「痛っ......ああっ......足が、折れちゃう......!」鈴は涙をボロボロと流しながら、足の激痛に声を上げた。葵に何を言っても無駄だと悟った彼女は、縋るような目で紗枝を見つめた。「お義姉さん、お願い......警察に通報して!私を助けて!」だが、その言葉に反応したのは葵だった。「あんたの存在、忘れてたわ」葵はゆっくりと紗枝の方へ向き直った。紗枝はちらりと鈴を見やってから、冷静な口調で言った。「覚えてるわ。昔、あなたが私に言った言葉を」「何の話?」葵は怪訝そうに眉をひそめた。「『私たちの間には啓司を巡る感情のもつれ以外、何の矛盾もない』――そう言ってた。最初は友達だったし、あともただの恋敵でしかなかったはず」一瞬、葵の表情が揺れた。確かに、かつてはそう言ったことがある。だが次の瞬間、葵の目には激しい怒りが灯った。拳を握り、震える声で叫んだ。「ああ、最初はそうだった。でも、あなたのせいで、私はすべてを失ったの!評判も、居場所も......生きる道さえも!今の私にとっては、あなたが死んでくれればそれでいいのよ!」その言葉に対しても、紗枝の顔色は変わらなかった。彼女は雷七たちの到着を信じて、冷静に時間を稼いでいた。「あなたの評判を落としたのは......本当に私なの?澤村と綾子を救ったフリをしたのは誰?横山さんと不倫して家庭を壊したのも、捨てたのも、全部あなた自身でしょう?」鋭い問いの連打に、葵の顔は怒りと羞恥に染まり、ついには爆発した。「うるさいっ!」次の瞬間、彼女は紗枝の首を両手で掴み、ぐいっと締め上げた。「どうしてあなたは死ななかったの!?もしあなたが死んでたら、私は啓司と一緒にいられたのに!澤村だって、真実なんて知らずに......!」紗枝は息苦しさに顔を歪めながらも、苦しげに言葉を絞り出した。「今ここで私を殺したって、あなたも生きては帰れない」その言葉に、葵は不敵な笑みを浮かべ、手を少しだけ緩めた。「あなた、まだ啓司が助けに来ると思ってるの?甘いわ。今回の狙いは、あなたじゃない......啓司の命よ」葵の告白に、鈴は我を忘れて叫んだ。「えっ......葵さんじゃないの!?じゃあ......一体、誰が......!?」その疑問に答えるように、錆びた鉄扉が音を
一時間後。紗枝と鈴は、背中を柱にくくられ、目隠しをされていた。黒い布が外された瞬間、紗枝は周囲を見渡し、状況を把握した。そこは、人気のない廃工事現場。鈴は隣で柱に縛られ、青ざめた顔で必死にもがいていた。「お義姉さん、これ......どういうこと!?」一時間前、道端に突然現れた車。降りてきた数人の男たちが、言葉も交わさず彼女たちを強引に車に押し込んだ。鈴はまだ状況を理解できず、半ばパニック状態だった。紗枝は眉をひそめ、ぴしゃりと叱りつけた。「黙って」こんな状況でも分からないのか。これは明らかに誘拐だった。紗枝の脳裏にまず浮かんだのは昭子。あの女がまた、青葉にやらせたのでは。だが次の瞬間、ギィィ......と、古びた鉄の扉が軋む音を立てて開いた。高いヒールの音が、コンクリートにこだました。入ってきた女を見た瞬間、紗枝の目が驚きに見開かれた。「葵?」女はゆっくりと歩み寄り、紗枝の前に腰をかがめ、意地の悪い笑みを浮かべた。「今日、自分がこんな目に遭うなんて、思ってもみなかったでしょ?」たしかに、予想すらしていなかったが、同時に紗枝は疑問を覚えた。どうして葵が、こんな真似を?誰の助けを借りた?なぜ、今?そのときだった。突然、鈴が声を上げた。「葵さん!私です、斎藤鈴です。覚えてますか?」葵は一瞬、目を細めて鈴を見た。「斎藤、鈴?」明らかに、想定外だった様子。どうやら余計な人物を誘拐してしまったらしい。鈴は慌てて畳みかけた。「ええ、以前お会いしましたよね。黒木家にいた時に。私は......いとこの鈴です」「あなたが、あの鈴?本当に?」「はいっ、私です」鈴はまるで救いを求めるように微笑みかけたが、次の瞬間、葵は無表情のまま彼女の前にしゃがみ込み、顎を乱暴につかんだ。「まさか、あの時高飛車だった鈴さんまで、こうして縛られて現れるなんてね」「痛っ!」鈴は葵の爪の食い込む痛みに、顔を歪めた。「葵さん、私はあなたの味方です、ずっと......昔から、葵さんのこと、尊敬してました!」「へえ?」葵の目が細まり、顎にかける手の力がさらに強くなった。「私のこと、バカだと思ってる?」紗枝は、隣で無言のまま、その様子を観察していた。妙な愉快さを覚えながら。「あの時
