Mag-log in幼なじみだからという理由だけで、俺・高橋樹(たかはし いつき)は20年もの間、桐谷清香(きりたに さやか)のそばにいた。 周りから見れば、俺は昔から変わらない厄介者だった。何をしても清香について回って、毎日のように彼女を困らせていた。 けれど、清香が新しい車を買った日を境に、俺は人が変わったように大人しくなった。 わがままも言わない。無理に構ってほしいとも言わない。 まるで、最初からそこにいなかったかのように。 そんな俺を見て、清香のほうが戸惑っているようだった。 その夜。 雨の中、遅い時間になってからアパートに帰ってきた清香は、珍しく穏やかな口調で俺に話しかけてきた。 「今日、車に乗せなかったのは……怜司が、そういう匂いが苦手だからなの。 あなたが悪いって言ってるわけじゃないよ。ただ、怜司はちょっと潔癖なところがあって。厨房の匂いが服についてるのが、どうしても気になるみたい。 雨もそんなに降ってなかったから、先に怜司を送ってきただけ。だから……もう怒ってないでしょ?」 結局、また白石怜司(しらいし れいじ)のためだった。 少しでも匂いがすると嫌がる、あの潔癖症の男のために。 俺は小さく笑った。 「別に。気にしてないよ」 どうせ3日後には、俺はフランスへ行く。 ル・コルドン・ブルーで料理を学ぶために。 そうなれば、もう清香に俺の匂いを気にさせることもない。 俺だって、もう清香のために何かを我慢する必要はなくなる。
view more「帰れよ。誰もいない高級車でも眺めながら、お前が望んでた、俺みたいな人間のいない上品な暮らしを送ればいい」俺はそう言い残して背を向けた。そのまま大股でレストランの厨房へ戻り、雪の中で泣き叫ぶ清香を置き去りにした。それが、俺が清香と交わした最後の言葉だった。あの日を境に、清香はまるで別人のようになった。もう俺につきまとうこともなかった。それどころか、国内へ帰ることさえしなかった。聞いた話では、国内に残っていた資産をほとんど処分し、パリで古びた地下室を借りて、毎日のように街をさまよっているらしい。高級ブランドのオーダーメイドスーツを着ることもなくなり、色褪せた古いコートを1着だけ羽織っていた。毎日、スーパーへ行って安い食材を買い込み、地下室に戻っては、不器用な手つきで料理を作っていたという。けれど、出来上がるものはとても食べられるような代物ではなかった。それでも清香は、吐きながら食べ、吐き終わればまた食べる。やがて、胃から出血しているところを大家に見つけられ、病院へ運ばれたこともあった。医師からは、これ以上無茶を続ければ、いずれ胃がまともに機能しなくなると厳しく釘を刺された。だが、それでも清香は、力なく笑ってこう言ったらしい。「壊れてしまったほうがいい。そうしたら……あの人も、少しは私のことを心配してくれるかもしれないから」けれど、清香は知らなかった。俺はもう、二度とあいつを心配することなどない。3年後。俺はル・コルドン・ブルーを優秀な成績で卒業し、パリの中心街に自分の店を構えた。西洋料理と東洋料理を融合させた、その店は開業からわずか1年でミシュラン1つ星を獲得した。かつて清香に嫌われた料理のレシピを改良し、上品なフレンチ風コンソメに仕立てた。今では、それが店の看板メニューになっている。多くの名人や政治家が列を作ってまで食べに来て、「魂を感じる味だ」と口々に絶賛してくれた。俺はようやく、異国の地で、立派な料理人になれた。ある夜、店を閉めたあと。俺は厨房で、翌日の仕入れリストを確認していた。そこへソフィーが入ってきた。どこか言いづらそうな顔をして、俺に声をかける。「イヴ……外に、またあの女の人が来てますよ」俺はペンを置き、窓際まで歩いていった。
手は細かな傷だらけだった。傷口から滲み出た血が、木の柄を赤く染めている。「樹、もう1度作り直したの。前のよりずっと下手だけど、気に入ってもらえるまで、何度でも練習するから……」清香は俺を見つめていた。その目には、どこか怯えるような、ひどく遠慮がちな光が浮かんだ。俺は、血のついた木べらを見下ろした。それを見ているうちに、なんだかひどく馬鹿馬鹿しくなってきた。「清香。これで罪滅ぼしをしてるつもりなのか?」顔を上げる。その目を、清香へまっすぐ突きつけた。「白石を庇ったとき、母さんのレシピをガラクタ扱いしたよな。それなのに、騙されてたって分かった途端、今度は俺のために木べらを作りに来る。結局、お前が愛してたのは、俺じゃない。ただ自分が騙されたことが許せないだけだろ。ずっと自分の言うことを聞いて、そばにいた俺が、突然お前のもとからいなくなった。それが耐えられないだけなんだ」清香の顔から血の気が引いた。必死に首を横に振る。「違う!本当に樹のことが好きなの!ただ……私が馬鹿だった。自分の気持ちに気づけなかっただけ……」「もういい!」俺は声を荒らげ、清香の言葉を遮った。手にしていた木べらを、彼女の足元へ思いきり叩きつける。「愛してるって……お前は、自分で踏み潰したあのレシピに何が挟まってたのか、本当に分かってるのか?」清香の体が大きく震えた。ポケットから、半分欠けた封筒を震える手で取り出す。「……知ってる。お母さんの手紙……樹、ごめんなさい。本当に知らなかったの……」「お前が知らなかったことは、まだ他にもある」俺は清香を見つめながら、1つ1つ、事実を突きつけた。「あの店はな、昔、お前の母親がお前の学費を貯めるために、お前の父親に内緒で買った店なんだ!母さんは、ただそれを預かっていただけだ。お前が自分の手で壊したのは……実の母親がお前に残した、最後の思い出だったんだよ」清香の瞳が大きく見開かれた。そのまま、全身が凍りついたように動かなくなる。「……嘘。そんなの……」両膝から力が抜けた。清香はその場に崩れ落ちるように、雪の上へ膝をついた。両手で髪をかきむしり、喉の奥から嗚咽を漏らしている。「お母さん……あれは、お母さんが私に残してくれた
