Share

第8話

Author: 豆々銀錠
おばさんの声が聞こえてきた。

「紗枝ちゃん、起きた?朝飯ができたよ。熱いうちに食べてね」

彼女の言葉を聞いて、今までのことを思い出した。

家を出て、病院に行ってお医者さんに診てもらい、最後に出雲おばさんに会いに行くと出かけた。

頭を軽く叩き、呆けた自分を心配した。記憶力はそんなに貧しくなったのか?

起き上がろうとした時、寝ていたシーツに大きな血痕があった。

右耳に触れると、粘り気なものがあった。

手を見ると、血まみれになっていた…

補聴器も赤く染まっていた…

びっくりして、急いでティッシュで耳を拭き、すぐにシーツを取り出した。

出てこないから、出雲おばさんは見に来ると、紗枝がシーツなどを洗い始めていた。

「どうしたの?」

「生理だったのです。シーツを汚れました」紗枝は笑顔で説明した。

洗濯終わって、出雲おばさんと一緒に朝食を食べて、安らぎのひとときを過ごした。

おばさんの声は、時にははっきりで、時にはぼんやりだった。

二度とおばさんの声を聞こえないと思うと、彼女はとても怖くなった。

おばさんに知られて悲しくなるのも心配だった。

半日過ごして、彼女はこっそりと貯金の一部をベッドサイドテーブルに置き、おばさんに別れを告げた。

離れた時。

おばさんが彼女を駅まで送り、しぶしぶと手を振りながら彼女と別れた。

紗枝の離れる後姿を見届けて彼女は向きを変えた。

帰り道、痩せた紗枝を思い浮かべて、出雲おばさんは黒木グループの内線電話に電話をかけた。

秘書が紗枝の乳母だと聞いて、すぐ啓司に報告した。

今日は紗枝が家出の3日目だった。

また、啓司が彼女についての電話を初めて受けた。

彼はとても上機嫌でオフィスの椅子に座っていた。彼が言った通り、案の定、紗枝は3日間続かなかった。

おばさんの掠れた声が電話から聞こえてきた。

「黒木さん、私は子供の頃から紗枝の世話をしてきた乳母の出雲だ。お願いだが、お手柔らかにして、紗枝をこれ以上傷つけないでください」

「彼女は見かけほど強くない。彼女が生まれて、聴覚障害のことで奥様に嫌われて、私に世話をさせてくれたのだ」

「小学生の時に迎えてもらった…夏目家では旦那様以外、皆が彼女を使用人として扱いしていた。子供の頃、彼女はよく私に電話をくれた。泣きながら夏目家のお嬢さんをやめて、私の娘になりたいって…」

