Masuk銀行の応接室はひどく乾燥していた。エアコンの低い音だけが、不自然なほどに響いている。
「……つまり、ゼロ回答ということですか」
琴葉の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
対面のソファに座る融資課長は、申し訳なさそうな顔を作りながらも、その目は腕時計をチラチラと気にしている。「申し訳ありません、土井さん。本部としても、これ以上のリスクは取れないという判断でして」
「S自動車の件なら、代わりの受注先を当たっています。高い合金技術を活かして、航空宇宙分野に乗り出す計画もあります。うちの技術力を評価してくれるメーカーは、他にも……」
「その『たられば』に、当行はお金を貸すわけにはいかないんですよ」
課長が手元の資料をパタンと閉じた。
それが終了の合図だった。もうこれ以上、課長は話を聞く気がない。琴葉は膝の上で拳を握りしめる。爪が皮膚に食い込んで痛みが走る。
喉の奥が熱くなる。罵倒の言葉がこみ上げてくるのを、奥歯を噛み締めて無理やり飲み込んだ。(数字しか見ないくせに。工場の油の匂いも、機械の駆動音も知らないくせに!)
「……お時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした」
頭を下げて銀行を出る。
自動ドアが開いた瞬間、初夏の日差しが目に飛び込んできた。 アスファルトからの照り返しが、容赦なく体力を奪っていく。視界がぐらりと歪む。(駄目だった)
琴葉は道路脇のガードレールに手をつき、荒い呼吸を繰り返した。胃の腑がねじれるような吐き気を感じる。
頭に浮かぶのは、土井精機の――父の会社であり、祖父と曽祖父から受け継いできた大事な工場の行く末。
守りたかった。琴葉が子供の頃から過ごしてきたあの場所を。
会社がなくなってしまえば、社員たちはどうなる?
感情と実利の双方で、必死に存続の方法を探す。
(いいえ、まだよ。まだ倒れるわけにはいかない)
ふらつく足に活を入れて、彼女は工場へと戻る道を急いだ。
◇ 工場の敷地に足を踏み入れた瞬間、琴葉は異様な空気に気づいた。 いつもの油と金属の匂いに混じって、場違いなほど高級なコロンの香りが漂っている。従業員たちが遠巻きに見つめる先には、昨夜見たあの黒塗りの高級車が停まっていた。
それも1台ではない。3台いる。 狭い敷地を圧迫するように並ぶ光景は、まるでここだけ別世界から切り取ってきたような違和感を与えている。「あ、お嬢……いや、副社長!」
職人の1人が琴葉に気づいて駆け寄ってくる。その顔は困惑と恐怖で引きつっていた。
「なんなの、あれ。銀行の差し押さえ部隊?」
「いや、それが……」
言葉を遮るように、中央の車のドアが開いた。
革靴がアスファルトを踏む硬質な音が響く。降り立った青年を見て、琴葉は息を呑んだ。(この人は……?)
琴葉が自らの意思で、この楽園を捨てて逃げ出した。その事実を認めそうになり、心が千切れそうになる。 だが、その時。伊吹の脳裏に、ある可能性が閃いた。(待てよ) 伊吹は顔を上げた。 その瞳から、怯えた子供のような色は消えていた。 代わりに宿ったのは、冷徹なシステム管理者の光だ。 彼は素早くノートPCを開いた。スマートホームの管理ログにアクセスする。 キーボードを叩く音が、誰もいない部屋に響く。「……やはり」 ログには明確な痕跡が残っていた。 15時00分ジャスト、システムエラー発生。外部からの特定パケットによる、バッファオーバーフロー攻撃。 事故でも故障でもない。 極めて高度な技術を持った何者かが、意図的にセキュリティをダウンさせたのだ。「琴葉さんが、自分で逃げたわけじゃない」 伊吹の表情に、生気が戻っていく。(そうだ。彼女は僕を愛している。逃げる理由なんてない。つまり――)「誰かに、連れ去られたんだ」 伊吹はログに残された攻撃コードの癖を何度も確かめた。 美しくも性格の悪い、特徴的な記述が踊っている。見間違えるはずがない。 何度も権力闘争をして、とうとう追い落とすのに成功したはずの相手。「……峻嗣、叔父さん」 パズルのピースが埋まった。 あのひねくれた叔父が、琴葉の技術者としての好奇心を刺激し、言葉巧みに騙して誘い出したのだ。 そして、あの汚い掃き溜めのようなラボへ引きずり込んだ。「許さない」 伊吹の拳が震えた。 ただの怒りではない。純粋な義憤と、琴葉への恋慕が胸を満たしていく。「僕の琴葉さんを……僕の大切な宝物を、騙して奪うなんて」(可哀想な琴葉さん。きっと今頃、油と埃にまみれた場所で、後悔して泣いているに違いない。温かい家も、美味しい食事もない場所で、叔
