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俺の料理を食うくせに、料理人の匂いが嫌だと?

俺の料理を食うくせに、料理人の匂いが嫌だと?

By:  匿名Kumpleto
Language: Japanese
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幼なじみだからという理由だけで、俺・高橋樹(たかはし いつき)は20年もの間、桐谷清香(きりたに さやか)のそばにいた。 周りから見れば、俺は昔から変わらない厄介者だった。何をしても清香について回って、毎日のように彼女を困らせていた。 けれど、清香が新しい車を買った日を境に、俺は人が変わったように大人しくなった。 わがままも言わない。無理に構ってほしいとも言わない。 まるで、最初からそこにいなかったかのように。 そんな俺を見て、清香のほうが戸惑っているようだった。 その夜。 雨の中、遅い時間になってからアパートに帰ってきた清香は、珍しく穏やかな口調で俺に話しかけてきた。 「今日、車に乗せなかったのは……怜司が、そういう匂いが苦手だからなの。 あなたが悪いって言ってるわけじゃないよ。ただ、怜司はちょっと潔癖なところがあって。厨房の匂いが服についてるのが、どうしても気になるみたい。 雨もそんなに降ってなかったから、先に怜司を送ってきただけ。だから……もう怒ってないでしょ?」 結局、また白石怜司(しらいし れいじ)のためだった。 少しでも匂いがすると嫌がる、あの潔癖症の男のために。 俺は小さく笑った。 「別に。気にしてないよ」 どうせ3日後には、俺はフランスへ行く。 ル・コルドン・ブルーで料理を学ぶために。 そうなれば、もう清香に俺の匂いを気にさせることもない。 俺だって、もう清香のために何かを我慢する必要はなくなる。

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Kabanata 1

第1章

玄関に立った清香は、わずかに眉をひそめていた。

きっと、俺がいつものように食ってかかって、また大喧嘩になると思っているのだろう。

無理もない。

この20年間、清香の前に男が現れるたび、俺は決まって大騒ぎしてきた。

しかも今日は、清香がポルシェ・パナメーラを手に入れた記念すべき日だ。

3か月もの間、俺は清香と一緒にインスタントラーメンをすすりながら、何十枚もの企画書を整理するのを手伝ってきた。

その甲斐あって、清香はようやく、新車を現金一括で買えるほどの大きな仕事をものにした。

なのに、納車された車のキーを受け取った清香が、真っ先に助手席へ乗せたのは怜司だった。

俺はというと、店の前に一人、置いてきぼりにされた。

「……本当に、何とも思ってないの?」

清香はスリッパに履き替えると、俺のところまでやってきて、探るように顔を覗き込んだ。

俺は顔を上げなかった。

スーツケースを開いたまま、黙々と服を畳んでいく。

「別に。白石は体が弱いんだろ。清香が気を遣うのは当然じゃないか」

その言葉を聞いた途端、清香の眉間に刻まれたしわが、さらに深くなった。

俺が畳んでいた服に手を伸ばしたかと思うと、その手を乱暴に押さえつける。

「……何、その言い方。

怜司は潔癖なだけじゃない。喘息だってひどいのよ。あなたの店、確かに匂いが強すぎるでしょう。あんなところにいたら、発作を起こすことだってあるんだから。

それでも気が済まないっていうなら、明日、前から欲しがってた限定スニーカーを買いに行こう。……それでいい?」

スニーカー?

