LOGIN(どうして今、この時期に。事前の通告もなく!)
怒りが腹の底でどろりと渦巻いた。
海外移転、時代の流れと言えばそれまでだ。だがこのタイミングでの通告は、弱り切った獲物にトドメを刺すかのような悪意さえ感じる。琴葉は無意識にボールペンを強く握りしめていた。ミシッ。プラスチックがきしむ音がして、ハッと我に返る。
指先から血の気が引き、白くなっている。「副社長、どうしましょう……」
経理担当者のすがるような視線に、琴葉は努めて明るい声を返した。
「どうもしないわよ。まだ終わったわけじゃない」
それは、自分自身への虚勢でもあった。
◇ 社長室の扉を開けると、そこにはすっかり小さくなってしまった父――土井社長の背中があった。 かつては油まみれになって現場を指揮していた父も、度重なる経営難と心労で今では見る影もない。「琴葉か……」
父が振り向く。その目は弱々しく、すでに戦うことを諦めていた。
「聞いたよ、S自動車の件。もう、潮時かもしれんな」
「お父さん」
「従業員の退職金だけでも確保して、廃業の手続きをした方がいいだろう」
「駄目よ!」
琴葉の声が、部屋の空気をビリリと震わせた。
「うちの技術は世界一よ。ミクロン単位の精度を出せるのは、この辺りじゃうちだけ。まだ負けてない」
「だが、金が……」
「お金なら私がなんとかする。銀行でもどこでも、頭を下げて回るわ」
父は力なく首を振るだけだ。
琴葉は唇を噛み締めて部屋を出た。廊下に出た瞬間、張り詰めていた糸が切れそうになる。壁に背中を預け、長く重い息を吐き出す。胃のあたりに、鉛の塊を飲み込んだような重圧があった。(なんとかするって言ったけど……どうやって?)
アテなどない。あるのは、この工場と従業員を守らなければならないという責任感だけだ。
◇ 深夜。残業を終えて工場の外に出ると、冷たい雨が降り始めていた。 傘を持っていない琴葉は、バッグを頭に乗せて小走りに門へ向かう。雨粒が頬を打ち、作業着に染み込んでいく。冷たさが肌を刺す。ふと、門の前に異質な存在があることに気づいた。
深夜の闇に溶け込むような影は、黒塗りの高級セダンだった。 雨に濡れたアスファルトの上で、その車体だけが周囲の闇を吸い込むように鎮座している。こんな寂れた工場街には似つかわしくない。(借金取り? それとも、工場の買い叩きを狙うハゲタカかしら?)
琴葉は足を止めて、その車を睨みつけた。
後部座席のウィンドウが、数センチだけ音もなく下りる。内部は暗くて顔は見えない。だが、そこから誰かがこちらを見ている気配がする。絡みつくような、品定めをするような視線。背筋がぞくりとした。寒さのせいではない。
「……見てなさいよ」
琴葉は雨に濡れるのも構わず、車を見据えた。
「絶対に、この城は明け渡さないんだから」
雨音にかき消されそうになりながら、密かに宣言する。
車は何も答えない。ウィンドウを閉めると、水しぶきを上げて走り去っていった。赤いテールランプが、雨の闇に溶けて消えていく。
残された琴葉は、濡れた髪を乱暴にかき上げた。
明日はいよいよメインバンクとの最終交渉だ。何としても融資をもぎ取らなければならない。彼女はまだ知らない。
その車に乗っていたのが、彼女を救う天使であり――同時に彼女を鳥籠に閉じ込める悪魔であることを。
琴葉が自らの意思で、この楽園を捨てて逃げ出した。その事実を認めそうになり、心が千切れそうになる。 だが、その時。伊吹の脳裏に、ある可能性が閃いた。(待てよ) 伊吹は顔を上げた。 その瞳から、怯えた子供のような色は消えていた。 代わりに宿ったのは、冷徹なシステム管理者の光だ。 彼は素早くノートPCを開いた。スマートホームの管理ログにアクセスする。 キーボードを叩く音が、誰もいない部屋に響く。「……やはり」 ログには明確な痕跡が残っていた。 15時00分ジャスト、システムエラー発生。外部からの特定パケットによる、バッファオーバーフロー攻撃。 事故でも故障でもない。 極めて高度な技術を持った何者かが、意図的にセキュリティをダウンさせたのだ。「琴葉さんが、自分で逃げたわけじゃない」 伊吹の表情に、生気が戻っていく。(そうだ。彼女は僕を愛している。逃げる理由なんてない。つまり――)「誰かに、連れ去られたんだ」 伊吹はログに残された攻撃コードの癖を何度も確かめた。 美しくも性格の悪い、特徴的な記述が踊っている。見間違えるはずがない。 何度も権力闘争をして、とうとう追い落とすのに成功したはずの相手。「……峻嗣、叔父さん」 パズルのピースが埋まった。 あのひねくれた叔父が、琴葉の技術者としての好奇心を刺激し、言葉巧みに騙して誘い出したのだ。 そして、あの汚い掃き溜めのようなラボへ引きずり込んだ。「許さない」 伊吹の拳が震えた。 ただの怒りではない。純粋な義憤と、琴葉への恋慕が胸を満たしていく。「僕の琴葉さんを……僕の大切な宝物を、騙して奪うなんて」(可哀想な琴葉さん。きっと今頃、油と埃にまみれた場所で、後悔して泣いているに違いない。温かい家も、美味しい食事もない場所で、叔
