もしかしたら、碧海があまりに素敵で、葵はもう少し長く遊んでいたかっただけなのかもしれない。そう思っていた矢先、葵の母親が心配そうな顔で彼のもとを訪ねてきた。「葵は、まだ戻ってきていないの……?」娘に無関心な母が、こんなふうに彼女を心配するのは初めてだった。秀樹からして、彼女は葵の母親というより、安奈の母親のように思えた。そんな彼女が今日、やけに話が止まらなかった。「あの日、本気であんたと離婚するのって聞いただけなのに、来世があるなら、もうあなたの娘になんてなりたくないなんて言われて、なんかもう……生きる気力がない感じがしたのよ。私だってあの子のためを思って言っただけよ。あんたがあの子を愛していないなら、安奈を選んであげたっていいじゃない。あの子、親子の縁を切るみたいなことまで言って、まったく恩知らずなんだから。小さい頃は、私がどれだけ苦労して育てたと思ってるの……」秀樹の顔色はどんどん青ざめていった。思い出したのは、どんどん痩せていく葵の姿、引き出しにこっそり隠していた薬の数々——彼は何も疑わず見過ごしていた。彼女を閉じ込めてたあの日、床に倒れ、魂の抜けたような目をしていたあの姿。次々に過去の場面が頭に押し寄せてくる。彼は慌てて飛行機のチケットを取り、碧海へと向かった。目的地が近づくにつれ、不安は膨らんでいく。なぜ、あのとき置いてきてしまったんだと、彼は後悔した。飛行機を降りると、まず向かったのは、二人が泊まっていたホテルだった。だが、すでに別の人が宿泊していた。行き先を見失い、呆然としていると、近くを通りかかったホテルのスタッフの会話が耳に入る。「この前、彼氏と来てた女性って、覚えてる?」「ああ、覚えてるよ。すごく痩せてた子でしょ?彼氏は初日に帰っちゃったんだよね」「そうそう。その子、その後ガイドさんを雇ったけど、今朝亡くなったんだって。がんだったらしい」秀樹の手からスマホが落ちた。スタッフたちに詳しく聞きたかったけど、声が出ない。「ただの偶然だ、きっと違う人の話だ」と自分に言い聞かせたその時、スマホが鳴った。病院からの電話だった。都合のいい妄想は、無惨にも打ち砕かれた。病院に駆けつけたとき、千夏は葵の遺体にすがって泣いていた。震える手で近づくも、布をめ
私は碧海市を案内してくれたガイドを見つけた。千夏(ちなつ)という名の若い女の子だった。明るくて、気が利いて、出会ってすぐに私の異変に気づいた。「葵さん……体調が悪いんですか?すごく痩せてるし、顔色も良くないし……」私はうなずいて、静かに打ち明けた。「胃がんなんだ。もう長くは生きられないの。死ぬ前に、どうしても海が見たくて、碧海に来たの」言い終えたあと、私は恐る恐る尋ねた。「……気になる?」こんな余命いくばくもない他人と一緒に過ごしたくないと言われても、仕方がないと思った。けれど千夏は、目を真っ赤にして私をそっと抱きしめ、わざと明るい声で言った。「葵さん、心配しないで。私、生まれも育ちも碧海だから。絶対楽しい思い出作ってあげるよ!」彼女の涙が、私の肩にそっと染み込んだ。病気になってから、誰かが私のために涙を流してくれたのは初めてだった。しかも、出会ったばかりの他人だなんて。「……ありがとう」私は思わずそう呟いていた。夕方になったから、観光は明日からにしようと伝えたが、千夏は勿体無いと言って、電動バイクにまたがり、満面の笑みで言った。「葵さん、童話の世界にある夕日を見に行きましょう!」私たちは「松明の通り」という場所へ向かった。夕暮れの光が街並みをオレンジ色に染めて、まるで絵本の中の世界のようだった。千夏は自前のカメラを取り出して、私の写真をたくさん撮ってくれた。病気になってからの顔が酷すぎて、私は鏡を見るのも嫌だったが、写真の自分をじっと見つめた。……こんな時間が、もう少し続けばいいのに。その願いを打ち砕いたのは、一通の電話だった。母からだった。着信を無視しても、しつこく何度も何度もかかってくる。うんざりして電話を取り、吐き捨てるように言った。「何の用?秀樹ならもう帰ったよ、あなたの大事な娘のところに。まだ何か?」けれど、母は意外なことを口にした。今まで悪かったとか、私は優しくて物分かりのいい子だったとか。私は彼女の話を冷たく遮り、その真意を問いただした。すると、母はおずおずと話した。「……この前、秀樹と離婚するって、本気だったの?」私は笑った。――なるほど。私が離婚しないでいることで、安奈が「愛人」のレッテルを貼られるのを恐れているんだ。「母さ
