Partager

第6話

Auteur: ひとくち餃子
大きな手が夏帆の腕をつかみ、倒れかけた体を支えた。薄い服越しにも、その手の熱さと力強さが伝わってくる。

「こんなところで何をしている」

怜司は眉を寄せ、夏帆を見下ろしていた。濡れた黒髪が額に張りつき、濃いグレーのタンクトップから、広い肩と引き締まった体つきが際立っている。汗ばんだその姿には、大人の色気が漂っていた。

「黒瀬さん」

夏帆はどうにか体勢を立て直すと、水とタオルを差し出した。

「運動のあとですし、お水とタオルをどうぞ。汗を拭かないと、体が冷えてしまいますよ」

機嫌をうかがいながら、おずおずと怜司を見上げる。怜司は差し出されたものに目を落とし、緊張で少し赤くなった夏帆の耳元へ視線を移した。

「ずいぶん気が利くな」

まだ少し息が荒く、声もかすれている。

「お金をいただいてるんですから、これくらい当然です」

夏帆は目を細め、明るく笑った。

怜司は少し夏帆を見つめてから、水とタオルを受け取った。

「次からは、ここで待たなくていい」

それだけ言って背を向け、大股で主寝室へ歩いていく。その背中が廊下の奥へ消えると、夏帆はほっと息を吐いた。

これで初日は、どうにか無事に乗り切れたらしい。

……

自分の部屋へ戻ると、ちょうど電話が鳴った。

「夏帆!大家さんに聞いたんだけど、引っ越したの?今、どこにいるの?」

柚葉はいつもの明るい調子だったが、心配してくれているのが伝わり、夏帆はうれしかった。ただ、契約のことは口外できないため、住んでいる場所や結婚については話せない。

「住み込みの仕事が見つかったの。食事も出るし、条件もいいから、さっそく引っ越してきたんだ」

「へえ、そんなに条件いいんだ!何の仕事?今度、遊びに行ってもいい?」

「今はちょっと難しいかな。もう少し落ち着いたら、私から会いに行くね」

「そっか。元気ならいいんだけど」

柚葉はため息をつき、少し声を落とした。

「それで、アキラとは何があったの?昼間は話が急すぎて、よくわからなかったんだけど」

夏帆はスマートフォンを握りしめた。天井を見上げてひとつ深呼吸をすると、一昨日、ホテルのスイートルームの前で何があったのか、すべて打ち明けた。

少しの間、電話の向こうが静まり返り、やがて柚葉が大声を上げた。

「うそ、あのアキラが鷹宮家の御曹司!?夏帆、そんな大金持ちを助けてたの?」

驚きと怒りで、柚葉の声は裏返っていた。

「でも、夏帆に命を助けてもらったんでしょ?5年も一緒にいたのに、なんでそんなひどいことができるのよ……

今は2人とも感情的になってるだけじゃない?少し落ち着いたら、きっと向こうからやり直したいって言ってくるよ。そのときは、今までの分もたっぷりお金を使わせてやりな!」

親友の言葉に涙がこみ上げた。それでも、夏帆は落ち着いた声で答えた。

「柚葉……もう、やり直す気はないの」

目を閉じると、胸が締めつけられるように痛んだ。

明は喧嘩をするたびに何日も帰らず、電話にもメッセージにも応じなかった。結局、いつも夏帆のほうが折れていた。

夏帆は明の好物を食卓いっぱいに並べ、夜遅くまで帰りを待っていた。玄関で鍵の音がすると、何事もなかったように冷めた料理を温め直して出した。明が料理に口をつけ、表情が和らぐのを見て、夏帆もようやくほっとした。

記憶もなく、頼れる家族もいない明には、自分しかいない。だから見捨てられなかった。少しでも弱気な様子を見せられると放っておけず、また何でもしてあげたくなってしまうのだった。