俺は、苛立ちを隠しきれない清香の顔を見つめた。

その瞬間、なぜか少しだけ可笑しくなった。

あのスニーカーは、先月からずっと欲しかった。

でも、俺は清香の納車祝いを買うために、ずっとお金を貯めていた。

だから、自分のために買う気にはなれなかった。

そのくせ清香は、怜司と初めて会ったときの贈り物に、十数万円もする高級腕時計を選んでいた。

「いらないよ。靴ならもう持ってる」

俺は清香の手をそっと払いのけ、最後のセーターをスーツケースにしまった。

そこで初めて、清香は床に置かれたスーツケースに気づいた。

その瞬間、彼女の目からすっと光が消えた。

「高橋樹……また出ていくつもり?」

ああ。

またこの感じ。彼女は怒るたびに、決まって俺のことをフルネームで呼ぶ。

「ちょっと言うことを聞かないだけで、すぐ『死んでやる』だの何だの言って、荷物をまとめて実家に帰るでしょう。

もう25歳なんだから、子供じゃないでしょう?もう少し大人になれないの?」

俺はスーツケースのファスナーを閉め、ゆっくりと立ち上がった。

そして、清香の目をまっすぐ見た。

「怒ってるわけじゃない。ただ、季節が変わるから、服をクリーニングに出そうと思ってるだけだ」

清香は一瞬、不意をつかれたような顔で固まった。

やがて、苛立たしそうに髪を指先で弄びながら、また声を落ち着かせる。

「……とにかく。今日は、雨の中にあなたを置いて帰った私が悪かった。

それに、朝からずっと胃が痛いの。ラーメン作ってくれない?卵、二つくらい入れて」

清香は、いつものように俺に頼む。

どうせ俺が心配して、すぐに台所へ向かうと思っているのだろう。

俺は、胃のあたりを押さえている彼女の手を黙って見つめた。

けれど、頭に浮かんだのは――今日の午後に起きた、あの出来事だった。

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9 Kabanata
第1章
玄関に立った清香は、わずかに眉をひそめていた。きっと、俺がいつものように食ってかかって、また大喧嘩になると思っているのだろう。無理もない。この20年間、清香の前に男が現れるたび、俺は決まって大騒ぎしてきた。しかも今日は、清香がポルシェ・パナメーラを手に入れた記念すべき日だ。3か月もの間、俺は清香と一緒にインスタントラーメンをすすりながら、何十枚もの企画書を整理するのを手伝ってきた。その甲斐あって、清香はようやく、新車を現金一括で買えるほどの大きな仕事をものにした。なのに、納車された車のキーを受け取った清香が、真っ先に助手席へ乗せたのは怜司だった。俺はというと、店の前に一人、置いてきぼりにされた。「……本当に、何とも思ってないの?」清香はスリッパに履き替えると、俺のところまでやってきて、探るように顔を覗き込んだ。俺は顔を上げなかった。スーツケースを開いたまま、黙々と服を畳んでいく。「別に。白石は体が弱いんだろ。清香が気を遣うのは当然じゃないか」その言葉を聞いた途端、清香の眉間に刻まれたしわが、さらに深くなった。俺が畳んでいた服に手を伸ばしたかと思うと、その手を乱暴に押さえつける。「……何、その言い方。怜司は潔癖なだけじゃない。喘息だってひどいのよ。あなたの店、確かに匂いが強すぎるでしょう。あんなところにいたら、発作を起こすことだってあるんだから。それでも気が済まないっていうなら、明日、前から欲しがってた限定スニーカーを買いに行こう。……それでいい?」スニーカー?俺は、苛立ちを隠しきれない清香の顔を見つめた。その瞬間、なぜか少しだけ可笑しくなった。あのスニーカーは、先月からずっと欲しかった。でも、俺は清香の納車祝いを買うために、ずっとお金を貯めていた。だから、自分のために買う気にはなれなかった。そのくせ清香は、怜司と初めて会ったときの贈り物に、十数万円もする高級腕時計を選んでいた。「いらないよ。靴ならもう持ってる」俺は清香の手をそっと払いのけ、最後のセーターをスーツケースにしまった。そこで初めて、清香は床に置かれたスーツケースに気づいた。その瞬間、彼女の目からすっと光が消えた。「高橋樹……また出ていくつもり?」ああ。またこの感じ。彼女は怒るたび
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第2章
