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第484話
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佐倉さん、もうやめて！月島さんはリセット人生を始めた 第486話
車窓の外の景色を眺めながら、二人の間には一言も交わされることがなかった。やがて藤崎家の屋敷に到着し、車が静かに止まる。樹が先に車を降りる。その仕草には、普段とは違う冷ややかさが漂っていた。どうしたのだろう。明日香には、その変化の理由が分からなかった。彼女も後を追って車を降り、玄関へと歩みを進める。家に入るとすぐに、使用人が迎えに現れた。「若様、明日香さん。お食事の準備が整っております」しかし樹は一瞥もくれず、無言のまま二階へと向かう。その背中には不機嫌の色が濃くまとわりつき、容易には消えそうになかった。一体、何に怒っているの……？明日香には、その答えが見つからない。使用人は彼女の鞄を受け取り、困惑気味に尋ねた。「明日香さん、若様はどうなさったのでしょうか」明日香は小さく首を振る。「……料理を少しお皿に盛ってちょうだい。後で私が、彼の部屋に持って行くから」「かしこまりました」彼女は用意された食事を盆に載せ、樹の書斎へと向かう。ドアをノックしたが返事はなく、そのまま静かに中へ入った。レトロな調度の部屋には、濃い煙草の匂いが漂っていた。樹は掃き出し窓の前に立ち、火をつけたばかりの煙草を手にしている。明日香が入ってきても、彼は振り返ろうとしなかった。彼女は食事をテーブルに置き、静かに言葉を落とした。「会社のことで忙しいなら、邪魔はしないわ。ちゃんと食べてね……私は先に出るから」「――待て！」低く鋭い声に、明日香の心臓が大きく跳ねた。「他に何か用？」彼女は両手を体の前で組み、指先を固く絡めた。樹は煙草を床へ投げ捨て、ようやく振り返る。その瞳は底知れず深く、冷たい光を宿していた。「君の父親が養子にした男のことを、調べた」遼一のこと？静まり返った湖面に小石が投げ込まれたかのように、明日香の胸に波紋が広がる。明日香が黙したままでいると、樹の纏う冷気は一層鋭さを増していった。「あいつについて……僕に何か言うことはないのか」彼が歩み寄るごとに、明日香は息苦しいほどの圧迫感を覚えた。その冷たい気配が彼女を包み込み、逃げ道を奪っていく。樹は彼女の瞳を覗き込み、何かを読み取ろうとした。だがそこには、不思議なほど落ち着き払った空虚さしかなかった。「……何を調べたの
佐倉さん、もうやめて！月島さんはリセット人生を始めた 第485話
その時、悠真が静かに明日香へ告げた。「あの日、君が見た淳也と彩のこと……何もなかったんだ。淳也はただ高熱に倒れて、冷水を浴びただけ。君は偶然その場面を見て、誤解してしまったんだよ」哲も口を添えた。「そうだ。真夜中に家を追い出されて、淳也は俺たちに電話してきた。それで明け方近く、病院に連れて行ったんだ」明日香は、その事実をまったく知らなかった。だが説明を聞いた彼女の表情は、驚くほど平静で、揺らぐことがなかった。彩は唇を噛み、拳を握りしめながら悔しげに言い放った。「そうよ！確かにあの時、彼と関係なんてなかった！でも別れるって言われるまでは、私たちは恋人同士のままなの。明日香、そんなにいい気にならないで。あなたと樹だって、長くは続かないわ」吐き捨てるように言うと、彩は踵を返し、怒りを抱えたまま去っていった。悠真はなおも冷静な明日香を見て、目を見張った。「君……全然怒ってないんだね」明日香はゆっくり顔を上げ、彼をまっすぐ見つめ返す。「なぜ怒る必要があるの？」悠真は軽く笑ったが、それ以上は言葉を続けなかった。皆が去り、一人残された明日香。帰ろうとしたその時、白いシャツに首掛けのヘッドホン、背の高いすらりとした少年が、木陰から姿を現した。成彦は少し気まずそうに首へ手をやる。「ちょうど通りかかっただけで……わざと盗み聞きしたわけじゃないよ」その後、明日香は渡辺に呼び出され、職員室を訪れた。渡されたのは前回のテスト答案。「この成績について……君から何か説明はあるか？」明日香は小さく首を振った。「ありません」渡辺は眉をひそめ、諭すように言った。「君のことに口出しするのは気が引けるけれど……先生として一言忠告しておこう。恋愛は人生の必需品じゃない。誰かに頼らなくても、自分の力でより良い生活を築けると、先生は信じてる。たとえ小さなテストでも、君の将来に深く関わるんだ。今回は機会を与える。クラス替えはしないから……これからは学習にもっと力を入れなさい」「分かりました。ありがとうございます」「分からないところは珠子さんに聞くといい。彼女は君のお姉さんだろう？推薦も決まっているし……君ももっと努力しないと。これ以上のわがままは許されないよ」「はい」明日香が部屋を出る時、渡辺の深いため息が
