تسجيل الدخول冷たい潮風が吹きすさぶ崖にカモフラージュされていた岩肌の奥。巨大で錆び付いた昇降機は、酷く嫌な軋み音を立てながら、昏く冷たい海底へとゆっくりと下っていく。 海への異常な恐怖を抱える白玖は、昇降機の壁に寄りかかりながら、あからさまに顔色を悪くしていた。緋依は彼の大きな手にそっと自分の手を重ね、静かに互いの体温を分け合う。「へぇ……こんなところ、よく見つけたねぇ」 白玖が気を紛らわすように、努めて普段通りの飄々とした口調で言った。すると、昇降機の真ん中で腕を組む鷺原総帥が、銀色の長髪を揺らしながらジロリと白玖を睨む。「……お前たちが、逢瀬にいそしんでいる間も探し続けていたからな」「ぼ、僕たちも一応は探してたんだけどね」 気まずそうに視線を逸らす白玖。 これから世界の命運を懸けた最終決戦だというのに、緊迫感のかけらもない軽口を叩き合う男性陣を見て、緋依は思わず大きなため息をついた。 隣に立つ赤髪の火野参謀官も、愛用の大型拳銃の弾倉を確認しながら「まったく、うちのトップは……」と呆れ果てた顔をしている。 やがて、ガコンという重い衝撃と共に昇降機が停止した。 分厚い鉄の扉が、鈍い音を立てて左右に開く。 その先にある光景を見て、緋依は息を呑んだ。 そこは、不気味なほどに真っ白な研究施設だった。 ガラス張りの無機質な実験室、緑色の液体で満たされた巨大な培養槽、そしてどこまでも続く長い無人の廊下。数百年前からこの海底に沈んでいるはずなのに、まるで昨日まで稼働していたかのように保存状態が良い。 だが、誰もいない。ただ空調の音だけが響く、静かすぎる空間だった。「気味が悪いですね……」 緋依が呟いたその時。 警戒しながら白玖が施設内の床へ一歩足を踏み入れた途端、冷たい電子音が廊下に響き渡った。『──生体反応を確認。排除プロセスに移行します』 ガシャンッ! と背後の昇降機の扉が完全にロックされ、同時に天井のパネルが次々と吹き飛んだ。 落ちてきたのは、気配を持たない改良型の〝異形〟の群れだ。 一瞬にして戦闘態勢に入った白玖は、膨大な魔力を解放し、巨大な九尾の白狐へと姿を変える。しかし。『っ、せまっ! 動きにくっ!』 野外戦を得意とする白玖の巨体にとって、この閉鎖された無機質な廊下はあまりにも戦いづらかった。壁に尻尾が激突し、思うように身動きが
特務軍本部内の長く無機質な廊下を、緋依は白玖の少し後ろを歩いていた。 急ぎ足で進む彼女の左手の薬指には、先ほど白玖が嵌めてくれたばかりのプラチナの指輪が、冷たい蛍光灯の光を反射して静かな輝きを放っている。 この小さな輪に込められた〝共に生きる〟という誓いが、緋依の心に確かな強さを与えてくれていた。 医療病棟の最奥。厳重な警備が敷かれた特別病室の前に立つと、白玖は短くノックをしてから重い扉を開けた。 消毒液の匂いが漂う病室のベッドの上では、身体に包帯を巻き、幾本もの点滴の管を繋がれた技術研究局の主任研究官――菫川織都が、上体を起こして分厚い資料に目を通しているところだった。「あっ……白玖様、緋依さん」 二人の姿に気づいた菫川は、慌てて資料を閉じ、ひどく申し訳なさそうに肩をすくめた。「す、すみません……なんか私、かなり長いこと意識を失っていたみたいで……。貴重な時間を無駄にしてしまいました」「いや、君が無事に目覚めてくれて本当に良かったよ」 白玖は気遣うように声をかけ、ベッドの脇の丸椅子に腰を下ろした。緋依もその後ろに静かに立つ。「病み上がりのところに早速で申し訳ないんだけど、君に頼みがある。