「あなたと夏目家の旦那様は桃洲市で彼女が最も大切な人だ。お願い、紗枝を大切に扱ってください。彼女は子供の頃から今迄ずっと劣等感を持っていた」

電話の向こうからおばさんの泣き声を聞き、啓司の気分は突然落ち込んだ。

「何だ、昨日お金で俺を侮辱して、それは無駄だと思って、今度、俺に惨めを見せつけてきたのか?」

啓司の声は冷たかった。「彼女はどんな生活を送っているのか、俺と何の関係もない」

「すべて彼女の自業自得だ!」

話し終わると、直ちに電話を切った。

おばさんは、今まで啓司がどれほど優れているかを紗枝から聞いた…

今になって初めて、彼は良くない、ちっともよくない、紗枝に釣り合わないと初めて分かった。

紗枝は帰りの車に座った。

スマホが振動にしたので、取り出してみると、啓司からのショートメールだった。

「離婚したいって言ったじゃ?明日朝10時に会おう」

紗枝はショートメールを眺めて、一瞬気が失った。暫くしてから返信した。「分かりました」。ただ「分かりました」の一言だった。

啓司の目に入ると、余計に目障りだった。

「よし、どれくらい気取れるか見てみよう」

啓司は仕事をする気はなくなった。

誰かを誘って飲みに出かけた。

聖夜高級クラブ。

葵も来た。

「徹底的に飲もうぜ」

隣に座った和彦が訪ねてきた。「聾者はどうなってるのか?」

啓司は眉を引き上げた。

「今後、彼女のことを二度と言うな。明日離婚するぞ」

これを聞いた葵は、彼にお酒を注いだ。「啓司、再生を祝って乾杯」

他の人たちも合わせて乾杯をしてきた。

聖夜高級クラブはとても賑やかだった。すべての飲み物は和彦に買い占められた。彼はこっそりと葵に言った。

「啓司はまだあなたの事が好きだ。必ず幸せになってくれよ」

頷きながら葵が言った。「和彦、ありがとう。あなたがいなければ、啓司と再会するチャンスもなかった」

これは事実だった。

当時、葵が夏目家に援助されていた。後で感謝に行った時、夏目家で啓司と出会った。

そして、4年前に、啓司のお母さんと和彦が乗った車が事故に遭った。

丁度その時、紗枝が事故現場にいた。啓司のお母さんと和彦を助けた。

葵がそれを知って、紗枝の代わりに、啓司のお母さんと和彦の命の恩人を誑かした。

これがゆえに、和彦が彼女に恩を感じて、友情そして愛情に変わって行った。

これは、啓司が多くの女性から葵を選んだ理由だった。

この件は、葵を除いて、紗枝でさえ知らなかった。

啓司が葵のことが好きだったのは愛情だと紗枝が思った。

和彦が葵のことが好きだったのは、葵が交際が上手だったと思って、命の恩人から芽生えた愛情だと知らなかった。

「お気遣いなく。親友じゃないか?」彼女を眺めて、目に溢れた愛情を隠せなかった。

葵は彼の愛情を分からないふりをした。

今日、啓司はお酒をたくさん飲んだ。

葵は啓司を家まで送ろうとした。

家と言えば、今まで啓司にとっては、ホテルやら、会社やら、プライベート別荘やらだった。

でも、紗枝の言葉をまだはっきり覚えていた。牡丹別荘は私たちの家だって。

「いや、不便だ」

明日に離婚する。

紗枝が戻るかもしれない。

紗枝に断られて悔しかった。「どうして?彼女と離婚するだろう、何の不便があるの?」

「彼女に私たちのことを知られたら怖いなの?」

俺たちの事?

啓司は目をつぶった。

「考えすぎだ」

車に乗ってから、葵を送る車も手配した。

道中。

啓司は何回かスマホを取り出して見たが、紗枝からのショートメールはなかった。

なかった…

入り口に立ち止まって、暗くなった牡丹別荘を眺めた。

気が重くなり、ドアを開けて中に入り、灯をつけてみたら、紗枝がいなかった。

彼女は戻ってこなかった…

家では、彼女が出る前と変わりはなかった。

洗濯機に入れたコートは、そのままだった。以前と異なったのは、服は洗濯されてなくて、そのまま置いてあった。

イライラしながら、彼はコートをそのままゴミ箱に捨てた。

お酒のせいで啓司はソファに座った。居心地が悪かった。眠りに落ちた後、悪夢を見た。

夢の中で、紗枝が血まみれになったが、彼に微笑んで言った。「啓司、もう愛しません」

目が覚めたとき、外はちょうど夜明けだった。

彼は額を揉んで、洗顔して、びっしりした新しいスーツを着替えて、予定の時間で家を出た。

市役所の入り口。
Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める   第952話

    「啓司さん、原因は完全に特定できました。脳内に残っている――あのガラスの破片です」澤村は重い腰を下ろし、言葉を続けた。「これから手術の日程を調整しなければなりません。ただし、この手術には大きなリスクが伴います」啓司は眉をひそめ、低い声で問う。「どんなリスクだ?」「破片がある部位は非常に特殊で、周囲には重要な脳神経が密集しています。もし手術が失敗すれば、知的障害を負う危険性があります」澤村の顔に、暗い影が差した。だからこそ彼は、かつて傷の縫合を行った際、異物の存在に気づきながらも、その場で取り出すことができなかったのだ。脳の手術は一つの誤差すら許されない。刃がわずかに狂えば、患者は生涯消えぬ苦痛を背負うことになる。沈黙が診察室を満たした。やがて啓司が唇を開く。「成功率は?」「半分にも届きません」深いため息をつきながら澤村は首を振る。彼の技術が未熟なのではない。国内の外科医であっても、誰一人として成功率を五割に届かせる者はいないだろう。啓司は即答しなかった。知的障害。言い換えれば「馬鹿になる」ということだ。確かに今、自分の視力は失われている。だが、意識は冴えており、頭脳も冴えている。金を稼ぐこともできるし、紗枝や子供たちに不自由のない生活を与えることができる。だがもし、自分が愚か者になってしまったら……その未来は想像に絶する地獄となる。「もう少し考えさせてくれ」そう答えると、澤村は真剣な面持ちで頷いた。「できるだけ早く決断してください。破片が頭に残る時間が長いほど、成功の可能性は下がっていきます」「分かった」啓司はしばし黙した後、低く命じる。「いいか。このことは誰にも言うな」「承知しました」澤村の返事を背に、啓司は診察室を出た。外で待っていた牧野がすぐに駆け寄り、道を先導する。「社長、お怪我はもう大丈夫なのですか?」啓司は心配をかけまいと、穏やかに答えた。「ああ、完全に治った」「それなら安心しました。これから会社に向かわれますか?」「ああ」病院を出るまでの道すがら、牧野と二、三言交わしたきり。車に乗ってから会社に着くまで、そしてその後の一日を通して、啓司の心は上の空だった。馬鹿になるか、盲目のままでいるか。彼はいずれかを選ばなければならなかった