それが愛だと信じていた。自分が待ち、彼が帰ってきてくれさえすれば、これからも2人で暮らしていけるのだと。

今ならわかる。彼が出ていくたびに自分を責め、理不尽な仕打ちにも耐えてきた。だから明は、どれほど冷たくしても許されると思うようになったのだ。

夏帆に世話をしてもらい、生活費まで出してもらっていたのに、明が大切にしていたのは別の女だった。嘘がばれても、その女をかばって夏帆を責めた。

料理を作って謝れば仲直りできるような話ではなかった。5年間、ずっとだまされていたのだ。

電話の向こうでは、柚葉の悪態がまだ続いていた。

「真面目な人だと思ってたのに、何なのあいつ!夏帆に食うものから着るものまで全部お世話になっておいて、今度は別の女?恩知らずにもほどがあるよ!」

夏帆は口を挟まず、静かに耳を傾けていた。柚葉が代わりに怒ってくれるのを聞いていると、胸のつかえが少し下りる気がした。

1時間ほど話して電話を切ると、もう夜中の12時近くだった。

まだ気持ちが晴れず、夏帆は夜風に当たろうとバルコニーへ出た。隣の書斎には明かりがついていて、夜の闇に浮かぶその光が、どこか寂しげに見えた。

もう深夜なのに、まだ寝ていないのだろうか。

そういえば、楓からは、怜司が急に体調を崩すことがあるから普段から様子に気を配ってほしいと言われた。けれど、具体的にどこが悪いのかは、ひと言も教えてもらえなかった。

