうに続けた。「影山さん、ここまで来るのにどれだけ苦労されたか、どうか慎重に……」「もう黙れ!」悟は冷たく一喝した。エリーは悔しそうに唇を噛んだ。エリーは、悟が去って行くのを見送りながら病室を忌々しげに睨みつけ、彼の後を追った。翌日。いくつかのホットニュースが、金融界や帝都全体を震撼させた。──《MKの森川晋太郎社長、飛行機事故で爆発。遺体はいまだ見つからず!》──《森川家の長男、森川次郎が交通事故で死亡!》──《森川家の当主、他者を陥れた罪
「お前はこの問題をあまりにも簡単に考えすぎだ!」晴は隆一を一瞥した。「晋太郎すらも眼中に入れない男が、俺たちを相手にすると思うか?」隆一は肩を落とし、意気消沈した様子で言った。「じゃあどうすればいいんだ?何日も経つのに、糸口が全然見つからないじゃないか!」晴はしばらく考え込むと、こう提案した。「紀美子に会いに行こう」「紀美子に?」隆一は困惑した表情で聞き返した。「会える見込みでもあるのか?」「何か方法を考えるしかない」晴は言った。「今の俺たちでは、どんなに彼女を助けたいと思っていても意味がない。鍵となるのは紀美子自身がこれから何をするつもりなのかだ」隆一は驚きのあまりしばらく黙った。「つまり、紀美子が悟と一緒になる可能性があるってことか?」「その可能性も否定できない」晴は頷いた。「お前だったら、復讐したいと思わないか?」「そんなの当たり前だろ!」隆一は呆れたように言い返した。晴は彼をじっと見つめながら言った。「だからこそ、俺たちがどう動くかではなく、紀美子をどうサポートすべきかを考えよう。彼女が悟のそばに残れば、必ず奴の犯罪の証拠を手に入れることができる。それこそ、ここで頭を悩ませているよりも有効だ」「……確かに一理あるな」隆一は眉間に皺を寄せながら小声で呟いた。その時、晴の脳裏にある人物の名前が浮かんだ。「そうだ、瑠美だ!」隆一はきょとんとして彼を見つめた。「何が言いたい?」晴は悔しそうに頭をかきながら言った。「どうして今まで瑠美のことを忘れてたんだ!彼女なら紀美子と連絡を取れるかもしれない!」「でも、皆悟に捕まってるんじゃないのか?」「いや」晴は答えた。「裕也さんは悟が子どもたちとおばさんだけを監禁したって言ってた」「瑠美の連絡先は持ってるか?」隆一は興奮気味に言った。「早く彼女に連絡してみろ!」「裕也さんに聞いてみる!」数分後、晴は瑠美の電話番号を入手した。彼女に電話をかけると、すぐに繋がった。「瑠美か?」晴が尋ねると、電話の向こうで瑠美が驚いた声を上げた。「晴兄さん?」「そうだ」晴は続けた。「時間あるか?ちょっと会って話したいんだ」「いいわ。場所を教えて」それから二十分後、
「紀美子」「……うん」「結婚しよう」紀美子の身体はこわばり、返事もせずそっと晋太郎を押しのけた。俯いたまま晋太郎の目を避け、彼女は声をひそめた。「その…そんなに急がなくてもいいと思う……」そう言うと、彼女は慌てた様子で立ち上がった。「また今度ね!私、先にお風呂に入るから!」逃げるように去っていく紀美子の背中を見てから、晋太郎は目を伏せた。以前なら、喜んですぐに頷いてくれたはずなのに――なぜ今は躊躇するんだ?どういうことだ?家族への挨拶が済んでいないからか?浴室のドアをじっと見つめながら、晋太郎は考え込んだ。どうやら明日、渡辺家を訪ねなければならないようだ。翌日。晋太郎が会社の仕事を片づけ渡辺家に向かおうとしたところ、晴にランチに誘われた。時間にまだ余裕があったため、晋太郎は晴とレストランへ向かった。食事中、晋太郎は窓の外を見つめて黙っていた。晴は何度か彼を不思議そうに見てから、ようやく口を開いた。「晋太郎、何を考えてるんだ?」晋太郎は手に持っていたコーヒーを置き、晴を見ながら答えた。