インスタに上がっていた、清香が怜司に「いいね」をつけていたフレンチのコース料理の写真が、ふと頭をよぎった。「キッチンにはもう何もないから、適当にデリバリーでも頼んで」そう言い残して、俺はスーツケースを引きながら寝室へ向かった。そのとき、清香に手首をつかまれた。「樹、ちょっと待って」思わず振り返る。手首に食い込む指が痛い。あまりの強さに、赤い跡がくっきりと残った。「私があれだけ謝って、機嫌を取ってあげたのに……まだそんな態度を取るつもり?」俺は痛みに耐えながら、反射的に手を引こうとした。すると清香の視線が、俺の右腕に止まった。そこには、今も消えずに残っている火傷の痕がある。清香の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。そして、ゆっくりと俺の手首から手を離した。この傷を負ったのは、18歳のときだった。清香の実家で突然火事が起きた。俺は何も考えずに火の中へ飛び込み、清香を外まで連れ出した。そのときに負った火傷だった。その傷のせいで、俺は飛行士になる夢を諦めた。代わりに手にしたのは、操縦桿ではなく包丁だった。母が残してくれた、古びた小さな料理屋を継いだ。あの頃の清香は、全身血だらけになった俺を抱きしめて、泣きながら言った。――一生、私が面倒を見るから。あの言葉を、俺はずっと信じていた。なのに今の清香にとって、俺の体に染みついた店の匂いは、怜司にとって不快なものらしい。「別に怒ってないよ。本当に疲れただけ」俺は赤くなった手首をさすりながら、淡々と答えた。清香は何も言わず、しばらく俺を見つめていた。やがて、ふっと鼻で笑う。「そう。まだ意地を張るってことね。だったら明日、あの店を誰かに売るから。どうせ怜司は、あの通りを通るたびに鼻をつまんでるんだもの。あんな店、前から閉めてやろうと思ってたの」俺は足を止めた。ゆっくりと振り返る。「……何言ってるんだ?あの店は、母さんが俺に残してくれた唯一のものだ。勝手に売るなんて、そんなこと許されるわけないだろ」ようやく俺の顔に感情が浮かんだ。それを見た清香の目に、ほんの少しだけ満足そうな色が浮かぶ。「できるわよ。だって、今は私の名義になってるんだから。ねぇ、もういいでしょう?店なんか閉めて、うちの会社で働けばいいじ
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第3章
遠くからでも、すぐに目に入った。母が昔、自分の手で書いた店の看板が、泥だらけの道に無造作に捨てられている。そのすぐそばでは、怜司が清香の傘の中に立ち、鼻をつまみながら、店から運び出されてくる鍋や食器を嫌そうに眺めていた。「清香、ここもかなり汚れてるけど……本当にこんなところ、スイーツの店にできるの?」「大丈夫よ、怜司。ちゃんと業者を呼んで隅々まで消毒するから。床のタイルだって全部剥がして、新しく張り替える。油の匂いなんて、少しも残さないわ」清香の声は、ひどく優しかった。昨夜、俺に怒鳴りつけていたのと同じ人間とは思えない。俺は人をかき分けるようにして店の中へ飛び込んだ。そこで真っ先に目に入ったのは、ゴミの山の一番上に放り出されていた、古い木箱だった。あれだけは、絶対に失くすわけにはいかなかった。中に入っているのは、母さんから受け継いだ秘伝のレシピだけじゃない。清香が15歳のとき、俺のためにナイフで彫ってくれた、木製のへらも入っている。あのとき、清香は手を切って血を流しながら、それでも笑っていた。「樹。いつか料理長になったら、私が手伝ってあげる」俺は何も考えず、その木箱に飛びついた。「樹!何してるの!」清香が俺の腕をつかみ、そのまま強引に引き戻した。足元がふらついた。次の瞬間、俺は油で汚れた水たまりの中に倒れ込んでいた。膝を割れたタイルに強く打ちつける。鋭い痛みが走った。「うわっ!」怜司が驚いて声を上げ、嫌そうに一歩後ずさった。「清香……こいつ、すごく汚れてる。俺に近づけないで」清香はすぐに怜司を自分の後ろにかばい、倒れている俺を見下ろした。「樹、何をそんなにムキになってるの?昨日も言ったでしょう。私は、この店を閉めるつもりなの」俺は清香の言葉を無視した。手と膝をつきながら、必死に木箱のほうへ這っていく。けれど、もう遅かった。ちょうどそのとき、ゴミ収集車がバックで入ってきた。作業員たちが、そこに積まれていたゴミを容赦なく運び、ゴミ収集車へ放り込んでいった。「やめろ!止めてくれ!あれには母さんの形見が入ってるんだ!」俺は声が枯れるほど叫びながら、作業員を止めようと駆け寄った。けれど、清香が後ろから俺の腰にしがみつき、必死に押さえ込んだ。
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第4章
