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last update Date de publication: 2026-02-04 11:44:59

 ――20年前。3月下旬の風が強い日だった。

 祖父母の家の縁側には、段ボール箱が積み上げられていた。

 ようやく仕事に区切りをつけた父が、琴葉を迎えに来たのだ。

 琴葉は4月から小学校への進学を控えている。

 それに合わせての帰郷だった。

 6歳の琴葉はリュックを背負って、庭先に来ていた男の子に向き合った。

『やだぁ……いかないでよぉ……』

 4歳の「いずみくん」は、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。

 琴葉の服の裾を握りしめて、足元にしがみつくようにしている。

 母親に虐待され、近所の子にいじめられていた彼にとって、琴葉がいなくなるのは、世界の終わりと同じだったのかもしれない。

『泣かないで、いずみくん。もう4歳でしょ?』

 琴葉はお姉ちゃんらしく振る舞いながらも、胸を痛めていた。

 この子を置いていくのが心配だった。

 だから彼女は、リュックの中から一番大切な
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  • 偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~   193:五軸の逆転劇

     土井精機の事務所に置かれた会議用の大型モニターに、複雑な形状をした部品の三次元モデルが映し出されている。 琴葉は手元のタブレットを操作して、その立体図面をよく見えるようにゆっくりと回転させた。 部品の内部を透過表示に切り替えると、血管のように入り組んだ冷却水路の構造が露わになる。 画面を食い入るように見つめていた工場長が、深く息を吐き出して頭を掻いた。「お嬢、こりゃあ冗談キツいぜ。半導体製造装置のセンサーハウジングってのは分かるが、この内部構造はどう見ても切削加工で作るもんじゃない。普通は特殊な金型を作って、精密鋳造で抜く形状だ」 隣で腕を組んでいたベテラン職人も、渋い顔で頷く。「工場長の言う通りだ。外側を削るのは問題ないが、この湾曲した深い水路には刃物が届かない。無理に長い刃物を使えばビビリ(振動)が出て寸法が出ないし、そもそも奥の方で干渉して刃が折れる。物理的に不可能ってやつだ」 職人たちの見立ては完全に正しい。 図面通りのものを金属のブロックから直接削り出すことは、一般的な三軸の工作機械では絶対に不可能だった。「ええ、通常のやり方ならね」 琴葉はタブレットを机に置くと、職人たちを見回した。「でも、私たちには鋳造用の金型を半年かけて作っている時間はないの。世良のラインを止めないためには、3週間以内にこの部品の量産体制を整える必要があるわ」「3週間!? 無茶苦茶だ。絶対に無理だろ。どうしてそんな納期になったんだ? 世良の若旦那がまた何か無茶を言ったのか?」 工場長が驚きの声を上げる。「まあね。ざっくり言うと、世良グループが外資企業から攻撃を受けている。この部品の納入元を買収されて、供給源を絶たれたのよ」 琴葉の言葉に、職人たちがざわめいた。「何だって……。外資はえぐいことしやがる」「それで、うちにお鉢が回ってきたのか」「ええ、そう。だから、土井精機にある五軸加工機を使って、金属の塊から直接これを削り出す」 琴葉が宣言すると、事務所の空気が

  • 偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~   192

    「動き出したプロジェクトは、様々な利権がからみますから。当初の理念だけでは進めません」 伊吹は手元の資料に視線を落としながら、現在の対抗策を素早く説明した。「既存契約の不履行に対する仮処分申請と、独占禁止法違反の疑いで、オライオン側および政府に対して徹底的な時間稼ぎの折衝に入りました。あらゆる法律の網の目を使って、期限の引き延ばしを図ります」「でも法的な手続きで引き延ばしたところで、手元に部品が湧いてくるわけじゃないわ」「ええ。政治と法律の盤面は僕が押さえます。ですが、物理的な解決策がなければチェックメイトです」 伊吹の言葉と同時に、琴葉の端末に重いファイルの受信通知が届いた。「今、供給を絶たれたセンサーハウジングの三次元CADデータを送りました」 琴葉はファイルを開き、サブモニターに図面を表示させた。 マウスを操作して立体モデルを回転させ、内部構造を拡大していく。 数秒間図面を見つめた琴葉は、小さく息を吐いた。「……なるほど、これは厄介ね。極めて複雑な内部の冷却水路に加えて、公差の指定が厳しすぎるわ。本来なら、特殊な金型を使った精密鋳造と専用の大型プラントでなければ量産できない形状よ」「僕が政治と法律で時間を稼ぐ間に、土井精機の技術でこれを代替できませんか」 伊吹は画面越しに、琴葉の目を正面から見つめた。 その眼差しは、親会社からの無茶な要求ではない。 巨大な資本による暴力的な分断に対し、世良グループの命運を完全に琴葉の技術力へ託すという、対等なパートナーとしての真摯な問いかけだった。 琴葉の胸の奥で、技術者としてのプライドに火がついた。「鋳造用の金型を今から作っていたら、どう急いでも半年はかかるわね」「やはり、3週間では厳しいですか」「誰に言っているの。金型が間に合わないなら、金属の塊から直接削り出せばいいだけよ」 琴葉の迷いのない即答に、伊吹がわずかに目を見開く。「直接削り出す……? この複雑

