Share

第972話

Author: 星柚子
君江は大股で駆け寄ると、真理子にまだ呼吸があることを確かめ、胸が締めつけられるような思いに襲われながらも、ようやく少しだけ安堵した。

急いで縄をほどき、目隠しを外し、最後に真理子の顔に貼られたガムテープを慎重にはがしていく。

「お母さん、大丈夫!?私よ、君江!来るのが遅くなってごめんね……」君江は涙声で呼びかけた。

真理子は重そうにまぶたを開く。「君江……」

「お母さん!」

「私は……大丈夫だから……心配しないで……」どうにかそれだけを言い終えると、真理子は再び意識を失った。

母親を見つけたことで、君江は先ほどまでより落ち着きを取り戻した。「医療スタッフをお願いします!」

彼女の声に応じ、同行していた医師や看護師たちがすぐ地下の事務室に駆け込んでくる。

彼らは真理子を慎重にストレッチャーに移し、そのまま外に運び出した。

一刻も早く救急車で病院に搬送しなければならない。

君江も当然、そのまま付き添っていく。

地下室を出ると、君江はすでに警察に手錠をかけられた佐知子を冷たく見据えた。

その声には抑えきれない怒りが滲んでいる。「私の母を拉致するなんて……大庭、覚悟して
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ   第1012話

    正修はハンドルを握る手に力を込めていた。あまりにも強く握り締めているせいで、指の関節は血の気を失い、痛々しいほど白くなっている。アクセルは床まで踏み込まれ、フロントガラスに叩きつけられた雨粒は次々と砕け散る。SUVは放たれた矢のように秦グループに向かって突き進んだ。濡れた路面をタイヤが切り裂き、耳をつんざくようなスキール音を響かせる。だが、秦グループの本社ビルまであと二ブロックというところで、助手席に置かれた暗号化衛星電話が激しく鳴り響いた。「社長!」二郎の切迫した声が飛び込んでくる。「伊集院北斗がもう耐え切れず、全部吐きました!公海で船を襲撃した件は秦音凛が一から仕組んだものだそうです。それから――彼女は秦烈生の海外資産に関する暗号キーのリストを持っています!水戸さんの監禁場所も、その中に記されている可能性があります!」正修は躊躇なくハンドルを切った。車体は雨の夜道で鋭い弧を描き、そのまま反転して西方向に向けて疾走する。「京市拘置所に向かえ」その声は、氷を削って作られたように冷たい。「秦烈生がかくれんぼをしたいなら……まずは妹の口から地図を吐かせる」……その頃、地下の密室。空気は冷え切り、モスグリーンに染まった部屋の空気が、淀むようにまとわりついていた。三原一郎(みはら いちろう)が入室すると、かすかな消毒液の匂いが流れ込む。五十代半ばほどの男だった。長年手術台に向かい続けたせいで背中は少し丸まり、その眼差しには、裏社会の金に長く関わってきた闇医者特有の慎重さが滲んでいる。奈穂はモスグリーンのベルベット張りのベッドに横たわっていた。顔色は青白く、シーツと見分けがつかないほどだ。胃の痙攣は鋭い激痛から鈍く長引く痛みへと変わっていたが、そのぶん苦しみは体の奥深くまで染み込んでいる。息を吸うたびに、胸の奥が焼けつくように痛んだ。「秦社長」一郎は目を伏せたまま医療バッグを開く。ベッドの女性をまともに見ることすら避けている。「水戸さんは海に転落したショックと、持病の胃疾患が重なり、急性の胃痙攣を起こしています。鎮静と鎮痛剤を投与した後、点滴を開始する必要があります」「慎重にやれ」烈生は無表情のまま言った。その静かな声には、ぞっとするような威圧感が宿っている。「注射痕以外、一切傷を残す

