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第2章

Autor: 匿名

インスタに上がっていた、清香が怜司に「いいね」をつけていたフレンチのコース料理の写真が、ふと頭をよぎった。

「キッチンにはもう何もないから、適当にデリバリーでも頼んで」

そう言い残して、俺はスーツケースを引きながら寝室へ向かった。

そのとき、清香に手首をつかまれた。

「樹、ちょっと待って」

思わず振り返る。

手首に食い込む指が痛い。あまりの強さに、赤い跡がくっきりと残った。

「私があれだけ謝って、機嫌を取ってあげたのに……まだそんな態度を取るつもり?」

俺は痛みに耐えながら、反射的に手を引こうとした。

すると清香の視線が、俺の右腕に止まった。

そこには、今も消えずに残っている火傷の痕がある。

清香の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。

そして、ゆっくりと俺の手首から手を離した。

この傷を負ったのは、18歳のときだった。

清香の実家で突然火事が起きた。

俺は何も考えずに火の中へ飛び込み、清香を外まで連れ出した。そのときに負った火傷だった。

その傷のせいで、俺は飛行士になる夢を諦めた。

代わりに手にしたのは、操縦桿ではなく包丁だった。

母が残してくれた、古びた小さな料理屋を継いだ。

あの頃の清香は、全身血だらけになった俺を抱きしめて、泣きながら言った。

――一生、私が面倒を見るから。

あの言葉を、俺はずっと信じていた。

なのに今の清香にとって、俺の体に染みついた店の匂いは、怜司にとって不快なものらしい。

「別に怒ってないよ。本当に疲れただけ」

俺は赤くなった手首をさすりながら、淡々と答えた。

清香は何も言わず、しばらく俺を見つめていた。

やがて、ふっと鼻で笑う。

「そう。まだ意地を張るってことね。だったら明日、あの店を誰かに売るから。

どうせ怜司は、あの通りを通るたびに鼻をつまんでるんだもの。あんな店、前から閉めてやろうと思ってたの」

俺は足を止めた。

ゆっくりと振り返る。

「……何言ってるんだ?

あの店は、母さんが俺に残してくれた唯一のものだ。勝手に売るなんて、そんなこと許されるわけないだろ」

ようやく俺の顔に感情が浮かんだ。

それを見た清香の目に、ほんの少しだけ満足そうな色が浮かぶ。

「できるわよ。だって、今は私の名義になってるんだから。

ねぇ、もういいでしょう?店なんか閉めて、うちの会社で働けばいいじゃない。総務の仕事なら、そんなに汚れないし。毎日きれいな格好でいられるでしょう?

毎日あんな場所にいて、服も体も油の匂いが染みついてる。そんな姿で一緒に取引先へ行くの、正直言って恥ずかしいのよ」

――恥ずかしいか。

その一言が、胸の奥に突き刺さった。

20年間。

俺は清香のために、夜遅くまで料理を作ってきた。

彼女が会社を立ち上げたばかりの頃には、あの店を守りながら必死で働いて、彼女が最初に事業を始めるための金まで作った。

それなのに。

清香は成功した今になって、俺の身に染みついた匂いを「恥ずかしい」と言う。

俺は深く息を吸った。

目の奥が熱くなるのを感じながら、それを必死にこらえる。

「……好きにすれば」

それだけ言って、俺は背を向けた。

寝室に入り、静かに鍵をかける。

次の瞬間、リビングから大きな音が響いた。

彼女が八つ当たりをして、物に当たっている音だった。

続いて、清香の怒鳴り声が聞こえてくる。

「高橋樹!本気で言ってるからね!

明日、見てみなさい!あんな店、全部壊してやるから!」

俺はドアに背を預け、そのままゆっくりと床に座り込んだ。

ポケットから、パリ行きの航空券を取り出す。

あと2日だ。

清香、お前はもうすぐ、俺のことを気にしなくてよくなる。

お前が嫌っていた、この「恥ずかしい匂い」も、もう二度と嗅がなくて済む。

翌朝。

俺は中心街の公証役場へ向かった。

そこで、店の持ち分のうち50パーセント――つまり俺が持っていた分を、以前から店を買いたいと言っていた経営者に無償で譲った。

すべての書類にサインを終えた、その直後だった。

スマホが激しく震え始めた。

店の現場を任せている佐藤大輔(さとう だいすけ)からの電話だった。

「樹さん!早く来てください!

桐谷社長が大勢連れてきて、店をめちゃくちゃにしてるんです!

ここを改装して、フランス菓子の店にするって……今、店の中のものを全部外に放り出してます!」

俺はスマホを握る手に、思わず力を込めた。

――清香。本当に容赦がないな。

俺は通りに出ると、タクシーを止めた。

そして運転手に、できるだけ早く店へ向かうよう告げた。

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