LOGIN夏休みが後半に差し掛かる頃、グラウンドを吹き抜ける風はわずかに色を変えていた。
だが、肌を焼く陽光の暴力的なまでの強さは変わらず、人工芝から立ち上る熱気が視界を歪ませている。インターハイが終わったばかりだというのに、強豪校との練習試合のスケジュールは容赦なく組まれていた。 校門の周りには、ドイツの絶対王者へのプロ内定のニュースを聞きつけた観客やメディアがカメラを抱えて集まり、一年生にして世界の扉を抉じ開けた天根蓮の姿を、一目見ようと押しかけていた。「……なんか、練習試合っていう雰囲気じゃないな」
部室でスパイクの紐を締め直しながら、蓮は外の喧騒を想起して溜息をついた。
その隣で桐生がユニフォームに着替えながら、鼻で笑った。「有名人は辛いな、天根。だが、外の観衆なんてどうでもいい。……問題は、今日の相手だ。あいつら、お前を潰すことしか考えてねえぞ」
今日の対戦相手は、県内でも指折りの武闘派として知られる私立高校だった。
彼らにとって、バイエルン内定の一年生という肩書きは試合当日の朝、橘家のキッチンにはいつもより少しだけ早い時間の静けさが残っていた。窓の外は薄曇りで、春先の光は白く広がるだけでまだ温度を持たず、コンロの上で湯気を立てる味噌汁と焼き上がった鮭の匂いだけが室内を先に起こしている。蓮は椅子を引いて席につくと、並べられた朝食へ一度視線を落とし、向かいで手際よく弁当箱の蓋を閉めている椿を見た。「分かってると思うけど、今日は出ない」 椿は手を止めずに、「ええ」とだけ返す。「ベンチにも入らない」「それも聞いてるわ」 言葉は淡々としていたが、輪ゴムをかける指先だけが少し強く動いた。蓮はそれを見てから味噌汁に口をつける。「だから、今日は来ないだろ」 椿はようやく顔を上げた。目が合う前に一度だけ弁当箱を自分の方へ引き寄せ、そのまま当然のように言う。「行くわよ。試合に出ないからって、あなたが動かない保証がないもの」 椿は言い切ってから、自分の前の皿に箸を伸ばした。「それに」と続ける声は平坦で、そこに余計な温度を乗せないようにしているのが分かる。「試合に出ない日ほど、消耗の種類は読みにくいの。立ちっぱなしになるかもしれないし、考え続けるかもしれないもの」「そうか」 蓮は鮭をほぐしながらそれ以上は言わなかった。来るなと言えば来ない相手ではなく、来る理由もまた、理屈の上で成立している。なら来るんだろう。 現に椿は何もなかったように味噌汁の椀を取り、いつも通りの速度で食べ始めている。 けれど、蓮がご飯を半分ほど進めたところで、椿は不意に視線を上げる。「不満はないの?試合に出ないことへの」「ないといえば嘘になるが、今回は納得の行く理由だからな」「そう」 椿は一瞬だけ箸先を止めた。「あなたが出ない試合を、ちゃんと見るのは初めてだわ」 蓮は返事の代わりに味噌汁を飲んだ。椿もそれ以上は言わず、食卓には箸の触れる音だけが残る。出ない試合だと自分で言っておきながら、そう口にされると妙に輪郭が立つ。 今日、自分はピッチの外にいる。その
新入生が入部して四日が経過した。人の数が増えた放課後のグラウンドには、春先特有の乾いた風が流れている。 メインピッチではAチームのメニューが既に始まっており、ボールの打音とスパイクの擦れる音が一定のリズムで重なる。蓮は輪の中でボールを受け、足元で収めた時点で次の展開を決めたまま、無駄な保持を挟まずに次へ流していく。 受ける位置、出す角度、間の詰め方。そのどれもが揃っている。ボールは止まらず、意図を共有したまま輪の中を循環していた。 その流れの最中、視界の端に別の軌道が入る。 隣のピッチで行われているCチームの基礎メニューだった。短い距離でのパス交換。まだテンポは揃っておらず、受ける位置もばらついている。その中で、一つだけ無駄なブレのないボールが混ざる。 強さが一定だった。 距離に対して伸びすぎず、弱すぎない。受け手が取りに行く必要もなく、その場で次の動作に移れる位置へ収まる。 蓮は、今度こそはっきりと視線を向ける。 出したのは、入部初日に目に留まった一年生だった。体格は大きくなく、特別に目立つ身体能力があるわけでもない。だが、次の一本も同じ軌道で通す。 受け手の右足前。 