「佳世子に結婚を拒まれたことはあるか?」晴は呆然とした。「それって……紀美子に振られたってこと?」晋太郎が頷いた。「そんな経験ないか?」「ないな」晴は答えた。「むしろ毎日のように結婚を催促されてる」晋太郎は黙り込んだ。紀美子は一体どうしたのだろうか?晴も少し考え込んだ後、言った。「晋太郎、もしかしたら紀美子は前回の婚約の件でトラウマを負っているんじゃないか?なんていう症候群だったっけ?心理カウンセラーに診てもらった方がいいかもな」晋太郎は眉をひそめた。「そこまで深刻ではないだろう」「深刻に決まってるだろ!」晴は真剣な様子で言った。「お前が生きていることを知ったあと、彼女は必死で会社を守り、銃弾まで受けた。目が覚めたらまたお前たちのことが……俺だって耐えられないよ。どうして深刻じゃないなんて言えるんだ?間違いなくトラウマがあるに決まってる。じゃなきゃ拒む理由がないじゃないか」晋太郎はイライラして指でテーブルを叩いた。「佳世子に探りを入れさせろ」「任せとけ!」晴は言った。「でも、本当にそうなら早めにカウンセリングを受けさせた方
「事実的な関係はあるだろう。紀美子、君は俺の子供たちの母親だ。この事実は変えられない」「その関係だけで、私を縛ろうって言うの?」紀美子は冷笑した。「確かに電話に出なかったのは私が悪いわ……でも、それで私の自由まで奪わないで。母親って立場だけで、あなたに私の人生をコントロールされる筋合いはないわ!」紀美子の言葉で怒りが爆発しそうになった晋太郎は、ギアを入れ替えると潤ヶ丘へ猛スピードで走り出した。あまりのスピードに、紀美子は怖くなって黙り込んだ。潤ヶ丘に着くと、晋太郎は車を止め、降りて助手席側に回るとドアを開け、紀美子を担ぎ上げてそのまま別荘の玄関へ向かった。「晋太郎!下ろしなさい!」紀美子は必死にもがいた。しかし晋太郎は解放することなく、そのまま部屋まで運び込むと、ベッドに彼女を放り投げた。彼は暴れる紀美子の手足を押さえつけ、怒りに震える声で言った。「紀美子、言ったはずだ。君にちゃんとした立場を与えると」紀美子は不満げな目で彼を見つめた。「その立場と引き換えに会社を奪われるなら、いらない!誰かに依存して生きるなんて、一番嫌いなの」「依存させようとしてない。俺が欲しいのは君だけだ。他人の目が気になるなら、今日からMKがTycの子会社になっても構わない」紀美子は動きを止め、驚いた表情で見上げた。「何を……言ってるの?」晋太郎はベッドサイドの引き出しを開け、契約書を紀美子に投げつけた。紀美子はそれを拾い上げ確認し、目を見開いて尋ねた。「これって、どういう意味?」「この契約書、本当はプロポーズのあとで渡すつもりだったんだ。君が望まないことを無理やり押し付ける気はない。」そう言いながら彼は紀美子の隣に座り、表情に強い決意を宿して続けた。「紀美子、君は俺に何か聞きたいことがあるんだろう」紀美子は契約書を握る手に力を込めた。「ええ、あなたの口から直接聞かせてほしいの。私が頑固なのは認めるわ。でも……あなたの本心を言葉にしてほしい。これは、あなたが本当に私を気にかけていたかどうかの問題よ。からかいや隠し事は大嫌いなの」晋太郎は口元を緩めた。「記憶があるかないかが、そんなに重要か?」紀美子はぱっと顔を上げた。「重要よ!本気の愛と、責任だけの結婚、あなたはどっちが欲しい?」