  • 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める   第951話

    紗枝が美希を目にした瞬間、全身が凍りつき、しばらくしてようやく我に返った。「美希さん……誰がここに来いと言ったんですか?」その声に美希は顔を上げ、落ち着かぬ様子で彼女を見つめた。「私……」言いかけたところで、鈴が割って入る。「義姉さん、おばさんはあなたの実のお母様でしょう?どうして『美希さん』なんて呼ぶんですか?あまりに失礼ですよ」鈴は紗枝と美希の間に確執があることを承知のうえで、わざと問いかけたのだった。美希はすぐに鈴へ向き直り、静かに言う。「そんなこと言わないで。どう呼ぶかは紗枝の自由よ」そもそも自分は紗枝の実母ではないのだから。紗枝は拳を固く握りしめ、鈴の言葉には耳を貸さず、美希の前に歩み寄った。「用事があるなら、外で話しましょう」「ええ」美希は立ち上がり、紗枝に従って外へ出る。その後ろを、鈴がこっそりとついていった。外。薄暗い街灯の下で、紗枝は冷たく問いかける。「お金が欲しいの?それとも、ほかに目的が?」今の美希は、実の娘も息子も夫も誰も寄りつかない孤独の中にあり、きっとまた何かを企んでいるに違いない。美希は喉を詰まらせ、か細い声を絞り出した。「お金はいりません。ただ……あなたと子供たちに会いたくて来ただけです」紗枝はその言葉を聞き、嘲るように笑った。「また家族の情にすがるつもり?忘れたの?私たち二人には、血の繋がりなんてないんだよ」美希は、今さら何を言っても遅いことを知っていた。本来はただ、牡丹別荘の外から遠く紗枝を一目見たいだけだったのだ。だが運悪く鈴に見つかり、無理に家へ連れ込まれてしまった。「分かっています……何もいりません。本当に……何も……」繰り返す声は小さく震え、やがて背を丸めて呟いた。「もう行きます」そう言って、一歩、また一歩と遠ざかっていく。紗枝はその痩せ細った後ろ姿を見つめながらも、なお美希に本当の目的がなかったとは信じられなかった。急いで家に戻ると、まず逸之の様子を確かめる。幸い彼は自室でライブ配信をしており、美希が来たことなど知る由もなかった。啓司もまた書斎で仕事に没頭していた。紗枝は手持ちぶさたにしている鈴へ向き直り、冷ややかに言い放った。「これからは、私の許可なしに他人を家へ連れ込まないで。そうでなければ斎藤