その次は左足の外。 狙うべき一点へ、寸分違わず通している。 対照的に、そのパスを受けた一年生は一度止まり、持ち替え、そこでテンポが切れる。返したボールも正しい軌道には乗らず、停滞している。 蓮は足元に戻ってきたボールを処理しながら、その差だけを頭の片隅に残した。 メニューが一区切りし、水分補給のためにピッチ脇へ移動する。蓮がCチームのコートを眺めながらタオルで首元の汗を拭いていると、後ろから桐生が話しかけてきた。「どうした?Cチームを見ているなんて、珍しいな」「桐生さん、あれ」 そう言って蓮は、自身の視線の先を指差す。「おん?あれは一年か。あいつがどうかしたか」「……見ててください」 蓮たちが視線を向けている一年生が、パスを出す。 受け手の右足に、ピタリと。 またボ
四月。新学期最初の朝も、キッチンには、いつも通りの音があった。 包丁がまな板に当たる軽い打音と、火にかけたフライパンの油が弾ける音。換気扇は一定の回転を保ち、湯気は上に流れていく。 椿は手元の動きだけを見ていた。 油の音が一瞬だけ強くなり、すぐに落ち着く。火を少し絞る。フライパンを返す。焼き色を確認し、位置を整える。 その一連の動きの最中、寝室のドアが開く音が聞こえた。 その音に、調理の手が半拍だけ遅れる。 すぐに動かし、何もなかったように続ける。焼き加減に影響は出ていない。何も問題はない。「おはよう」「……おはよう」 一拍遅れて返す。いつもどおりの挨拶のはず。 蓮はそのままキッチンへ入り、手を洗う。視線は一度だけテーブルへ向き、並びかけの皿を確認する。「今日、少し軽めか?」 椿は皿を一枚置くと、もう一枚を手に取る。盛り付けの配置を整えながら、視線を落としたまま口を開く。「……うん」「そうか」 蓮はそれ以上は聞かない。椅子を引き、座る。皿が順に置かれていく。 椿は味噌汁をよそい、椀を置いた。「いただきます」「……ええ、どうぞ」 箸が動く。咀嚼の音は静かで、動きは一定だ。油は軽く、後に残らない。糖質も抑えられているが、満足感は切れていない。 蓮は数口食べ、特に違和感もなく食事を進める。 椿は向かいに座り、同じように箸を動かす。速度も量も普段と変わらない。「……今日の、どうかしら?」「どうした?急に。いつもどおり美味しいけどなんか変えたのか?」「そう……それなら良かったわ。出汁、少し変えたから」 それだけ聞いた椿は、再び食事を再開する。 その様子に小首を傾げながらも、蓮は食事を続けた。 その後の会話は増えない。必要な言葉だけが交
机の上には、開いたままの参考書とノートが並んでいた。照明の光がページを均一に照らし、余計な影を落とさない。ペンは手の中にあり、式は途中まで書かれている。 椿は同じ行を、三度読み直していた。 意味は分かる。導出の流れも追える。ここで詰まる理由はない。次に書くべき式も、頭の片隅ではもう出てきている。 それでも、手が動かない。 ペン先がノートの上で止まり、数秒だけ動かないまま時間が過ぎる。 椿は一度、息を吐いた。ペンを持ち直し、式の続きを書く。途中まで書いたところで、線がわずかに歪む。そのまま書き切り、もう一度最初から見直す。 間違いはない。 ただ、どうしてもペンが進まない。 視線を次の行へ移し、文字を追う。内容は理解できるが、頭の中で処理が完結しない。 椿はペンを置いた。 机の上に視線を落としたまま、数秒だけ動かない。 さっきからずっと、別の思考が割り込んできている。 昨日の光景が、そのまま残っている。 テーブルの上に並んだ小袋。均等に揃えたはずの配分。そこから外れて、最初から混ざらなかった箱。手に取ったときの重さ。渡されたときの言葉。 ――一番世話になってるから。 再び、式の続きを書こうとする。 ペン先が紙に触れ、最初の一文字だけが書かれるもそのまま止まる。 書いた文字を見て、線を引いて消す。 もう一度書こうとして、同じ位置で止まる。 集中できない。この思考を処理しないことには何も手に付かない。 椿は一度ペンを置き、頭を支配する思考に身を委ねる。 まず、事実。 自分はチョコを用意した。 理由は明確だ。栄養面の補正。市販品に偏ることで生じる脂質と糖質の過剰を、事前に調整するため。負担を軽減し、処理を安定させるための選択肢として、一つ用意しただけ。 蓮からお返しを貰って嬉しかった。 一番お世話になっている、その一言が自分の管理の恩恵を彼が感じてくれている証拠だったから。 ここまでは、完全に