「まあ、そう言うけど」佳世子はため息をついて言った。「でも、やっぱり形は必要でしょ。私だって、いつできるかわからないんだから」「晴の両親は……」「あーもう!」佳世子はイライラしながら紀美子の言葉を遮った。「そんな話はやめて!考えるだけで頭にくる!」「もうすぐお正月ね。今年のお正月は、いつものように賑やかにはいかないわ」紀美子は窓の外を見つめて言った。佳世子は頬杖をつき、紀美子と同じく窓外のネオンを見つめた。「寂しいなら、いつものように賑やかにすればいいじゃない」紀美子は佳世子の方に向き直った。「どんなに賑やかにしても、子供たちがいない寂しさは埋まらないわ」その言葉を最後に、二人の間に沈黙が流れた。しばらくして、佳世子は急に背筋を伸ばして言った。「紀美子、明日私たちで不動産を見に行かない?」紀美子は目を丸くした。「家?どうして?」「あなたも私も今住む家がないでしょ?」佳世子は目を輝かせながら続けた。「別荘じゃなくて普通のマンション!同じ階を買って、間取りを繋げちゃうの!」「まあいいけど……」紀美子はまだ佳世子の指す意味を完全には理解できていない様子だった。「でも何のため?」佳世子はニヤリと笑った。「もちろん楽しむためよ!例えばあなたが晋太郎と喧嘩した時とか、私が晴と揉めた時とか。私たちだけの家に逃げ込むの!」「それで?」紀美子が尋ねた。「そしたらパーティーよ!イケメンたちを大勢呼んで、一緒に騒いじゃうの!」話に夢中になっていると、いつの間にか背後に二人の男が立っていた。佳世子の言葉を聞いた瞬間、晴の顔は青ざめた。「佳世子!!」晴は我慢できず、佳世子の背中に向かって怒鳴った。佳世子はビクッとして振り向き、突然現れた二人を見て目を見張った。「あなたたち、どうしてここに!?」紀美子も慌てて振り返った。彼女はすぐに、顔をしかめた晋太郎が自分を睨みつけているのに気づいた。その目には明らかな怒りが見えた。紀美子が口を開く間もなく、晴は佳世子を肩に担ぎ上げた。「晴っ!お、おろしてよ!ちゃんと話し合えばいいじゃない。なんで担ぐのよ!?紀美子!助けて!」佳世子は叫んだ。叫びながら遠ざかっていく佳世子の姿を見送りながら、紀美子
晴は口をとがらせ、不満げな表情で視線を逸らした。「そんなんじゃないよ。彼女にブロックされたんだ」晋太郎は一瞬呆然としたが、すぐに嘲笑った。「お前、余計な干渉をしすぎたんじゃないか?」「お前だって紀美子にズカズカと干渉してるくせに、偉そうなこと言うなよ」晴は「ちぇっ」と舌打ちした。「だったらお前が紀美子に電話してみろよ」晋太郎はテーブルの上の携帯を手に取った。「少なくともお前のようにブロックはされてない」そう言うと、紀美子の番号をタップした。しかし、コール音が一度鳴ったところで、機械的な女性の声が流れてきた。「申し訳ありませんが、お掛けになった電話は現在通話中です……」「プッ…」晴は思わず吹き出した。「それでよく偉そうなこと言えたな!紀美子にまさかのワン切りされてるし!はははは……」晋太郎の端正な顔が、晴の笑い声とともに次第に険しくなっていった。彼は諦めず、再び紀美子に電話をかけた。今度は呼び出し音すら鳴らず、すぐに機械音声に切り替わった。「あははははは!」晴は涙を浮かべながら笑い転げた。「晋太郎、お前、さっき言ってたこと……どうしたんだよ?はははは!」晋太郎は携帯をしっかりと握りしめた。彼女は一体どこに行ったんだ?自分の番号をブロックするなんて!晋太郎は苛立ちながら、連絡先から肇の番号を探し出し、電話をかけた。つながると、彼は怒りを抑えながら言った。「肇、紀美子の位置を特定しろ!」肇が返答する前に、美月の声が聞こえてきた。「社長、奥様が見つからないからってアシスタントに頼むなんて、どうかしてますよ?」美月のからかい混じりの声が晋太郎の耳に飛び込んできた。その言葉を聞いて、晴はこらえきれずまた顔を赤くしながら笑い転げた。「お前、なんで肇と一緒にいるんだ?」晋太郎は眉をひそめ、冷たく問い詰めた。「彼は独身、私も未婚。一緒にいて何か問題でも?」美月が返した。「遠藤さん、私から晋様にお話しさせてください……」肇が慌てて割り込んできた。「ただ紀美子さんを探してほしいだけでしょう?他に用事はないわ」美月は言い放った。「奥様と喧嘩したからって、私たちまで巻き込まないでちょうだい」美月がそう言い終わらないうちに、通話が切られ