夏帆は唇を噛んだ。そのとき、ふと、とんでもない考えが浮かんだ。

あんなに体が大きくて、人を圧倒するような雰囲気なのに、心臓や血管が悪いとは思えない。普通の病気なら、楓もあそこまで話しづらそうにしないはずだ。

もしかして……そっちの方に問題があるのだろうか。

まだ30歳でそんな悩みを抱えているなら、誰にも知られたくないだろう。考えれば考えるほど、そんな気がしてきた。

「お金をいただいてるんだから、そこも何とかしてあげないと」

明日の昼食には、体を温めて精力を補う生薬を何種類か入れてみよう。それで彼の悩みが解消すれば、仕事を失う心配もなくなるはずだ。

そう決めた夏帆は部屋へ戻り、午前5時にアラームをセットすると、ぐっすり眠り込んだ。

翌朝、アラームが鳴るとすぐに目を覚ました。目をこすりながらバルコニーへ出ると、隣の書斎にはまだ明かりがついている。

まさか、一晩中起きていたのだろうか。

身支度をしようと部屋へ戻りかけたところで、隣の明かりが消えた。すぐにゲストルームを出ると、書斎から出てきた怜司と廊下で鉢合わせた。

怜司は黒いシャツの襟元を開け、袖をまくっていた。引き締まった腕がのぞき、手には空のカップを持っている。整った顔には疲れが見え、目は充血していた。

「黒瀬さん」

夏帆が近寄って挨拶すると、彼は目を上げ、ひどくかすれた声で応じた。

「ああ」

「お水ですか?私が入れてきますね」

夏帆が両手を差し出すと、怜司はカップを渡した。受け取ると、ブラックコーヒーの濃い香りがした。底には焦げ茶色の液体が数滴残っている。

夏帆は眉をひそめた。

「朝から空腹でコーヒーを飲むと、胃に悪いですよ。こんな濃いのを飲んだら、余計に眠れなくなります」

怜司は眉間にしわを寄せた。ただでさえ頭が痛いところへあれこれ言われ、こめかみがずきずきする。

「余計な世話だ」

苛立ちのこもった目を向けられ、夏帆は首をすくめて口をつぐんだ。

それ以上は何も言わず、キッチンでカップを洗って水を入れ、怜司に差し出す。受け取った彼が寝室へ戻ろうとすると、夏帆はその背中に声をかけた。

「黒瀬さん、もし眠れないなら……頭をほぐしましょうか?」

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application

Dernier chapitre

  • 偽装結婚なのに、社長がキスをやめられない!   第10話

    夏帆は自嘲するように口元をゆがめ、ベンチに手をついて立ち上がった。そのまま立ち去ろうとすると、明に強く手首をつかまれた。「夏帆」振りほどこうとしてもびくともせず、夏帆は冷たい目で彼を見返した。「放して」明は眉を寄せた。普段は穏やかな目の奥に、苛立ちがにじんでいる。「今日、聖ルミナスへ行ったのか。もう美咲のところへ行くな」低い声で釘を刺され、夏帆は耳を疑った。抑え込んできた怒りが、一気に噴き上がる。乾いた音が、公園の静けさを破った。思いきり彼の頬を張ると、自分の手のひらまでじんとしびれた。「最低……!」彼を睨みつけると、こらえていた涙がとうとうあふれ出した。明は打たれた勢いで顔を横に向けた。白い肌に、5本の指の跡がくっきりと浮かび上がる。痛む頬を内側から舌で押し、怒るどころか薄く笑ったが、その目は少しも笑っていなかった。「お前なら俺のことをわかってくれると思っていたのに。こんな騒ぎを起こして、どうなるかわかってるのか?」夏帆は信じられないものを見るように彼を見つめた。胃の奥から吐き気がこみ上げてくる。「鷹宮様って呼べばいい?それとも、アキラ?5年も私を騙しておいて、それでもあなたの事情を察して、何もかも許せっていうの?」明は苛立たしげにネクタイを緩めた。「素性を隠してたくらいで、そこまで怒るのか」「素性を隠してたくらい?」夏帆は力なく笑ったが、涙は止まらず、頬を伝い続けた。正体を隠して騙し続けたことも、5年間の献身を踏みにじったことも、彼に言わせれば「そのくらい」のことなのだ。「嫌な思いをしたのはわかってる。ホテルでのことは、俺も説明しなきゃいけないと思ってる」明は眉間にしわを寄せたまま、いっそう声を低くした。「だからって、美咲に当たるな。あいつは何も知らないんだ。お前に責められたら、耐えられない」夏帆は呆然と彼を見た。あまりにも理不尽だった。美咲が耐えられないなら、自分はどうなるのだろう。人前で謝罪を迫られ、警備員にホテルからつまみ出されたとき、彼は自分のつらさを少しでも考えてくれただろうか。1日で3つの仕事を失い、母の薬代すら払えなくなったときも、どんな思いをするか想像してくれたことはあっただろうか。夏帆は、つかまれた手首をゆっくりと引き抜いた。「じゃあ