  • 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ   第1011話

    「この屋敷の名義人は染谷央介という男だ」烈生は何かがおかしくてたまらないというように、口元をわずかに吊り上げた。「秦家が抱えている、表に出せない資産の一つさ。たとえ九条正修が京市にある拠点をすべて封鎖したとしても、まさか俺がこんな場所に、お前のためだけの宮殿を築いているなんて思いもしないだろう」――染谷央介。奈穂はその名前を心の奥に刻み込んだ。「げほっ……ごほ、ごほっ!」激しい咳が会話を遮る。胃をえぐるような痛みに耐えきれず、奈穂は体を丸めた。これは演技ではない。冷たい海水にさらされたことで、もともとの胃の病が限界まで悪化していた。烈生の表情が初めて変わる。あからさまな動揺。長年かけて作り上げてきた「完璧な紳士」の仮面から、初めて焦りが覗いた。「医者だ!三原(みはら)先生を呼べ!」彼は扉の方に向かって声を張り上げた。奈穂はベッドの縁にもたれ、爪が食い込むほど強く掌を握り締める。――良かった。人の出入りがあるなら、この場所は完全な密室ではない。烈生がタオルを取りに離れた、その一瞬。奈穂は素早く部屋全体へ視線を走らせた。窓はない。換気口からはかなり強い風が流れ込んでいる。おそらくここは地下深く。金色の鎖はベッドの下で床に埋め込まれた固定金具につながっていた。ほどなくして烈生が戻り、温めたタオルを彼女の額にそっと当てた。「心配しなくていい。三原先生はすぐ来る。奈穂。ちゃんと薬を飲んでくれるなら、お前の望みは何でも叶えてあげる」「……陽の光が見たい」奈穂は目を閉じたまま、弱々しく呟く。だがその言葉は、相手を誘導するために計算されたものだった。「夕日でもいい。一目だけでも見たいの」烈生の体がぴくりと固まる。しかし次の瞬間には、穏やかな笑みを浮かべ、彼女の肩を優しく叩いた。「体調が戻ったら、その時に考えよう」……その頃、港の埠頭。正修は、すでに瓦礫と化した桟橋の前に立っていた。海風が黒いコートを激しく揺らす。普段なら決して揺らぐことのない自制心も、冷静さも、この瞬間には完全に崩れ去っていた。「社長……潜水班はもう三度捜索しましたが、潮の流れが速すぎます。水戸さんが転落した地点は……」二郎の声は震えていた。上司の顔を見ることすらできない。正修

  • 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ   第1010話

    その冷たさは、骨の髄まで染み渡るようにじわじわと全身へ広がっていく。奈穂ははっと目を開けた。視界を埋め尽くしたのは、重苦しい深いモスグリーン。かつては一番好きだったその色も、今は厚く張りついた苔のように胸に覆いかぶさり、息さえ苦しくさせた。反射的に体を起こそうとする。だが、ほんの少し動いただけで、胃の奥に慣れ親しんだ激痛が一気に襲いかかる。まるで錆びついた刃物で何度も切り裂かれるような、激しい痙攣。「っ……」苦しげなうめきが漏れた。額を冷たい革張りのベッドフレームに押しつけると、冷や汗がこめかみを伝い、枕へと染み込んでいく。その瞬間だった。耳元で金属がぶつかり合う澄んだ音が鳴り響く。――シャラン。奈穂は痛みに耐えながら視線を落とした。金色の鎖。その先端は床石の奥深くに設けられた溝へとつながっており、高価でありながら致命的な毒蛇のように、自分をこの狭い空間に縫い止めていた。「目が覚めたか」温和で上品な、それでいて安堵の色まで滲ませた声がベッド脇から聞こえた。奈穂は歯を食いしばり、ゆっくりと顔を向ける。烈生が一人掛けのソファに腰掛けていた。先ほどまでのスーツではなく、きちんと着こなしたダークグレーのルームウェアに身を包み、手には湯気の立つ薬湯を持っている。襟元の宝石の留め具まできっちりと留められ、その姿は相変わらず端正で隙がない。抑制が利き、気品にあふれた、秦家の御曹司そのものだった。ただ一つ。奈穂を溶かしてしまいそうなほど濃密で歪んだ執着だけが、その瞳の奥に淀んでいなければ。「あなた……本当に気持ち悪いわ」海水を飲み、長時間高熱も続いているせいで奈穂の声はひどくかすれていた。それでも、その気丈さだけは少しも揺るがない。烈生は怒るどころか、むしろ気遣うように身を乗り出した。薬湯をふうっと冷まし、そっと彼女の口元へ運ぶ。「奈穂。あんなに冷たい海からお前を助け出したんだ。少しは感謝してくれてもいいだろう」その優しすぎる声が、かえって背筋を凍らせる。「そんな悲しいことは言わないでくれ。今のお前の体には刺激が強すぎる。橘由香のあの顔は偽物だった。でも、彼女の言葉には半分だけ真実があった。手に入らない愛は、人を本当に狂わせるんだ」「だから地下室まで用意して、