紀美子は翔太に事情を簡単に説明した。話を聞いた翔太は深くため息をついた。「あの子たちはみんなしっかりした子たちだ。自分で決めたことなら、無理に引き止めるわけにはいかない。尊重してやらなきゃな。だが……こんな場所で気分転換するべきじゃない」「そういえば、翔太さんはここで何を?」佳世子は話題をそらすように尋ねた。翔太はバーの入口を一瞥しながら答えた。「あの連中は舞桜の遠縁の親戚たちなんだ」二人は顔を見合わせ、紀美子は怪訝そうに聞いた。「どうして舞桜の親戚と一緒に?」翔太は苦笑し、鼻をこすりながら答えた。「実はな、舞桜と一週間後に婚約する予定なんだ」「えっ!?」二人は声を揃えて叫んだ。「そんな大事なこと、どうして教えてくれなかったの?」紀美子は驚きを隠せなかった。佳世子は舌打ちした。「翔太さん、私たちより早いじゃない!」「彼らが帰ってから紀美子に話そうと思ってたんだ」紀美子は軽く眉をひそめた。「さっき見かけたけど、舞桜と同世代くらいの人たちみたいね。難しい人たちなの?」「なんというか……」翔太は小さくため息をついた。「茂の親戚と似たような連中だ。だから君には早く知らせたくなかったんだよ。彼らは本当に面倒を起こすから」「舞桜が止めないの?」佳世子は聞いた。「いつまでも我慢してばかりじゃダメよ!」「止めないわけじゃない」翔太は言った。「舞桜の父親からの試練のようなものだ。舞桜は彼らのことで父親と大喧嘩したんだ。でも、父親は自分だけでは決められないと言ったらしい。舞桜の祖父の意向もあるみたいで」紀美子は話の裏を読み取って聞いた。「もしかして、その祖父って……舞桜と兄さんの関係に反対してるの?」「そうだ」翔太は率直に認めた。「舞桜の祖父は、海軍の偉いさんでさ。我々のような商人のことを、なかなか認めてはくれない」「今どきそんな家柄を気にするなんて!」佳世子は呆れたように言った。紀美子はしばらく考え込んでから言った。「でも、そうでなければ、舞桜もここまで来て兄さんと出会うこともなかったわね」「うん、その通りだ。前に舞桜が俺に会いに来たことが、余計に彼女の祖父の反感を買ったらしい」「舞桜は良い子よ」紀美子は翔太を見つめて言った。
「結婚を発表する日に、この件も公表する」晋太郎はペンを置いてから答えた。今のところ、自分はまだ紀美子を正式に口説き落としていない。いきなりこんな話をしても、笑いものになるだけだ。夜。紀美子は佳世子に連れられ、帝都に新しくオープンしたバーに来ていた。入り口に入った瞬間耳をつんざくような音楽が聞こえてきて、紀美子は鼓動が早くなるのを感じた。彼女は佳世子の手を引き寄せ、耳元で叫ぶように言った。「佳世子、ここはやめようよ。あの人たちに知られたら、飛んでくるに決まってる」「どうしていけないの?」佳世子は紀美子の手を引っ張って中へ進んだ。「あの人たちはあの人たち、私たちは私たちよ。付き合ってるからって、こういう場所に来ちゃいけないルールでもあるの?正しく楽しんでるんだから、平気でしょ!」紀美子は佳世子が気分転換のために連れてきてくれたのだとわかっていた。だが、こういう騒がしい場所は苦手だった。理由は主に二つあった。一つは環境が乱雑なこと、もう一つは晋太郎の性格だ。彼が知れば、このバーごとひっくり返しかねない。自分でトラブルを起こすつもりもなければ、晋太郎に誰かに迷惑をかけさせるつもりもなかった。ボックス席に着いても、紀美子はまだ佳世子の手をしっかり握っていた。「佳世子、やっぱりここは嫌だわ。静かなバーに変えようよ?」「え、何?!」佳世子は聞き取れなかった。