紗枝は、啓司がまだ嫉妬しているとは露ほども知らず、ただ小さくため息をついて文句をこぼした。「まず、あなたの記憶喪失を治してくれない?発作みたいなの、ほんとにやめて」本当に参っていた。啓司の過去の冷酷さを、紗枝は誰よりもよく知っている。だからこそ、ふいに現れるあの頃の彼に、心が疲弊していた。啓司は、しゅんとしたように「うん」とだけ答えた。やがて、あっという間にゴールデンウィークがやってきた。本宅に戻ることを考えるだけで、紗枝のこめかみはズキズキと痛み出した。「寝よう......めちゃくちゃ眠い」紗枝が布団に入ろうとしたそのとき、啓司はまったく眠気を見せず、長い腕をすっと伸ばして紗枝を抱き寄せた。薄い唇が、そっと彼女の額に触れた。「お前は寝ていい。俺はまだ、眠くない」夜の静寂に溶け込むような、低くかすれた声。額、頬、首元へ。小さなキスが次々と落とされ、紗枝が目を開けると、啓司の整った顔が、至近距離にあった。「やめて」紗枝は顔を背け、手で彼を遮った。しかし啓司はその手首を優しく握り、さらに深く囁いた。「いい子にして、俺の言うことを聞け」どうしてか、紗枝はその夜の誘惑に抗えなかった。目を覚ましたのは、翌日の午前11時だった。枕元はすでに空っぽで、啓司は会社に向かったようだった。胎児は安定期に入り、多少無理をしても問題はないと医師には言われていた。けれど、体はまだ少し重かった。熱いシャワーで体を温め、ゆっくりと身支度を整えて階下へ向かった。リビングに入ると、すでに鈴がソファに座っていた。紗枝の姿を目にした瞬間、一瞬だけ目に苛立ちを浮かべたが、すぐににこやかな声を上げた。「お義姉さん、支えましょうか?」その手には杖が握られていた。支える?せめて仕返しされないだけでも感謝すべきなのに。「結構です」紗枝が冷たく言うと、鈴は肩をすくめて笑い、ぶどうを一粒、優雅に口へ運んだ。階段の角を曲がろうとしたところで、視界の端に楽譜が映った。鈴がページをめくっている。紗枝は数歩戻り、彼女の手から楽譜を取り上げた。「どこから持ってきたの?」中身は、未発表の新作だった。鈴は悪びれもせず、平然と肩をすくめた。「ニュースで、お義姉さんが作曲の大家だって見て......音楽室から持ってき
鈴が交通事故に遭ったあと、紗枝はようやく気づいた。この女は、本当の意味で冷酷なのだと。命さえ惜しまないほどの執念深さ。見た目ほど愚かでも、弱くもない。そして、鈴は紗枝の「ここに残っていい」という言葉を聞いた瞬間、ようやく額を地から離した。「ありがとう、お義姉さん......啓司さん。体が良くなったら、必ずちゃんとお世話します」「お世話は結構です」紗枝は声色を変えずに言った。「おじいさまが言ったように、あなたは私たちの親戚です。ここではお客様として過ごしてください」鈴は唇を噛み、目を伏せた。「お義姉さん、優しいですね......以前は、葵さんが義姉だったら、もっと寛大だったんじゃないかって思ってました」この女、人が嫌がるところを、実に的確に突いてくる。黒木お爺さんは事が円満に進んだと満足し、それ以上は何も言わず、屋敷の門先に逸之の姿が見えると、それを見届けて本宅へと戻っていった。逸之は、その後ろ姿を冷ややかな目で見送った。彼は黒木お爺さんのことが好きではなかった。あの人は、兄の面倒を見てくれている澤村お爺さんのような、あたたかさを持っていない。そして鈴の姿を見た瞬間、逸之は悟った。「おじいさん、また面倒を持ち込んだんだな」と。「鈴さん、また来たんだ」大きな目を見開いて、じっと鈴を見つめた。鈴は笑顔を作った。「そうよ、逸ちゃん。これから毎日、お姉さんが一緒にいてあげるわ。いい?」「うん、いいよ」逸之はあっさり答えたあと、期待に満ちた声で続けた。「明日、幼稚園まで送ってくれる?クラスのみんなが、僕のおばさんに会いたがってるんだ」「もちろん。楽しみにしてるわ」鈴は逸之との距離をもっと縮めたいと思っていた。子供を味方につけるのが、黒木家に入り込む最も確実な近道だと知っていたから。二人の間で、そんな小さな秘密の約束が交わされたことを、紗枝も啓司もまだ知らなかった。夜。啓司は当然のように紗枝の部屋に入ってきた。今夜は逸之にせがまれたわけでもないのに。「どうしてついて来たの?」紗枝は少し警戒するように尋ねた。記憶を失っていた間、彼は一人で寝ていたはずだ。「もちろん、寝るためだ」啓司は真顔で前に進み、彼女のそばに座った。「あなたには自分の部屋があるでしょう?
