ANMELDENもしもパーツの間に適度な「遊び(隙間)」があれば、振動はその空間で逃げ場を見つけて、多少のガタつきで済んだかもしれない。
人の手で素早く修理を入れられれば、最悪の結果を生む前に事なきを得たかもしれない。けれどこのAIが作り出した筐体には、エネルギーの逃げ場が一切ない。
パーツ同士が極限まで密着しているため、ひとたび共振が始まれば、巨大な金属の塊全体が1つの巨大なミキサーと化す。 互いの振動が増幅し合い、繊細な量子チップから頑強なフレームに至るまで、すべてを内側から粉砕するだろう。人間の手によるメンテナンスを拒絶した結果、彼らは自らの首を完全に絞めるロープを完成させたのだ。
琴葉は、手元のキーボードに視線を落とした。
修正すべき点は山ほどある。しかし琴葉は一切のコードを書き換えなかった。マウスのカーソルを画面右下のボタンに合わせる。
そこには『承認(Approve)』の文字。(せいぜい今のうちに、自分の全能感に酔いしれてなさい)
琴葉は歩きながら、コートのポケットからスマートフォンを取り出した。 連絡帳のアプリを開き、「お父さん」の文字を見つめる。 発信ボタンに指を乗せかけて、琴葉はそのまま画面をオフにした。 実家の土井精機には、帰れない。 罠が発動して世良の発表会がぶち壊しになった時、彼らは必ず原因を究明する。設計に携わった琴葉を血眼になって探し出し、報復しようとするはずだ。(お父さんたちに、迷惑はかけられない) もし琴葉が実家にいれば、怒りの矛先は父親や工場の職人たちに向かう。世良の資本力なら、小さな町工場一つを社会的に抹殺することなど造作もない。 完全に決着がつくまで――世良グループそのものが崩壊して力を失うまで、琴葉は単独で身を隠し、戦い抜かなければならない。 琴葉は再びスマホの画面を点灯させ、ホテル予約サイトを開いた。 当面の拠点が必要だ。しばらくは目立たないビジネスホテルに滞在し、その後、保証人不要のウィークリーマンションを探すのが妥当だろう。 画面をスクロールさせながら、駅の方向へと歩を進める。 雨は次第に強さを増し、行き交う人々の足早なシルエットを雨粒の向こうににじませていた。◇ 大通りから1本入った、人通りの少ない道を通りかかった時のこと。 シャッターの閉まったテナントビルの前に、黒い影が落ちていた。 最初は、誰かが置き去りにした荷物かと思った。 しかし、近づくにつれてそれが人間の形をしていることがわかった。 琴葉は足を止めた。 ビニール傘に当たる雨音が、やけに大きく聞こえる。 男が、コンクリートの地面に直接座り込んでいた。 上質なダークスーツが、雨の重みで体に張り付いている。ひたすらに濡れて、冷え切っていた。 膝を立て、壁に寄りかかるようにして項垂れている。濡れた前髪の隙間から、血の気の引いた青白い顔が覗いていた。 まるで雨に打たれて行き場を失った、血統書付きの猟犬。 あるいは落としてひび割れてしまった硝子細工のように、脆
分厚い防音扉が、背後で重い音を立てて閉ざされる。 琴葉は世良一族に先んじて部屋を出ていた。地下のデモンストレーションルームの熱気が遮断されて、寒々しい空気が戻って来る。 琴葉は一つ息を吐き出すと、白く塗られただけの地下廊下を歩き出した。控室の部屋に戻り、峻嗣が用意した高級なブラウスを脱ぎ捨てた。 ハンガーに掛けてあった自前のTシャツに着替える。少しシワが寄っていたが、着慣れた布の感触が肌に触れると、ようやく自分を取り戻せたような気がした。 デスクの上に、入退室用のIDカードを放り投げる。 プラスチックのカードはデスクを少し滑って、ぱたんと小さな音を立てた。 琴葉は少し前、デモンストレーションルームを出る前に行われたやり取りを思い出す。『ハードウェアの最終モデリングと、稼働テストの監視は完了したわ。これで私の役目は終わりね』『ああ。ご苦労だった』 峻嗣の声は、自らの勝利と全能感に酔いしれていた。 無理もない。世良一族の前でAIのデモンストレーションを成功させ、宗佑から後継者の指名を受けたのだ。 得意の絶頂にいるのは誰の目にも明らかだった。『これで土井琴葉、君は自由だ。