俺の顔には、清香がもう何年も見ていなかった、心からの笑顔が浮かんでいた。油まみれのエプロンもない。体に染みついた料理の匂いもない。俺は明かりの下に立っていた。その姿は、清香が一瞬、俺だと気づけないほどだった。「樹……」清香は声を震わせながら、よろめくように俺のもとへ駆け寄ってきた。その声を聞いた瞬間、俺の笑顔は消えた。振り返る。目の前にいるのは、やつれ果て、目を真っ赤に充血させた女だった。それが清香だとわかっても、俺の目にはもう、かつてのような親しみはなかった。清香は俺の前まで駆け寄ると、反射的に抱きしめようと手を伸ばした。だが、隣にいたフランス人シェフのソフィーが、その前に立ちはだかった。「ちょっと、何をするつもりですか?」眉をひそめたソフィーは、俺を庇うようにその身を割り込ませる。しかし、清香はソフィーなど眼中にない。ただ、俺だけを見つめていた。その目が、みるみる赤く染まっていく。「樹……やっと見つけた……お願いだから、一緒に帰って!白石怜司は追い出した。白石家も潰した。あなたを傷つけた分は、全部私が償わせたから!」必死に訴える清香の声は、途切れ途切れだった。その姿は、以前の強気な彼女からは想像もつかないほど弱々しかった。俺は黙って、そんな彼女を見ていた。清香が言いたいことをすべて吐き出すまで、何も言わなかった。そして、ようやく口を開いた。「……失礼ですが、人違いじゃありませんか?」清香の動きが止まった。信じられないものを見るように、俺を見つめている。「樹……何を言ってるの?私よ、清香よ!まだ怒ってるんでしょう?」「怒ってない」俺はそっとソフィーの手を外し、清香の目をまっすぐ見つめた。「清香。高橋樹は、あの日の雨の中で死んだんだ。今、お前の目の前にいるのは、ル・コルドン・ブルーの学生、イヴだ。俺たちは、もう何の関係もない」俺は胸元の名札を指差した。「イヴ」は、ここに来てから自分でつけたフランス語の名前だ。「強くたくましい木」という意味で、俺の本名とよく似た意味を持っている。清香の顔から、一瞬で血の気が引いた。それでも一歩踏み込み、俺の手首を強くつかむ。「そんなの嘘よ!あなたは20年間、私を愛してきたでしょう?それなの
3か月後。俺がいなくなってから、清香の生活はすっかり狂い始めていた。胃の調子は日に日に悪くなっていった。もう、清香の胃を労わってくれる料理を作れる人間は、どこにもいない。怜司も何度か清香のために料理を作ろうとした。だが、あの潔癖症のせいで、野菜を切るだけでも医療用手袋を3重に着けた。そんな状態で作った料理など、とても食べられるものではなかった。清香は、眠れない夜が増えていった。目を閉じるたびに浮かぶのは、木箱が潰されるのを見つめていた、俺のあの虚ろな目だった。清香はあらゆる人脈を使って俺の行方を探した。だが、わかったのは、俺が国内の口座や契約をすべて解約し、まるでこの世から消えたように姿を消していたということだけだった。そして、あの日の深夜。清香は会食を終えて高級クラブを出ると、車で古びた繁華街の通りを通りかかった。何気なく窓の外へ目をやった、そのときだった。見覚えのある姿が目に入った瞬間、清香は思わず急ブレーキを踏んだ。油煙が立ち込める路上の屋台。その前で、怜司が何人かの悪友と一緒に、周りの目も気にせず焼きそばをずるずるとすすっていた。唇がソースまみれになっても、まるで気にする様子はない。そこには、あれほどの潔癖症も、重い喘息も、微塵も感じられなかった。「怜司、お前、こういう油っぽい匂いは無理だって言ってなかった?今日はずいぶん豪快に食ってるじゃん」怜司の友人がからかうように言った。怜司は得意げに笑った。「そんなこと言わなかったら、清香にあの貧乏男の店を閉めさせられるわけないだろ。 お前ら、あの日のあいつを見てないから知らないんだよ。犬みたいに泥水の中を這いずり回っててさ。あれはマジで笑った。 清香のバカ女、俺が喘息持ちだって本気で信じてやがる。ちょっと咳しただけで、心配で死にそうになるんだからな。 これで邪魔な高橋もいなくなったし、あの店は立地もいい。ちょうどいいから、俺のフランス菓子店にするんだ。店も手に入るし、金も儲かる。一石二鳥ってわけだ」車内で、清香が握るハンドルの手に青筋が浮かび、指の関節が白くなる。笑いながら大口を開けている男を、清香はただ呆然と見つめていた。目の前がぐるぐると回り、胃の中が激しく込み上げてくる。清香