  • 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ   第1009話

    橘由香――その名は、封じ込められていた稲妻のように、奈穂の昔の記憶を真っ二つに裂いた。かつて健司に狂おしいほど恋焦がれ、しかし容赦なく拒絶された女。清乃が病没した後には最も激しく彼を追い回し、その後は海外へ渡ったという噂だけが残っていた。だが誰も想像しなかった。由香は大規模な整形手術を受け、自らの存在を一片ずつ削ぎ落とし、「清乃」という名の亡霊へと生まれ変わっていたのだ。「秦烈生の言う通りね。あんたも、その短命だった母親も、気取ってばかりで吐き気がする性格だわ」由香は一歩、また一歩と距離を詰める。その瞳には、ぞっとするような愉悦が浮かんでいた。「そんなに会いたいなら――今すぐ母親のところへ送ってあげる!」「秦烈生と手を組んだの?」奈穂は後ずさる。気づけば、かかとはすでに船の手すりへと追い詰められていた。「そうよ。あの人はあんたが欲しい。そして私は……健司が絶望する、その瞬間が見たいだけ」そう言い放つと、由香は勢いよく飛びかかってきた。本来なら反撃できたはずだった。だが、その瞬間――まるで船底を何かに激しく突き上げられたかのように、ヨット全体が大きく揺れた。激しい衝撃で足元をさらわれ、次の瞬間、凍てつく海水が一気に口と鼻へ流れ込む。深い藍色の海が、音もなく奈穂をその懐へ呑み込んでいった。――私は、死ぬんだ。果てしない窒息。肺が破裂しそうな激痛。意識が闇へ沈んでいく、その最中――一筋の冷たい手が自分へと伸びてくるのが見えた。海中で待ち伏せしていたダイバーだった。……再び奈穂が目を開けた時、目に映ったのは病院の白い天井ではなかった。そこは薄暗く、息苦しいほど閉ざされた密室だった。空気には黒檀の香りが漂っている。だが、それは正修がまとっていた冷たく澄んだ香りではない。どこか腐敗を思わせる、重く粘りつくような陰鬱な香りだった。「目が覚めたか」足音がゆっくりと近づいてくる。全身ずぶ濡れの奈穂は、激しく海水を飲んだせいで喉が焼けつくように痛み、かすれた声をようやく絞り出した。「……秦烈生」烈生は闇の中から静かに姿を現した。仕立ての良いスーツをきっちりと着こなし、その姿勢は相変わらず隙がない。しかし、その口元に浮かぶ穏やかな笑みだけは、見る者の背筋を凍らせるほ