紀美子はもう一度繰り返し言った。「紀美子、まず座って落ち着いて話を聞いてよ」佳世子は言った。紀美子は彼女の意図を察し、しぶしぶ一緒に座った。佳世子は紀美子の耳元に寄った。「晋太郎、まだ記憶が戻ったって認めてないでしょ?」紀美子は彼女を見て尋ねた。「それがここに来ることと何の関係が?まさか、彼を刺激したいの?」佳世子は激しく頷いた。「男ってのはみんなそうよ。何か起こさないと本当のことを言わないのよ!」「だめだめ」紀美子は慌てて首を振った。「言わないのは彼の勝手よ。私がどうするかは私の自由。佳世子、本当にここにいたくないの」佳世子はまだ何か言いたげだったが、ふと目の端に映った人影に気づき、言葉を止めた。そしてじっとその見覚えのある姿を見つめながら言った。「紀美子、あの人……あなたのお兄
二人は涙を見せれば、ゆみがますます別れを惜しんでしまうことを恐れていたのだ。「ゆみ、待ってるから!毎日携帯見て、お兄ちゃんたちからの連絡を待ってるからね……ゆみはちゃんと大きくなるよ。ご飯もいっぱい食べて、悪さしないで……うう……早く帰ってきてね……」紀美子も、堪えきれず涙をこぼした。晋太郎がそっと近寄り、彼女を優しく抱き寄せた。この別れは、誰の胸にも重くのしかかっていた。ゆみは学校に行かなければならなかったので、佑樹と念江を見送った後、昼食を取るとすぐに急いで飛行機で帰って行った。紀美子は、がらんとした別荘を見回し胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われ、ソファに座ったまま呆然としていた。今にも、子供たちが階上から駆け下りてきてキッチンで牛乳を飲むような気がしてならなかった。そんな紀美子の様子を見て、晋太郎は携帯を取り出し佳世子にメッセージを送った。1時間も経たないうちに、佳世子が潤ヶ丘に現れた。ドアが開く音に、紀美子がさっと振り向いた。佳世子と目が合うと、一瞬浮かんだ期待の色はすぐに消えていった。佳世子は小さくため息をつき、紀美子の隣に座った。「紀美子、まだ子供たちのことで頭がいっぱいなの?」紀美子は微かに頷いた。「うん……なかなか慣れなくて。佑樹と念江も行っちゃったし、ゆみもすぐ帰っちゃったし……」「あの子たち、本当にあなたに似てるわ」佳世子は言った。「あなたが帝都を離れてS国に行った時も、こんな風に自分の目標に向かって突き進んでたもの」紀美子はぽかんとし、思わず苦笑した。「あれは状況に迫られてのことよ」「そんなこと言ったら、まるで子供たちがあなたから離れたくてたまらないみたいじゃない」佳世子は紀美子の手を握った。「そんな話はやめましょう。午後はショッピングに行くわよ!」「ちょっと!」紀美子は驚いたように彼女を見つめて言った。「どうして急に来たの?」佳世子はきょろきょろと周りを見回し、晋太郎の姿がないのを確認すると、小声で言った。「実は、あなたのご主人に頼まれて来たのよ!」紀美子は、ご主人様という言葉を聞いて顔が赤くなった。「え、え?ご主人なんて……私、彼とはまだそんな関係じゃないのよ……」「遅かれ早かれ、そうなるんだから!」佳
俊介は淡く微笑んだ。「晋太郎、子供たちは俺にとって実の孫同然だ。心配する必要はない」その言葉を聞いて、紀美子は少し安心した。一行は保安検査場の目の前まで来ると、紀美子は子供たちの前にしゃがみ込んだ。彼女は無理に笑顔を作りながら、子供たちの腕に手を置いて言った。「一時間後には搭乗よ。誰と一緒でも、自分のことはきちんと守って。無理しないでね」佑樹と念江は頷いた。「ママ、心配しないで。僕たち、できるだけ早く帰るから」佑樹は言った。「ママも体に気をつけてね」念江は笑みを浮かべて言った。「パパと一緒に、今度は妹を作ってよ」紀美子は一瞬固まり、念江の鼻をつまんで言った。