LOGIN新米ソープ嬢「アカリ」ことキヨミは、無月経の体を武器に、歌舞伎町で生きる。 高校時代、親友の死と自殺未遂の記憶を先輩・アズサに奪われ、感情を失ったまま9年を過ごしてきた彼女は、童貞客・テラダマコトの純粋な愛と、同僚ユキとの濃密な百合に心を委ねていく。 抑圧された記憶が蘇るたび激しい頭痛に襲われながら、キヨミは「書きたい想い」を抑え込まれた自分と、愛と欲望の狭間で激しく揺れ動く——。 忘却と喪失、純愛と百合、性と再生を描く大人の恋愛小説。
View More【2010年7月23日(金)】静岡県・三島市“我慢強く生きる覚悟を わたしにください――”そこまでのフレーズを書いた後、キヨミは顔を上げる。アズサと目が合う――その日の数週間前、三島市立の図書館で初めて言葉を交わしたばかりの先輩である、彼女に見られている。「アズサ」鏡を見たら恐らくクマだらけのやつれた表情で、キヨミは年齢が一つ上の彼女を呼び捨てする。そうするよう彼女が言ったからだ。 “アズサでいい。ううん、それ以外許さない。もしアズサさんとか、アズサセンパイなんて言うなら、殺すから――君の首を絞めたあとで、その可愛らしい舌と、可愛らしい両目をとって、ずっとホルマリン漬けの宝物にしちゃうんだから。どう、うれしい? それとも、キモイ?”――(キヨミはもちろん、「キモイ」と答えた)アズサは
【2019年11月】東京都・世田谷区 アズサの葬儀に、キヨミが呼ばれることはなかった。 そもそもアズサの親とは病院ですれ違ったっきりだ。自分の連絡先も伝えていなかったばかりか、向こうは面識すらないという印象かもしれない。わざわざ呼ぼうとも思わないだろうし、仮に呼ばれたとしても、キヨミは断っていたかもしれない。 アズサの実家がある静岡県三島市は、キヨミの地元でもある。里帰りしている心の余裕は、今のキヨミにはなかった。 事件から1ヶ月が過ぎ、11月に入っていた。 キヨミは千歳烏山のアパートで、ただベッドに横たわり、天井を見つめ続けていた。部屋は薄暗く、カーテンを閉め切ったまま、時間の流れすら曖昧になっていた。冷蔵庫の中身もほとんど空になっている。 勤めていた風俗店の方はまだ休業中だった。暴行を受けたホステスが亡くなったのだ。もう再開は難しいかもしれない。 同じ店舗で働いていたホステス仲間は、すでに元の店舗を見限って、他の店舗に移籍したようだ。何気なく歌舞伎町の別の店舗や、吉原、五反田といった別エリアの都内風俗サイトを覗いていたら、彼女たちの宣材写真が載っているのを見つけた。 顔は隠れているし名前も違うが、プロフィールから大体想像できた。中にはまるっきり同じ宣材写真を使っているホステスもいた。固定客を手放したくないのだろう。プロモーションとしてはグレーと言うかアウトに近いが、彼女たちも生きるのに必死なのだ。 キヨミはと言えば、ポスティングの仕事もほとんど手につかなくなっていた。チラシを配る手が重く、道を歩く足取りもふらつく。会社から「最近、配布数が少ない」と注意の電話が来たが、キヨミはただ「すみません」とだけ答えて電話を切った。配るべきチラシの山は、今、部屋の端で積まれたまま埃を被っている。 都会で高額の生活費を払いながら、ほぼ稼ぎのない生活。このままの暮らしが続けば貯金もどんどんなくなっていくだろうが、それがどうしたというのだ。 何のために金を稼ぐのか、何のために生きるのか。アズサ(=ユキ)が死んでしまう前と後で、世界は一変してしまった。 朝起きて、顔を洗って、歯を磨いて、簡単な食事を摂る。それだけのことが、なぜこんなに重いのだろう。鏡に映る自分の顔は、以前よりやつれ、目は虚ろだった。笑おうとしても、唇が引きつるだけ。涙はもう出なくなっていた。た
タナベは複数の看護師を伴って病室に戻るや否や、すぐにアズサの容態を確認した。心拍が急激に低下し、呼吸もほとんど止まっていた。 「心拍停止! 心臓マッサージ開始!」 即座に言い、自らアズサの胸に手を当て、力強く圧迫を始めた。病室は一瞬で緊迫した空気に包まれた。キヨミは壁際に立ち尽くし、息を飲んでその光景を見つめていた。タナベの腕が上下するたび、アズサの体がわずかに揺れる。モニターの警告音が容赦なく部屋に響き渡る。 「アズサ……逝かないで……お願い……」 キヨミはアズサの耳元で、繰り返し呼びかけた。声が震える。タナベは汗を浮かべながらも、必死に心臓マッサージを続けていた。 「フカミさん、頑張って! 戻ってきて!」 しかしアズサの心拍は一向に回復しない。