  • 偽装結婚なのに、社長がキスをやめられない!   第9話

    美咲は一歩近づき、挑発するように言った。「あなたが何年かけても治せなかったのに、私が鍼を数本打っただけで、明さん、全部思い出したのよ。仕事も男も、私に勝てると思ってるの?そんなの無理に決まってるでしょ」夏帆は頭を殴られたような衝撃を受けた。数か月前、アキラと一緒に医療系の合同採用説明会へ行ったときのことがよみがえる。別のアルバイトへ急いでいた夏帆は、彼に履歴書を預け、各ブースに提出してもらうよう頼んだ。後日、聖ルミナス国際病院から面接の案内が届いた。採用枠はわずか1人だけだったが、夏帆は自分ならきっと受かると思っていた。けれどアキラは、夏帆の手を取って優しく言ったのだ。「夏帆、あの病院って街の反対側だろ?ここからだとバスで往復3時間もかかるんだよ。それなら近くで働いたほうが稼げるって。今回はやめておこうよ」毎日3時間も通勤に費やすのは、体力的にも厳しい。夏帆は彼の言葉に納得し、面接を辞退した。けれど、彼は夏帆の通勤を心配して引き止めたわけではなかった。たった1つの採用枠を、美咲に譲らせたかったのだ。夏帆なら苦労に耐えられても、美咲には無理だから。病院の近くは家賃が高く、夏帆には部屋を借りる余裕さえなかった。それなのに彼は、美咲が少しでも楽に通えるよう、ためらいもなく病院の隣に高級マンションを買い与えていた。鈍い刃で胸の奥を何度も切られるようで、息もできないほど苦しかった。それでも夏帆は、拳を固く握りしめて涙をこらえた。美咲を見据え、皮肉な笑みを浮かべる。「鍼を数本打っただけで記憶が戻るなんて、すごいわね」今度は夏帆が一歩踏み込んだ。「どんな名医も顔負けじゃない。いったい誰に教わったの?」美咲の顔色が変わった。頭のけがで失った記憶が、鍼を数本打っただけで戻るわけがない。東洋医学を学んだ美咲にも、それくらいはわかっているはずだ。夏帆が何年も毎日のように治療を続けたことで、明はすでに回復に向かっていた。美咲はたまたま記憶が戻るタイミングで鍼を打ち、その手柄を横取りしたにすぎない。「あなた……!」痛いところを突かれ、美咲が声を荒らげた。「資格も取れないくせに、よくそんな偉そうな口が利けるわね!」大きく息を吸うと、美咲は再び見下すような笑みを浮かべた。「あなたが何を言ったって、明さんに

  • 偽装結婚なのに、社長がキスをやめられない!   第8話

    その日の午後、夏帆は印刷した履歴書を持ち、聖ルミナス国際病院の東洋医学センターを訪れた。センター長の周防鶴彦(すおう つるひこ)はデスクに向かい、老眼鏡を掛けてその書類に目を通していた。目を引く学歴も、資格の記載もない。その代わり、これまでの治療記録や症例についての考察が、数ページにわたってびっしりとまとめられている。読み進めるにつれ、鶴彦は目を輝かせた。「ここにある不眠症や片頭痛は、どれも治りにくい症例だね。薬は君が処方したのかい?」「はい」夏帆は背筋を伸ばし、落ち着いて答えた。「こちらの重い顔面麻痺も、わずか半月の鍼治療で治したのかい?」鶴彦の声には、驚きが混じっていた。「はい。祖父に教わった、家に伝わる方法で鍼を打ちました」鶴彦は履歴書を閉じ、老眼鏡を外した。見事な内容だけに、資格がないことが惜しまれた。「これだけの患者さんを治してきたのに、どうしてまだ資格を取っていないんだい?」夏帆は目を伏せた。祖父が亡くなってから、かつて祖父と対立していた人物に何かにつけて邪魔されてきた。知識も腕もあるのに、どうしても資格だけは取れなかったのだ。「少し事情がありまして」一拍置いて、夏帆は真剣に続けた。「応募したのは施術補助の仕事です。1人で患者さんを診ることはありませんし、病院の決まりも必ず守ります」これほどの腕と経験があるのに、補助だけさせるのはもったいない。鶴彦はそう思ったが、資格がない以上、規則を曲げるわけにはいかなかった。「わかった。結果は後日連絡するから、待っていてくれるかな」鶴彦が履歴書を引き出しにしまうと、夏帆は頭を下げた。「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」部屋を出て廊下を歩いていると、少し先の診察室から、聞き覚えのある甘い声が響いてきた。「今夜、彼が皆さんにディナーをごちそうしたいって言ってて。ぜひ来てくださいね」夏帆は足を止め、半開きの扉に目を向けた。白衣姿の美咲を、若い医師や看護師たちが囲んでいた。「相沢先生、ほんと幸せですね!」「彼氏、かっこよくてお金持ちで、しかも先生に一途なんでしょう?」「通勤が楽になるようにって、病院の隣にマンションを買ってくれたんですか?あそこ、1坪で何百万円もするところですよね?」美咲はうれしそうに笑い、甘

