INICIAR SESIÓN夕方、宿舎へ戻るバスの車内でも空気は静かだった。窓の外を流れる街路樹と白い壁、信号待ちで止まる車列、そのどれにも西条南の選手たちの意識は向いていない。
朝倉は二列前の席でタブレットを開き、先ほどの試合映像を止めては戻し、止めては戻す。若葉が受ける角度。蓮の立ち位置。蓮へ二枚ついた瞬間に生まれる外側の空白。そこへ差し込まれる一本。頭の中で整理されていくのは個の印象ではなく、流れの構造だった。 夜のミーティングは、夕食と軽い調整を終えた後に始まった。西条南のロッカールームには試合映像が投影され、ホワイトボードの中央には10番、その後方には16番のマグネットが置かれている。監督が赤いマーカーで二人を結ぶ線を引く。「そして誠和の試合は見たな」 全員が頷く。「誠和は天根に入る瞬間を潰した」 映像が止まる。蓮が受ける直前に寄せる守備。パスを見て、入る前に止めに行く。「だが、それでは止まらなかった」 次に今日の準々決勝の映像が映る。マンションのエントランスを抜けて、見慣れた廊下を歩く。 ほんの数日空けただけなのに、不思議なくらい懐かしかった。 キャリーケースの車輪が、静かな廊下に小さく響く。 『……やっぱり、飛行機の長旅は慣れないわね』 隣を歩く椿が、小さく息を吐く。 『そのうち慣れる。というより、慣れないと困るだろ』 蓮も短く返した。 『どうかしら……そこは一向に慣れる気がしないわ……』 エレベーターが四階につくのを待ちながら、椿は再び小さく息を吐いた。 エレベーターを降り、二人並んで自室の前に立つ。 鍵を開けながら、椿が言った。 『荷物だけおいてくるわ』 『わかった。それなら、鍵開けとくな』 そう言って、蓮も部屋に入る。 久しぶりの静かな部屋。 荷物を置いて、一度だけ大きく息を吐く。 「……やっぱり落ち着くな」 ドイツで見た景色。 大学。 練習場。 パン屋。 空港。 全部がまだ身体の中に残っている。 けれど、このマンションの空気に触れた瞬間、それらがちゃんと“持ち帰ったもの”になった気がした。 荷物を置いていると、椿もすぐに部屋に入ってきて、そのまま真っ直ぐキッチンへ向かった。 冷蔵庫を開ける。 『……うん、予想通り』 『何がだ?』 『ほぼ空』 振り返りもせずに答える。 『数日空けてたんだから当然ね。 むしろ何か残ってたら嫌よ』 『それはそうだな』 椿はそのまま中を確認しながら、足りないものを淡々と口に出していく。 『卵、牛乳、ヨーグルト。 あとは調味料も……』 ドイツに行って、あれだけ濃い時間を過ごした。 それなのに、帰ってきて最初にやることが、冷蔵庫の確認なのが妙にらしかった。 椿がメモを書き終えて、振り返る。 『蓮くん、買い物付き合って』 『ああ。もちろんだ』 二人でまた部屋を出て、近くのスーパーへ向かった。 夕方のスーパーは、仕事帰りの人たちで少し混んでいた。 野菜売り場。 肉コーナー。 乳製品。 カゴを持って歩きながら、蓮が小さく言う。 『スーパーに来ると、途端に帰ってきたなって感じがするな』 椿が隣で頷く。 『そうね。やっぱり全然違う』 『ドイツのスーパーも面白かったけどな』 『ええ。でも、あっち
帰る朝は、不思議なくらい静かだった。 数日しかいなかったはずなのに、もうこの部屋の空気に慣れてしまっている。 窓の外からは、まだ冷たいドイツの朝の光が差し込んでいる。 『ほら、早く起きなさい』 『……もう少し』 『もう少し、じゃないわよ。あなたが起きないと私も出られないんだけど』 蓮の腕の中で、椿が不服そうな声を上げる。 『帰り支度もあるんだから、いい加減起きなさい』 渋々、といった様子で蓮が体を起こす。 遅れて椿も体を起こした。 『……おはよう』 『おはよう。随分だらけてたわね』 『昨日準備したんだから、今朝はのんびりでいいだろ』 『だめよ。忘れ物がないか確認しとかないと』 そう言い合って、二人は帰り支度を始める。 カーテンを開けると、薄い光が差し込まれ、スーツケースの影を床に落とした。 椿はそのままベッドの端に座って、最後の荷物を確認する。 パスポート。 財布。 スマホ。 充電器。 来た時と同じ確認なのに、気持ちはまるで違う。 『……大丈夫そうか?』 隣で自分のキャリーを閉じながら、蓮が言う。 『大丈夫そうね。あとは着替えるだけ』 『ほら、言ったじゃないか』 『余裕持って行動するのが大事なのよ』 そう返しながらも、もう一度だけパスポートケースを開く。 その様子に、蓮が小さく笑った。 『結局そこが神経質なのは変わらないな』 『変わらなくていい部分もあるの』 来た時は、不安の確認だった。 今は違う。 ちゃんと、また来るための確認。 椿はパスポートケースを閉じると、再びカバンにしまった。 その後着替えを終えて、チェックアウトのためにロビーへ降りると、すでにハンスが待っていた。 『おはよう、二人とも』 相変わらず隙のない笑顔で、ハンスが軽く手を上げる。 『空港まで送りにきたよ』 『助かる。チェックアウト済ませてくる』 蓮が短く返し、椿を伴ってロビーへ向かった。 チェックアウトを済ませた後、二人と荷物を載せた車が走り出す。 見慣れ始めた街並みが、窓の外を流れていく。 しばらくして、椿が前を見たまま口を開いた。 『……ハンスさん』 『ん?』 『空港へ行く前に、少しだけ寄ってほしいところが