モニターの波形が平坦になり、警告音は高く、鋭く鳴り続ける。 午前2時半をわずかに過ぎたころ。 タナベ医師はゆっくりと手を止め、静かに息を吐いた。 「……死亡を確認します。午前2時32分」 病室に重い沈黙が落ちた。 キヨミは膝から崩れ落ち、ベッドの横にうずくまった。哀しいのに涙が出ない。サイボーグだからか? と考える。やはり感情が欠落しているのかもしれない。あるいは深い絶望の中で、何も考えられなくなっているのか。 ただ、どうしても言わずにはいられないことがあり、キヨミは口を開いた。 「私のせいかもしれません」 「どうしてそう思うんですか?」 点滴などの処理は看護師らに任せながら、タナベが尋ねる。怒る風でも、慰める風でもなく、ただの質問だった。キヨミは震える声で返した。 「実は彼女、12時を過ぎたあたりに一度だけ意識が戻ったんです……そのとき私が、ナースコールを押さなかったから」 タナベは神妙な顔でうなずいた後、静かに説明する。 「なるほど……重体の患者様が亡くなる直前で一時的に回復されるということは、時々あります。きっとフカミさんは、大切なあなたにお別れを伝えたかったのでしょう」 キヨミの目を見つめ、穏やかだがはっきりとした声で続けた。 「脳の腫れが悪化し、脳圧が上昇した結果、呼吸中枢が機能しなくなっていました。そのまま意識が戻ることなく亡くなっていた可能性の方が高いのに、最期にあなたとお話しできたことは奇跡です」 タナベもプロの医師だ。下手に慰めようとして根拠のないことを言ったわ
アズサの瞼がゆっくりと開いた瞬間、キヨミの心臓が激しく跳ね上がった。「アズサ……?」キヨミはその名を呼ぶ。“ユキ”ではなく、学生時代から深い関係にあった相手の名を。呼ばれた彼女は顔をキヨミの方へ向けつつも、瞳はまだ焦点が定まらない様子だ。酸素カニューラが鼻に繋がれ、点滴の管が何本も腕に刺さったまま、彼女は弱々しく唇を動かした。「……キヨミ?」ほとんど息のような、かすかな声。キヨミは立ち上がってナースコールを押そうとしたが、一瞬だけ躊躇した。タナベ医師は確かに“何か問題があればすぐにナースコールを押しください”と言っていた。だが、これは“問題”ではないはず。意識が戻ったのは喜ばしいことだ。もちろん、こじつけだとは自分でも分かっている。ただタナベは、短時間だけ一人で付き添っても構わないとも言っていた。点滴の交換準備の少しの間だけだ。キヨミは深呼吸をし、アズサの手を握った。「キヨミだよ。ちゃんとここにいる。ユキはアズサだったんだね。もう目覚めないかと思ってた」アズサの唇がわずかに緩んだ。腫れた顔の中で、その微笑みは痛々しくも美しかった。アズサの指はまだ冷たく、力も弱かったが、確かに生きている温もりがある。キヨミは失っていた9年間を思いながら、アズサの左手にもう片方の手も添え、包み込んだ。「キヨミ……ごめんね」アズサが最初に口にしたのは謝罪の言葉だった。「……私、キヨミに“書く”ことを禁じて、あなたを傷つけて……それなのにユキとして傍にいたなんて」声は弱々しく、途切れ途切れだった。キヨミは首を振り、アズサの額にそっと自分の額を寄せた。「謝らないで。アズサが生きていてくれて、それだけで十分だよ」アズサの目から涙が一筋こぼれた。キヨミはそれを親指で優しく拭う。「アズサ」キヨミは彼女の頰に唇を寄せ、軽くキスをした。腫れた部分を避け、優しく、優しく。アズサも弱々しく微笑み、唇を近づけてきた。二人の唇が触れ合う。最初はただ触れるだけの、優しいキス。そこからアズサの唇がわずかに開き、キヨミの口の中に舌を侵入させてくる。甘く湿った互いの吐息が混ざり合いながら、舌を絡め合った。「ん……」アズサの喉から小さな吐息が漏れる。呼吸が苦しくなったのだろうか。一旦、唇と唇を離して互いに見つめ合った。「キス、久しぶりだね」ポツリと呟くよう