  • 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める   第950話

    鈴をいじめる?昭子がそう口にした瞬間、周囲にいた退社帰りの社員たちが、面白がるように足を止め、次々と野次馬として集まってきた。一台の高級車の前で、若い女性が涙をぽろぽろとこぼしながら切々と訴える。その光景は、誰の目にも意味深に映り、憶測を呼んだ。紗枝はさらに呆れたように、昭子へ冷ややかな視線を向ける。「昭子、私が彼女をいじめてるって?どこをどう見たらそう思えるのかしら。夫が迎えに来てくれたから帰ろうとしていただけよ。それなのに、この子が無理やり乗り込もうとするから、自分でタクシーで帰ってって言ったの。それがいじめ?」短い一言で、事の経緯はすべて明らかになった。しかし昭子は、周囲の視線と、鈴の駄々をこねる様子を逆手に取り、あえて鈴に加勢して紗枝に恥をかかせようとしていた。「でも、こんなに泣いてるじゃない。ついでに乗せてあげてもいいでしょう?」紗枝は今日、本当に疲れ切っていた。妊娠して以来、情緒は揺れやすく、加えて強い眠気にもしばしば襲われる。彼女は不快感を押し殺しながら、低く問い返した。「今の言葉、もう一度言ってくれる?」「だから、ついでに乗せてあげたらどうなのって言ったのよ」昭子は、わざと彼女を怒らせるように言い放った。「そんなに聖人君子ぶるなら、あなたが送ってあげればいいじゃない」紗枝は即座に切り返した。昭子は一瞬言葉を失う。「彼女はあなたたちのお客様でしょ。私には関係ないわ」「関係ないなら、どうしてそんなに口を出すの?そんなに心配なら、あなたがついでに送ってあげたら?」言い終えると、紗枝はこれ以上関わるのも馬鹿らしくなり、鈴を押し退けて車に乗り込んだ。「鈴、昭子はこんなにお優しいんだから、彼女に送ってもらいなさいな。きっと喜んでくれるわよ」軽やかな笑みを浮かべながらそう告げ、運転手に向き直る。「出して」車内の運転手も、牧野も、そして啓司までもが一瞬驚きに目を見張った。だが啓司は口元に笑みを浮かべ、少しも腹を立てる様子はなく、運転手に命じた。「奥様の言う通りに」「はい」エンジンが唸りを上げ、車は静かに発進した。瞬く間に遠ざかり、昭子と鈴の目の前には、排気ガスがもうもうと立ちこめるだけだった。今や、周囲の好奇の視線は昭子と鈴の二人に集中していた。鈴は潤んだ

  • 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める   第949話

    社内では、紗枝がどうやってあの契約をまとめ上げたのか、その噂で持ちきりだった。ほどなくして、拓司が紗枝を自室へ呼び寄せ、その真相を尋ねた。紗枝は淡々と、しかし嘘偽りなく答える。「松田社長と親しい方と、偶然知り合いになりまして。その方のご厚意で、直接お会いする機会をいただけたんです」「なるほど......」拓司は窓の外に視線をやり、わずかに暮れかけた空を見上げると、「もう遅いな。そろそろ帰ろう、送っていくよ」と言った。「いえ、お気遣いなく」紗枝はすぐに辞退した。「今日は運転手が来ていなかっただろう?」拓司は探るように訊ねた。彼は既に部下を通じて、紗枝がタクシーで松田グループを訪れたことを把握していた。紗枝は少し申し訳なさそうに微笑んだ。「啓司が、これからは私を送り迎えしてくれるって仰ってくださったんです」拓司の表情が一瞬だけ固まり、すぐに平静へと戻る。「そうか。じゃあ、早く帰りなさい。兄さんをあまり待たせないように」「はい」軽く会釈をして紗枝はオフィスを後にした。彼女が去った直後、拓司は立ち上がる。ちょうどその時、昭子から電話がかかってきた。「拓司、もう退社した?私、会社の下にいるの」ガラス越しに、去っていく紗枝の背を見送りながら、拓司は短く応じる。「ああ、終わったところだ。すぐ降りる」「うん」昭子の声は、どこか弾んでいた。黒木グループ本社の前。ロールスロイスが静かに停まっており、その車内では啓司が紗枝の姿を待っていた。「今日はどうしてこんなに遅かったんだ?」助手席の牧野が答える。「ボディガードからの報告では、奥様は松田グループで契約を結ばれたそうです。そのため時間がかかったのかと」かつての誘拐事件以来、紗枝の外出には必ず遠巻きに護衛がついていた。啓司はそれ以上問わず、ただ静かに待ち続けた。やがて、ビルから紗枝が現れる。だが、その隣には鈴の姿があった。鈴は厚かましくも小走りで紗枝の横に並び、啓司の車を見つけるや否や、さらに歩を速めて追い越す。その軽快な足取りには、つい先日まで怪我をしていた痕跡など微塵もない。退社する社員たちの視線も、その様子を追っていた。紗枝は気に留めることなく、変わらぬ歩調で車へと向かう。「啓司さん!」鈴は目を輝かせ、声を弾ま

