「でも、婆さんはねえ、口がうるさくて......どうしても今、このおしるこが食べたいのよ」「私が作ります」明日香はカバンを静かに置こうとした。しかし、それを止めるように、樹が彼女の手をそっと掴み、蓉子に向き直った。「おばあ様、あなたも藤崎家の古参なのですから、もう少し節度をお持ちください。こんな夜更けに甘いものを食べれば、消化不良を起こしやすくなります。純子さん、おばあ様をお部屋までお送りして」「はい、若様」「待ちなさい......」蓉子は純子に視線を送った。「水に浸けた小豆、まだあったかしら?」「ええ、ございます」純子がうなずいた。すると、明日香が落ち着いた声で言った。「今日の宿題はそれほど多くありません。おしるこなら、お鍋で煮ておきます。四十分ほどでできるかと」「まあ、そう。それじゃ、お願いしようかしら」蓉子はほほえみ、ゆったりとした声で答えた。年齢を重ねれば重ねるほど、眠りが浅くなるのは誰しも同じ。明日香は無言でキッチンに向かった。蓉子は軽くため息をつき、樹に向き直った。「あなたと彼女はね、この器の中の米と小豆のようなもの。一緒に煮ても、それぞれの味は変わらない。でもね、ほんの少し何かが多かったり、足りなかったりするだけで、その味はがらりと変わってしまうのよ。私の言うこと、よく考えてごらんなさい。おしるこは作らせなくてもいいのよ。あさって、明日香は試験だったでしょう?この二日間、彼女を煩わせないようにして。何かあるなら、試験が終わってからにしなさい。余計なことを考えさせてはだめ。あの子は我慢強いの。あなたが思っているより、ずっと大人。争わないし、何も求めない。でもね、だからこそ、もしあなたが彼女を裏切るようなことをして、彼女があなたに失望したら......もう、取り戻すのは難しいわ。彼女を大切になさい。少なくとも、今のところ、あの子は藤崎家の孫嫁にふさわしいと、私は思っている」少なくとも、あの女より、千倍、万倍はましだわ。蓉子が去った後、樹は他の使用人たちも退け、キッチンに立つ明日香の後ろ姿を静かに見つめていた。明日香と冷えた関係が続く中で、樹自身も苦しんでいなかったわけではない。明日香が本当は自分をそれほど好きではなく、ただの「保護傘」として利用しているだけなのではないか。そ
明日香は、手にした携帯の画面をじっと見つめたまま、指先を止めていた。今夜は帰らないほうがいいのか、それとも樹にきちんと伝えるべきなのか。逡巡が、胸の内を重く支配していた。彼女もまた疲れていた。今の自分たちの関係が、いったい何なのか。ただの恋人同士なのか、互いを試すような仮初の関係なのか、それすらもう分からない。もし、彼がいまだに南緒に未練を抱き、密かに連絡を取り続けているのだとしたら、なぜ自分と付き合っているのか。南緒が黙って姿を消したことへの、ただの当てつけなのか。その程度の理由で自分を傍に置いていたのだとしたら、あまりにも浅はかで、残酷だ。自分は、二人の間にある感情の道具じゃない。そう思えば思うほど、心の奥底でじわじわと苛立ちが広がっていく。心と感情を裏切られることだけは、どうしても受け入れられなかった。だが、藤崎家を出て月島家に戻れば、待っているのは予想どおりの結末。遼一の手に落ち、再び、あるいはそれ以上に侮辱されるだけだと分かっていた。だからこそ、選択肢は二つしかなかった。一つは、腹立ちを押し殺し、何も知らないふりをして藤崎家の庇護のもとで学業を終えること。もう一つは、樹と決別し、月島家へ戻り、あの地獄のような日々に再び身を置くこと。そこまで考えたとき、明日香の中で、すでに答えは出ていた。授業が終わると、いつもの車が、いつものように校門前に停まっていた。後部座席に乗り込むと、樹がすでに車内にいた。Bluetoothイヤホンを片耳につけ、膝上にはノートパソコン。画面に目を落としながら、どうやら会議の真っ最中だった。その様子に、明日香は何も言わず、そっとドアを閉めた。二人の間には、いまだ冷たい沈黙が流れていた。明日香は、樹が仕事を終えるまで待つつもりだった。背もたれに体を預けると、知らぬ間にまぶたが落ち、そのまま静かに眠りへと落ちていった。けれど、実は樹も会議どころではなかった。耳には会話が届いていたはずなのに、内容はほとんど頭に入ってこない。彼の思考は、すべて隣に眠る彼女に向けられていた。会議は適当に切り上げ、ノートパソコンを閉じた。そっと隣に手を伸ばし、シートにかけてあったスモークグレーのジャケットを手に取ると、眠る彼女の肩にやさしくかけてやった。その瞬間、明
