Se connecterドイツからの帰国翌日。蓮は、蝉時雨が降り注ぐ夏休みの校庭を歩いていた。
インターハイの遠征が終わったばかりの校内は、静まり返っている。普段なら部活動の生徒たちが活気に満ちているはずだが、準決勝で敗退し、数日間のオフを与えられたサッカー部のグラウンドには、今は誰もいない。
校舎の壁に掲げられた「祝・インターハイベスト4」という垂れ幕が、熱風に煽られて力なく揺れていた。その場にいなかった自分を責めるような静寂が、蓮の心に重くのしかかる。蓮が部室の鍵を借りるために職員室へ向かうと、そこには夏休みの出勤をしていた数人の教師たちがいた。
「おお、天根! ニュース見たぞ!」
一人が声を上げると、静かだった職員室が一変した。
教師たちは椅子を蹴るようにして立ち上がり、蓮を囲んだ。ドイツ名門とのプロ契約。その衝撃は、生徒の間だけでなく、大人たちの間でもすでに制御不能な熱狂となって広がっていた。「史上最年少での海外直契約なんて、開校以来の快挙だよ。校長も喜んでるぞ。選手権の結果次第では、さらに
四月。新学期最初の朝も、キッチンには、いつも通りの音があった。 包丁がまな板に当たる軽い打音と、火にかけたフライパンの油が弾ける音。換気扇は一定の回転を保ち、湯気は上に流れていく。 椿は手元の動きだけを見ていた。 油の音が一瞬だけ強くなり、すぐに落ち着く。火を少し絞る。フライパンを返す。焼き色を確認し、位置を整える。 その一連の動きの最中、寝室のドアが開く音が聞こえた。 その音に、調理の手が半拍だけ遅れる。 すぐに動かし、何もなかったように続ける。焼き加減に影響は出ていない。何も問題はない。「おはよう」「……おはよう」 一拍遅れて返す。いつもどおりの挨拶のはず。 蓮はそのままキッチンへ入り、手を洗う。視線は一度だけテーブルへ向き、並びかけの皿を確認する。「今日、少し軽めか?」 椿は皿を一枚置くと、もう一枚を手に取る。盛り付けの配置を整えながら、視線を落としたまま口を開く。「……うん」「そうか」 蓮はそれ以上は聞かない。椅子を引き、座る。皿が順に置かれていく。 椿は味噌汁をよそい、椀を置いた。「いただきます」「……ええ、どうぞ」 箸が動く。咀嚼の音は静かで、動きは一定だ。油は軽く、後に残らない。糖質も抑えられているが、満足感は切れていない。 蓮は数口食べ、特に違和感もなく食事を進める。 椿は向かいに座り、同じように箸を動かす。速度も量も普段と変わらない。「……今日の、どうかしら?」「どうした?急に。いつもどおり美味しいけどなんか変えたのか?」「そう……それなら良かったわ。出汁、少し変えたから」 それだけ聞いた椿は、再び食事を再開する。 その様子に小首を傾げながらも、蓮は食事を続けた。 その後の会話は増えない。必要な言葉だけが交
机の上には、開いたままの参考書とノートが並んでいた。照明の光がページを均一に照らし、余計な影を落とさない。ペンは手の中にあり、式は途中まで書かれている。 椿は同じ行を、三度読み直していた。 意味は分かる。導出の流れも追える。ここで詰まる理由はない。次に書くべき式も、頭の片隅ではもう出てきている。 それでも、手が動かない。 ペン先がノートの上で止まり、数秒だけ動かないまま時間が過ぎる。 椿は一度、息を吐いた。ペンを持ち直し、式の続きを書く。途中まで書いたところで、線がわずかに歪む。そのまま書き切り、もう一度最初から見直す。 間違いはない。 ただ、どうしてもペンが進まない。 視線を次の行へ移し、文字を追う。内容は理解できるが、頭の中で処理が完結しない。 椿はペンを置いた。 机の上に視線を落としたまま、数秒だけ動かない。 さっきからずっと、別の思考が割り込んできている。 昨日の光景が、そのまま残っている。 テーブルの上に並んだ小袋。均等に揃えたはずの配分。そこから外れて、最初から混ざらなかった箱。手に取ったときの重さ。渡されたときの言葉。 ――一番世話になってるから。 再び、式の続きを書こうとする。 