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第2話

Author: 陽射山脈
その後、家に連れ戻されてからも、私はいつもあの夕暮れを思い出していた。

私は彼のモーターバイクの後ろに横座りし、渡された上着をギュッと握りしめながら、夜風をはらんで膨らむ、あの洗いざらしのTシャツを見つめていた。

若者の恋心というのはいつも理屈じゃない。私の世界に健人のような人物が現れたことは一度もなかった。

だから、それはほんの運命のような出会いにすぎなかったのに、私はあっけなく心を奪われてしまった。

健人は当時、地元のボクシングジムでスパーリングパートナーをしていた。

私は自分が年下で女であることを利用し、彼にガイドをしてくれとつきまとった。

彼は最初、いつも眉をひそめて都合が悪いと言っていた。

ある日、ジムの裏口で彼の退勤を待っていた私が、突然のゲリラ豪雨でずぶ濡れになるまでは。

傘を差して出てきた彼は、口を尖らせて今にも泣き出しそうな私を見て、呆れたように笑った。

その数ヶ月、彼はあのモーターバイクで私を乗せ、無数の路地を駆け抜けた。

彼が子供の頃から食べて育ったという、馴染みのたい焼き屋に連れて行ってくれた。

川の堤防に座り、砂利運搬船がゆっくりと通り過ぎるのを眺めた。

私が無理を言って奥山に登ろうとした時、彼は面倒だと文句を言いながらも、私の手をしっかりと引いて急勾配を越えさせてくれた。その掌の熱さに、私の耳まで赤くなった。

共に過ごした日々は、私と健人の間にはあと告白の言葉一つが足りないだけだと、甘く思わせた。

星の綺麗な夜に、彼の固く結ばれた口元に背伸びしてキスをしようとさえ計画していた。

家のボディガードが突然目の前に現れるまでは。

私は泣き叫びながら車に連れ込まれ、健人は傷だらけになりながら地面にねじ伏せられていた。

連れ去られる直前、彼は拘束を振りほどいて車に飛びついた。

血に染まった掌が窓ガラスに赤い手形を残し、あのいつも強情な瞳が私をじっと見つめていた。

開いたり閉じたりする唇が紡いでいたのは、明らかに「待ってろ」という言葉だった。

私は車の中で泣きながら何度も頷いた。

帰宅後、死ぬ気で親に抵抗した。

けれど、私が待ち続けた末に見たのは、彼の隣に立つ別の少女の姿だった。

再び健人に会ったのは一年後、私がボロボロになりながらバスを三本乗り継いで、彼が新しく開いたジムに行った時だった。

彼に会う前から、鼻の奥がツンとしていた。

話したいことが山ほどあった。どうしてまだ迎えに来てくれないのかと聞きたかったし、あの時言い出せなかった想いを伝えたかった。

しかしドアを開けた瞬間、彼がポニーテールの少女に腰をかがめてグローブをはめてやっているのが見えた。その動作は丁寧で優しかった。

少女が笑いながら健人の顔を軽く叩くと、彼は避けもせず、逆に指の関節で親しげに少女の額を小突いた。

「亜美(あみ)はここに一ヶ月住んでるのよ」

床掃除のおばさんが何気なく言った。「健人さん、亜美に夢中でね。ここの会員たちも冷やかし半分に、『奥さん』なんて呼んでるのよ」

私はその場に釘付けになり、来る途中で何度も紡いだ言葉は、一瞬にして喉の奥で霧散した。

かつて私が健人に付きまとっていた時、彼の弟子たちも同じように私たちを冷やかした。

あの頃、私はいつも顔を赤くして健人を盗み見し、彼の肩にぶつかってどう思うか聞いたものだ。

彼は「やれやれ」といった呆れ顔で私を一瞥し、あいつらはただのお調子者だから、構うと余計に図に乗るんだ、と言った。

そうは言いつつも、次に誰かが私を「奥さん」と呼ぶと、彼は容赦なくその相手をリングに引きずり上げた。

亜美が私に気づき、目を向けた。「お姉さん、誰に用?」

健人もつられて振り返った。

しかし、彼の口元に残っていた笑みは、私を見た瞬間に凍りついた。

彼は他人行儀に私を呼んだ。「結衣さん」

一年ぶりの再会だったが、私たちの間の空気は奇妙で重苦しかった。

待っていろと言ったのはあなたなのに、どうして来なかったのと聞きたかった。

そして、亜美とは一体、どういう関係なのか、と。

けれど口から出たのは「体の傷は治ったの?」という一言だけだった。

彼は私を見ずに、乾いた声で言った。「とっくに完治した」

張り詰めた空気は再び固まる。

ジムの壁時計がチクタクと音を刻む中、長い沈黙の後、私はふと、無意識に小声で言った。「急に、駅裏のあの店のたい焼きが食べたくなったわ」

健人は明らかに動揺し、ほとんど反射的に答えた。「買ってくる、待ってて」

急いで出ていく彼の背中を見ながら、私はぼんやりしていた。

まるで、彼が私のどんなわがままも聞いてくれた、あの秋に戻ったかのようだった。

「お姉さん、健人さんの何なの?」

亜美がいつの間にか近づいてきていた。

私は答えなかった。

彼女の目元に不快感が走り、肘で私の腰を強く突いてきた。

「ねえ、何スカしてんの?話しかけてるんだけど!」

痛みに顔をしかめ、私は思わず彼女を強く突き飛ばした。

その時、ドアが開いた。

「モーターバイクの鍵を忘れ……

何をしてるんだ!」

健人は血相を変えて突進してくると、亜美を背後に隠し、私を見る目には警戒心しかなかった。

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