  • 偽装結婚なのに、社長がキスをやめられない!   第7話

    怜司は足を止めた。もう1週間、ろくに眠れていない。頭の中を無数の針で刺されるような片頭痛が続き、気が狂いそうだった。苛立ちも限界に達している。怜司は一度目を閉じ、結局、任せてみることにした。「やってみろ」引き返してリビングへ行き、カップをローテーブルに置くと、ゆったりとした革張りのソファに深く腰を下ろした。「はい、すぐ準備しますね」夏帆は顔をほころばせ、小走りで洗面所へ向かった。ぬるま湯で丁寧に手を洗い、両手をこすり合わせて十分に温めてから、ソファの後ろへ戻った。怜司は背もたれに頭を預けて目を閉じていたが、まだ全身に力が入っていた。夏帆は深く息を吸い、ゆっくりと両手を伸ばした。ほのかに薬草の香りがする温かい指先がこめかみに触れると、怜司の体がわずかにこわばった。夏帆は指の腹で優しく円を描くように、もみほぐしていった。「黒瀬さん、力を抜いてください。私に合わせて、息を吐いて……吸って……」落ち着かせるように穏やかに声をかけながら、こめかみから頭頂部へと指を移し、ツボを捉えてほどよい力で繰り返し押していく。指先の温もりがじんわりと伝わり、怜司の頭を刺すような痛みも少しずつ和らいでいった。夏帆は続いて、首の付け根や耳の後ろもほぐす。血の巡りをよくし、気持ちを落ち着かせて眠りを促す、家に代々伝わるやり方だ。怜司の肩から少しずつ力が抜け、呼吸もゆっくりと深くなっていく。それでも夏帆は手を止めず、ソファの後ろに立ったまま、根気よくほぐし続けた。1時間以上も続けるうちに、腕は持ち上げるのもつらいほど痛くなり、額にも汗がにじんでいた。そのとき、静かな寝息が聞こえてきた。怜司は頭を少し横に傾け、すっかり眠り込んでいる。いつもは冷酷にさえ見える顔が、今は無防備に和らいでいた。夏帆はほっと息をつき、起こさないように静かに手を離した。だるくなった手首をさすってからゲストルームへ薄手の毛布を取りに行き、怜司に優しく掛けた。時計を見ると、もう7時近い。食材を買いに行かなければ。夏帆はバッグを手に取り、静かに部屋を出た。リバーテラスは、街で最もにぎわうビジネス街の中心にある。周囲には高層オフィスビルが立ち並んでいるが、敷地内は高い石塀と豊かな緑に囲まれ、外の騒がしさが届かない静かな空間だった。まずは敷地内の高級スーパーへ