  • 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める   第948話

    鈴はすぐに歩み寄り、少し媚びた笑みを浮かべて口を開いた。「お義姉さん......いえ、紗枝さん。契約は、どうなりましたか?」その声音の奥に潜む本心を、紗枝は一瞬で見抜いた。彼女たちが知りたいのは契約の行方ではない。ただ、自分が失敗して恥をかく様を見たいだけ。紗枝は静かに鞄からサイン済みの契約書を取り出し、短く告げた。「取れました」その場の空気が一瞬止まった。視線が交錯し、誰もが信じられないという表情を浮かべる。なぜ紗枝が、あの最も厄介とされる松田社長から契約を取り付けられたのか。社内で松田社長は、嫌悪の対象として名高い人物だ。拓司が松田社長と商談する際でさえ、誰も同行したがらない。なぜなら、行けば必ず屈辱を味わわされるからだ。「ありえない......」一人の秘書が信じられない様子で近寄り、紗枝の手から契約書を受け取って中身を確かめる。案の定、そこには松田グループの社印と松田社長の直筆署名が整然と並び、何の不備もなかった。他の秘書たちも身を乗り出して覗き込み、皆一様に驚きの色を隠せない。中でも鈴は、ひときわ納得がいかない顔をしていた。夢美さんは言っていたはず。あの松田社長は気難しく、紗枝との契約など絶対にあり得ないと。それなのに、なぜ......?胸の奥にざわめきが広がる。一方、紗枝は淡々と契約書を仕舞い、口を開いた。「夢美さんは、まだ社内にいらっしゃいますか?今から直接お渡ししてもよろしいでしょうか」「部長なら、まだお部屋にいらっしゃいますよ」一人の秘書が答えた。「ありがとうございます」軽く会釈し、夢美のオフィスの場所を尋ねた紗枝は、その足で向かった。――同じ頃、夢美は優雅に音楽を流しながらオフィスでくつろぎ、獲物を待つ捕食者のような心持ちでいた。紗枝が戻ったら、存分に恥をかかせてやる。そう決めていたのだ。やがてノックの音。「夢美さん」「入りなさい」視線だけを向け、夢美は言った。契約は失敗したはず――そう信じ込んでいた彼女は、余裕の笑みで告げる。「どうしてこんな時間になったの?契約が取れなくても構わないわ。会社にとっては少しの損失で済むし、何よりあなたは黒木家のお嫁さん。クビになる心配なんてないのだから」だが、紗枝には無駄話に付き合う暇はなかった。今日はもう遅

  • 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める   第947話

    受付の危惧はまったくの杞憂だった。紗枝には、わざわざ彼女と事を構えるつもりなど、はなからない。上階の社長室に通されると、松田は紗枝が契約のために来たと知り、細かな事情を聞くこともなく、ためらいなく契約書にサインを入れた。その後、どうして錦子と知り合ったのかと興味を示し、二人は思いがけず会話が弾み、しばし和やかな時間が流れた。帰り際、紗枝は持参していたブレスレットを松田へ差し出した。「紗枝さん、そんなに気を遣わなくていいのよ。これから何かあったら、いつでも訪ねてきて。錦子とは親友だし、あなたも今日から私の友達よ」松田は遠慮なくそれを受け取り、満面の笑みでそう告げた。二人の会話は思った以上に長引き、紗枝が松田グループを後にしたときには、時計の針はすでに午後六時を回っていた。この時刻、黒木グループではほとんどの社員が退社している。その頃、黒木グループ。夢美は、鈴から「紗枝がまだ戻っていない」と聞くや、口元をゆがめて笑みを浮かべた。「契約が取れなくて、恥ずかしくて帰ってこれないんじゃない?」自分でさえ松田には苦い思いを味わわされたのだ。紗枝のような新人に、うまくいくはずがない。「きっとそうね。あの人なんて、曲をいくつか書ける以外に能があるの?」鈴も便乗して嘲った。そして少し間を置き、「夢美さん、私をあなたの部署に異動させてもらえないかしら?今は何人もの秘書の下で使われて、もう大変なの」と甘えた声を出した。だが夢美は、すぐには首を縦には振らなかった。鈴の配置は万崎が決めたもので、その万崎は拓司のアシスタント――つまり拓司の意向が反映されている。今はまだ、拓司と無駄に衝突するわけにはいかない。「今こそ辛抱強く社長秘書室にいるべきよ。でないと、どうやって紗枝を監視するの?」鈴はその言葉に渋々うなずいた。「わかったわ。ただ、大勢にこき使われるのが嫌なだけなの」夢美は鈴の肩を軽く叩き、低く囁く。「今の我慢は、将来のためよ。あなたが啓司の奥さんになれば、何だって思い通りになるわ」「うん」鈴は小さく頷いた。「さあ、早く戻りなさい。紗枝が戻ってきて、あなたが席にいないとまずいでしょう」鈴は名残惜しげに席を立ち、去っていった。残された夢美はデスクに腰を下ろした。胸の内には、妙な高揚感が満ちていた。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status