「白石が待ってるんだろ。俺の体についた料理の匂い、あいつに嗅がせないほうがいい」俺は壁に手をつきながら、足を引きずるようにして立ち上がった。怜司が近づいてきて、俺にティッシュを差し出した。けれど、その目には勝ち誇ったような挑発の色が浮かんでいた。「高橋さん、清香のこと責めないでよ。清香だって高橋さんのためを思ってるんだから。男なのに毎日料理の匂いをまとってたら、これからどうやって嫁さんもらうの?」俺はそのティッシュを受け取らず、ただ冷たく怜司を見つめた。「白石。そんなに生活の匂いが嫌いなら、一生それとは無縁でいられるよう、せいぜい祈ってろ」そう言い残し、俺は雨の中へと歩き出した。背後から、清香の取り乱した怒鳴り声が飛んでくる。清香が叫んだ。「高橋樹!今日ここを出ていったら、もう二度と私の家に入れないから!」俺は振り返らなかった。足を止めることもなかった。アパートに戻ると、俺は自分の荷物をきれいに片づけた。いつも着ている服と、ル・コルドン・ブルーから届いた合格通知以外は、何一つ持っていかなかった。がらんとした部屋を見渡す。ここで暮らした5年間を、最後にもう一度だけ目に焼きつける。玄関には、清香が一番気に入っていた女物のスリッパを残したままにした。キッチンでは、清香が大好きだった、胃に優しい鶏肉と大根のあっさり煮をまだ煮込んでいた。俺はダイニングテーブルまで歩き、メモ用紙を1枚取り出した。そして、短く1行だけ書いた。【鍋に料理を入れてある。冷めないうちに飲め】書き終えると、俺はそのメモの上にここの鍵を置いた。それからスーツケースを引き、振り返ることなく部屋を出た。3日目。フランスへ発つ日が来た。その日は、どういうわけか雲ひとつない快晴だった。まぶしいほどの陽射しが、かえって涙を誘う。空港の待合室で、俺はスマホの画面に映る清香のアイコンを見つめていた。昨日から今まで、清香からメッセージは1通も届いていない。電話も、1度もなかった。きっと清香は、俺がまたいつものように意地を張って、家出をしたふりをしていると思っているんだろう。どうせすぐに俺のほうから折れて、適当に機嫌を取れば、それで済む――そう思っていたに違いない。搭乗案内が始まり、席を立
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第5章
アパートの中は、怖いほど静まり返っていた。空気には、食べ物が腐ったような酸っぱい臭いが充満している。清香はわずかに眉をひそめ、思わず声を上げた。「樹、何か腐ってない?」返事はなかった。清香はスリッパに履き替えてリビングへ入った。そこで初めて、俺の痕跡がすべて消えていることに気づいた。俺がいつも適当に放り出していたクッションも、干していた服も、洗面台に置いていた髭剃りまで、何もかもなくなっている。清香の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。足元から、冷たいものが這い上がってくるような感覚がした。清香は慌ててダイニングテーブルへ駆け寄った。そこには、鍵の下に挟まれたメモがあった。【鍋にスープを入れてある。冷めないうちに飲め】力強い筆跡。けれど、そこには以前とは違う、冷たさが滲んでいた。清香の手が、かすかに震え始める。清香はそのままキッチンへ駆け込み、鍋の蓋を勢いよく開けた。中に入っていたのは、確かに自分が大好きな料理だった。けれど、3日間もそのまま放置されていたせいで、表面には緑色のカビが浮いている。鼻を突く、吐き気を催すような悪臭まで漂っていた。清香は胃の中が一気に込み上げてくるのを感じた。シンクに駆け寄ると、その場で激しく吐いた。胃の痛みも、またぶり返していた。清香は腹を抱えてうずくまり、全身に冷や汗を浮かべる。こんなとき、いつもなら俺が真っ先に温かいハチミツ水を作っていた。そして、心配そうに彼女の胃をさすってやっていた。けれど今、がらんとしたキッチンに響いているのは、清香自身の荒い息遣いだけだった。「樹……ずいぶん強気になったじゃない……」歯を食いしばり、激しい痛みに耐えながら、清香はスマホを取り出して俺の番号をかけた。「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」冷たい機械音声が流れた。清香の胸が、ズキッと痛む。そのままスマホの画面を見つめた。「――使われていない?どうして?そんなはずはない」信じられない思いで、清香は何度もかけ直した。けれど、結果は同じだった。清香はもう立っていられなかった。転がるようにアパートを飛び出し、車に乗り込む。そして、見る影もなく壊された店へ向かって車を走らせた。店は工事用の仮囲いに
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第6章