  • 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ   第1008話

    水戸家の屋敷に午後の陽光が差し込み、彫刻の施された窓枠を通して室内を柔らかく照らしていた。本来なら心まで温まるような光景のはずだった。それなのに奈穂は、背筋を冷たいものが這い上がるような感覚を拭えなかった。自らを「清乃」と名乗るこの女は、人の心を操る術をあまりにも熟知していた。亡き母と見分けがつかないほど似た顔だけではない。健司にお茶を淹れる湯の温度も、ハンカチを差し出す手の角度も、まるで実験室で幾度も再現を重ねて作り上げた精巧な模型のように、一分の狂いもなかった。「奈穂、何を考えているの?お茶が冷めてしまうわ」女性の綿のように優しい声が、張り詰めた奈穂の心を包み込む。彼女は今、奈穂の隣に座り、白く細い指でその長い髪をそっと撫でていた。その仕草はあまりにも自然で、この十数年という空白など最初から存在しなかったかのようだった。「……何でもないわ」奈穂は目を伏せ、瞳に宿る迷いを隠す。「ただ、この数日の陽射しが……現実じゃないみたいに感じるだけ」向かいでは健司が二人を見つめていた。「母娘」が寄り添うその光景に、彼の目は何度も潤んでいる。彼はもう完全に、この「よく似た存在」が紡ぎ出した幻想の中に沈んでいた。それどころか、彼女が水戸家に長く住めるよう部屋まで用意しようと考え始めていた。「こんなにお天気がいいんだもの。明日は海に行かない?」女が穏やかに提案する。その瞳には無邪気な憧れが宿っていた。「昔……私は海を見るのが一番好きだったの。どこまでも続く青を眺めていると、どんな悩みも全部流されていく気がして」奈穂の鼓動が一拍止まる。――罠だ。致命的な餌だ。頭では分かっている。それでも、その母と同じ顔に純粋な期待を浮かべられると、拒絶の言葉だけがどうしても出てこなかった。「……分かった」奈穂は小さく頷いた。……出航は翌朝に決まった。正修から電話がかかってきたとき、奈穂はすでに港の桟橋に立っていた。海風が濃緑色のワンピースの裾を揺らし、いつもの胃の痙攣がまた鈍く疼き始める。「奈穂」電話の向こうから聞こえる正修の声はいつになく重い。焦燥を押し殺しているのが伝わってきた。「嫌な予感がする。秦家の資金の流れが、不自然なほどきれいなんだ。秦烈生が保釈されてからの足取りも、まだ完全に

  • 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ   第1007話

    だが、その女性が肩に落ちた一枚の花びらをそっと払い落とした瞬間――奈穂の喉元まで込み上げていた「お引き取りください」という言葉は、どうしても口にできなかった。それは、自分が十数年間失ってきた母のぬくもりだった。心の奥深くに埋め続け、正修でさえ決して触れようとしなかった、誰にも踏み込ませない場所。……三十分後、正修が水戸家の本家に到着した。リビングに足を踏み入れた瞬間、彼の表情は一気に凍りつく。見知らぬ女性がソファに腰掛け、割れてしまった急須の破片を、健司の手元から一つひとつ丁寧に拾い集めていた。奈穂はその傍らに座っていたが、その視線はどこか虚ろだった。正修の顔から血の気が消えた。彼は迷うことなく奈穂のもとに歩み寄り、その冷え切った指先を大きな手でしっかりと包み込んだ。全身からにじみ出る冷気のような威圧感に、リビングの空気が一瞬で張り詰める。「奈穂」低く名を呼ぶその声には、隠しようのない警戒が滲んでいた。奈穂ははっと我に返る。顔を上げたその瞳には、今にも壊れそうな葛藤が映っていた。「正修……あの人の顔を見て」「見ている」正修は目を細め、鋭い視線を女性に向けた。「だが俺は、死んだ人間は生き返らないことも知っている。秦烈生が保釈された直後だ。こんな手口……あまりにも安っぽい」その言葉に女性は怯えたように肩をすくめ、恐る恐る健司に視線を向けた。「九条社長」健司が立ち上がる。その声には、これまで見せたことのない強さが宿っていた。「言葉を慎んでいただきたい。彼女が清乃本人でなくても構わない。俺にとっては、神様が与えてくれた最後の慰めなんだ。これほど似ている人を家に招き、お茶を出すことすら許されないというのか?」正修は短く鼻で笑った。「慰め、ですか。おじさんは商売の世界で、何十年も生き抜いてきたんですよね?いつから『神様から与えられた偶然』なんてものを信じるようになったんです?」奈穂は二人の間に立ちながら、割れるような頭痛を堪えていた。奈穂は女性に目を向ける。女性は無意識のうちに、指先で湯呑みの縁をなぞっていた。――それは考え事をするとき、母がいつもしていた癖だ。「正修……もうやめて」奈穂は震える指先に力を込めながら、彼の手を握り返した。「あなたの言いたいことは分か

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status