18時、都心の空が茜色から群青色へと変わる頃のこと。 伊吹はタワーマンションのエレベーターを降りた。その足取りは、雲の上を歩くように軽い。 腕には琴葉のイメージに合わせて選んだ、白い百合の花束を抱えている。「ただいま、琴葉さん! 予定より少し早く戻れましたよ」 伊吹は弾む声で言いながら、玄関のロックを解除した。 昨夜の幸せな記憶が、脳裏でリピートされている。『忘れられない夜になりそう』 と微笑んだ彼女。自分を受け入れてくれた、愛する妻。 今日はデリバリーの予定だ。 メニューは琴葉の食べたいものでいいが、一緒に選んでみるのも楽しいかもしれない。「琴葉さん? ……おや、シャワーですか?」 返事がない。リビングは薄暗く、静まり返っていた。 デリバリーが届いている様子もない。 伊吹は微笑みを崩さないまま、リビングへと足を踏み入れた。「準備中なら構いませんよ。ゆっくり支度して――」 言葉が途切れた。伊吹の足がピタリと止まる。 ダイニングテーブルの中央に、何かがある。 天井のスポットライトに照らされて、小さな金属片が鋭い光を放っていた。「…………あ」 バサッ。伊吹の腕から花束が滑り落ちた。白い百合が床に散らばる音が、リビングに波紋を描くように広がっていく。 テーブルに置いてあったのは、彼が贈ったプラチナの結婚指輪だった。 手紙もメモもない。ただ裸の指輪だけが、むき出しのままでテーブルの上に光っている。「……琴葉、さん?」 伊吹の声が震えた。嫌な予感が背筋を駆け上がる。彼は弾かれたように走り出した。「琴葉さん! どこにいるんですか!」 洗面台、バスルーム、いない。 テラスには出られないようにしておいた。 寝室のドアを荒々しく開ける。無人だ。 クロ
「機能的でいいわ。気に入った」「当然だ。俺が選んだ物だからな」 峻嗣は満足げに頷くと、ソファから立ち上がって作業台へ琴葉を招いた。 そこには、剥き出しの基板と冷却ファンが複雑に絡み合った機械が鎮座していた。「これは?」「見ての通りだ。兄さんの……宗佑のAIに対抗するための新型演算ユニットだが、見ていられないほど醜い」 峻嗣が顔をしかめた。「俺の書いたコードは完璧で美しい。だがハードウェアが悲鳴を上げている。無能なハード屋のせいで、排熱処理が追いついていないんだ」「……なるほど」「この熱暴走は、設計の欠陥だ。直したまえ。俺のコードに見合う『器』に仕立て直すんだ」「へえ。言うだけあって、中身は化け物級ね」 琴葉はモニターに表示されたエラーログを確認し、目を輝かせた。 普通のエンジニアなら匙を投げるような、無茶苦茶な要求スペック。けれどもそれが琴葉の職人魂に火をつけた。「ここ、ヒートシンクの配置が美しくないわ。空気の流れを殺してる。工具貸して」 助手が工具箱を差し出した。工具類が整然と並べられている。 琴葉はその中からドライバーを手に取った。迷いなくユニットに手を伸ばす。「貸して。私がもっとエレガントに組み直してあげる」 琴葉はドライバー片手に、にやりと笑ってみせた。◇ 深夜、静寂に包まれたラボに、クラシック音楽が低い音量で流れている。 峻嗣が趣味で流しているBGMだ。 機械の稼働音にかき消されそうでいて、不思議な調和を奏でていた。「ふぅ……」 琴葉は休憩用のソファに座り込んで、大きく息を吐いた。 作業台の上のユニットは、今は静かに安定した駆動音を立てている。「飲め。カフェインが必要だろう」 峻嗣がエスプレッソの入ったカップを差し出した。 ふわりと漂う、深煎り
琴葉を乗せたワンボックスカーは、港湾地区の倉庫街へと入っていった。 倉庫の1つ、錆びついたシャッターが開くと、車はその中へと入り込んだ。 その倉庫の外観は廃墟同然だった。 けれど一歩中に足を踏み入れた琴葉は、その先に広がっている光景に目を見張った。 天井の高い空間は薄暗いが、きちんと手入れされている。埃っぽさは少しもない。 ひんやりとした空気が肌を刺す。最適な温度に管理された空調の風だ。 床は打ちっぱなしのコンクリートだが、綺麗に掃き清められている。 無数の太いケーブルが幾何学模様のように整然と這っていた。 壁一面には、サーバラックが設置されている。 サーバーラックの青白いランプが、まるで深海の生物のように静かに瞬いていた。