もし明日香が本当に将来の兄嫁になるのなら、優しく接するのも当然のこと。いずれは家族同士になるのだから。でも、珠子とは――永遠に「家族」になることなど、あり得ない。珠子が遼一のそばにいられる時間も、そう長くはないはずだ。康生という老獪な男は、表向きこそ柔和に振る舞うが、その実、陰険で計算高い。一方では娘を使って藤崎家に取り入り、他方では養子を桜庭家に接触させている。の手腕は、まさに盤面を読む老将棋士のように、冷静で抜け目がない。権力のためなら手段は選ばない。そういう人間を、遥は幼い頃から見てきた。家族さえも使い捨てにする者が、世の中には数えきれないほど存在する。ならば、遼一が珠子ひとりを手放したところで、何になる?何を惜しむ必要がある?スカイブルー社内。康生は会長を退任してからというもの、ほとんど会社に顔を出さなくなっていた。だがこの日は珍しく、社長席にどっしりと腰を下ろし、遼一はその前に立って最新の財務諸表を差し出していた。今期の収益は、前期比32%増。会社創立以来の最高益を記録している。些細な数字に見えるかもしれないが、この一つ一つが、やがて莫大な利益となって月島家に還元されていくのだ。「最近の経営は順調だな。よくやった」康生の口調はいつになく柔らかく、珍しく称賛の言葉が漏れた。「お褒めいただき恐縮です」遼一は頭を下げた。「これも、藤崎グループの支援あってこそです。あと半年もすれば、さらに規模を拡大できる見通しです」康生も小さく頷いた。認めたくはないが、それもまた、樹の目に留まった明日香のおかげだ。「明日香は、藤崎家でうまくやっているか?会いに行ったか?」「学業が忙しく、なかなか......たまに珠子を迎えに行った時に、少し話す程度です」遼一は落ち着いた口調で返した。その答えに無駄な隙はない。だが、珠子の名が出た瞬間、康生の眉がわずかに動いた。「お前たち、まだ付き合っているのか?」「はい」遼一の表情は変わらなかった。だが康生の瞳には、明確な不快感が浮かんでいた。「よく考えろ。お前は、取るに足らない女を選ぶのか?それとも、ピラミッドの頂点に立ち、万人の憧れとなるのか?」康生は手元の資料を机に置き、ゆっくりと席を立つと、遼一の肩を軽く叩いた。「お前ももう、子どもじゃない。明
午前の授業中、明日香はどうしても集中できなかった。昨夜の非常階段での出来事――淳也のあの言葉が、頭の中をぐるぐると巡っていた。考えたって、仕方ないこともある。そう自分に言い聞かせて黒板を見上げた時には、すでに先生は次の単元の説明に入っており、最初の授業はただぼんやりと過ぎていった。窓際の最前列に座る明日香の耳に、後ろから声が届いてきた。話しているのは遥と珠子だった。金の箔押しが施された厚手の招待状が、珠子の前に差し出された。遥の声は、まるで命令のように揺るぎなかった。「これは、私が桜庭家の次期当主としてあなたと遼一さんに出す正式な招待状よ。今週末、桜庭グループの発表会兼晩餐会があるの。時間通りに来てちょうだい」珠子はその紙を手に取り、一瞬、意外そうな表情を浮かべたあと、穏やかな笑みを浮かべた。「ごめんなさい、遥さん。会社のことは私にはよく分かりません。でも、遼一さんに直接渡したりはしません。もし彼が行くなら、私も同行します」遥は軽く頷きながらも、どこか釘を刺すように言葉を続けた。「その時は、きちんとした格好で来なさい。月島家の顔を潰さないようにね」珠子の顔色がさっと青ざめた。けれど、それ以上は何も返さず、表情を押し殺したままだった。遥は何食わぬ顔で視線を逸らし、もう一枚の招待状を手に明日香の席にやってきた。「あなたにも。お兄ちゃんと付き合ってるんだから、将来は兄嫁になるかもしれないでしょう?......前回のことは、もういいの。お兄ちゃんに怒られちゃったから。淳也のことも、もう何も言わないわ」そう言って少し間を置き、声のトーンを柔らかく変えた。「この招待状、お兄ちゃんに渡してもらえない?どうしても、来てほしいの」珠子への高圧的で尊大な態度とは対照的に、明日香に対してはわざとらしいほどの穏やかさを見せる遥。その変わり身の早さに、どこか意図的なものを感じずにはいられなかった。「伝えておくわ」明日香は無表情のまま招待状を受け取った。「ありがとう」遥が小さく頭を下げた。この傲慢なお嬢様が頭を下げる相手など、樹以外には、樹の傍にいる明日香くらいだろう。遥が席に戻った後、明日香は心の中でそっと呟いた。会社の用事なら、どうして高校生を通して届けるの?私たちはまだ卒業もしていないのに....