  • 偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~   191:トラブルの始まり

     昼下がりの土井精機は、活気に満ちた稼働音と職人たちの声に包まれていた。 世良グループと対等な技術提携契約を結んでから数週間。 土井精機には、半導体製造装置の初期発注分の部品加工という大きな仕事が安定して入り始めていた。 琴葉は事務所のデスクに座り、デュアルモニターの片方で現場の進捗状況を確認しながら、もう片方の画面で次なる加工プログラムの構築に取り掛かっている。(これでよし、と。作業は順調ね) 仕事に一区切りをつけて、コーヒーを飲もうとマグカップに手を付ける。 と。 不意に、手元のタブレットから鋭い通知音が鳴った。 画面を見ると、世良グループの専用回線からの着信表示が出ている。発信元は伊吹だ。 琴葉はマグカップに伸ばしかけた手を止めて、通話ボタンをタップした。 モニターに映し出された伊吹は、世良ブループ本社の執務室にいた。 その顔には、先日実家を訪れて茶白の猫を撫でていた時の穏やかさは既にない。 数万人の従業員を抱える巨大企業のトップとして、予期せぬ危機に直面し、即座に迎撃態勢に入った冷徹で鋭い表情をしていた。「琴葉さん、今いいですか」「ええ、ちょうどひと段落ついたところよ。どうしたの、ひどく険しい顔をして」 琴葉の問いかけに、伊吹は単刀直入に本題を切り出した。「アメリカの巨大テック企業、オライオン・システムズが動きました。彼らが、ヨーロッパにあるメーヤー・インダストリー社を電撃的に買収したんです」「メーヤー・インダストリーって……半導体製造装置のセンサーハウジングを専門に作っているメーカーね。世良のラインでもあそこの部品を使っていたはずだけど」「ええ。オライオン側は買収手続きが完了した直後、組織再編を理由に世良グループへの部品供給の即時停止を通告してきました」 琴葉は画面越しに眉をひそめた。「あからさまな妨害ね。自分たちで部品を独占して世良の製造ラインを物理的に止め、日本の半導体プロジェクトから世良を完全に排除する気だわ」

  • 偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~   180

     食卓には琴葉が作った肉じゃが、焼き魚、ほうれん草のお浸し、豆腐の味噌汁が並べられていた。 どこにでもある、ありふれた家庭料理だ。 伊吹は「いただきます」と両手を合わせ、箸を取った。 肉じゃがを一口食べて少しの間、目を閉じる。「口に合うかしら」 琴葉が尋ねると、伊吹は目元を柔らかく和ませて頷いた。「ええ。とても美味しいです」 食事の間、土井社長は上機嫌だった。 最近の工場の調子や、ルークが障子を破ってしまった時のエピソードなどを次々と語り出す。 伊吹は食事を進めながら、その1つひとつに耳を傾け、相槌を打っていた。「いやあ、伊吹くんとこうして酒も飲まずに飯を食うのも新鮮でいいな。ルークもすっかり君に懐いているし、いつでも遊びに来るといい」「ありがとうございます。ルークがこんなに穏やかに過ごせているのも、社長と琴葉さんが愛情を注いでくださっているおかげです」 食事が終わり、土井社長が「少し風呂の様子を見てくるよ」と言って席を外した。 居間には琴葉と伊吹、ソファで再び丸まり始めたルークだけが残された。 琴葉は温かいお茶を新しく淹れ、伊吹の前に置いた。「少し騒がしかったかしら。うちの父はおしゃべりだから」「いいえ。とても楽しい時間でした」 伊吹はお茶の入った湯呑みを持ち、湯気を見つめた。「こんなに美味しくて、安心できる食事はいつ以来か分かりません」 彼の呟きに、琴葉は向かいの席に座ったまま耳を傾けた。「本家での食事は、いつも巨大なテーブルの端と端でした。味付けは一流のシェフが担当していましたが、僕にとっては味がしなかった。周りの視線を警戒し、毒が入っていないか疑い、ただ生き残るためのカロリーを摂取するだけの作業でしたから」 淡々と語る伊吹の声に、悲壮感はない。 ただの過去の事実として、彼は自分の歩んできた道を振り返っている。「でも、今の僕はもう、あの冷たいテーブルに着く必要はない。こうして温かい食事を美味しいと感じることができる。

