Share

第428話

Author: 星柚子
もし、あの時――自分が強くなれなかったら。

踊れないと宣告されたあの日、きっと、もう普通に生きることすらできなかった。

リハビリなんて、続けられるはずがなかった。

そう思ったそのとき、病室のドアが開いた。

正修が戻ってくる。

「準備できた」

奈穂が立ち上がるのを見て、すぐに歩み寄り、そっと手を握った。

「……怖がらなくていい」低く、やさしい声。

奈穂は思わず笑う。「大丈夫だってば。中島先生も言ってたでしょ?ただの検査なんだから」

「そうそう」安芸も笑う。「正修が心配しすぎなのよ。奈穂が検査するだけでこんなに緊張してるんだから」

奈穂はくすっと笑い、彼の手を軽く揺らした。「心配しすぎ」そう無言で伝えるように。

やがて医師と看護師が来て、奈穂は検査室へ。

安芸も一緒に入っていった。

……

廊下。正修は外で待っていた。

そばにベンチがあったが、彼は座らず、ただそこに立っていた。

自分の足が、いや全身が、少し固まっているのを感じた。

彼は心から願っていた。奈穂の右脚が完全に回復する可能性を。彼女が再び踊り、夢を追い続けられることを。

正修には時間がとても長く
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ   第708話

    ニナの手には、弁当箱が提げられていた。彼女はそれを北斗の前のローテーブルに置き、頬を淡く染めながら、そっと彼へ視線を向けた。それから弁当箱の蓋を開け、中に入っていた料理を二皿取り出した。北斗が目をやる。生姜焼き。唐揚げ。見た目はなかなか様になっていた。ニナはスマートフォンに文字を打ち込み、翻訳した文章を表示した画面を北斗に差し出す。【最近覚えたあなたの国の料理二品です。あなたに食べてほしくて作りました。口に合うといいのですが】実のところ、北斗の心もわずかに心が動いていた。異国の地で、逃亡の最中に――こんなにも明るく真っ直ぐな好意を向けてくる少女に出会い、しかも自分のためにわざわざ故郷の料理まで覚えたのだと思うと。さすがの北斗にも、何も感じないはずがなかった。北斗は顔を上げ、ニナを見て言った。「ありがとう」その言葉の意味は、ニナにも理解できた。彼女はぱっと笑みを浮かべ、目を細めながら食器を手渡し、早く食べてみてと身振りで促す。北斗が食器を受け取った、まさにその時――刀傷の男が、北斗のために用意した夕食を持ってやって来た。目の前の光景を見て、刀傷の男は皮肉っぽく笑う。「おやおや。どうやら俺の用意した夕食は無駄だったみたいだな。伊集院社長にはもう夕食があるようで」北斗は眉をひそめる。「嫌味を言うな。別に俺が彼女に料理を作らせたわけじゃない」「じゃあ褒めてやるべきか?伊集院社長も大したもんだな」刀傷の男の視線が、北斗の脚へと滑る。「この状態でも……まだ女を惹きつけるとは 」「……!」その視線に気づいた瞬間、北斗の怒りが一気にこみ上げた。こめかみの血管が浮き上がる。ニナは隣で、おずおずと二人の様子を見ていた。言葉の意味は分からない。だが表情から、この場の空気が張り詰めていることは感じ取れる。――もしかして、私のせい?私はただ、北斗と少しでも距離を縮めたかっただけなのに。刀傷の男と北斗は、いったいどんな関係なのだろう。どうして二人の間には、こんな奇妙な緊張感が漂っているのか。ニナは再びスマートフォンに文字を打ち、翻訳した文章を表示した画面を北斗に差し出す。【大丈夫ですか?喧嘩しているのですか?】北斗が答えるより早く、刀傷の男は手にしていた夕食をテーブルに置き、

