Masuk紬は、笑美の様子が心配でたまらなかった。あれほど大らかで明るかった子が、今は深い絶望に沈んだような顔をして、追い詰められている。けれど、笑美の瞳の奥には、まだ火が燻っていた。絶対に負けてたまるかという、運命に抗おうとする強い意志が。「……何か考えてるの?」紬は声を落とした。笑美のことだ、勢い任せに突き進んで、思わぬ失敗をしないか心配だった。把握しておければ、いざという時に手を貸せる。笑美は静かに首を振ると、握り返した紬の手に力を込めた。「大丈夫。ごちゃごちゃした話だから、心配しないで。私一人で何とかするから」両家の企業が複雑に絡み合っている。事を荒立てれば、恨みを買うのは避けられない。紬は笑美のことをよくわかっているから、それ以上は聞かなかった。ただ、笑美が着ているウェディングドレスに目を留め、思わず眉をひそめた。「……ねえ、そのドレス、サイズが合ってなくない?」笑美は、自分の腰のあたりを自嘲気味に見下ろした。ウエストの布地がたるんでいる。明らかに笑美のサイズではなかった。「結婚式が一週間も前倒しになったせいで、仕立て直す時間がなかったんだって。だから、これを用意されたんだよ」そう口にしながら、笑美はただ苦笑するしかなかった。本人のサイズすら合っていないドレス。この式そのものが、理斗の笑美に対する扱いをそのまま表しているようだった。もっと早く気づくべきだったのに。現実に徹底的に打ちのめされて、ようやく目が覚めたのだ。「準備はできているか?」不意に声が響き、振り返ると、ドアのところに理斗が立っていた。パイロットだけあって、引き締まった体躯と姿勢の良さでタキシードを着こなしている。笑美は理斗を見つめた。あの長い年月、自分が全身全霊で注いできた愛情は、目の前のこの男に注がれていたのだ。笑美は一途で、確信するまで突き進む性格だった。けれど今回は、痛い目を見て、血を流した。その痛みによって、ようやく目が覚めた。紬は、さりげなく視線をそらした。理斗が歩み寄り、ふと、笑美のドレスのサイズが合っていないことに気がついた。彼は一度唇を引き結んでから、短く言った。「急なことだったからな。すまない」両家が突然前倒しにしたせいで、多くのことが間に合っていなかったのだ。笑美は、理斗の目を冷ややかに見据えた。「
「清水笑美、もう気が済んだか」理斗は、一語一語ゆっくりと口にした。笑美は自嘲するように笑った。「何が何でもダメなのか?あなたとあの大切な妹さんのために、私が身を引いてあげるって言ってるのに、ダメなのか?世間の目なんて、あなたならどうとでもなるだろ」吐き出す言葉の端々に、鋭い棘が混じる。理斗は顎のラインをきつく引き締め、笑美を射抜くように見据えた。「いつになったら大人になるんだ。世羅がお前のことを許すと言ってくれているのに、自分がしたことと、いつになったら正面から向き合う気だ?」笑美は目を見開いた。「……何かしたって?私が何を?」本当に、何のことだかさっぱりわからなかったのだ。だが理斗の目には、その態度がただの開き直りにしか映らなかった。彼の瞳に、かすかな失望の色がよぎる。それでも、世羅の言葉は間違っていなかった。笑美が世羅を危険な目に遭わせ、あの雪山で死にかける目に遭わせた張本人だとわかっていても、理斗は笑美との縁を切ろうとは微塵も思わなかった。それだけ、二人は長い時間を共にしてきた仲なのだ。「今日、選びたくないというなら、また今度にしよう」これ以上言葉を重ねて説明する気はなかった。ここで洗いざらい話したところで、また大騒ぎになるだけだと見切っていた。あの頃、世羅は「気にしない」と言ってくれた。しかし理斗は後日、密かに笑美の通話履歴を調べたのだ。あの日、世羅が笑美に電話をしていた記録が、確かに残っていた。信じたくなかった。受け入れたくなかった。しかし世羅はあの事故による足の怪我のせいで、人生が崩れかけていた。幼い頃から習っていたダンスの道を、絶たれてしまったからだ。夢を無残に断ち切られたようなものだった。それが後に、彼女が転職するきっかけとなった。世羅が被った取り返しのつかない理不尽は、笑美の行動が生み出したものだ。だが笑美は自分の妻となる人間だからこそ、自分がその責任を取る——それが、理斗の導き出した不器用な答えだった。理斗は一拍の間を置き、先ほど部屋にいた承一の姿を思い返した。なぜか、ひどく強い不快感が胸をざわつかせている。彼はらしくもなく、ぽつりと告げた。「結婚式は、必ず予定通りに行う。これからは、ちゃんと一緒にやっていく。お前を粗末に扱うような真似はしない……俺を信じてくれ」理斗は部屋を