  • 偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~   179

    【閑話】猫との再会 夕方の土井家の台所には、醤油と出汁の甘い香りが漂っていた。 琴葉はエプロン姿で鍋の様子を見ながら、横のまな板で手早くネギを刻んでいる。 土井精機での業務を終えた後の見慣れた日常の風景だった。 居間からは、父である土井社長が見ているテレビのバラエティ番組の音が聞こえてくる。 ――ピンポーン。 不意に、玄関のチャイムが鳴った。「はーい、今出ます」 琴葉は手を拭き、エプロンを外して玄関に向かった。 宅配便かご近所からのお裾分けだろうと思いながらドアを開けると、そこには予想外の人物が立っていた。「突然の訪問を申し訳ありません」 ダークグレーのスーツを隙なく着こなした伊吹だった。 その手には、高級そうな菓子折りが提げられている。 数日前に土井精機の事務所で新たな技術提携契約を結んだ時と同じ、世良グループのトップとしての落ち着きを払った佇まいだ。「伊吹? どうしたの、こんな時間に」「近くまで来る用事があったので、ご挨拶に伺いました。よろしいでしょうか」 琴葉が返事をするより早く、玄関の話し声を聞きつけた土井社長が奥から顔を出した。「おお、伊吹くんじゃないか! 立ち話もなんだ、上がってくれ。ちょうど夕飯の支度ができたところだ」 土井社長にとって、伊吹はかつて倒産の危機にあった土井精機を救ってくれた恩人であり、娘を不当な扱いから守ろうとしてくれた青年という認識だ。 2人の間にあった歪んだ契約結婚がすでに過去のものとなっている今でも、その好意的な態度は変わらない。「お邪魔します。お気遣いなく」 伊吹は靴を脱ぎ、揃えてから廊下を歩く。琴葉は彼を居間へと案内した。 居間のドアを開けると、部屋の真ん中にあるソファの上に、丸い毛玉のようなものが陣取っていた。 茶色と白の縞模様。かつて雨の日に、伊吹が引き取ったあの名無しの捨て猫だ。 今ではすっかり土井家の環境に馴染み、ふっくらとした毛並みを手に入れて、この家の主のよう

  • 偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~   178

    「暫定ではなく、正式なCEOとしてのトップダウンの決裁ですから、誰にも文句は言わせません。それに、この条件でも世良グループには十分すぎるほどの見返りがあります。政府のプロジェクトを勝ち抜くためには、土井精機の技術が何としても必要不可欠なんです」 伊吹は琴葉の目をまっすぐに見つめ返した。 その瞳にはもう、庇護を求める怯えた子供の面影はない。「僕はもう、あなたに判断を委ねて逃げ隠れするような真似はしません。自分の足で立ち、自分の責任で世良グループを率いていきます。だからこそ、あなたには僕の保護者としてではなく、完全に独立した対等なビジネスパートナーとして、共に盤面を支配してほしいんです」 巨大企業のトップとしての冷徹な計算と、琴葉という一人の技術者に対する底知れぬ敬意。 2つの感情が完全に調和した、彼にしかできない提案だった。 琴葉は書類をデスクに置き、深く息を吸い込んだ。 彼が作り上げた完璧な条件。 それは、互いの武器である電子の資本と鉄の技術を認め合い、真の意味で肩を並べるための招待状だ。 断る理由はどこにもなかった。「悪くない条件ね。むしろ、世良グループを手玉に取っている気分だわ」 琴葉は胸ポケットから愛用の万年筆を取り出した。 キャップを外し、署名欄に向かって迷いのない筆致でサインを書き込む。 流れるようなインクの軌跡が、『土井琴葉』という名前を契約書に刻みつけた。 彼女は書類の束を整えて、その半分を伊吹に向かって差し出す。 伊吹はそれを受け取ると、大切に鞄の中にしまった。「これで、正式な契約成立です。これからの世良グループの命運は、土井精機の技術にかかっています。厳しい要求も出ることになるでしょうが、覚悟はよろしいですか」「誰に向かって言っているの。どんな無茶な要求でも、完璧な寸法で削り出してみせるわ。私の五軸加工機を甘く見ないことね」 言葉を交わす2人の視線が交錯する。 そこにはもはや異常な依存も、一方的な支配も存在しない。 互いの能力を引き出し合い、共通の

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