けれど、秀樹は離婚に応じなかった。彼は私を無理やり家へ連れ帰り、道中ずっと謝りながら言い訳を続けた。「葵、僕とあの子はもう終わってるし、今愛してるのは君だけだ。何年も一緒に過ごしてきたのに、あっさり離婚するなんてできないよ。さっき閉じ込めたのは僕が悪かった。本当にすまない。あのときはただ焦ってて……彼女にはマフラーを返させるし、もう二度と会わない。だから、離婚なんてもう言わないで」今も、まだ私を騙そうとしているのか。私のことを、そんなに馬鹿だと思ってるの?彼の横顔を見つめながら、怒りが込み上げてくる。悔しくて、苦しくて、どうしようもない気持ちが渦巻いていた。そんな中、私はふと思った。もし私が死んだら、秀樹はどんな顔をするんだろう?――そう思った瞬間、私は妥協した。離婚の話はもうしない。ただし、一つだけ条件を出した――碧海市へ一緒に行くこと。碧海市で海を見ることは小さい頃からの夢だった。今まで私はテレビの中でしか海を見たことがなかった。結婚してからも秀樹は忙しくて、結局一度も行けなかった。もし、あの場所で死ねたなら、本望だ。安奈は、きっとあの手この手で秀樹を引き戻そうとするだろう。そして、彼もまたきっと心が揺れて戻ってしまう。私は、自分の死を代償に、二人の間に亀裂を刻みたい。彼に一生の後悔を与えて。彼女には名誉とプライドの失墜を与えよう。海を見に行きたいと言うと、秀樹は驚いた顔で私を見つめ、車を止めた。「葵、本当に僕を許してくれるのか?」「海を見に行くだけで、もう離婚の話はしないんだね?」私は黙って頷いた。彼は急に私を抱きしめた。まるで失った宝物を取り戻したかのように。私はただただ耐えた。吐き気がするほどの嫌悪感をこらえ、彼に身を預けた。翌日、彼は有給を取って飛行機のチケットを手配し、綿密に旅行の計画を立ててくれた。何度も何度も旅程を説明し、嬉しそうに話していた。私はそれを聞きながら、どこか遠くの世界にいるような気分で、飛行機に乗っても、身体の怠さは変わらなかった。疲れたと思われたのか、秀樹は私の肩に毛布をかけて、優しく言った。「眠っていいよ。目が覚めたら、もう着いてるから」次に目を開けたとき、彼は手を差し出して、優しく微笑んだ。「葵、着いた
私が黙っていると、安奈が先に声を上げ、旧友に会えたように嬉しく微笑んだ。「葵?久しぶり。全然変わってないわね」――変わってない、だなんて。彼女の整ったメイクを見つめながら、鏡に映った今朝の自分の顔を思い出す――痩せ細り、頬がこけて、目の下には不眠でできた濃いクマ。私が彼女の首元のマフラーに目を留めていると、安奈はわざとらしく秀樹をちらりと見て、困ったように笑った。「……このマフラー、あなたが編んだんでしょ?昔から手先が器用だったもの。秀樹ったら、私がちょっと寒そうにしてたら無理やり巻いてくれて。あなたが彼に編んだものだと知ってたら、私、遠慮したの……」そう言いながらも、彼女はそのマフラーを取る素振りすら見せなかった。「葵、中に入って。外は寒いわよ」彼女はまるでその場所の女主人かのように、私の腕に手を伸ばしてきた。触れられる直前、私は反射的に彼女の手を振り払った。そして、怒りと悲しみのすべてを込めて彼女の頬を叩いた。「触らないで!!」安奈の目にみるみるうちに涙がたまった。彼女は頬を押さえながら秀樹に助けを求めるような目を向ける。「葵、なにやってるんだ!」秀樹は驚愕した顔で安奈の前に立ち、怒りをあらわにして私を問いただした。私は気持ちを抑えることができなかった。積み重なった感情が決壊し、彼の胸を何度も叩きながら泣き叫んだ。「それはこっちのセリフだよ!あなたたちこそ、いったい何してるの!?マフラーを編んでくれって言ったのは、彼女に渡すためだったの?私のこと、何だと思ってるの……!秀樹のバカ!安奈のことをずっと想ってたのなら、どうして私に近づいたの!?どうして私の心を弄んだのよ!」言葉にならない嗚咽が喉を塞ぎ、私はその場に崩れ落ちた。廊下を通る人たちが立ち止まり、こちらを指さしてひそひそと話し始める。秀樹は焦った様子で私を引っ張り、自分のオフィスに連れ込んだ。「葵、落ち着いて。僕たちは君が思ってるような関係じゃない。冷静になったら説明するから」そう言い残して、彼はドアをバタンと閉め、外から鍵をかけた。その直後、外から聞こえてきたのは受付の看護師の声だった。「先生、あの人って誰だったんですか?」秀樹は平然と答えた。ただの理不尽なクレーマー患者だと。「ごめんなさい、私がちゃんと確認し