ペン先が紙に触れ、最初の一文字だけが書かれるもそのまま止まる。 書いた文字を見て、線を引いて消す。 もう一度書こうとして、同じ位置で止まる。 集中できない。この思考を処理しないことには何も手に付かない。 椿は一度ペンを置き、頭を支配する思考に身を委ねる。 まず、事実。 自分はチョコを用意した。 理由は明確だ。栄養面の補正。市販品に偏ることで生じる脂質と糖質の過剰を、事前に調整するため。負担を軽減し、処理を安定させるための選択肢として、一つ用意しただけ。 蓮からお返しを貰って嬉しかった。 一番お世話になっている、その一言が自分の管理の恩恵を彼が感じてくれている証拠だったから。 ここまでは、完全に
放課後、駅前のスーパーは平日にもかかわらず人が多かった。ホワイトデー前日というだけで、特設コーナーの前に人の流れが滞る。色違いの箱が棚一面に並び、価格帯ごとに区切られた札がぶら下がっている。 蓮はその前に立ち、迷うことなく手を伸ばした。内容量、個包装の有無、単価。目につく情報を順に拾い、条件に合うものをまとめてかごへ入れていく。配る数が多い以上、均一性と扱いやすさが優先される。 アソートの袋をいくつか選び、個包装の袋が多く入っているものを追加する。かごの中身がある程度の量になったところで、蓮は一度だけ全体を見直した。この量でお返し用の数は足りている。 そのままレジへ向かい、会計を済ませる。袋に詰めた重さはあるが、持てないほどではない。帰宅後に分ければいい。 店を出る直前、蓮は足を止めた。視界の端に、別のコーナーが入る。専門店の出張販売らしく、同じチョコでも並び方が違う。装飾された梱包に、価格帯も一段上がる。 数秒だけ見て、蓮はその棚へ向かった。 箱を一つ手に取る。過剰な装飾はなく、内容量も過剰ではない。日持ちと構成を確認し、問題がないことだけ確かめてから購入した。他のものとは分けて、袋の中で位置をずらすと、そのまま帰路についた。 帰宅すると、部屋の中には既に明かりがついていた。玄関の扉を閉めると、キッチンから食器の触れる音が聞こえる。「ただいま」「おかえり」 椿の声が返る。蓮は靴を脱ぎ、そのまま袋を持ってリビングへ入った。「どうしたの?それ」 視線はすぐに袋へ向いた。「ホワイトデーのお返し用のお菓子」 蓮はそれだけ答え、テーブルの上に袋を置く。中身を取り出し、机の上に並べていく。アソートの袋がいくつも並び、包装の色が机の上を埋めていく。 蓮は一つ開けると、中の個包装を取り出し、数を目で追う。蓮は仕分け用の袋を取り出すと、偏りが出ないように移していく。 椿は少しだけその様子を見ていたが、やがて無言で隣に座り、空の袋を一つ手に取った。「……こういうの、ちゃんとやるのね」「ああ、もらっ
翌朝。キッチンにはいつも通りの音があった。包丁がまな板に当たる軽い打音と、火にかけた鍋の静かな沸き上がり。出汁の香りに、焼いた鶏肉の脂がわずかに混じる。 蓮は顔を洗い、手を拭きながらそのままキッチンへ入った。テーブルには既に皿が並び始めている。量も構成も、普段と同じだ。「おはよう」「……おはよう」 椿は振り向かずに返す。声の高さも速度も変わらない。だが、フライパンを返す手の動きが一瞬だけ遅れた。 蓮は椅子を引き、座る。皿が一つ、二つと置かれていく。その配置も普段通りだが、味噌汁の椀だけがやや中心に寄った位置に置かれた。 椿はそれに気づき、何も言わずに数センチだけ戻す。「いただきます」「……ええ」 箸を取る。口に運ぶ。余計な負担が残らない味だった。糖質も脂質も抑えられているが、満足感は切れていない。今日の練習に向けた調整が、そのまま皿に出ている。 数口食べたところで、「そういえば」と、蓮が口を開いた。「昨日、チョコ用意してくれたなら言ってくれればよかったのに。食べる時にお礼言いそびれただろ」 音が一つ、止まった。 椿の手が、箸を持ったまま空中で静止する。「なっ、気づいたの?」 声がわずかに上がる。抑えようとしても、完全には戻らない。「当たり前だろ。