もっとも私がこのAIを世界に発表した瞬間、君のような旧時代の技術者の居場所など、この世界のどこにもなくなるがね』『そう。発表会、楽しみにしているわ』 それで終わり。 引き止められることもなく、琴葉は堂々とここを出ていく。 Tシャツとカーゴパンツに着替えた彼女は、エレベーターに乗り込んで地上へと出た。 これまで厳重なセキュリティがかかっていたのが嘘のように思えるほど、エレベーターはあっさりと琴葉を地上まで運んでくれた。 伊吹のタワーマンションを脱出し、峻嗣の地下ラボに飛び込んでから数カ月が経過している。 実に久しぶりの自由だった。 そうして振り返ることもなく、琴葉は世良グループの本社ビルを後にした。 エントランスの自動ドアを抜けると、外は冷たい雨が降っていた。(…&h
「伊吹」 宗佑の声が、静まり返った地下室に響き渡った。「峻嗣が完璧なAIを完成させた以上、お前の存在意義はもうこの一族にはない」 予想できた言葉だった。それでも直接突きつけられた刃は、伊吹の残されたわずかな精神を砕いてしまった。「黒田大臣の孫娘との縁談……我々に莫大な政治的利益をもたらすはずだったあのカードを、お前は個人的な執着で蹴り飛ばした。その挙句、土井琴葉に首輪一つ繋いでおけず、まんまと逃げられた」 宗佑の目は、道端のゴミを見るよりも冷淡だった。「……それに引き換え、峻嗣を見ろ」 宗佑が峻嗣を示す。「彼女の才能だけを完璧に抽出し、不要な感情を切り捨てて、この箱に収めてみせた。道具の管理者として、どちらが優れているかは火を見るより明らかだ。お前は感情という無駄な『バグ』に振り回され、一族の利益を損なった。そんな欠陥品は、我が世良の血には不要だ。立ち去れ」「……」 伊吹は喉の奥が干からびたように張り付いて、声が出せない。 反論の言葉など、一つも浮かばなかった。 宗佑の言う通りだ。 自分は琴葉を愛していると信じていたが、結局のところ、彼女を不快にさせて、逃げられるほどに追い詰めただけだった。 世良一族としての価値も失い、1人の人間として琴葉の隣に立つ資格も失った。 琴葉に捨てられた以上、もう強さを目指す理由がない。 強くてかっこいい大人になる。その約束は果たされなかった。 完全なる用済み。何の価値もない。 伊吹は重い鉛のようになった体を無理やり動かして、ふらふらと立ち上がった。 視界がぐにゃりと歪む。足元がおぼつかない。 周囲からは、嘲笑うようなささやき声が聞こえる。 峻嗣の勝ち誇ったような冷たい視線が肌を刺す。 伊吹は最後の望みをかけて琴葉を見た。 彼女さえ伊吹を見てくれれば、どんな状況であってもまた立ち上がれるのに。 し
琴葉が、手元に持っていたタブレット端末の画面を、極めて自然な動作で、指先で一度だけスワイプした。 誰も気づかない、伊吹の目にも「ただシステムを監視しているだけ」にしか見えないささやかな動作だった。 しかし直後、跳ね上がっていた数値が99パーセントのラインでピタリと停止した。 琴葉が密かにリミッターをかけ、仕込んでいた構造共振の罠を寸止めしたのだ。 数値は99パーセントのまま完璧に安定し、数分間のフル稼働テストを難なく耐え抜いた。 やがてファンの轟音が徐々に静まり、通常駆動へと戻っていく。 室内に沈黙が落ちる。 次の瞬間、割れんばかりの拍手が巻き起こった。「素晴らしい! 世界的に見ても、これほどのパフォーマンスを発揮するAIは他にない!」「さすがは峻嗣さんだ。日本はAI分野において海外に遅れを取っていたが、これで取り戻せる!」「これからはこの分野を、世良グループが牽引していくことになるぞ!」 一族の重鎮たちが立ち上がり、峻嗣に向けて惜しみない賛辞を送る。「皆さん、ありがとう。私のAIがあれば、次世代半導体設計も思いのままです。このAIは必ずや、我が世良グループをさらなる高みに押し上げるでしょう」 峻嗣は満足げに両手を広げて、その称賛を全身で浴びていた。◇ その光景の中心で、世良宗佑がゆっくりと立ち上がった。 総帥が動いたことで、室内の拍手が波が引くように収まっていく。 宗佑は峻嗣を見据えて、重々しい声で告げた。「見事だ、峻嗣」「光栄です、兄さん」「このAIの完成は、我が世良グループが世界のインフラを完全に掌握するための、新たな心臓となる。……峻嗣。お前を、次期総帥として迎え入れる準備を正式に進めよう」「おぉ……!」 室内が、再びどよめきと熱を帯びた拍手に包まれる。 事実上の、世良一族の玉座の交代宣言だった。「恐れ多いこと