その考えが頭をよぎってから、笑美はろくに眠れなかった。決して尻尾を掴ませない、信頼できる「役者」を見つけ出すのは、そう簡単なことではない。夜通し考えを巡らせていたせいで、会社に着いても、まだ頭に霞がかかったようだった。笑美のオフィスの前を通りかかった承一が、ドアから顔を覗かせて一瞥した。「何か悪いことでもしてきたのか。ひどい顔してるぞ」笑美は椅子にぐったりともたれたまま、力のない声で返す。「悪いことなら、してきたところ」承一は片眉をわずかに上げた。「温井紬が不良の親玉なら、お前は下っ端か。冗談は顔だけにしておけ」笑美は奥歯を噛み締めた。馬鹿にして!けれど、言い返す気力すら湧かなかった。誰もがそう思っているのだ。笑美は理斗に夢中だ、と。だからお父さんも、結婚式の解消を頑なに認めようとしない。承一はそのまま部屋の中へと足を踏み入れた。すでに、軽口を叩くような気分ではなくなっていた。笑美の様子が、明らかに普通ではないと気づいたからだ。いつもならうるさいほど元気な彼女が、すっかり生気を失っている。その瞳の奥には、いつもの光がない。体調がまだ戻っていないのかと思い至り、近づいて額に手を当て、熱を確かめる。そして険しい顔で眉を寄せた。「熱は引いたのか?顔色がひどいぞ」笑美はゆっくりと顔を上げて承一を見ると、思わず力なく微笑んだ。「承一」「聞いていい?私、誰かと結婚なんてできると思う?」承一の眼差しが、ふっと鋭さを帯びた。笑美をじっと見据える。「本気で言ってるのか?」笑美は一瞬押し黙り、深く溜息をついた。「馬鹿みたいだよね」承一はしばらく無言のままだった。笑美の置かれている状況と、今の心境が、痛いほど見えてきたからだ。こんな顔は、今までの笑美にはなかった。笑美の性格はよく分かっている。彼女が同じことを二度口にしたときは、本気なのだ。承一は彼女の傍らに立ったまま、動かなかった。長い沈黙が続く。額に当てられた手も、ずっとそのままだった。やがて、笑美がふと顔を上げた。「もしもーし?何考えてるんだ?」承一は我に返ったように、熱を測っていた手を離し、代わりに人差し指で笑美の額を軽く弾いた。「お前んちの、文字を打つ猫。今度もう少し語り合ってみようかと思ってな」「……?」承一
基地から戻ってから、ゆっくり話せばいいだけのことだ。……両家の反応は、笑美の予想をはるかに超える残酷なものだった。自分の決意を正直に打ち明ければ、きっと両親も真剣に話し合ってくれると、心のどこかで信じていたのだ。だが、違った。笑美の必死の訴えは、誰の耳にも届かなかった。結婚式は彼女の意思を完全に無視したまま、強行されようとしていた。笑美は、怒りでどうにかなりそうだった。どうして誰もが、自分を聞き分けのない愚かな子どもだと見下すのか。ただの気まぐれでごねているだけだと思い込むのか。母の純子だけは、笑美の様子がいつもと違うことに気づいていた。しかし、夫の異常なまでの頑固さと融通のなさも、誰よりよく知っている。「……笑美。お母さんにだけは話して。あなたたち、本当のところはどうなっているの?」笑美は、喉の奥がひどく詰まった。理斗の頭の中が世羅のことで支配されている事実を思い出すと、惨めで、情けなくて、口に出すことすら耐えがたかった。滲み出る涙を必死にこらえ、ただ絞り出すように言った。「……お母さん。理斗は、もう私のことなんて好きじゃないんだ。愛されてもいないのに、無理強いして縋りつくのは嫌。だから、こっちから願い下げってだけだよ」純子の胸が、ぎゅっと締めつけられた。自分の娘がどんな子か、一番よく分かっている。絶対に、一人で抱えきれないほど深く傷ついているはずだ。純子は急いで娘を抱き寄せ、その背中をさすった。「……大丈夫よ。お母さんがもう一度、お父さんとしっかり話してみるから。あの人は頭が固いけれど、なんとかするわ」母の温もりに包まれた瞬間、笑美の目に限界まで溜まっていた熱いものが溢れ出した。声を出して泣いてしまわないよう、唇を強く噛みしめる。「……うん……私、もう結婚しない。絶対に、したくない」この名家に生まれ、何不自由ない恵まれた環境で育ってきた。その代償として、人生の重要な局面では家の方針に従う。誰もがそうやって、自分の感情を殺して生きている。だから、今こうして笑美が大騒ぎして婚約を破棄しようとするのは、周囲の大人たちから見れば、単なる身勝手なわがままにしか映らないのだ。でも、もうこれ以上は耐えられなかった。結婚した後の生活を想像するたびに、絶望で吐き気がした。理斗の異常なま
