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第182話

Author: 錦織雫
慎が、当時寧音のために自分とこの指輪を争ったことも、この指輪を使って自分に不条理な協議書へのサインを強要したことも、老いた蘭子に説明することはできなかった。

そんな真実を話せば、彼女はまたショックで倒れてしまうだろう。

紬はただ、穏やかな声で告げた。

「彼と、離婚の手続きをしてきたわ。戸籍が新しくなるまで少し時間がかかるけど」

蘭子は一瞬言葉を失い、やがて安堵したように深く頷いた。

「……けじめがついて良かったわ。でも紬、理由は何なの?単なる性格の不一致?それとも、他に何か……」

「お互いに、愛情を育てられなかっただけよ。これ以上、お互いの時間を無駄にしたくなかったの」

紬はもう、この手の質問に氷のように冷徹な心で対応できるようになっていた。

蘭子の表情がわずかに強張った。

「……彼、あなたが三年間、長谷川家に跡取りを産まなかったことを理由にしたんじゃないでしょうね?」

「おばあちゃん、考えすぎよ。慎は、そんなこと一度も気にしたことないわ」

紬は静かに首を振った。

もし、子供を産まなかったことだけが理由なら、これほど無残な終わり方はしなかったはずだ。

何より、
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