  • 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ   第707話

    その知らせは、水紀を狂わせるには十分すぎた。ふと、奈穂と最後に顔を合わせたときのことを思い出す。あのとき彼女は言った。――「私の脚が、一生治らないと思ってるの?それなら、あなたは間違ってるわ」ということは、あの時点で既に、奈穂は右脚が完全に回復すると分かっていたのだ。このところ刑務所の中で、水紀は必死に自分に言い聞かせ続けてきた。奈穂はただ強がっていただけだ、と。奈穂の右脚が治るはずがない。そうだ、彼女はもう二度と踊れない。それは奈穂にとって、一生消えない痛みになるはずだ――水紀は、そのわずかな慰めだけを支えに、耐え難い日々をやり過ごしてきた。なのに今、逸斗は言ったのだ。奈穂の右脚の手術は成功した、と。完全に回復する、と。「秦さん……私を騙しているんでしょう?」水紀の体が激しく震え始める。顔は血の気を失い、まるで魂を抜き取られたかのようだった。「わざわざこんなところまで来て、こんな嘘をつくほど暇じゃない」逸斗の笑みは、ますます楽しげになる。「水戸さんの右脚の手術は本当に成功した。この先、お前が刑務所の中で彼女の踊る姿を見る機会があるかどうかは分からないけどな」「もうやめて!」水紀は耳を塞ぎ、悲鳴を上げた。異変に気づいた刑務官が慌てて駆け寄り、彼女を押さえつける。水紀は抵抗しなかった。ただ、魂が抜けたように椅子に座り込む。――もう、何もかも失ってしまった。それに引き換え、奈穂は水戸家の令嬢であり、水戸グループの後継者。そして、正修の婚約者……認めたくはない。だが水紀には分かっていた。これから先、奈穂は幸せに生きていくのだろう。それに対して自分は――残りの人生を、ただ刑務所の中で過ごすしかない。「はは……ははは……」力なく、それでいて狂気じみた笑い声が漏れる。激しい絶望と痛みが全身を包み込む。それでも、もう何一つできることはなかった。逸斗は冷ややかに一瞥を投げると、迷いなく立ち上がり、その場を後にした。刑務所を出て車に乗り込む。だがエンジンをかけることもなく、運転席でただ黙り込んだ。ここに来る前、奈穂の右脚の手術成功を水紀に伝え、絶望に沈む姿をじっくり味わってやるつもりだった。この女が奈穂を害したのだから、当然の報いだと。だ

  • 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ   第706話

    もしすでに刑務所に入っている水紀が、奈穂が右脚の手術を受け、まもなく完全に回復すると知ったら――どんな表情をするだろう?君江は、ふいにそれが楽しみになった。いっそ親切心で誰かを差し向けて、この朗報を本人に伝えてやろうか――そんなことまで考えていた。だが君江は知らない。彼女よりも早く動いた人物が、すでにいたことを。……面会に来た者がいると聞いた瞬間、水紀の心臓は激しく跳ね上がった。まだ自分に会いに来る人がいるの?誰だろう?まさか、助けに来てくれたの……?胸いっぱいに期待を膨らませながら、水紀は面会室へ向かった。しかし、逸斗の姿を目にした瞬間、その顔色がさっと青ざめた。前に彼と会ったときのことを思い出す。自分が奈穂の交通事故を引き起こした張本人だと知った逸斗は激怒し、今にも自分を殺しかねないほどだった。もう一生、二度と会うことはないと思っていたのに。まさか彼が、わざわざ刑務所まで面会に来るとは。もしかして――考え直してくれたのだろうか?かつての情に免じて、様子を見に来てくれたのだろうか?なら、ここから救い出してくれる可能性も……?大きな期待を抱くことはできなかったが、水紀はそっと腰を下ろし、向かいに座る逸斗を慎重に見つめた。彼の口元には笑みが浮かんでいた。だが、その笑みはどこか不気味で、水紀の胸をざわつかせる。「秦さん……」無理に笑みを作りながら口を開く。「会いに来てくれたのね。よかった……やっぱり、私のことを忘れていなかったのね」「ああ、もちろん忘れるはずがない」逸斗は皮肉めいた笑みを浮かべた。「何しろお前は、水戸さんを交通事故に遭わせた張本人なんだから」水紀の笑みが凍りつき、胸の奥が重く沈んだ。――まだ、その話をするの?そんなに気にしているの?「じゃあ、今日も私を責めに来たの?」水紀はかすかに悲しげな笑みを浮かべる。「もうその必要がある?私はもう刑務所の中なのよ。ここでの生活がどれほど辛いか、分かる?」逸斗は、確かに見ていた。今の水紀はひどく痩せ細り、顔色は青白くやつれている。髪もだいぶ抜けたのか、まばらで痛々しい。だが彼女を気遣う様子はまるでなかった。ただ淡々と告げる。「責めに来たわけじゃない。今日は、いい知らせを伝えに来ただけだ」「いい知ら