一度あることは二度ある――遼一が、その最たる例だ。明日香がバスルームから出てきて、初めて携帯を開いたとき、画面には樹からの着信履歴がいくつも並んでいた。窓際に立ち、ベルトを締めたローブ姿で、髪はまだ湿り気を帯びている。明日香はそのまま折り返しの電話をかけた。コール音はほとんど鳴らずに繋がった。「まだ起きてた?」耳元から届く、聞き慣れた低音。いつも通りの落ち着いた声だが、不思議とその響きには安心感があった。明日香は空に浮かぶ三日月を見上げた。首にかけているネックレスと同じ形だと、今さらながら気がつき、ふと小さな声で尋ねた。「いつ戻ってくるの?」電話越しに、くすりと笑う気配が伝わってきた。「明日香、まだ一日しか経ってないよ。正確に言えば、十五時間と十二分」少しの間をおいて、声の色が和らいだ。「何かあった?学校で嫌なことでも?」ローブの裾をぎゅっと握りしめた。鼓動がうるさくて、電話の向こうまで聞こえてしまいそうだった。「私......寂しくなっちゃった」そのひと言には、生まれて初めてと言っていいほどの勇気が要った。けれど、脳裏には勝手に過去の記憶が浮かび上がった。遼一に何度「寂しい」と訴えても、返ってきたのは冷たい保留音、あるいは電話の向こうで聞こえる知らない女の嬌声。最後には不倫相手からの「もう電話してこないで」の一喝。思い出すたび、心臓がぎゅっとえぐられる。血を流しても、それでも鼓動は止まってくれなかった。樹は机を離れ、ネクタイを緩めながら窓辺へ歩く。そして、夜空の同じ三日月を見上げた。「こっちの用事が片付き次第、すぐ戻るよ。今はもう遅いから、おとなしく寝なさい」「電話、切らないで。もう少しだけ、一緒にいて」その声には、かすかな願いと弱さがにじんでいた。「わかった。付き合うよ」受話器の向こうで、ふっと小さな衣擦れの音がした。おそらくベッドに横たわったのだろう。明日香も布団に入り、携帯を枕元に置いて横になる。画面には「通話中」の文字が灯り続けていた。「もう寝たの?それとも、まだお仕事中?」「今、風呂から出たところ。少ししたら寝るよ」「ねえ、樹......寝る前に、お話してくれない?誰にもしてもらったこと、ないから」明日香の願いには、幼い頃から満たされなかった愛情への渇
明日香は、ぐったりと酔いつぶれた淳也の体を支えながら、どうにか校舎を出た。藤崎家の運転手はすでに車を用意しており、明日香たちの姿を見つけるなり急いで降りてきて、彼を車に乗せるのを手伝った。「明日香さん、どうして淳也様とご一緒に?」運転手が目を丸くして尋ねると、明日香は眉間にしわを寄せながら答えた。「長くなる話だから、まずは移動しましょう」だが運転手は、困ったように顔を曇らせた。「申し訳ありません。おばあ様から、許可なしでは淳也様を本邸に入れてはならないと厳命されておりまして......」明日香はその言葉を聞いて、小さく頷いた。思い出したのだ、藤崎家の決まりを。「じゃあ、私が以前住んでいた場所に向かって」即座に判断し、道順を伝えた。淳也を後部座席に寝かせてシートベルトを締め、自身は助手席へ。車は静かに、懐かしい路地へと進んでいった。そこは、明日香がかつて暮らしていた小さなアパートだった。エレベーターはなく、階段だけの古い建物。運転手と二人で、ふらふらの淳也を支えながら、一段ずつ慎重に上った。玄関前に着くと、花壇の下に隠していた鍵を取り出し、ドアを開けた。明かりを探して壁を手探りしながら、ふと違和感を覚えた。部屋が、思ったよりもずっときれいだった。まるで誰かが最近まで住んでいたかのように、整理されていて、テーブルには食べかけの料理まで残っている。まさか......淳也が、最近ここに住んでいた?ベッドに彼を寝かせ、運転手が靴下を脱がせて布団を掛けた。その一連の動作を見守りながら、明日香はふと口を開いた。「ここで私が彼の面倒を見るのは現実的じゃないわ。淳也さんの家、今ならまだ誰か起きてる?」「奥様は......この時間にはもうお休みになっているかと」「そう......なら、仕方ないわね。一人にはしておけないもの」明日香の声は穏やかだったが、どこかに迷いと決意が入り混じっていた。あの奥様――病弱ながらも気品があり、優しい人だった。淳也も、母親を心配させたくはないだろう。「明日香さん、ご心配なく。淳也様は、きっと大丈夫です」運転手は慰めるように言った。「そろそろ戻りましょう。樹様に知られたら、お叱りを受けるかもしれません」明日香はベッドの上の淳也に視線を落とし、その顔をしばらく見つめ