佐倉さん、もうやめて！月島さんはリセット人生を始めた 第484話
明日香は小さく頷いた。「実を言うと、彼にとってここを離れるのは、決して悪いことじゃないの。二人の間のことに、私が口を挟む権利はないし……それに、彼は私のために本当にたくさんのことをしてくれた。だから私は、その恩を少しずつでも返していくつもり。友達として、淳也が新しい場所で、もう一度ちゃんと生き直せることを心から願ってるの。樹の立場から考えれば、今の私たちとの関係上、あなたたちと関わるべきじゃない。たとえ淳也のことでも、私が口にするべきじゃないわ。樹は私のために妥協してくれた……だから彼を失望させたくない。淳也のことは……ごめんなさい。でも、私は信じてる。あなたたちが必ずまた会える日が来るって。彼もきっと、あちらで元気にやっていけるはず」人にはそれぞれの立場がある。淳也が追い出されたとき、周囲はこぞって樹の非情さを責め立てた。けれど、樹だって家族を、血の繋がりや温もりを、心の底では渇望していたに違いない。すべては美しい始まりと、避けられない悲しい結末を伴う運命の一部だった。田中から聞いたことがある。今、樹のそばに「家族同然」と呼べる存在は、もう明日香しかいないのだと。かつて淳也と澪が海外へ送られたとき、健は激怒して藤崎家の本宅に押しかけ、樹を平手で殴りつけた。そして翌日、健は澪と淳也に付き添い、そのまま海外へ去ってしまった。あの人もまた、淳也の父親だった。淳也とその母への負い目からか、この数年間、健と二人はまるで本当の家族のように過ごしていた。だが健は忘れていた。もう一人、自分の息子がいるということを。樹が背負っているのは、ただ一人の息子としての責任だけではない。藤崎グループという巨大な組織を支えるという重圧でもあった。誰もが彼を、近寄りがたい存在、絶大な権力を持ち、何もかも思いのままにできる人間だと思っていた。だが他人には分からない。そうした虚飾を取り払えば、樹もまた血の通った、一人の弱い人間に過ぎないということを。そして、そばに寄り添ってくれる誰かの温もりを必要としていることを。明日香はいまでも、あの夜のことを鮮やかに覚えている。樹が彼女を抱き締め、悲しみを滲ませた声で語ったあの瞬間。今まで見たことのない樹の姿だった。暗闇に包まれた部屋で、彼の表情は見えなかったはずなのに、なぜか明日香には、そ
佐倉さん、もうやめて！月島さんはリセット人生を始めた 第483話
中村が社長室に入ると、中の人物は電話の最中だった。彼は言葉を挟まず、静かに傍らに立つ。男は凛とした気配を纏い、その陰鬱で細長い瞳は冷ややかな光を湛えて深く相手を窺っていた。電話口からは、珠子の慌てふためき、怯えながら泣き訴える声が聞こえてくる。遼一は冷ややかに言い放った。「余計なことは聞くな」「遼一さん……あなた、変わったわ。どんどん恐ろしい人になっていく」次の瞬間、通話は一方的に切られ、「プープープー」という無機質な音が室内に響いた。遼一は携帯電話をしまい、振り返る。「用件は？」中村が一礼し、報告した。「藤崎家が我々について調べ始めたようです。何か手を打ちますか？」遼一はオフィスデスクに腰を下ろし、椅子にもたれかかると、両腿の上で指を組み、しばし思案に沈む。「放っておけ」「ですが、もし樹に何か掴まれれば、あなたが危険に晒されます」遼一は口元に淡い笑みを浮かべ、その眼差しに意味深な光を宿した。「むしろ、奴が何も掴めない方が厄介だ。この件は俺が見極める。まずは引き上げろ」中村は恭しく頷く。「承知しました」その頃、学校では。明日香が食堂からの帰り道、日和と並んで歩いていると、上階から涙に濡れた瞳の珠子が駆け下りてきた。彼女は明日香を一瞥するや、慌ただしく教室へ走り去っていく。その手には携帯電話、もう一方の手で必死に涙を拭っていた。遼一に電話をしていたのか。珠子を泣かせることができるのは、遼一以外にいない。「珠子さん……どうしたんだろう？」日和が不安げに呟く。明日香は答えず、ただ前を見つめた。「明日香さん、ミルクどうぞ」日和はポケットからワンちゃん用ミルクを二缶取り出し、強引に明日香の手へ押し付ける。断る余地などまったく与えない。今や、日和の持ってくる菓子や飲み物で、明日香の机の中は知らぬ間にいっぱいになっていた。明日香が教室へ戻ろうとしたそのとき、廊下の端から声が響いた。「明日香、待ちなさいよ！」彩だった。彼女は怒りを隠さず大股で歩み寄る。制服ではなく、へそ出しのトップスにミニスカートという挑発的な装い。赤く染めた髪に濃いメイク、すらりと伸びた脚を惜しげもなく晒していた。彼女の背後には、悠真と哲の姿もあった。三人が近づくにつれ、彩から漂う強い酒の匂