……僕の細胞や血液を、急いで調べてもらいたいんだ。きっと、あの〝異形〟どものデータと一致するはずだから」 白玖の口から出たその残酷な推測に、緋依は息を呑んだ。 しかし、頼まれたはずの菫川は驚く様子もなく、ひどく気まずそうに視線を泳がせ、深く俯いてしまった。「…………」「菫川主任……?」「……じ、実は。白玖様の戦闘後の現場に残されていた血液を、過去に勝手に採取して調べたことがありまして……。その……白玖様の細胞組織が〝異形〟と酷似していることは、すでに知っていたんです」「……は?」 想定外の答えに、白玖が素っ頓狂な声を上げた。「ご、ごめんなさいっ!」 菫川はベッドの上で勢いよく頭を下げた。「研究者としての探求心を、どうしても抑えられなくて……っ! でも、〝異形〟も白玖様も、時間差で肉体を再生修復するプロセスが完全に一致していましたし、かなり早い段階から、両者が極めて近い存在であることは睨んでいたんです」「おいおい……」「そして、長年の研究で判明した〝異形〟の唯一の弱点。奴らは驚異的な再生能力を持ちますが、中枢神経――すなわち、脳髄か脊髄
澄み渡るような秋の陽射しが、薄く引かれたカーテンの隙間から静まり返った寝室に差し込んでいる。 乱れた真っ白なシーツの海に身を沈め、緋依は熱を持った呼気を吐き出しながら、ぐったりと横たわっていた。 肌蹴たブラウスから覗く白い首筋や鎖骨、そしてさらにその奥の柔らかな肌には、いくつもの赤い吸血の痕と、それだけではない、ひどく甘く艶やかな鬱血の痕が花びらのように散らされている。 指先一つ動かす気力さえ残っていないほどの深い疲労感。それは単に大量の魔力と血液を吸い上げられたからというだけでなく、心と身体の奥底までをも熱く繋ぎ合わせたことによる、甘美な気怠さだった。「…………っ」 緋依は火照った顔を両手で覆い、恥ずかしさのあまりシーツの中に深く潜り込もうとした。 魔力補給のためという名目があったとはいえ、彼に触れられるがまま、自分でも信じられないような甘い声を上げて彼にすがってしまった記憶が、頭の中で鮮明にリフレインしている。 ベッドの傍らでシャツのボタンを留めながら、白玖が満足げな、そしてどこか意地悪な笑みを浮かべて緋依を見下ろしていた。「も、もうお嫁に行けないかもしれません……」 緋依が指の隙間から深紅の瞳を覗かせ、消え入りそうな声で恨みがましく呟く。 すると、白玖はシャツの袖をまくりながら、不思議そうに小首を傾げた。「何言ってるの?」 白玖はベッドの端に腰を下ろすと、シーツに隠れようとしていた緋依の左手首を優しく、けれど逃げられない力強さで掴み取った。「僕のお嫁さんになるんでしょ?」 甘く、低い声が耳元に落ちる。 息を呑む緋依の目の前で、白玖は自身の軍服のポケットから小さなビロードの箱を取り出した。 片手で器用に蓋を弾き開けると、中には、細工の施された美しいプラチナの指輪が静かに光を放っていた。 白玖は掴んでいた緋依の左手を引き寄せ、その細い薬指に、冷たい輪っかをゆっくりと滑り込ませた。 それは、緋依の指にあつらえたようにぴったりと収まる。「……えっ? こ、これ……」 緋依は自分の左手に嵌められた指輪と、白玖の顔を交互に見比べ、目を丸くして固まってしまった。 そんな緋依の呆然とした顔を見て、白玖は照れ隠しのようにふっと微笑み、白色の髪を掻き上げた。「実はさ、君の誕生日の花束を買う時に、これもこっそり買っておいた