クリスマスイブはあっという間にやってきた。外はすっかり冷え込んで、吐く息も白い。秀樹は珍しく早く仕事を切り上げて帰ってきた。ドアを開けるなり、彼はまっすぐリビングのクリスマスツリーの下へと向かい、なにかを必死に探し始めたが、見つからなかったようだ。「何を探してるの?」私が声をかけると、彼は立ち上がり、そのまま私をぎゅっと抱きしめた。そして、少し拗ねたような声で言う。「葵、僕のマフラーは?どうして今年は編んでくれなかった?」私は少し笑ってしまいそうになった。まさか、それを探していたなんて。例年のクリスマスイブには、私は手編みのマフラーを用意して、ツリーの下にそっと置いておき、彼が山のようなプレゼントの中からそれを見つけ出すのが、二人の楽しみだった。でも、彼はマフラーをあまり使わない人だった。特に要らないのかなと思い、今年は編まなかったが、まさか欲しいと言われた。私は少し彼を押しのけ、軽くため息をついた。「だって秀樹はあまりマフラーを使わないでしょ?」すると彼は、まるで子供のように必死になって、私の肩を握り返した。「違うよ。君が編んでくれたマフラーは大好きなんだ」その必死さと目に宿る温もりが、本当に私に向けたものなのかと、私は戸惑った。それでも私は、彼のお願いを聞き入れ、マフラーを編むことにした。夜、体の痛みで眠れないときは、静かに起きてリビングで編み針を動かした。そしてある朝、ようやく完成したマフラーを手渡すと――彼は子どものように嬉しそうに首に巻き、そのまま出勤していった。眼鏡をかけ忘れたままに。テーブルに置き忘れられた眼鏡を見て、私は迷った末、彼の職場に届けることにした。実は、彼の働く病院に行くのはこれが初めてだった。結婚当初、彼はこう言っていた。「仕事中に私生活のことを話題にされるの、あんまり好きじゃないんだ」その言葉の裏にある意味は、私にはちゃんと伝わっていた。だからずっと我慢して、病院には一度も行かなかった。案の定、受付の若い女性は私のことを知らず、「診察に来た患者さん」だと思って、親切に秀樹の居場所を教えてくれた。彼のオフィスのドアは開いていた。中に入ろうとしたとき、私の足が止まった――そこにいたのは、見間違えるはずもない人物だった。安奈だ。彼女の首には
「別になにも。ほんとに平気。あなたが忙しいってわかってるから」私は彼を見て微笑んだ。何も問い詰めず、いつものように彼にとって都合のいい理由を与えてあげた。秀樹はわずかに目をそらし、ふいに私を抱きしめた。その声には、少しだけ罪悪感が滲んでいる。「お腹がすいただろ?何か食べたいものある?作ってあげるよ」彼の服からは、安奈が好んで使っているライチの香水の匂いがした。甘ったるいその香りが、妙に気持ち悪くて吐き気を催す。私は込み上げる吐き気を必死でこらえ、「なんでもいいよ」と答えた。彼は私の異変に気づくことなく、ほっとした顔でキッチンへ向かった。洗面所で嘔吐し、口をゆすいで戻ると、キッチンで手際よく料理をする秀樹の背中が見えた。ぼんやりとその光景を見つめながら、現実感が薄れていく。結婚して6年。彼が台所に立つ姿なんて、ほとんど見たことがなかった。彼は外科医。手は患者を救うためのものだと、家事も料理もすべて私がやっていた。しかし、安奈のインスタを見たら、とある事実が突きつけられた。体型維持のために食事制限をする彼女が栄養不良にならないよう、彼はせっせと彼女の家で手料理をふるまっていたのだ。【稽古が終わって帰ってきたら、彼が料理して待っててくれるの。幸せすぎる】そう綴られた動画の中、秀樹はキッチンからいくつもの料理を運び出していた。そのシーンだけ切り出して編集した動画は3分もあり、秀樹の違う服装から察するに、彼は相当頻繁に通っていたのだろう。気づけば私は苦笑いしていた。今まで私がやってきたことは、本当に滑稽だったと思った。食事ができあがり、彼が食卓に料理を並べると、私に声をかけた。「葵、ご飯にしよう」私は席に着いた。目の前は甘酢のスペアリブ、安奈の一番好きな料理だ。……途端に、食欲が消えた。彼がスペアリブを取り、私の茶碗にそっとよそってくれた。私は無理に一口食べたが、胃の不快感はむしろ強くなった。箸を置き、静かに口をひらく。「……ごめんね、あんまりお腹がすいてないの。秀樹は気にせず食べて」その瞬間、秀樹は箸をガチャンと音を立てて置いた。さっきまでの罪悪感など、跡形もなかった。「葵、いい加減にしてくれ。誕生日を忘れたことに怒ってるなら、はっきりそう言ってくれればいい。埋め合わせす