逃げた葵は風征によって密かに匿われていた。「よし、この件は絶対にきちんとやってくれ」陽翔は風征の肩を軽く叩き、念を押すように言った。一方、病院では、鈴が拓司との電話を終えた後も、「お前はまだ冷酷になりきれていない」という言葉が頭から離れなかった。繰り返し噛みしめた末、彼女の中に一つの方法が浮かんだ。足を引きずりながら病院を出た彼女は、タクシーを拾い、黒木家の屋敷へと向かった。その日の午後。紗枝と啓司が牡丹別荘に戻ると、思いがけず鈴の姿があった。足を引きずりながら立っており、隣のソファには黒木お爺さんが悠然と腰かけていた。「戻ったか」「ただいま、おじいさま」紗枝は丁寧に頭を下げた。「うむ」黒木お爺さんはうなずき、開口一番、核心に触れた。「啓司、紗枝。鈴はワシの旧友の娘で、君たちにとっては従妹のような存在だ。今回の交通事故は、君たちが彼女を追い出したことと多少関係があるかもしれん」一息ついて、続けた。「ワシが勝手に決めた。鈴をここに残す。体が回復すれば、子供の世話や、紗枝の会社の手伝いもできるだろう」黒木家にとって、人が一人増えることなど箸一本が増える程度の話。大勢に影響はなかった。紗枝は即座に反対しづらい立場だったが、隣にいた啓司が、表情を変えずにはっきりと告げた。「家には専属のメイドがいます。鈴はあくまで客人です。おじいさまがご配慮くださるなら、彼女のために別の療養先を用意しましょう」鈴はすぐに取り乱した様子で口を挟んだ。「啓司さん、そんなに大げさにしなくても......この別荘には部屋がたくさんあるんですから、一間だけ貸してくだされば」「普通の従妹が、従兄夫婦と同居するか?それを妥当だと思うのか?」啓司は一歩も譲らぬ口調で返した。鈴はとぼけるように言った。「私が啓司さんと紗枝さんのお世話をしますから、不便なんて何もありません」黒木お爺さんもすかさず加勢した。「啓司、鈴はまだ子供だ。そんな下心があるわけがないだろう?」そして今度は紗枝を見て言った。「紗枝、そう思わんか?」紗枝はこの会話に巻き込まれたくなかった。自分は黒木家の血筋ではない。こういう場では、主張する力は弱い。そこで、彼女は静かに鈴に問いかけた。「鈴さん、あなたはもう二十歳を過ぎてますよね?
「兄貴は以前、記憶を失ったことがある。たぶん、今も完全には治ってないんだろう」拓司は、聖華高級クラブの最上階、眼下に夜の桃州を見下ろせるラウンジで、グラス片手に鈴へそう告げた。「記憶喪失......?」鈴は驚きの声を上げた。「道理で、今日私のことが分からなかったのね......」「で、お前は彼と結婚したいのか?」拓司は唐突に話題を変えた。鈴は一切ためらうことなく即答した。「ええ。小さい頃からずっと好きだったんです」彼女にとって、啓司は黒木家でも、世間でも、誰よりも輝いていた存在だった。たとえ今、視力を失っても――いや、むしろ今なら自分でも釣り合えると、そう思っていた。「なら、この期間を逃さない方がいい。彼が再び記憶を失ったら、今のことも全部......」拓司はそこで言葉を止め、それ以上続けなかった。その沈黙が、かえって多くを物語っていた。鈴は彼の意図を理解した。だが、それでも不安げに口を開いた。「でも私、この町に残るために、わざと事故に遭ったふりまでしたのよ。それなのに、啓司さんは......私を引き留めてくれなかった」「どうやら、お前はまだ冷酷になりきれていないらしいな」拓司は呟くように言い、皮肉とも慰めともつかない微笑を浮かべた。鈴はさらに何かを言おうとしたが、電話はすでに切れていた。---「稲葉家のお嬢様と、ずいぶん親しそうだな?」その時、武田家の次男――陽翔が現れ、からかうように声をかけた。その顔にはどこか陰湿な笑みが浮かんでいる。拓司はグラスを傾けながら、笑って否定もしなかった。陽翔はさらに踏み込んで言った。「あの子は怒らせると怖いぞ。母親の青葉は、うちの祖父でさえ三割は譲ったくらいの女だからな」陽翔の目には、拓司が黒木グループのトップにいられるのも、その「義母となる女」の支援あってこそだと映っていた。拓司はウェイターから新たなグラスを受け取り、静かに尋ねた。「IMグループの背後にいる人間、分かったか?」「さっぱりだ。外国人らしいという話は聞いたが......」陽翔は苦々しそうにグラスの酒を一気にあおった。「で、啓司さんは今何をしてる?」拓司の声が低くなった。「目が見えないやつに、何ができる?母親の指示で、会社に戻ってマネージャーをやってる。ずっとそ