数週間ぶりの本格的な吸血に備えて、緋依は残さずに朝食を平らげた。 失われる血液を補い、彼に十分な魔力を分け与えるためには、しっかりと造血して体力をつけておかなければならない。飲み干したスープの空の器を見て、白玖は満足そうに目を細めた。「偉いね。緋依」 白玖はソファーから立ち上がると、緋依の身体をふわりと横抱きに抱え上げた。 突然身体が宙に浮き、緋依は「ひゃっ」と小さく声を上げて彼の首に腕を回す。 白玖はそのまま特別室の奥にある寝室へと歩を進め、緋依を清潔なシーツの敷かれたベッドの上へと優しく下ろした。 彼から漂うほのかな煙草の香りが、緋依の鼻腔をくすぐる。 シーツに沈み込む緋依に覆い被さるようにして、白玖がそっと唇を落とした。 最初は触れるだけの優しいキス。しかし、一度唇が離れ、再び重なり合うと、それは次第に角度を変え、数を重ねるごとに熱を帯びて深くなっていく。 甘く長い口付けに緋依の呼吸が乱れ始めた頃、ふと、ずっと心の片隅に引っかかっていた疑問が口を突いて出た。「白玖様は……海に放り出されたあと、どうやって助かったのですか……?」 その突然の質問に、白玖は少しだけ身を引いて目を丸く見開いた。 父親から漆黒の海へと投げ落とされ、息ができずに沈んでいったというあの悪夢の続き。これまで誰にも語ることのなかった過去だ。 白玖はゆっくりと瞬きをすると、「……いい機会かもしれないね」と、失われた記憶の糸を辿るように静かに語り始めた。 ――暗く冷たい海の底へ沈んでいったはずが、白玖は運良くどこかの海岸に打ち上げられて目を覚ました。 生き延びたというよりも、人間と化け物の血が混ざった中途半端な肉体が、彼を死なせてくれなかったのだ。 人目に付かない湿った洞窟の中で、白玖は打ち上げられた生魚を齧りながら、感情もなくただ息をして生きていた。 どれだけの月日が流れたのかはわからない。だが、彼の身体は少年の姿から一切成長していなかった。 自分は一体、何者なのか。 突如として湧き上がったその疑問に突き動かされ、白玖は洞窟を出て人間の街へと足を踏み入れた。 しかし、ボロボロの衣服に身を包み、人外の異様な雰囲気を纏った少年を、人間たちは当たり前のように恐れ、〝異形の化け物〟として激しく迫害した。 石を投げられ、罵声を浴びせられ、太い棒で殴られ、時には
花ノ瀬の孤児院での惨劇から、一週間が経過していた。 帝都・白嶺から遠く離れた郊外の街にまで、しかも気配を持たない改良型の〝異形〟が大挙して押し寄せたという事態は、特務軍の上層部にかつてないほどの大きな衝撃を与えていた。 軍の内部は連日慌ただしく動き、防衛線の見直しが図られ、これまでは比較的安全だとされていた各地の郊外にも、早急に兵士が配属されることとなった。 しかし、そんな世界の慌ただしさなど、今の緋依にはひどく遠い出来事のように感じられていた。 目を閉じれば、今でも鮮明に蘇ってくる。 生温かい血液の感触。ゴロンと足元に転がってきた幼馴染の頭部。真っ二つに引き裂かれた橘先生の悲鳴。そして、瓦礫の下敷きになった親友や子供たちの、唐突に途絶えた声。 あの凄惨な地獄から白玖の口に咥えられて帝都へ逃げ帰ってからというもの、緋依は文字通り、抜け殻のように塞ぎ込んでいた。食事も喉を通らず、夜になれば浅い眠りの中で悪夢にうなされ、声にならない悲鳴を上げて跳ね起きる。 それでも。『あいつと一緒に、生きろ』『小夜たちを……お願い……。緋依……貴女は、生き……て……』 大切な人たちが最後に遺してくれたその言葉が、強烈な呪いであり、そして祈りとなって緋依を立ち上がらせていた。 