「社長」その声に、樹はゆっくりと顔を上げた。険しい表情のまま、目に陰を宿したまま、短く答える。「何だ」「署名が必要な書類が、いくつかあります」「そこに置いておけ」千尋は数歩進み、静かに書類を机上に置いた。そのとき、ふと視線が机の端に置かれたままの社用携帯に向かう。ディスプレイには、未接の着信――表示されていたのは、明日香の番号だった。やはり、彼が怒っているのは明日香のことか。そう思うと、妙に合点がいった。樹の感情をここまで掻き乱す存在など、他に思い当たらない。会いたいのなら、なぜ素直に連絡しないのか。なぜ、こんなにも長く怒りに囚われたままでいるのか。明らかに、二人の間には何かがあった。そうでなければ、この沈黙はあり得ない。「まだ用があるのか?」樹の声には、明らかな不快の色が滲んでいた。千尋は、一度言葉を飲み込み、しかし意を決して言葉を継いだ。「申し上げるべきか、迷いましたが」「何だ、言え」その苛立った声に、千尋は静かな口調で応じる。「社長。明日香さんの件で、社内全体――特に上層部は、かなり神経を尖らせています。私情を仕事に持ち込むべきではないと、私は思います」樹は口元にかすかな笑みを浮かべた。しかしその瞳は笑っていなかった。むしろ底知れぬ冷たさと、焦燥が宿っていた。「僕に、仕事のやり方を教えるつもりか?給料を払ってるのは、誰だと思ってる。用が済んだなら、出て行け」「申し訳ありませんが、会社のためにも......最後まで言わせてください」千尋は一歩も退かず、言葉を重ねた。「木屋南緒――彼女の存在は、明らかに『時限爆弾』です。帰国していることを、明日香さんはまだ知りません。もし明日香さんが、社長と木屋さんの間に何らかの繋がりが残っていると知ったら......たとえ理解しようとしても、心の奥には、必ずしこりが残ります。それを放置していれば、やがて取り返しのつかないことになります。ですから社長――彼女に、ちゃんと打ち明けるべきです」樹の目が鋭く陰った。「そんなことは、お前に指図されることじゃない。出て行け」低く唸るような声と共に、樹は手にしていた書類の束を千尋へ投げつけた。千尋は避けず、そのまま両手で受け止めた。書類の角が彼の額をかすめ、細く赤い線が滲む。ここ
その瞬間、一本の電話が鳴り響いた。まるで彼女の脳内をかき乱すように。見覚えのない番号。けれど、明日香はうっすらと察していた。誰なのか、心の奥ではもう答えを知っている気がした。最初は、画面上に無機質な数字の羅列が点滅していた。だがなぜか、それが唐突に「葵」という名前に変わった。呼吸を忘れたように、明日香はスカートの裾をぎゅっと握りしめた。震える手で通話ボタンを押し、そっと耳にあてる。沈黙が五秒――いや、それ以上、どちらも言葉を発さないまま時が流れた。明日香の胸の奥で、心臓だけが狂ったように脈打っていた。「もしもし、明日香です。どちら様でしょうか」その言葉の直後、電話の向こうから、鼻で笑うような嘲笑が聞こえた。そして、あっけなく通話は切れた。そのあからさまな嘲りは、まるで誰かに頬を平手で叩かれたような、鋭く屈辱的な痛みを伴っていた。木屋南緒。彼女なのだろうか。もしかすると、もうとっくに帰ってきていたのでは?あの日、彼女が姿を消していたとき、樹が自分を見つけた瞬間に浮かべた、まるで何かを失うことを恐れるような目。そしてその奥に、ほんの一瞬だけよぎった違和感。あれは、何だったのか。明日香は膝に顔を伏せ、長い髪がその表情を隠すように垂れた。無力感が全身を巡る。本当は、全部分かっているのだ。まるで、前世の悪夢が再び現実としてこの身に降りかかってくるようだった。「明日香!」聞き慣れた声がした。息を切らした日和が、必死に誰かを探すように走ってきて、ようやくここで明日香の姿を見つけたのだった。彼女は明日香のもとへそっと近づき、前にしゃがみ込んで顔を覗き込んだ。「大丈夫?どこか具合でも悪いの?」優しく背中を撫でながら、日和は不安げに言った。明日香は目をこすりながら、かすかに顔を上げた。「どうしてここに?」「さっきの明日香、明らかに様子が変だったから......心配になって、探しに来たの」明日香は唇の端をひきつらせ、無理に微笑んでみせた。「大丈夫。心配しないで。先に戻ってて」「もう少し、ここにいさせて」そう言って、日和は明日香の隣に腰を下ろし、ポケットから一本の小さな紙パックを取り出して彼女に差し出した。「牛乳。甘いものでも飲めば、少しは気がまぎれるかもしれない。何があったのか分か