世羅の問いに対し、理斗ははぐらかすような真似はしなかった。ただ事実だけを告げた。「笑美とは、二十年近い付き合いだ」その一言に込められた真意は、捉えようによっていくつもあり得る。それだけ長い歳月を共有した絆は、そう簡単には壊れない——そういうことだ。世羅は黙って拳を握り締めた。理斗を見つめた瞳が、一瞬だけ鋭く冷たくなった。だが、世羅は賢かった。ここで彼に追い打ちをかけるような面倒な真似はしない。さらりと話題を変え、微笑んでみせた。「……そうだよね。大丈夫、気にしないで。私、ちゃんと分かってるから」穏やかに頷き、いつも通り、理斗を頼りながらも適度な距離を保つ。理斗は世羅を見つめた。彼女が抱えるいくつかの感情には、どうしても応じることができない。それでも、笑美と自分は、はじめから一緒になる運命なのだ。……世羅と別れて車に乗り込んだ理斗は、眉をひそめたまま、しばらくエンジンをかけずに沈黙していた。最近の笑美は、明らかに感情の起伏が激しすぎる。彼女がどれだけ強がってみせても、心の中では自分のことを絶対に手放せないのだと、理斗は思い込んでいた。だがそうは言っても、根拠のない嫉妬で笑美がずっとくすぶり続けているのは、見ていてあまり気分のいいものではなかった。笑美が不機嫌であれば、理斗だって心地よくはない。少し考えた末、笑美に電話をかけて、機嫌を取ってやることにした。結婚式の準備に意識を向け直させれば、それで彼女も落ち着くはずだ。携帯の連絡先の一番上には、笑美の名前が固定されている。発信ボタンを押そうとしたその瞬間、画面が切り替わり、周平からの着信が入った。理斗は怪訝に眉を寄せ、通話に応じた。「……お前、どういうつもりだ!」電話口の父は、いきなり声を荒げていた。「清水家へ来いと言っておいただろう。婚姻届の具体的な話を進めるというのに、お前はそれほど忙しいのか!」理斗は苛立たしげに眉間を揉んだ。「……急ぎの用事が入ったんです」「届を出すことより大事な用などあるか!」「婚姻届など、いつでも出せるでしょう。今日でなくても問題はないはずです」そこに関しては、疑う余地などなかった。「いいか、よく聞け。今日、笑美はお前が来なかったことに相当頭に来ていたぞ。その勢いで、ついに『結婚しない』とまで言い出
父には以前から、理斗の父に説明してと、はっきりと伝えておいたはずなのに。それを言ってくれないどころか、当人不在のまま婚姻届を提出する手筈まで整えられていた。ならば、この場で自分で言い放つしかない。「……何を馬鹿なことを言い出すんだ!理斗くんも同意しているのに!いつまでも聞き分けのない子どものようなことを言うんじゃない!」三郎が激昂し、声を荒げた。ここまで話が進んでおいて、「嫌だ」の一言で済まされると思っているのか。周平が、すかさず宥めるように手を振った。「まあまあ、そう声を荒げないでやってくれ。笑美は、理斗と少し痴話喧嘩をしただけだろう。あれだけ長い付き合いなんだから、放っておいてもすぐに仲直りするさ。我々親が口を挟むような問題じゃない。大丈夫だよ」その言葉を聞いて、笑美は心底うんざりした。誰もがそう思い込んでいる。笑美と理斗の縁は幼い頃からの深いもので、決して揺らぐはずがないと。でも、変わってしまったのは笑美ではない。理斗のほうだ。これ以上の妥協など、絶対に嫌だった。「本気なんです!」もう一度、はっきりと宣言した。再び、重苦しい沈黙がその場を支配した。最終的に、三郎が冷ややかな顔で言い放った。「家政婦、こいつを部屋へ連れていって、少し頭を冷やさせてやってくれ!」結局、誰も笑美の言葉を真剣に聞こうとはしなかった。彼女の必死の訴えは、ただの子どもの駄々のように軽んじられていた。誰もが確信して疑わないのだ——笑美が理斗から離れられるはずがない、と。だから、どれほど本気で訴えても信じてもらえない。家政婦が、困り果てた顔で笑美の腕を引いた。「お嬢様、今日はもう、ね……」純子も、夫が本気で怒っているのを見て取り、これ以上言い争っても事態は悪化するだけだと判断した。唇を固く結び、笑美を上の階へと促す。両家の大人たちは、すでに当事者の気持ちなど気にかけていない。それは明白であり、娘をこれ以上この理不尽な場に晒しておくことはできなかった。笑美は、自分の父と理斗の父が、何事もなかったかのようににこやかに式の打ち合わせを再開するのを見た。茫然として、息が詰まる思いだった。……一方その頃、理斗は清水家へ向かおうと車を走らせていた。その途中で、世羅のアシスタントから慌てた様子の電話が入っ