18時、都心の空が茜色から群青色へと変わる頃のこと。 伊吹はタワーマンションのエレベーターを降りた。その足取りは、雲の上を歩くように軽い。 腕には琴葉のイメージに合わせて選んだ、白い百合の花束を抱えている。「ただいま、琴葉さん! 予定より少し早く戻れましたよ」 伊吹は弾む声で言いながら、玄関のロックを解除した。 昨夜の幸せな記憶が、脳裏でリピートされている。『忘れられない夜になりそう』 と微笑んだ彼女。自分を受け入れてくれた、愛する妻。 今日はデリバリーの予定だ。 メニューは琴葉の食べたいものでいいが、一緒に選んでみるのも楽しいかもしれない。「琴葉さん? ……おや、シャワーですか?」 返事がない。リビングは薄暗く、静まり返っていた。 デリバリーが届いている様子もない。 伊吹は微笑みを崩さないまま、リビングへと足を踏み入れた。「準備中なら構いませんよ。ゆっくり支度して――」 言葉が途切れた。伊吹の足がピタリと止まる。 ダイニングテーブルの中央に、何かがある。 天井のスポットライトに照らされて、小さな金属片が鋭い光を放っていた。「…………あ」 バサッ。伊吹の腕から花束が滑り落ちた。白い百合が床に散らばる音が、リビングに波紋を描くように広がっていく。 テーブルに置いてあったのは、彼が贈ったプラチナの結婚指輪だった。 手紙もメモもない。ただ裸の指輪だけが、むき出しのままでテーブルの上に光っている。「……琴葉、さん?」 伊吹の声が震えた。嫌な予感が背筋を駆け上がる。彼は弾かれたように走り出した。「琴葉さん! どこにいるんですか!」 洗面台、バスルーム、いない。 テラスには出られないようにしておいた。 寝室のドアを荒々しく開ける。無人だ。 クロ
「機能的でいいわ。気に入った」「当然だ。俺が選んだ物だからな」 峻嗣は満足げに頷くと、ソファから立ち上がって作業台へ琴葉を招いた。 そこには、剥き出しの基板と冷却ファンが複雑に絡み合った機械が鎮座していた。「これは?」「見ての通りだ。兄さんの……宗佑のAIに対抗するための新型演算ユニットだが、見ていられないほど醜い」 峻嗣が顔をしかめた。「俺の書いたコードは完璧で美しい。だがハードウェアが悲鳴を上げている。無能なハード屋のせいで、排熱処理が追いついていないんだ」「……なるほど」「この熱暴走は、設計の欠陥だ。直したまえ。俺のコードに見合う『器』に仕立て直すんだ」「へえ。言うだけあって、中身は化け物級ね」 琴葉はモニターに表示されたエラーログを確認し、目を輝かせた。 普通のエンジニアなら匙を投げるような、無茶苦茶な要求スペック。けれどもそれが琴葉の職人魂に火をつけた。「ここ、ヒートシンクの配置が美しくないわ。空気の流れを殺してる。工具貸して」 助手が工具箱を差し出した。工具類が整然と並べられている。 琴葉はその中からドライバーを手に取った。迷いなくユニットに手を伸ばす。「貸して。私がもっとエレガントに組み直してあげる」 琴葉はドライバー片手に、にやりと笑ってみせた。◇ 深夜、静寂に包まれたラボに、クラシック音楽が低い音量で流れている。 峻嗣が趣味で流しているBGMだ。 機械の稼働音にかき消されそうでいて、不思議な調和を奏でていた。「ふぅ……」 琴葉は休憩用のソファに座り込んで、大きく息を吐いた。 作業台の上のユニットは、今は静かに安定した駆動音を立てている。「飲め。カフェインが必要だろう」 峻嗣がエスプレッソの入ったカップを差し出した。 ふわりと漂う、深煎り
琴葉を乗せたワンボックスカーは、港湾地区の倉庫街へと入っていった。 倉庫の1つ、錆びついたシャッターが開くと、車はその中へと入り込んだ。 その倉庫の外観は廃墟同然だった。 けれど一歩中に足を踏み入れた琴葉は、その先に広がっている光景に目を見張った。 天井の高い空間は薄暗いが、きちんと手入れされている。埃っぽさは少しもない。 ひんやりとした空気が肌を刺す。最適な温度に管理された空調の風だ。 床は打ちっぱなしのコンクリートだが、綺麗に掃き清められている。 無数の太いケーブルが幾何学模様のように整然と這っていた。 壁一面には、サーバラックが設置されている。 サーバーラックの青白いランプが、まるで深海の生物のように静かに瞬いていた。「……いい匂い」 車を降りた琴葉は、深く息を吸い込んだ。 オゾンと熱されたシリコンの匂い。 ペントハウスの無臭の空間とは違う、何かが稼働し、計算し、生きている場所の匂いだ。 