  • 偽装結婚なのに、社長がキスをやめられない!   第6話

    大きな手が夏帆の腕をつかみ、倒れかけた体を支えた。薄い服越しにも、その手の熱さと力強さが伝わってくる。「こんなところで何をしている」怜司は眉を寄せ、夏帆を見下ろしていた。濡れた黒髪が額に張りつき、濃いグレーのタンクトップから、広い肩と引き締まった体つきが際立っている。汗ばんだその姿には、大人の色気が漂っていた。「黒瀬さん」夏帆はどうにか体勢を立て直すと、水とタオルを差し出した。「運動のあとですし、お水とタオルをどうぞ。汗を拭かないと、体が冷えてしまいますよ」機嫌をうかがいながら、おずおずと怜司を見上げる。怜司は差し出されたものに目を落とし、緊張で少し赤くなった夏帆の耳元へ視線を移した。「ずいぶん気が利くな」まだ少し息が荒く、声もかすれている。「お金をいただいてるんですから、これくらい当然です」夏帆は目を細め、明るく笑った。怜司は少し夏帆を見つめてから、水とタオルを受け取った。「次からは、ここで待たなくていい」それだけ言って背を向け、大股で主寝室へ歩いていく。その背中が廊下の奥へ消えると、夏帆はほっと息を吐いた。これで初日は、どうにか無事に乗り切れたらしい。……自分の部屋へ戻ると、ちょうど電話が鳴った。「夏帆!大家さんに聞いたんだけど、引っ越したの?今、どこにいるの?」柚葉はいつもの明るい調子だったが、心配してくれているのが伝わり、夏帆はうれしかった。ただ、契約のことは口外できないため、住んでいる場所や結婚については話せない。「住み込みの仕事が見つかったの。食事も出るし、条件もいいから、さっそく引っ越してきたんだ」「へえ、そんなに条件いいんだ!何の仕事?今度、遊びに行ってもいい?」「今はちょっと難しいかな。もう少し落ち着いたら、私から会いに行くね」「そっか。元気ならいいんだけど」柚葉はため息をつき、少し声を落とした。「それで、アキラとは何があったの?昼間は話が急すぎて、よくわからなかったんだけど」夏帆はスマートフォンを握りしめた。天井を見上げてひとつ深呼吸をすると、一昨日、ホテルのスイートルームの前で何があったのか、すべて打ち明けた。少しの間、電話の向こうが静まり返り、やがて柚葉が大声を上げた。「うそ、あのアキラが鷹宮家の御曹司!?夏帆、そんな大金持ちを助けてた

  • 偽装結婚なのに、社長がキスをやめられない!   第5話

    ダイニングが一瞬、静まり返った。夏帆は耳まで熱くなりながら、こちらを冷ややかに見ている怜司と目を合わせた。「誤解しないでください。黒瀬さんと結婚するために別れたんじゃありません。このお話をいただく前に、もう終わっていたんです……信じてもらえますか?」緊張しながら彼の表情をうかがう。働き始めた初日から、お金のために恋人を捨てた女だと思われたくなかった。怜司は表情ひとつ変えず、器の中のうどんを箸で軽くほぐした。「続けろ」「え?」意味がわからずきょとんとしていると、怜司の眉がわずかに寄った。言いたいことがすぐに通じず、苛立ったらしい。「さっきの続きだ。聞かせろ」声は決して大きくないのに、逆らうことを許さない響きがあった。夏帆はごくりと唾をのむ。怒ったときの柚葉がどれほど口が悪いかは、誰よりよく知っていた。これ以上、過激なことを言っていませんようにと祈る思いで、もう一度再生ボタンを押した。『あいつ、夏帆と別れたばっかりで、もう別の女とデート?ほんと腹立つ!さっき「夏帆に言うからね」って言ってやったら、ただの接待なのに信じてもらえないんだって。毎回説明するのに疲れたから、今回は何も言いたくないってさ。なのに、私がその場を離れた途端、連れの女が「デートなのに、なんで夏帆には接待って言うの?」だって!別れて大正解だよ、夏帆。やっぱり顔がいい男って、浮気者ばっかり!』再生が終わると、ダイニングには気まずい沈黙が落ちた。その静けさを破るように再びスマートフォンが震え、新しいボイスメッセージが届く。おそるおそる向かいをうかがうと、怜司もこちらを見ていた。冷ややかな表情なのに、どこか面白がっているようにも見える。続きも聞かせろと言わんばかりの目に、夏帆は観念して次のメッセージを再生した。『夏帆、あんなに長く付き合ってたんだもん。つらいよね。今日は早めに上がるから、夜そっちに行くね』夏帆は録音ボタンを押すと、落ち着いた声で返した。「もう平気だから。来なくて大丈夫だよ」強がりではなかった。5年間も自分を騙し続けた男と別れて、今さら泣く理由などない。ただ、あんな男を本気で愛し、必死に稼いだお金まで渡してきたことが悔しかった。今は目の前の仕事をきちんとこなし、約束の報酬を受け取りたい。夏帆が望むのは、それだけだった。怜司

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status