「ママとパパはまだ何も決めてないの。その話はまた今度ね」ゆみを待っている晋太郎は、周囲を見回しながらふと紀美子の方を見た。口を開こうとした瞬間、背後から慌ただしい足音が聞こえてきた。「お兄ちゃん!!念江お兄ちゃん!!」ゆみの声が響き、一同が振り返った。ゆみは小さな体で次々と乗客の間を縫うように駆け抜け、全力で佑樹と念江の元へ突進してきた。そして両手で二人の首にしっかりと抱きついた。「間に合ったよ!」ゆみは泣きながら二人の肩に顔を埋めた。「お兄ちゃんたちの見送り、間に合って良かった」佑樹と念江は呆然と立ち尽くした。まさかゆみがこんなに遠くまで見送りに来てくれるとは思ってもいなかったのだ。二人の目が一瞬で赤くなった。これ以上の別れの贈り物はないだろう。二人はゆみをしっかりと抱きしめ、必死に冷静さを保ちながら慰めた。「もう、泣くなよ!」佑樹はゆみの背中を叩いた。「人がたくさんいるんだぞ。恥ずかしくないのか」念江の黒く大きな目は優しさに溢れていた。「ゆみ、わざわざ来てくれてありがとう。大変だったろう」ゆみは二人から手を放した。「向こうに行ったら、絶対に自分のことをちゃんと気遣ってね。時間があったら、必ず電話してよ。分かった?」佑樹と念江は、思わず俊介を見た。その視線に気づいたゆみは、俊介を睨みつけた。「あなたのくだらない規則なんて知らないよ!お兄ちゃんたちを連れて行くのはいいけど、連絡を絶たせるなんてひどいよ!ゆみは難しいことは言えないけど、家族は連絡を取り合うべきだってわか
紀美子は箸を握る手の力を徐々に強めながら、優しく言った。「念江、大丈夫よ。本当にママに会いたくなったら、会いに来ればいい」念江はぽかんとした。「でもあそこは……」紀美子は首を振って遮った。「確かにルールはあるけど、抜け道だってあるはずでしょう?」念江はしばらく考え込んでから頷いた。「うん。僕たちが認められれば、きっとすぐにママに会える」紀美子は安堵の表情でうなずいた。子供たちと食事を終えると、彼女は階上へ上がり、荷造りを手伝った。今回は晋太郎の部下に任せず、自ら佑樹と念江の衣類や日用品をスーツケースに詰めていった。一つ一つスーツケースに収める度に、紀美子の胸の痛みと寂しさは募っていった。ついに、彼女は手を止め俯いて声もなく涙をこぼし始めた。部屋の外。晋太郎が階下へ降りようとした時、子供たちの部屋の少し開いた扉から、一人背を向けて座っている紀美子の姿が目に入ってきた。彼女の細い肩が微かに震えているのを見て、晋太郎の表情は暗くなった。しばらく立ち止まった後、彼はドアを押して紀美子の傍へ歩み寄った。足音を聞いて、紀美子は子供たちが来たのかと慌てて涙を拭った。顔を上げ晋太郎を見ると、そっと視線を逸らした。「どうしてここに……」「俺が来なかったら、いつまで泣いてるつもりだったんだ?」晋太郎はしゃがみ込み、子どもたちの荷物をスーツケースに詰めるのを手伝い始めた。「手伝わなくていいわ、私がやるから」「11時のフライトだ。いつまでやてる気だ?」晋太郎は時計を見て言った。「もう8時半だぞ」紀美子は黙ったまま、子供たちの服を畳み続けた。最後になってやっと気付いたが、晋太郎は服のたたみ方すら知らないようだった。ただぐしゃぐしゃに丸めて、スーツケースの隙間に押し込んでいるだけだった。紀美子は思わず笑みを浮かべて彼を見上げた。「あなた、本当に基本的なことさえできないのね」晋太郎の手は止まり、一瞬表情がこわばった。彼は不機嫌そうに顔を上げ、紀美子を見つめて言った。「何か文句でもあるのか?」紀美子は晋太郎が詰めた服を再び取り出しながら言った。「文句を言ったところで直らないだろうから、邪魔しないでくれる?」「この2日間で、弁護士に書類を準備させた。明日届く