3か月後。俺がいなくなってから、清香の生活はすっかり狂い始めていた。胃の調子は日に日に悪くなっていった。もう、清香の胃を労わってくれる料理を作れる人間は、どこにもいない。怜司も何度か清香のために料理を作ろうとした。だが、あの潔癖症のせいで、野菜を切るだけでも医療用手袋を3重に着けた。そんな状態で作った料理など、とても食べられるものではなかった。清香は、眠れない夜が増えていった。目を閉じるたびに浮かぶのは、木箱が潰されるのを見つめていた、俺のあの虚ろな目だった。清香はあらゆる人脈を使って俺の行方を探した。だが、わかったのは、俺が国内の口座や契約をすべて解約し、まるでこの世から消えたように姿を消していたということだけだった。そして、あの日の深夜。清香は会食を終えて高級クラブを出ると、車で古びた繁華街の通りを通りかかった。何気なく窓の外へ目をやった、そのときだった。見覚えのある姿が目に入った瞬間、清香は思わず急ブレーキを踏んだ。油煙が立ち込める路上の屋台。その前で、怜司が何人かの悪友と一緒に、周りの目も気にせず焼きそばをずるずるとすすっていた。唇がソースまみれになっても、まるで気にする様子はない。そこには、あれほどの潔癖症も、重い喘息も、微塵も感じられなかった。「怜司、お前、こういう油っぽい匂いは無理だって言ってなかった?今日はずいぶん豪快に食ってるじゃん」怜司の友人がからかうように言った。怜司は得意げに笑った。「そんなこと言わなかったら、清香にあの貧乏男の店を閉めさせられるわけないだろ。 お前ら、あの日のあいつを見てないから知らないんだよ。犬みたいに泥水の中を這いずり回っててさ。あれはマジで笑った。 清香のバカ女、俺が喘息持ちだって本気で信じてやがる。ちょっと咳しただけで、心配で死にそうになるんだからな。 これで邪魔な高橋もいなくなったし、あの店は立地もいい。ちょうどいいから、俺のフランス菓子店にするんだ。店も手に入るし、金も儲かる。一石二鳥ってわけだ」車内で、清香が握るハンドルの手に青筋が浮かび、指の関節が白くなる。笑いながら大口を開けている男を、清香はただ呆然と見つめていた。目の前がぐるぐると回り、胃の中が激しく込み上げてくる。清香
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第7章
俺の顔には、清香がもう何年も見ていなかった、心からの笑顔が浮かんでいた。油まみれのエプロンもない。体に染みついた料理の匂いもない。俺は明かりの下に立っていた。その姿は、清香が一瞬、俺だと気づけないほどだった。「樹……」清香は声を震わせながら、よろめくように俺のもとへ駆け寄ってきた。その声を聞いた瞬間、俺の笑顔は消えた。振り返る。目の前にいるのは、やつれ果て、目を真っ赤に充血させた女だった。それが清香だとわかっても、俺の目にはもう、かつてのような親しみはなかった。清香は俺の前まで駆け寄ると、反射的に抱きしめようと手を伸ばした。だが、隣にいたフランス人シェフのソフィーが、その前に立ちはだかった。「ちょっと、何をするつもりですか?」眉をひそめたソフィーは、俺を庇うようにその身を割り込ませる。しかし、清香はソフィーなど眼中にない。ただ、俺だけを見つめていた。その目が、みるみる赤く染まっていく。「樹……やっと見つけた……お願いだから、一緒に帰って!白石怜司は追い出した。白石家も潰した。あなたを傷つけた分は、全部私が償わせたから!」必死に訴える清香の声は、途切れ途切れだった。その姿は、以前の強気な彼女からは想像もつかないほど弱々しかった。俺は黙って、そんな彼女を見ていた。清香が言いたいことをすべて吐き出すまで、何も言わなかった。そして、ようやく口を開いた。「……失礼ですが、人違いじゃありませんか?」清香の動きが止まった。信じられないものを見るように、俺を見つめている。「樹……何を言ってるの?私よ、清香よ!まだ怒ってるんでしょう?」「怒ってない」俺はそっとソフィーの手を外し、清香の目をまっすぐ見つめた。「清香。高橋樹は、あの日の雨の中で死んだんだ。今、お前の目の前にいるのは、ル・コルドン・ブルーの学生、イヴだ。俺たちは、もう何の関係もない」俺は胸元の名札を指差した。「イヴ」は、ここに来てから自分でつけたフランス語の名前だ。「強くたくましい木」という意味で、俺の本名とよく似た意味を持っている。清香の顔から、一瞬で血の気が引いた。それでも一歩踏み込み、俺の手首を強くつかむ。「そんなの嘘よ!あなたは20年間、私を愛してきたでしょう?それなの
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第8章