どれだけ椿の飯を食べてきたと思ってるんだ」 蓮は特に気にした様子もなく返す。皿から次の一口を取る手も止まらない。 椿は何か言い返そうとして、言葉を選び損ねる。「……別に、大したものじゃないわ」 結局そう言って視線を落とした。箸を動かす速度が一瞬だけ乱れ、すぐに元へ戻る。「そうか?美味しかったぞ」「それは……レシピ通り作れば誰でも……」 返答はできている。だが、会話の流れには乗れていない。いつもなら栄養面での説明を入れるところで言葉が途切れる。 蓮はそれ以上追わなかった。 食事はそのまま続いた。会話は増えないが、完全に途切れるわけでもない。水
帰宅して玄関の扉を閉めると、ようやく外のざわつきが切れた。床にバッグと紙袋を置き、靴を脱いで手を洗う。部屋の中からは食事の香りと、調理の音が聞こえる。 蓮は床に置いた袋を見下ろし、軽く眉を寄せた。「……多いな」 呟きながらも手を洗い終えた蓮は、再び両手に紙袋を抱えてリビングへと入る。「おかえり、随分大変そうね」 椿がいつも通りの調子で話しかけてくる。ただし、今日の視線は蓮ではなく、その両手へと向けられていた。「ああ……想像以上だった……」 そう呟きながら、箱の大きさを見て冷蔵保存が必要そうなものだけ先に分け、冷蔵庫を開けて奥から順に詰めていく。市販品らしい硬い箱、柔らかい包み、リボンがかかったもの。冷気の中に甘い匂いが混ざり、いつもの整った保存空間に異物が増えていく。「全部入れるの?」 椿が横から手元を覗き込んでくる。「傷みそうなやつだけ。残りは外でいいだろ」「ならいいわ。一度に食べる量を決めるのに、こっちでも見てもいい?」「ああ、頼む……」 蓮が短く返すと、椿は小さく息を吐いた。 夕食の時間には、甘い匂いはほとんど部屋から消えていた。代わりに湯気と出汁の匂いが満ちる。蓮はテーブルにつき、椿が置いていく皿を見た。脂質を抑え、消化に負担をかけず、それでいて満足感を切らさない構成。今日という日を前提に、最初から組まれていたのだと分かる。「やっぱり食事は軽めか」「軽いというより調整よ。どうせ何かしら食べる
放課後の廊下は、授業の熱がまだ壁に残ったまま、部活へ向かう生徒と帰る生徒の流れだけが先に動き出していた。 蓮は教室を出ると、人波に速度を合わせてロッカーの並ぶ壁際へ向かう。その途中で何度か名前を呼ばれたが、どれも軽く手を上げるだけで流した。今日に限っては、視線の集まり方がいつもと少し違う。机の中にそっと入れられた小袋、靴箱の上に置かれた小さな箱、部室の前まで運ばれてくる紙袋。バレンタインという行事が、蓮にとっては感情より先に物量として迫ってきていた。 部室の扉を開けるころには、両手の紙袋にいくつもの箱が入っていた。包装の色も形もばらばらで、差出人の名前が丁寧に書かれているものもあれば、何もないものもある。蓮は一度だけ中を見渡し、そっと袋を持ち直した。 少なくとも、この場で一つずつ処理する意味もない。だが、持ち帰って、量を見て、どれから食べるかを決める必要はある。 そこへ、背後から声がかかる。「天根くん。少し、いい?」「ああ」 振り向くと、同学年の女子が一人立っていた。クラスメイトで、顔は知っている。ただ、それ以上の交流はない。蓮は部室の前から離れ、相手が話しやすいように人の流れから少しだけ外れた。 女子は一度息を整え、それから真っ直ぐ蓮を見た。視線を逸らさないあたり、覚悟は決めてきているらしい。 女子が口を開いた瞬間、部室の中から誰かを呼ぶ大声が重なった。「――好きです。よかったら、付き合ってください」 最初の部分が聞き取れなかった。 何か好きなものがあり、それに付き合ってほしいということらしい。「悪い。最初が聞こえなかった」「え?」「何が好きなんだ? それと、どこに付き合えばいい?」「……どこ?」「場所が分からないと、予定を確認できない」 女子は何度か瞬きをした。「そうじゃなくて……天根くんが、好きなの」「俺?」「そう。恋人として付き合ってほしいの」「コイビトとして、どこに行けばいいんだ?」「……行