「ご覧ください。このAIの頭脳は、隣にいる共同開発者、土井琴葉の極めて優秀な思考モデルをベースに構築されています。彼女の持つ設計の直感、解析能力、そのすべてをデータ化し、ディープラーニングによって昇華させました。ですが――」 峻嗣はそこで言葉を区切り、唇の端を歪めた。「彼女のような『人間』が持つ、感情の揺らぎ、非合理的な遊び、他者への無駄な執着。そういったヒューマンエラーは、私の手で完全に削ぎ落としました。ここにいるのは、不完全な人間を超越した、究極の知性です」 伊吹は目を見開いた。 峻嗣の言葉は、伊吹の存在そのものを真っ向から否定していた。明らかな当てつけだ。 感情の揺らぎ。他者への執着。 それらはすべて排除すべきバグであると、一族の前で高らかに宣言されている。 伊吹はすがるような思いで琴葉を見つめた。 否定してほしかった。人間らしい感情を無駄だと切り捨てる言葉に、違うと言ってほしかった。 しかし琴葉は表情一つ変えない。ただ冷たい目で、前を見据えているだけだ。 伊吹のことなどちらりとも見ようとしない。(……そうか。琴葉さんも、そう思っているんだ) 伊吹の心に、絶望がせり上がってきた。 琴葉は、感情というバグに振り回される「出来損ないの自分」を完全に見限ったのだ。 だからこそ、純粋な効率と圧倒的な才能を持つ本物の天才である峻嗣をパートナーに選んだ。(僕はまた、間違えてしまった。琴葉さんは嫌がっていたのに、閉じ込めようとした。だから逃げ出してしまった。強くて自由な琴葉お姉ちゃんが、あんな狭い世界で満足するはずなかったのに……) 彼女を欲しいと思うあまり、彼女自身をないがしろにした。 この身勝手な感情をバグと呼ばずして、何と呼ぶのか。 今さらながらにそうと気づいて、伊吹はぼんやりと琴葉を見つめる。峻嗣の隣で力強く立つ彼女を。「それでは、これより最高負荷によるストレステストを開始します」 峻嗣の合図とともに、室内の照
冷たい色のLED照明が、無味乾燥な地下空間を白く照らし出していた。 ここは世良グループ本社ビル、地下5階。最高機密レベルのセキュリティで守られた、広大なデモンストレーションルームである。 その中央には、分厚い防弾ガラスで隔離されたサーバールームがあった。巨大な金属のオブジェのようなAI筐体が鎮座している。 部屋の正面には、最高級のレザーチェアが等間隔で並べられていた。 座っているのは、世良グループの総帥である世良宗佑をはじめとした、一族の重鎮たちだ。 誰もが仕立ての良いスーツを身にまとい、値踏みするような視線をガラスの向こうのAI筐体へと向けている。「あれが峻嗣さんの?」「仰々しい見た目だ」「彼はついこの間、失敗したばかりだが……」 交わされる会話は小さな声で、途切れがちだった。 彼らは互いにライバルであり、相手が弱みを見せれば足を引っ張る気でいる。 よって、うかつなことは言おうとしない。 そして、その特等席から遠く離れた部屋の最後列。 壁際にポツンと置かれた安っぽいパイプ椅子に、世良伊吹は一人だけで座らされていた。 重鎮たちの背中しか見えず、誰一人として伊吹に視線を向ける者はいない。言葉をかけられることもない。 彼の席は明確に、一族における敗者あるいは用済みの部品に与えられた指定席だった。 それでもわざわざ呼ばれたのは、見せしめないし引導を渡すためだろうと皆が予想している。 伊吹の虚ろな視線の先には、防弾ガラスの前に立つ2人の姿があった。 自信に満ちた笑みを浮かべ、胸を張る叔父・世良峻嗣。 さらに彼の一歩斜め後ろには、洗練されたパンツスーツを隙なく着こなした土井琴葉が立っている。(琴葉さん……) 伊吹は膝の上で、両手をきつく握りしめた。爪が手のひらに食い込み、関節が白く浮き出るほどの力で。 伊吹が贈った紫色の服ではなく、峻嗣が用意したであろう冷たい色彩の服。 それを着て、