  • 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ   第705話

    君江は花を整えてから置くと、こっそり奈穂に目配せをした。二人はもともと息がぴったりだった。奈穂はまだ喜びの余韻に浸っていたが、それでも君江の合図をしっかり受け取り、なんとなく察した。「母さん、今日は一日中病院にいたんだから、先に送るよ。家でゆっくり休んでください」健司が優しく勧める。恭子は年を取っている。健司は母の体調が心配だった。「私は大丈夫よ」恭子は手を振ってみせたが、表情にはやや疲れがにじんでいた。奈穂の手術が無事に終わり、張り詰めていた気持ちがようやくほどけたのだろう。疲労の色が自然と表に出ていた。「おばあちゃん、早く帰って休んでください」奈穂は恭子の腕を軽く揺らし、甘えるように言った。「私は大丈夫よ。こんなにたくさんの人がそばにいてくれるんだから、心配しなくていいよ」健司と正修は、奈穂が慣れ親しんだ家の使用人を病院に来てもらい、さらに介護スタッフも手配していた。確かに心配はいらない。今の奈穂にとっては、自分のことよりも恭子の体の方が気がかりだった。「そうね」恭子はやむなく微笑み、愛おしそうに奈穂の頭を撫でた。「ちゃんと休むのよ。何かあったら、すぐ皆に伝えるのよ」「大丈夫だよ、分かってる。もう子供じゃないんだから」恭子は笑って首を振った。恭子にとって、奈穂はいつまでも子供なのだ。健司もいくつか注意を言い聞かせ、それから正修と言葉を交わし、恭子を家まで送り届けるために病室を後にした。二人が出ていくと、君江はまた意味ありげに目配せをしてくる。正修には二人の合図は分からなかったが、何か話したいことがあるのだろうと察し、立ち上がった。「ちょっと外で電話してくる」彼が出ていった瞬間、君江はベッドのそばへ身を乗り出した。「奈穂ちゃん!あの花、誰からだと思う?さっき電話に出たとき、病室の前で誰に会ったと思う?」いきなりそう言われ、奈穂は少し頭がくらっとする。「分からない……」「秦家の兄弟よ!」そう言うと、君江はこそこそと後ろを振り返る。病室の扉は閉まったまま。正修も戻ってきていない。それを確認して、ようやくほっとした。奈穂は笑った。「そんなに気にしなくても大丈夫よ。彼に知られても問題ないわ」「だって、こんな時に余計な揉め事を増やしたくないじゃない」君江は言う。「私が外に

  • 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ   第704話

    その言葉を聞き、兄弟二人の表情にわずかな変化が走った。「うん、分かった。じゃあ、いったん切るわね」通話を終えると、君江は二人の方に向き直り、穏やかな笑みを浮かべた。「秦社長、秦さん。奈穂のお見舞いにいらしたんですよね?」彼らが答える前に、彼女は続けた。「あいにくですが、タイミングがよくありませんでした。奈穂はついさっき目を覚ましたばかりで、まだ少しふらつきがあります。大勢の人に会うのは難しいと、先生にも言われています。ですので、今日はお引き取りください」わざと「また日を改めていらしてください」とは言わなかった。ただ「お引き取りください」とだけ告げた。これ以上、奈穂を煩わせないでほしい――そんな意思表示だった。今の奈穂と正修の関係はとても良好だ。これ以上、余計な波風を立ててほしくはない。何より、手術を終えたばかりの奈穂に、こんなことで気を煩わせたくなかった。「今の彼女の状態は?大丈夫なのか?」逸斗がすぐに尋ねる。「もちろん大丈夫ですよ」君江は微笑んだ。「もうお聞きになっていると思いますが、手術は大成功でした。あとはしっかり療養するだけです。奈穂には彼女を大切に思う家族がいて、ずっとそばで支えてくれる婚約者もいますから、きっと何の心配もいりません」逸斗は目を伏せた。「……そうか。それならよかった」そう言ってから、彼はもう一度、奈穂の病室の扉を見つめた。君江は警戒するように彼を見つめる。まるで、突然押し入るのではないかと警戒しているかのようだった。その視線に気づいた逸斗は、ふっと笑みを浮かべ、手にしていた花束を彼女へ差し出す。「そういうことなら、今日は中には入らない。代わりに、この花を水戸さんに渡してもらえないか。この程度の頼みなら、断らないよな?」君江は少し考えてから花束を受け取った。「もちろんです」花を渡すだけなら構わない。むしろ、この遊び人を中に入れてしまうより、ずっといい。「では、俺はこれで失礼するよ」そう言って、逸斗は踵を返し、その場を去っていった。逸斗の姿が見えなくなると、君江の警戒の視線は、今度は烈生へ向けられた。これまで彼女は、烈生を礼儀正しく紳士的で、逸斗のような放蕩者とはまったく違う人物だと思っていた。だが今は――むしろ烈生の方が、より危険な存在のように感じ