彼女が馴染んだ場所、本来いるべき場所の匂いだった。「やあ。逃亡者にしては、随分とラフな格好だな。……姪っ子ちゃん」 巨大なマルチモニターと、サーバーラックが囲んでいる空間の中心から声がした。 場違いなほど上質な革張りのソファに、1人の男が優雅に足を組んで座っていた。 ――世良峻嗣。 つい先日、伊吹と琴葉の策略によって追い落とされた、世良グループ総帥の実弟である。 彼は半導体製造装置のための特殊合金の乗っ取りを企み、失敗した。 現在は主だった役職を解かれ、不正の追及を受けている。(取り調べ室で缶詰だと思っていたけど。もう終わったのね) 琴葉は油断なく猫に似た瞳を細めながら、相手を見た。 峻嗣の本来の得意分野はIT関係。特に彼自身も名うてのエンジニアである。 言い換えれば凄腕のプログラマー、もしくはハッカー。 世良グループのネットワーク会社『世
同時に、AIスピーカーからノイズ混じりの音声が流れる。『システムエラー発生。セキュリティプロトコルをリセットします。再起動を開始します……』 カシャッ、ガチャン。 玄関のスマートロックが固い音を立てて解錠された。「仕事が早いわね、性格の悪い叔父さん」 琴葉はドアノブを回した。 あれほど重かった扉が、嘘のように軽く開く。 素早く廊下へ飛び出して、天井の監視カメラを確認する。インジケーターランプが消えている。 琴葉はエレベーターホールへと走った。◇ エレベーターに乗り込むと、ボタンを押すまでもなく扉が閉まった。 階数表示が勝手に切り替わり、『B2(地下2階)』のランプが点灯する。 峻嗣のハッキングにより、制御は完全に奪われているようだ。 高速で降下していく箱の中で、琴葉はスマホのストップウォッチを起動した。 リミットは3分。それを過ぎればシステムが再起動し、警備会社に通報が行く。 そうなれば、地下駐車場は封鎖され、袋の鼠だ。 鏡に映る自分を見る。化粧っ気はなく、服も安物だ。 しかし目は昨日までの濁りが消えて、生き生きと輝いていた。(私は生き返るんだ) チン、という到着音が鳴る。 扉が開くと、湿ったコンクリートと排気ガスの匂いが鼻を突いた。 地下2階の駐車場は薄暗く、静まり返っている。 伊吹の愛車や他の住人の高級スポーツカーが並ぶ中、明らかに異質な1台が停まっていた。 型落ちの業務用ワンボックスカー。手入れこそされているものの、高級車が居並ぶ中では明らかに浮いている。 窓には濃いスモークが貼られ、中の様子はうかがえない。 ピカピカに磨き上げられたこの空間で、そこだけが汚れたシミのようだ。「……趣味が悪いわね」 琴葉が近づくと、スライドドアが自動で開いた。 乗り込むと、運転席には無精髭を
計画実行当日の朝になった。 玄関ホールには、何事もないかのような穏やかな空気が流れている。 伊吹は鏡の前でネクタイの結び目を直し、満足そうに微笑んだ。「今日は15時から定例会議ですが、なるべく早く切り上げて帰りますね。夕食はデリバリーにしましょうか。食べたいものを考えておいてください」「ええ、いいわね。楽しみにしてる」 琴葉はラベンダー色の可愛らしいワンピースを着ている。伊吹が買い与えたものだ。 色はともかく、幼いデザインが気に入らなくて、今までは着ようとしなかった。 今は相手を油断させるため、せいぜい愛想を振りまいている。 見送りに立つ表情は、良妻そのものだ。 ここしばらくの琴葉の演技が、伊吹の目を完全に曇らせている。「では、行ってきます。琴葉さん」「……気をつけてね、伊吹」「! ……はい! 行ってきます!」 琴葉の口から出た労いの言葉に、伊吹はとても嬉しそうに笑った。足取り軽くエレベーターへと消えていく。 扉が閉まり、電子ロックが掛かる音が響いた。 その瞬間。琴葉の顔から笑みが消え失せた。 彼女はすぐさまリビングの壁掛け時計を見上げた。「現在、8時30分。……残り6時間半」 琴葉の声は冷静だ。「気をつけて」というのは、精々足元をすくわれないようにね、という皮肉だったのだが、幸せボケした彼の脳には届かなかったらしい。 ほん少しの罪悪感を覚える。だが琴葉は軽く頭を振ってその感情を追い出した。◇ 14時20分。琴葉は寝室のクローゼットを開け放ち、身支度を整えていた。 伊吹が買い揃えたハイブランドの服やバッグには、指一本触れない。 奥の段ボールに押し込まれていた、自分で持ち込んだTシャツと、動きやすいカーゴパンツ、履き潰したスニーカーを取り出す。「やっぱり、こっちの方が落ち着くわね」 着替えを済