「……いい匂い」 車を降りた琴葉は、深く息を吸い込んだ。 オゾンと熱されたシリコンの匂い。 ペントハウスの無臭の空間とは違う、何かが稼働し、計算し、生きている場所の匂いだ。 彼女が馴染んだ場所、本来いるべき場所の匂いだった。「やあ。逃亡者にしては、随分とラフな格好だな。……姪っ子ちゃん」 巨大なマルチモニターと、サーバーラックが囲んでいる空間の中心から声がした。 場違いなほど上質な革張りのソファに、1人の男が優雅に足を組んで座っていた。 ――世良峻嗣。 つい先日、伊吹と琴葉の策略によって追い落とされた、世良グループ総帥の実弟である。 彼は半導体製造装置のための特殊合金の乗っ取りを企み、失敗した。 現在は主だった役職を解かれ、不正の追及を受けている。(取り調べ室で缶詰だと思っていたけど。もう終わったのね) 琴葉は油断なく猫に似た瞳を細めながら、相手を見た。 峻嗣の本来の得意分野はIT関係。特に彼自身も名うてのエンジニアである。 言い換えれば凄腕のプログラマー、もしくはハッカー。 世良グループのネットワーク会社『世
同時に、AIスピーカーからノイズ混じりの音声が流れる。『システムエラー発生。セキュリティプロトコルをリセットします。再起動を開始します……』 カシャッ、ガチャン。 玄関のスマートロックが固い音を立てて解錠された。「仕事が早いわね、性格の悪い叔父さん」 琴葉はドアノブを回した。 あれほど重かった扉が、嘘のように軽く開く。 素早く廊下へ飛び出して、天井の監視カメラを確認する。インジケーターランプが消えている。 琴葉はエレベーターホールへと走った。◇ エレベーターに乗り込むと、ボタンを押すまでもなく扉が閉まった。 階数表示が勝手に切り替わり、『B2(地下2階)』のランプが点灯する。 峻嗣のハッキングにより、制御は完全に奪われているようだ。 高速で降下していく箱の中で、琴葉はスマホのストップウォッチを起動した。 リミットは3分。それを過ぎればシステムが再起動し、警備会社に通報が行く。 そうなれば、地下駐車場は封鎖され、袋の鼠だ。 鏡に映る自分を見る。化粧っ気はなく、服も安物だ。 しかし目は昨日までの濁りが消えて、生き生きと輝いていた。(私は生き返るんだ) チン、という到着音が鳴る。 扉が開くと、湿ったコンクリートと排気ガスの匂いが鼻を突いた。 地下2階の駐車場は薄暗く、静まり返っている。 伊吹の愛車や他の住人の高級スポーツカーが並ぶ中、明らかに異質な1台が停まっていた。 型落ちの業務用ワンボックスカー。手入れこそされているものの、高級車が居並ぶ中では明らかに浮いている。 窓には濃いスモークが貼られ、中の様子はうかがえない。 ピカピカに磨き上げられたこの空間で、そこだけが汚れたシミのようだ。「……趣味が悪いわね」 琴葉が近づくと、スライドドアが自動で開いた。 乗り込むと、運転席には無精髭を
計画実行当日の朝になった。 玄関ホールには、何事もないかのような穏やかな空気が流れている。 伊吹は鏡の前でネクタイの結び目を直し、満足そうに微笑んだ。「今日は15時から定例会議ですが、なるべく早く切り上げて帰りますね。夕食はデリバリーにしましょうか。食べたいものを考えておいてください」「ええ、いいわね。楽しみにしてる」 琴葉はラベンダー色の可愛らしいワンピースを着ている。伊吹が買い与えたものだ。 色はともかく、幼いデザインが気に入らなくて、今までは着ようとしなかった。 今は相手を油断させるため、せいぜい愛想を振りまいている。 見送りに立つ表情は、良妻そのものだ。 ここしばらくの琴葉の演技が、伊吹の目を完全に曇らせている。「では、行ってきます。琴葉さん」「……気をつけてね、伊吹」「! ……はい! 行ってきます!」 琴葉の口から出た労いの言葉に、伊吹はとても嬉しそうに笑った。足取り軽くエレベーターへと消えていく。 扉が閉まり、電子ロックが掛かる音が響いた。 その瞬間。琴葉の顔から笑みが消え失せた。 彼女はすぐさまリビングの壁掛け時計を見上げた。「現在、8時30分。……残り6時間半」 琴葉の声は冷静だ。「気をつけて」というのは、精々足元をすくわれないようにね、という皮肉だったのだが、幸せボケした彼の脳には届かなかったらしい。 ほん少しの罪悪感を覚える。だが琴葉は軽く頭を振ってその感情を追い出した。◇ 14時20分。琴葉は寝室のクローゼットを開け放ち、身支度を整えていた。 伊吹が買い揃えたハイブランドの服やバッグには、指一本触れない。 奥の段ボールに押し込まれていた、自分で持ち込んだTシャツと、動きやすいカーゴパンツ、履き潰したスニーカーを取り出す。「やっぱり、こっちの方が落ち着くわね」 着替えを済