  • 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ   第703話

    烈生の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。奈穂が元気でいてくれるなら、それだけで嬉しい。そのとき、背後から足音が近づいてきた。烈生が振り向くと、そこに現れた人物を見て、わずかに眉をひそめ、視線も少し冷たくなる。「兄さん」逸斗は作り笑いを浮かべながら言った。「こんなところで会うとはね」「ここへ何をしに来た」烈生の表情は変わらないが、声は低く抑えられていた。烈生の視線が、逸斗の腕に抱えられた花束へと一瞬向けられた。「もちろん、水戸さんのお見舞いさ」逸斗も自分の手にある花をちらりと見下ろす。「手術が成功したと聞いて、お祝いに」そう言うと、そのまま病室の扉へ向かい、ノックしようとした。しかし――烈生が、突然その前に立ちはだかった。逸斗の表情が一気に険しくなる。「兄さん、何のつもりだ?」「彼女を煩わせるな」烈生は低い声で言い放った。「何を言ってる?兄さんは祝福する勇気がない。俺はある。それなのにここで邪魔をするなんて、おかしいだろう」逸斗が何を言おうと、烈生は微動だにせず、しっかりと行く手を遮っている。「兄さん!」逸斗は苛立ちを隠さない。「どうして俺が彼女に会うのを止める?兄さんにそんな資格があるのか?」「お父さんに命じられたことは、すべて把握している」烈生の声には、かすかな警告が滲んでいた。「だが、はっきり言っておく。水戸さんに近づくことは、俺が許さない」逸斗は一瞬言葉を失った。そしてすぐに気づく。隆徳が自分に命じた――奈穂に近づき、九条家と水戸家の縁談を壊すよう仕向けろという件のことだ。つまり烈生は、そのために自分がここに来たと思っているのか。馬鹿げている。どうして彼女の手術成功を、心から祝おうとしているとは考えないのか。「兄さんも、ずいぶん変わったものだな」逸斗は冷笑を浮かべる。「俺の記憶では、親父の言うことに絶対服従の兄さんだったはずだが。この前、親父に殴られたって話を聞いたが、半信半疑だった。どうやら本当らしいな」烈生は黙ったまま、ただ冷ややかな眼差しを向けている。「だが残念だったな。俺が水戸さんに会いに来たのは、親父に命じられたからじゃない。本心から彼女の回復を祝いたいと思ったからだ」逸斗の視線は、ほとんど挑発的だった。「兄さんだって、水戸さんがどれほど魅力的か分かって

  • 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ   第265話

    「ぼ、僕はただ、須藤さんと話が合うなって思って……それで、もう少し一緒に飲みたかっただけなんです」男は額の冷や汗をぬぐいながら言い訳した。「まさか、量をコントロールできなくなるなんて……全部、僕の不手際です」そう言って彼は自分のグラスに酒を注いだが、手が震えて、かなりこぼしてしまった。「本当に僕が悪かった。須藤さんにお詫びします」へつらうような笑顔を向けられても、君江は受け入れる気になれなかった。先ほど男に触られたときの感触を思い出すだけで吐き気が込み上げ、悔しさに唇を噛みしめて顔を背ける。「そう?ずいぶんお酒がお好きみたいね」奈穂が一瞥すると、テーブルの上には度数の高い洋

  • 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ   第266話

    奈穂はほっと息をつき、運転手に言った。「須藤家へお願いします」「かしこまりました」車が走り出し、奈穂は君江の母親に電話を入れようとしたが、その瞬間、着信が入った。正修からだった。電話に出ると、彼はもうすぐ水戸家の前に着くと言う。奈穂は苦笑して答えた。「でも、今は家にいないの……」「どこに行ってる?」正修はすぐに問い返した。「こんな時間だ、何かあったのか?」「君江のことで少しね。迎えに来ただけ。もう大丈夫、今は彼女を家まで送ってるところよ」それを聞いて、正修はようやく安心した。「じゃあ、あとで須藤家まで迎えに行く」「うん」電話を切ったその直後、君江が突然目を開

  • 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ   第275話

    帰国したばかりだというのに、雲翔は早くも若菜を自分の秘書にしていた。どうやら、彼は若菜に対して……奈穂は思い出す。以前、正修が人に頼んで若菜の身辺を調べさせたことがあったが、特に怪しい点は何も出てこなかった。すべては若菜自身が語っていたとおりで、ごく普通だった。けれど……どこか、引っかかる。とはいえ、自分の感覚だけを証拠にするわけにもいかない。奈穂はそれ以上追及せず、ただ微笑んだ。「そういうことだったんですね」「水戸社長」若菜は少し緊張しながら奈穂を見て言った。「これから、どうぞよろしくお願いいたします」今日はキャリアウーマン風のスーツ姿だったが、相変わらず甘く可愛

  • 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ   第240話

    女が去ったあと、ウェイターとボディガードも相次いで外へ出ていき、個室には音凛ひとりだけが残った。彼女は再び、テーブルの上に置かれていた短刀を手に取る。先ほど北斗に投げかけられた問いを思い出し、口元に氷のように冷たい笑みを浮かべた。――正修を手に入れる?かつての自分は、確かに正修と付き合いたいと願っていた。けれど今は、もう違う。刃先が指先をかすめ、皮膚を裂く。血の粒がにじみ出たが、音凛は痛みを感じていないかのようだ。それどころか、どこか歪んだ愉悦すら滲んだ笑みを浮かべる。いつか必ず、正修にも血を流させてやる。惨めな姿にしてやる。九条家が崩れ落ちるのを、彼自身の目で見せてや

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status