手は細かな傷だらけだった。傷口から滲み出た血が、木の柄を赤く染めている。「樹、もう1度作り直したの。前のよりずっと下手だけど、気に入ってもらえるまで、何度でも練習するから……」清香は俺を見つめていた。その目には、どこか怯えるような、ひどく遠慮がちな光が浮かんだ。俺は、血のついた木べらを見下ろした。それを見ているうちに、なんだかひどく馬鹿馬鹿しくなってきた。「清香。これで罪滅ぼしをしてるつもりなのか?」顔を上げる。その目を、清香へまっすぐ突きつけた。「白石を庇ったとき、母さんのレシピをガラクタ扱いしたよな。それなのに、騙されてたって分かった途端、今度は俺のために木べらを作りに来る。結局、お前が愛してたのは、俺じゃない。ただ自分が騙されたことが許せないだけだろ。ずっと自分の言うことを聞いて、そばにいた俺が、突然お前のもとからいなくなった。それが耐えられないだけなんだ」清香の顔から血の気が引いた。必死に首を横に振る。「違う!本当に樹のことが好きなの!ただ……私が馬鹿だった。自分の気持ちに気づけなかっただけ……」「もういい!」俺は声を荒らげ、清香の言葉を遮った。手にしていた木べらを、彼女の足元へ思いきり叩きつける。「愛してるって……お前は、自分で踏み潰したあのレシピに何が挟まってたのか、本当に分かってるのか?」清香の体が大きく震えた。ポケットから、半分欠けた封筒を震える手で取り出す。「……知ってる。お母さんの手紙……樹、ごめんなさい。本当に知らなかったの……」「お前が知らなかったことは、まだ他にもある」俺は清香を見つめながら、1つ1つ、事実を突きつけた。「あの店はな、昔、お前の母親がお前の学費を貯めるために、お前の父親に内緒で買った店なんだ!母さんは、ただそれを預かっていただけだ。お前が自分の手で壊したのは……実の母親がお前に残した、最後の思い出だったんだよ」清香の瞳が大きく見開かれた。そのまま、全身が凍りついたように動かなくなる。「……嘘。そんなの……」両膝から力が抜けた。清香はその場に崩れ落ちるように、雪の上へ膝をついた。両手で髪をかきむしり、喉の奥から嗚咽を漏らしている。「お母さん……あれは、お母さんが私に残してくれた
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第9章
「帰れよ。誰もいない高級車でも眺めながら、お前が望んでた、俺みたいな人間のいない上品な暮らしを送ればいい」俺はそう言い残して背を向けた。そのまま大股でレストランの厨房へ戻り、雪の中で泣き叫ぶ清香を置き去りにした。それが、俺が清香と交わした最後の言葉だった。あの日を境に、清香はまるで別人のようになった。もう俺につきまとうこともなかった。それどころか、国内へ帰ることさえしなかった。聞いた話では、国内に残っていた資産をほとんど処分し、パリで古びた地下室を借りて、毎日のように街をさまよっているらしい。高級ブランドのオーダーメイドスーツを着ることもなくなり、色褪せた古いコートを1着だけ羽織っていた。毎日、スーパーへ行って安い食材を買い込み、地下室に戻っては、不器用な手つきで料理を作っていたという。けれど、出来上がるものはとても食べられるような代物ではなかった。それでも清香は、吐きながら食べ、吐き終わればまた食べる。やがて、胃から出血しているところを大家に見つけられ、病院へ運ばれたこともあった。医師からは、これ以上無茶を続ければ、いずれ胃がまともに機能しなくなると厳しく釘を刺された。だが、それでも清香は、力なく笑ってこう言ったらしい。「壊れてしまったほうがいい。そうしたら……あの人も、少しは私のことを心配してくれるかもしれないから」けれど、清香は知らなかった。俺はもう、二度とあいつを心配することなどない。3年後。俺はル・コルドン・ブルーを優秀な成績で卒業し、パリの中心街に自分の店を構えた。西洋料理と東洋料理を融合させた、その店は開業からわずか1年でミシュラン1つ星を獲得した。かつて清香に嫌われた料理のレシピを改良し、上品なフレンチ風コンソメに仕立てた。今では、それが店の看板メニューになっている。多くの名人や政治家が列を作ってまで食べに来て、「魂を感じる味だ」と口々に絶賛してくれた。俺はようやく、異国の地で、立派な料理人になれた。ある夜、店を閉めたあと。俺は厨房で、翌日の仕入れリストを確認していた。そこへソフィーが入ってきた。どこか言いづらそうな顔をして、俺に声をかける。「イヴ……外に、またあの女の人が来てますよ」俺はペンを置き、窓際まで歩いていった。
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