ここで自分が心を壊して立ち止まってしまえば、彼らの死は本当に無駄になってしまう。残された時間は少ないのだ。自分が冬の満月に〝生贄〟として命を終える前に、必ずあの化け物たちの根源を絶たなければならない。 だから緋依は、心にぽっかりと空いた巨大な穴から目を逸らし、あえて気丈に振る舞うことに決めたのだった。 唯一の光と言える報せは、今朝方、火野参謀官から伝えられた。 奇襲を受けて重傷を負っていた技術研究局の菫川主任が、ついに意識を取り戻したというのだ。「……白玖様。朝ごはんですよ」 特別室の居間。緋依は努めて明るい声を出しながら、テーブルの上に二人分の朝食を並べた。 こんがりと焼いたパンに、厚焼き卵を挟み込んだサンドイッチ。そして、湯気を立てる濃厚なポタージュスープだ。「だいぶ、冷え込んできましたから。あたたかいスープを用意いたしました」「緋依……」「そろそろ、あの青いマフラーも出さなくてはいけませんね」 作り物めいた明るさで話しかける緋依の背中に、ふわりと、冷たく甘い香りを
喉が裂けるほどの悲鳴が、血に染まった部屋の中に木霊した。 目の前には、つい先ほどまで不器用な笑顔を見せてくれていた宗一郎の、首を失った肉体が横たわっている。足元に転がった彼の頭部を見つめ、緋依の思考は完全に停止した。 その絶望の渦中に、凄まじい風圧とともに巨大な白い影が飛び込んできた。九つの尾を逆立たせた巨大な白狐――白玖だ。 いつもは細められている氷のような瞳が、今は激しい怒りに燃え上がっている。白玖は強靭な顎で、宗一郎の命を奪った四つん這いの化け物の首を容赦なく噛み砕いた。おぞましい黒い体液が飛び散り、生温かい不快な雨となって部屋を汚していく。『緋依、しっかりして!』 白玖の切迫した声が、脳内に直接響き渡った。『こないだの気配を感じない〝異形〟だ。今回のはご丁寧に大きくて力もあるやつに改良されている。なぜ帝都ではなく、郊外のここが狙われたのかはわからないけれど――っ!』 白玖は巨体を翻し、廊下へと繋がる扉を破壊しようとしていた別の個体を鋭い爪で引き裂いた。木製の扉は化け物の肉体ごと粉々に粉砕され、凄惨な光景が広がっていく。『ふー、こないだじゃれ合いとはいえ、魔力補給しておいてよかったよ』 白玖はあえて、いつもの軽薄なトーンを崩さずに声をかけた。一刻も早く緋依を正気に戻さなければ、この地獄を生き延びることはできないと本能で察していたからだ。 しかし、その必死の試みも今の緋依には届かない。緋依は血の海に両膝をついたまま、耳を塞いで小さく震えていた。深紅の瞳からは完全に光が消え失せ、ただ目の前の凄惨な現実を拒絶するように、浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。『まずいな……おい! 緋依!』 白玖が鋭く吠える。不自然なほどに、〝異形〟どもは白玖への攻撃を後回しにし、執拗に緋依の元へと群がろうとしていた。 まるで、その〝生贄〟の命だけを確実に刈り取ることを最初から命じられているかのように。 白玖は襲い来る化け物を次々と蹴散らしながら、廊下へ溢れ出ていた孤児院の小さな子供たちを避難させるべく誘導を開始した。異変を察知した橘も奥から駆けつけ、必死の形相で子供たちを抱きかかえ、裏手へと逃がそうと動いている。 しかし、敵の物量は彼らの想定を遥かに超えていた。 地響きのような不穏な音が響いた直後、ひときわ巨大な個体がおぞましい咆哮を上げ、孤児院