「明日香の彼氏って、藤崎グループの社長なんでしょ?」そんな声が、珠子の背後から小さく漏れ聞こえてきた。彼女は足を止め、何気ないふりをして歩を緩めた。ああ、やっぱり昨夜、明日香が帰りが遅かったのは、特別クラスにいたからなんだ。それにしても、彼女......またオリンピック数学クラスに戻ってくるのだろうか?教室では、明日香が資料をホチキスで綴じていた。その最中、鋭い痛みが指先を走り、赤い血がにじんだ。小さな傷だったが、鮮やかな赤が紙の端を染めた。まぶたがピクピクと痙攣し、胸の奥に不安が湧きあがる。得体の知れない、ざわつくような感覚。だが、釘に錆びはなかった。破傷風の心配もなく、深呼吸を一つして気持ちを落ち着けた。夜、授業が終わり、明日香はトイレを済ませて教室に戻る途中、ふと鏡越しに何かが気になった。鏡の中の自分の後ろ――そこには、ただの暗闇。誰もいないはずなのに、なぜか背後に視線を感じてしまう。気のせいだ。そう思いたかった。手の水気を払って教室へ戻り、鞄を手に退出しようとしたその瞬間、背後から突然、誰かの手が伸びた。明日香は悲鳴を上げる間もなく、非常階段の薄暗い通路へと引きずり込まれた。鼻をつくような酒の匂い。感知式のライトが「カチリ」と音を立てて灯り、ぼんやりと照らし出された男の顔。その姿を見た明日香は、一瞬で表情を強ばらせた。「淳也!?」彼はひどく酔っていた。ふらつく身体を明日香に預け、そのまま彼女を強く抱き締める。後ろに壁がなければ、彼女の腰は折れていたかもしれない。「な、何してるの......っ!酔ってるだけでしょ!?しっかりして!」彼女は必死に彼を押し返そうとしたが、淳也はびくともしない。「君は......変わった」彼の声は怒りと寂しさが混ざり合い、まるで拗ねた子どものようだった。「明日香、君は......変わってしまったんだ!」「やめて......離して!こんなこと、していいわけない!」明日香は彼の顔を押しのけようとしたが、力が強すぎて腰をがっちり締め付けられ、身動きが取れなかった。「あなたにも彼女がいるんでしょ?彼女に申し訳ないと思わないの?」「嘘だ」「え?」明日香はぎょっとした。「彼女なんて嘘だ。あの女......ただの見せかけ。君を怒らせたかっただけなんだよ」
淳也はどうして最近、あんなに荒れているんだろう?もともとあんな人じゃなかった。無愛想ではあっても、人を見下すようなことはしなかったはずだ。なのに今は、怒りっぽくて、何かに苛立っているようで......明日香は小さく首を振った。彼のことを気にしても仕方がない。自分は彼の何でもないし、口を出せる立場でもない。ただ、このまま怒りをぶつけてばかりいたら、いつか痛い目を見ることになるだろう。数学オリンピックの試験が近づくにつれ、明日香の生活はそれ一色になっていった。他のことを考える余裕もなく、空いた時間はすべて勉強に充てた。特別クラスに顔を出すと、昨夜行われた試験が実は選抜を兼ねていたことを知らされた。最終的に残れるのは、たった三人。もともと二十人近くいたはずのクラスも、今では半分の十人にまで減っていた。競争はいつだって冷酷だ。一足飛びに結果が出るほど、甘い世界じゃない。教室の黒板には、昨夜の試験の成績表が貼り出されていた。明日香の名前は、一位の欄に当然のようにあった。「コネがあるって、すごいね。来てまだ半月しか経ってないのに、一位だなんてさ」誰かが皮肉交じりにつぶやいた。「私たちは何しに来たんだか。何時間も電車乗って、結局明日には帰る羽目だよ......」「やめなよ、聞こえてるよ」別の女子が肩をすくめた。「彼氏に力があるといいね。私たちみたいな庶民は、ちょっとでも上をかすめられれば御の字でしょ」「もう、ほんとにやめてよ......」数人の視線が、一斉に明日香へと向けられた。彼女が教室に入ると、さっきまでの囁き声がぱたりと止んだ。だがその沈黙に潜む視線は、明らかに嘲りを含んでいた。明日香はその視線を冷静に受け止め、教室をぐるりと見回した。「私が一位を取ったのは、自分の実力よ。何を妬んでるの?妬むだけの努力をしてるの?」淡々とした声が教室に響いた。「もし前回の試験が不公平だったって言うなら、もう一度やり直してもいいわよ?」すると数人の男子が口を開いた。「彼女、学年二位だよ?こんなとこでカンニングする必要なんかないって。むしろさ、地方から来たのに授業サボったり、買い物行ったりしてるあんたらのほうが......その時間、ちゃんと勉強に使えば、妬まずに済んだんじゃないの?」一斉に非難の矢が女子たちへと