店を出る頃には、空はすっかり夜の色だった。 紙袋を抱えた椿と、その隣を歩く蓮。 石畳に、二人分の足音が静かに響く。 冷たい夜風の中、街の灯りだけがやけに柔らかかった。 パン屋を出たあとも、しばらく二人は並んで歩いていた。 店主と奥さんに散々からかわれたせいで、椿はまだ少しだけ顔が熱い。 隣の蓮は、そんなことを気にしていないみたいに普通の顔をしている。 『……笑ったでしょ』 『少しな』 『少しじゃなかったわ』 『かなり馴染んでたからな』 『働いてるんだから当然よ』 『いや、そういう意味じゃなくて』 その先は言葉にされなかった。 でも、なんとなく分かる。 自分でも驚くくらい、あの店には自然に居られた。 それはきっと、この国でちゃんと生きていきたいと思ったからだ。 しばらく歩いたところで、椿が小さく息を吸った。 『……まだ、少し付き合って』 蓮が視線を向ける。 『帰らないのか?』 『帰る。でも、その前に』 その返事だけで、蓮は何も聞かなかった。 『分かった』 二人はそのまま、駅前の方へ向かう。 ふと、信号待ちで立ち止まった時、少し離れた広場の端で若い男女が立ち止まる姿を蓮の視界が捉えた。 何気ない会話の流れみたいに、自然な動作で。 そのままキスをした。 蓮の視線が、ほんの一瞬だけ止まる。 誰も気にしない。 特別なことじゃないのだろう。 『蓮くん?』 椿の声で視線を戻す。 『ん?』 『何ぼーっとしてるの』 『ああ……いや。別に』 青になった信号を渡りながら、その光景だけが妙に頭のどこかに残っていた。 やがて椿が立ち止まったのは、小さなビルの一角だった。 『ここ』 見上げる。 看板には、キッチンスタジオと書かれていた。 『……ここ?』 『ええ』 蓮は数秒、言葉を失った。 『借りたのか?』 『ディーターさんにお願いして』 『お願いしたのはパン屋じゃなかったのか?』 『一個とはいってないもの。こっちが本命』 椿が少しだけ得意そうに言う。 鍵を開けて中に入る。 広い作業台。 整った調理器具。 使いやすそうなキッチン。 そして、すでに用意されている食材。 そこでようやく、全部が繋がった。 『……誕生日回、か
ホテルへ戻った椿の手には、小さな紙袋があった。 焼きたてのパンの匂いが、まだ少しだけ残っている。 先に部屋へ戻っていた蓮は、テーブルの上にそれが置かれた瞬間、小さく眉を上げた。 『……どうしたんだ? これ』 シャワーを終えたばかりなのか、まだ少し髪が濡れている。 タオルを首にかけたまま、蓮が紙袋を覗き込む。 椿はコートを脱ぎながら、なるべく平然と答えた。 『もらったの』 『もらった?』 『ええ。売れ残り、って』 袋の口を開く。 昼間、並べていたパンたちがそのまま入っていた。 店主のおすすめだと言っていたもの。 奥さんが「これはレンが好きだったやつよ」と勝手に入れたもの。 見たことのないパンまで混ざっている。 蓮はひとつ手に取って、少しだけ笑った。 『そうか。一回行ったきりなのに、えらく気に入られたもんだな』 『……そうね』 もらった本当の背景は、まだ言わない。 椿は先にコーヒーを淹れながら、小さく息を吐いた。 言うのは、明日でいい。 二人でソファに座り、簡単な夕食代わりみたいにパンを食べる。 外はもう暗く、窓の向こうには知らない街の夜景が広がっていた。 ホテルの部屋にも、少しずつこの生活の匂いが馴染んできている。 『明日、練習終わりにここのパン屋で待ち合わせしましょ』 椿が何気ない顔で言う。 蓮はパンを一口かじってから頷いた。 『ああ、いいぞ。ここのパン、気に入ったのか?』 『……そんなとこ』 視線を逸らして、コーヒーを飲む。 蓮は少しだけ怪しむような顔をしたが、それ以上は追及しなかった。 代わりに、椿が小さく続ける。 『それに、明日だし』 『明日?』 『……誕生日』 蓮が止まる。 それから、静かに頷いた。 『ああ。そうだったな』 『そうだったな、じゃないわよ。 自分の誕生日でしょう』 『俺はあまり気にしないからな』 『私は気にするの』 その言葉に、蓮が少しだけ眉を上げる。 『……そうか』 『そうよ』 短い沈黙。 椿はなるべく自然を装いながら、続けた。 『だから、明日の夕方以降はちゃんと時間を空けておいて』 『