放課後、駅前のスーパーは平日にもかかわらず人が多かった。ホワイトデー前日というだけで、特設コーナーの前に人の流れが滞る。色違いの箱が棚一面に並び、価格帯ごとに区切られた札がぶら下がっている。 蓮はその前に立ち、迷うことなく手を伸ばした。内容量、個包装の有無、単価。目につく情報を順に拾い、条件に合うものをまとめてかごへ入れていく。配る数が多い以上、均一性と扱いやすさが優先される。 アソートの袋をいくつか選び、個包装の袋が多く入っているものを追加する。かごの中身がある程度の量になったところで、蓮は一度だけ全体を見直した。この量でお返し用の数は足りている。 そのままレジへ向かい、会計を済ませる。袋に詰めた重さはあるが、持てないほどではない。帰宅後に分ければいい。 店を出る直前、蓮は足を止めた。視界の端に、別のコーナーが入る。専門店の出張販売らしく、同じチョコでも並び方が違う。装飾された梱包に、価格帯も一段上がる。 数秒だけ見て、蓮はその棚へ向かった。 箱を一つ手に取る。過剰な装飾はなく、内容量も過剰ではない。日持ちと構成を確認し、問題がないことだけ確かめてから購入した。他のものとは分けて、袋の中で位置をずらすと、そのまま帰路についた。 帰宅すると、部屋の中には既に明かりがついていた。玄関の扉を閉めると、キッチンから食器の触れる音が聞こえる。「ただいま」「おかえり」 椿の声が返る。蓮は靴を脱ぎ、そのまま袋を持ってリビングへ入った。「どうしたの?それ」 視線はすぐに袋へ向いた。「ホワイトデーのお返し用のお菓子」 蓮はそれだけ答え、テーブルの上に袋を置く。中身を取り出し、机の上に並べていく。アソートの袋がいくつも並び、包装の色が机の上を埋めていく。 蓮は一つ開けると、中の個包装を取り出し、数を目で追う。蓮は仕分け用の袋を取り出すと、偏りが出ないように移していく。 椿は少しだけその様子を見ていたが、やがて無言で隣に座り、空の袋を一つ手に取った。「……こういうの、ちゃんとやるのね」「ああ、もらっ
翌朝。キッチンにはいつも通りの音があった。包丁がまな板に当たる軽い打音と、火にかけた鍋の静かな沸き上がり。出汁の香りに、焼いた鶏肉の脂がわずかに混じる。 蓮は顔を洗い、手を拭きながらそのままキッチンへ入った。テーブルには既に皿が並び始めている。量も構成も、普段と同じだ。「おはよう」「……おはよう」 椿は振り向かずに返す。声の高さも速度も変わらない。だが、フライパンを返す手の動きが一瞬だけ遅れた。 蓮は椅子を引き、座る。皿が一つ、二つと置かれていく。その配置も普段通りだが、味噌汁の椀だけがやや中心に寄った位置に置かれた。 椿はそれに気づき、何も言わずに数センチだけ戻す。「いただきます」「……ええ」 箸を取る。口に運ぶ。余計な負担が残らない味だった。糖質も脂質も抑えられているが、満足感は切れていない。今日の練習に向けた調整が、そのまま皿に出ている。 数口食べたところで、「そういえば」と、蓮が口を開いた。「昨日、チョコ用意してくれたなら言ってくれればよかったのに。食べる時にお礼言いそびれただろ」 音が一つ、止まった。 椿の手が、箸を持ったまま空中で静止する。「なっ、気づいたの?」 声がわずかに上がる。抑えようとしても、完全には戻らない。「当たり前だろ。どれだけ椿の飯を食べてきたと思ってるんだ」 蓮は特に気にした様子もなく返す。皿から次の一口を取る手も止まらない。 椿は何か言い返そうとして、言葉を選び損ねる。「……別に、大したものじゃないわ」 結局そう言って視線を落とした。箸を動かす速度が一瞬だけ乱れ、すぐに元へ戻る。「そうか?美味しかったぞ」「それは……レシピ通り作れば誰でも……」 返答はできている。だが、会話の流れには乗れていない。いつもなら栄養面での説明を入れるところで言葉が途切れる。 蓮はそれ以上追わなかった。 食事はそのまま続いた。会話は増えないが、完全に途切れるわけでもない。水