佐倉さん、もうやめて！月島さんはリセット人生を始めた 第482話
日和は立て続けに明日香の名前を呼びながら、勢いよく彼女へと駆け寄ってきた。手には赤く熟れた苺の入った籠を抱え、その笑顔はまるでテレタビーズに登場する太陽のように、無邪気に輝いている。走る速度は速く、風が前髪を乱していた。明日香は歩みを緩め、しばし立ち止まって彼女を待った。日和はようやく明日香のそばに辿り着くと、弾む声で言った。「今日、来るの遅かったね。ずっと待ってたんだよ。うちで採れた苺、早く食べてみて！」明日香が言葉を返そうとした瞬間、日和は一粒を彼女の口に押し込んだ。苺を半分かじり、「……ありがとう、美味しい」と小さく呟く。日和は疲れた様子も見せず、明日香の耳元で楽しげに話し続けた。ここ数日、日和にまとわりつかれ続けた明日香は、正直うんざりしていた。授業中以外は、休み時間になるたび彼女が現れる。日和には自分のやることがないのだろうか。明日香は自分のペースを崩さず歩き続け、ほとんど相手にしようとしなかった。あまり懐かれては困るのだ。自分と深く関わる者は、決して良い結末を迎えないから。かつて遼一が日和を盾に、自分を脅したことがあった。その記憶がある以上、誰とも友達になれなかった。誰であろうと、自分の弱みになるのが怖い。一方、樹は明日香が校門をくぐり、姿が完全に見えなくなるまでじっと見送ると、ようやく微笑を浮かべて視線を戻した。「……あの子はどこのご令嬢だ？」千尋が答える。「有坂家のお嬢様です」「有坂家……どこの有坂家だ？」千尋は続けた。「私もつい最近知ったのですが……藤崎家の奥様が、少し前に畜産方面の専門家をお探しだったのです。偶然にも、その専門家というのが、明日香さんのご友人の父君でした」樹の口元にかすかな笑みが浮かんだ。「明日香があんな、怒りたいのに怒れないといった顔をするのを初めて見た。僕にはできなかったことを、彼女はやってのけたな」千尋は慎重に問いかける。「社長……あのお嬢様についてお調べいたしますか？もし万が一、明日香様に不純な動機で近づいているとしたら困りますので」「いや、いい。車を出せ。彼女自身、見分けられるはずだ」本当に嫌っているのなら、先ほどのような態度にはならないだろう。それに、ここ数日、明日香を学校まで送るたび、校門の前で彼女
佐倉さん、もうやめて！月島さんはリセット人生を始めた 第481話
翌日の朝。新聞の片隅に、小さくこう記されていた。「片岡達哉は刑罰を逃れるため、刑務所内で苛性ソーダを飲み込んだ。しかし量が多すぎ、死亡した」通勤ラッシュで賑わう街では、地下鉄へと急ぐサラリーマンたちが同じ新聞を手にしていたが、その片隅の目立たぬ記事に目を留める者はほとんどいなかった。その日は金曜日。明日香は昨夜遅くまで起きていたため、朝は外出せず家にいた。使用人が郵便受けから今朝の新聞を取り出し、いつものように樹の習慣に従って茶卓へ置く。ちょうどそのとき、制服姿の明日香がキッチンからオレンジジュースのグラスを手に現れ、ふと新聞に目を留め、何気なく手に取った。「若様」使用人の声に応じ、樹が袖のボタンを留めながら、颯爽と二階から降りてきた。相変わらず清々しい風貌である。「学校に戻りたくないなら、無理に行かなくてもいい。最高の家庭教師を手配するから、家で勉強しても変わらないさ」「大丈夫。一日中、家に閉じこもって何もしないわけにはいかないから」そう言って、明日香は新聞を開いた。達哉が刑務所で死んだ。苛性ソーダを飲み、刑罰を逃れようとしたのだ。彼女の顔に表情はなく、心中もほとんど動揺していなかった。ただ、少し驚きはした。あのホテルで樹に殴られて病院へ運ばれたとき、すでに助からないと告げられていたはずではなかったか。今になって彼の消息を再び知ることになるとは……それも新聞を通して。樹が仕組んだことなのだろうか？苛性ソーダを飲むなんて……彼は遼一ではない。明日香は小さく頭を振り、その思考を振り払った。彼女は歩み寄り、樹の胸元のピンを整えた。ダイヤモンドに縁取られた中央の赤い宝石が、チェーンに揺られて胸元で光を放ち、目の前の男をいっそう貴公子然と際立たせている。「どうした？気分でも悪いのか？」彼は彼女の様子がどこかおかしいことに気づき、手を伸ばして額に触れた。その視線が茶卓の新聞へと移る。表情は曇り、読み取りにくい。「ううん……ただ、この前学校に戻ったとき、ちょうどテストがあって。今日、結果が出るの。もし悪い点数だったらどうしようかと思って」樹は慰めるように彼女の髪を撫でた。「そんなにプレッシャーを感じなくていい。僕が稼いだ金は、これから先も十分すぎるほどある」明日香は静