朝、目を覚ました時には、もう隣の体温が近いことに驚かなくなっていた。 薄いカーテンの隙間から差し込む光。 まだ少し冷たい空気。 そして、背中に回された腕。 椿は目を開けたまま、しばらくそのままでいた。 昨日までは、その距離にいちいち心臓が跳ねていたのに、今は不思議なくらい静かだった。 慣れたというより、ようやく受け入れたのかもしれない。 この人は、こうして当たり前みたいに隣にいる。 その事実を。 『……起きてる?』 小さく声を出すと、すぐ近くで低い声が返る。 『少し前から』 『なら先に言ってよ』 『椿が静かだったからな』 少しだけ呆れて、でも笑ってしまう。 蓮の腕が離れ、二人はゆっくりと身体を起こした。 顔を洗い、簡単に身支度をして、ホテルの朝食を取る。 窓際の席。 焼きたてのパンの匂い。 昨日までより、ずっと自然だった。 『今日もトップの練習?』 『ああ。昨日よりはちゃんと食らいつく』 『ちゃんと』 『昨日は本当に何もできなかったからな。 ……なにかひとつでも、昨日を超える』 そう言いながらも、蓮は少し楽しそうだった。 椿はコーヒーに口をつけて、小さく頷く。 『私は今日もディーターさんと行動するわ』 『例の、内緒のやつか』 『ええ』 『まだ教えてくれないんだな』 『……まだ、だめ。終わったらちゃんと話すわ』 『分かった』 蓮は疑わない。 急かさない。 そういうところに、いつも助けられている。 大学の近くで蓮と別れ、椿はディーターと合流した。 昨日よりも、足取りは軽い。 緊張はある。 でも、それ以上に、やることがはっきりしていた。 『おはよう、ツバキ』 『おはようございます』 ディーターは穏やかに笑った。 『昨日のお願い、ちゃんと伝えておいたよ。 先方も面白がっていた』 『……本当ですか?』 『もちろん。 普通、オープンスクールに来た高校生が「店を手伝わせてください」なんて言い出さないからね。 それも日本の高校生が、だ』 少しだけ恥ずかしくなって、椿は目を逸らした。 『でも、必要だと思ったんです』 昨日、大学で痛感した。 知識の前に、言葉が足りない。 講義を理解する以前に、日常の会話を自然に拾
ホテルの部屋へ戻った時には、外はすっかり夜になっていた。 カードキーを差し込み、静かに扉を開ける。 部屋の中は暖かく、シャワーを終えたばかりなのか、わずかに湯気の名残があった。 ソファに座った蓮が、タオルを首にかけたまま顔を上げる。 『おかえり』 その声音は、昼間別れた時と同じ温度だった。 『……ただいま』 返した声が、思っていたより柔らかい。 蓮はその一言で椿の疲れを察したのか、余計なことは聞かずにグラスを一つ押し出した。 『水、飲むか』 『うん。ありがとう』 喉が渇いていた。グラスを半分ほど空けてから、椿はようやくソファの反対側へ腰を下ろす。クッションに沈み込んだ瞬間、張り詰めていた身体が一気に重くなった。 『……疲れた顔してるな』 『疲れたもの』 『なんかあったのか?』 『え?』 『帰り、遅くなったの。なにかトラブルでもあったのかなって』 『ああ、それね。別にトラブルとかじゃないわ。 ちょっと、ディーターさんに頼みごとしてたの』 『頼みごと?』 『そう。でもまだ、内緒』 『そうか』 蓮はそれ以上追求してこなかった。 『……聞かないのね』 『ああ。椿なら言うべきときに言うだろ。 まだ内緒ってことは今じゃないんだろう?』 『うん。そうだけど……』 『なら、話せるタイミングになったらまた聞かせてくれ。 それで?今日はどうだったんだ?』 『……全然、足りなかった』 昼間から、ずっと胸の中に残っていた言葉だった。 『講義も、学生の会話も。 半分も聞き取れなかった』 フォークを持つ指先に、少しだけ力が入る。 『準備してきたつもりだったの。 ちゃんと勉強してきたし、覚悟もしてた』 小さく息を吐く。 『でも、全然足りなかった』 悔しい。 その感情を、今日は何度も飲み込んだ。 『話すなんて、もっと無理。 自分がまだ入口にも立ててないって、嫌になるくらい分かった』 口にすると、昼間の感覚がまた鮮明になる。 聞き取れない会話。 笑いながら飛び交うクラブ帯同の話。 回復設計や文化圏ごとの食事管理を、当たり前の実務として扱う空気。 『それで、どうしたいんだ?』 問いかけは、それだけだった。 慰めも、励ましもない。 でも、それでよかった。