事件から6日目となった。キヨミはまたアパートのベッドで横になり、ただ天井を見つめている。 時刻は――まだ夜中の10時か。それでも体は疲れて果てて睡眠を求めているような気がする。一方で思考は堂々巡りを繰り返し、どれだけ目を閉じても眠りは訪れなかった。 昨夜会って以来、テラダからはLINEも無い。無月経であることを打ち明けて関係にひびが入ったのは間違いなく、その関係をどうすれば修復できるのか。そもそも、その必要があるのか否か。 キヨミも恋していたのは間違いないが、テラダから連絡が来ない以上、こちらから送る言葉は何もなかった。「どうか捨てないで」と懇願しろとでも? 「浅ましい女」と思われるだけだ。 “私にプロポーズしたのはマコトでしょ。だから、マコトがリードして見せて。ちゃんと私に相応しい男だってこと、証明して” よくあんなセリフが言えたものだ。仕方ない、テラダといるときの自分は“アカリ”なのだ。笑顔が明るく、妖艶で、自信に満ち溢れた娼婦。 実際は寡黙で、表情の乏しい陰キャ。無月経であることを差し引いたとしても、そもそも一般男性が結婚相手に選ぶような人間ではなかった。 ただ、そんなことでキヨミは自己嫌悪に陥ったりはしない。自分の性格を嫌ったところで今さら生き方は変えられないし、合わない人間とは無理して付き合う必要もない。テラダに関しては正直なところ、「もうどうでもいい」と思い始めているような気がした。 あんなにピュアな男性と付き合ったことは今まで無かったから。ただの物珍しさを「妙な魅力」と履き違え、一時的にハマっていただけなのかもしれない。そう考えると、このまま自然消滅するのも別に悪くない気はしている。 と同時に、一日でそこまで“冷めて”しまえる自分にも驚いていた。 テラダが放出したものだって、まだ少し膣内に残っているような気がするのに。ぴゅっ、ぷぴゅっ、と、その日に用を足している最中でも漏れ出していくのを感じた。ただ、どうせ命が結実することはない。キヨミにとっては無意味な、ただの体液に過ぎない。 (やはり私は、感情の無いサイボーグなのだろうか) アズサの呪いは、まだ解けていないのかもしれない。 アズサ――昼間にまた、彼女の見舞いにも行った。相変わらず意識は戻らず、腫れた顔は前日よりさらに青白く見えた。キヨミはベッドの横で彼女の手を握
【2019年3月下旬】東京都・新宿区その日の最初にキヨミを指名した客は、自らの名をテラダマコトと名乗った。身長は高く、全身がやたら白い。もうすっかり桜も満開の時期なのに、雪を思い出させるような色だ。ひょっとしたらこの日も、店へ足を運ぶまで一歩も外出しなかったのではと思うほどに。ただ、そのように日の光を避けて生きるヴァンパイアのような人種は、ここ歌舞伎町ではそう少なくはないと聞く。「ごめんなさい、こんなガリガリのみすぼらしい裸で」湯船から上がってバスタオルを腰に巻いた客は、キヨミに視線を向けられているのを恥じてか、両腕を胸の前で組んで体を隠すような仕草を取っている。キヨミは「大丈夫ですよ
【2010年7月23日(金)】静岡県・三島市“我慢強く生きる覚悟を わたしにください――”そこまでのフレーズを書いた後、キヨミは顔を上げる。アズサと目が合う――その日の数週間前、三島市立の図書館で初めて言葉を交わしたばかりの先輩である、彼女に見られている。「アズサ」鏡を見たら恐らくクマだらけのやつれた表情で、キヨミは年齢が一つ上の彼女を呼び捨てする。そうするよう彼女が言ったからだ。“アズサでいい。ううん、それ以外許さない。もしアズサさんとか、アズサセンパイなんて言うなら、殺すから――君の首を絞めたあとで、その可愛らしい舌と、可愛らしい両目をとって、ずっとホルマリン漬けの宝物にしちゃ
キヨミの目が見開かれる。頭の中が真っ白になる。アズサはゆっくり顔を離し、キヨミの瞳をまっすぐ見つめた。その瞳は宝石のように輝いていた。 「私たち、恋人同士にならない?」映画のストーリー以上にわけのわからない展開に、キヨミは何も答えられない。ただ熱く残る唇の感触を、どう受け止めれば良いのかわからない。アズサは満足げに微笑むと、再びキヨミの肩を引き寄せ、もう一度、深く長いキスをする。アズサの舌が口の中に侵入し、キヨミの舌に絡んでくる。大人のキスだ。経験したことがないわけではない。ただ、その日初めて会話を交わした者同士でやってよい行為なのか。とっさにキヨミはアズサの体を押しのけた。唇が離
“この仕事はね、本能的に「感じる」ことのできる人間にしか続けられない。ただエッチが好きなだけじゃダメ。相手によって感覚が鈍るような、ただの女には無理。「ビッチ」になるの。身も心も「ビッチ」になりなさい。長く続けたいならね”初日の講習で、そう言われたことを思い出す。ああ、やはり自分には、この仕事が向いていたのかもしれないという気持ちになる。「気持ちいい?」「ああ、はい、気持ちいい、です」「うそ。初めてなのに、わかる?」まだ少し戸惑うような表情の客を見ながら、キヨミはイジワルを言う。それも、講習で習ったテクニックの一つだ。「わか、わかると、思います」「ほんとうに? 変な感覚でしょ。