明日香は教室の最後列に腰を下ろしていた。前方の席にいる圭一が、時折こちらを振り返っては、軽く声をかけてくる。そのとき、不意に携帯が震えた。新着メッセージの通知だった。明日香は何気なく画面を開いたが、目に飛び込んできた内容を見た瞬間、体中の血が一気に凍りつくのを感じた。指先がわななき始める。差出人は見覚えのない番号。表示された写真には、ホテルのベッドに上半身裸で横たわる男性が写っていた。片手を額に添えたその姿は、あまりにも生々しく、そして親密さを想起させた。画像の隅に記された日付は、去年の正月過ぎ――つい最近の出来事だ。耳元に、あのときの樹の声が甦る。「どこに行くか、聞かないの?」「すぐ戻るよ。三日くらいかな」「明日香、何を見てるの?そんなに夢中になって」圭一の声が現実に引き戻した、その瞬間――彼女の手から携帯が滑り落ち、床に鈍い音を立てて着地した。明日香は慌てて拾おうと身をかがめたが、胸の奥に巨大な石を押し込まれたかのような苦しさがこみ上げ、息が詰まった。画面を他人に見られるのが、恐ろしくて仕方なかった。幸いにもバッテリーが外れ、画面は黒く沈黙していた。周囲からは好奇の視線が集まり始める。明日香がここまで取り乱す姿は、誰の目にも珍しく映った。圭一は成彦の視線に気づき、慌てたように口を開いた。「俺、何か驚かせるようなことした?」成彦は無言で明日香を見つめ、「携帯、壊れてないか?」と穏やかに声をかけた。明日香は、かすかに震える指で端末を拾い上げ、小声で答える。「大丈夫。壊れてない......」けれど、実際には画面の隅にひびが入り、端末の角も微かに歪んでいた。彼女には時間が必要だった。この現実を受け入れ、整理するための――静かな、長い時間が。差出人は誰?なぜ、こんなものを今さら送ってきたの?明後日には大事な試験が控えている。こんなことで心を乱されている場合ではない。けれど、思考は凧の糸が切れたように宙を舞い、もはや自分では収拾がつけられなかった。樹が、自分を裏切るなんて。信じたくない。信じられない。彼女は震える指先で電源ボタンをぐっと押し、画面が完全に暗くなるまで指を離さなかった。再び点ける勇気は、どこにも残っていなかった。そこへ珠子が歩み寄ってくる。明日香の横顔を見た瞬間、その異
明日香が湯気の立つ鶏スープを一口ずつ静かに飲んでいる間、樹は彼女のそばにずっと付き添っていた。車中で交わされたあの会話に、二人とも二度と触れることはなかった。それでいい。今は、ただこのままで。「美味しいか?」樹が声をかけた。「まあまあね」明日香は湯飲みをそっと置き、静かに立ち上がった。「私、先に部屋に戻って課題するわ......早く休んで。おやすみ」「おやすみ」明日香が階段を上っていく後ろ姿を、樹はじっと見送った。指先でライターを弄びながら、どこか思案するような瞳で、その場に座り続ける。田中はそっと近づき、探るように声をかけた。「若様......明日香さんと、何かあったのでしょうか?」樹は脚を組み替え、背もたれに深く身を預けた。「記者の件で、彼女が対応を頼んできた。でも断った。僕の返しは、冷たかったかもしれない。けど......僕たちの関係は、別に人目を忍ぶようなものじゃない」田中は少し黙ってから、静かに言葉を選んだ。「お嬢様は、まだ注目されることに慣れていらっしゃらないのだと思います。私の知る限り、彼女はいつも一人で行動し、人との接触を避けて生きてこられた......そんな印象です。ましてや芸能記者たちが四六時中彼女の生活を覗き込もうとする今、不安になるのも当然でしょう」「......」「ただ――」田中は、少し声を低くしながら続けた。「いずれ明日香さんが本当に藤崎家にお嫁入りなさるのであれば、避けては通れない道でもあります......今のうちから、少しずつ慣れていただくのが、よろしいかと存じます」明日香が卒業すれば、いずれは藤崎夫人になる。この先、彼女はもっと多くの報道と向き合わなければならない。逃げれば逃げるほど、影は濃くなる。癖になるのだ。樹が納得したのを見て、田中はさらに言葉を続けた。「今日、蓉子様がまでお越しになられ、明日香さんに『おしるこが食べたい』とおっしゃっていました」樹の口元に、微かに笑みのようなものが浮かんだ。「僕でさえ、明日香を台所に立たせるのは惜しいのに......おばあ様は本当に、人使いが荒いな」その夜、明日香は課題を終え、英単語を数ページ読み上げてから眠りについた。翌朝。樹がスーツのボタンを留めながら階下に降りると、食卓には見慣れた小さ