一旦寝室に戻ってベッドの中を確かめて、何もしないよりはマシだろうと、バスタオルを敷いてからいそいそとリビングに戻る。ソファを見下ろすと、さっきと全く変わらない状態で気持ちよさそうに眠っていた。……熟睡、してくれてるかな?こういう時、ちょっとした罪悪感もあるのは、多分。彼女をベッドに運ぶ行為って、結構、男の自己満足みたいなものがあったりするからだと思う。なんか、こう。自分に全力で委ねられてるって感じが、庇護欲を掻き立てて、更には、彼女を守ってるのは俺っていう、充足感を得られる、というのか。そんな下心があることを、頭でわかっているからだ。所詮、自己満足。なんだけどさ。慎さんをベッドに寝かせて、俺がソファに寝てるとこ見つかったら、めっちゃ怒るんだろうなあ。病人のくせに何やってるんですか!つって。でももう熱下がったっぽいしな。明日の朝怒られる覚悟をしてにへにへ笑いながら、慎さんをしっかり毛布に包み直して首の下と膝の裏に、腕を通す。背は高くても兎に角細いから、それほど重くはない。だけど、持上げる時にふらつくと目を覚ましそうで。慎重に慎重に……と彼女の体重をソファから腕に移行させてゆっくり腰を上げる。その途中で、熱の後だからか昨日殆ど食えてないからか、一瞬足に力が入らなかった。うわ!と、声はかろうじて我慢したものの、ぐらっと揺れた拍子に、腕を彼女の頭がころんと転がる。瞬間、ばちっと、目が合った。しまった、と思った。大きく見開かれた慎さんの目に、一瞬で怯えの色が混じったのがわかったから。それからは数秒の間もない。「やっ、」という小さな
【高見陽介】遊園地を目の前に、まさか子供の頃以来の三十九度なんて高熱を出すことになるとは思わなかった。「明日迎えに行きます」というメッセージを送ったのは、慎さんに知られたら「馬鹿言わないで寝てなさい」と言われて遊園地が流れてしまいそうだったから。本気で気合で治すつもりでいた。だってほら、熱出ても一日寝たら治りました、なんて結構ある話だろう。結局、残念ながらそんな上手い展開にはならず、解熱剤で一時的に下がっても朝になればまた熱が上がり、遊園地は敢無くキャンセルとなったのだが。なんと!あの、照れ屋の慎さんが!看病に来てくれるなんて!全く思ってなかったと言えば嘘になるけど電話越しの声が怒ってたから、期待はしてなかった。遊園地は延期になったが、熱を出して良かったとさえ思える出来事だ。しかも、俺の真似をしただけだと顔を真っ赤にしてむすっとしていたけれど。手に、キスをしてくれた。慎さんからの、初めてのキスだった。真夜中、ふと目が覚める。寝汗をぐっしょり掻いてて、気持ちが悪いし喉も酷く乾いていたけど、なんだかすごく、頭はすっきりしていた。高熱の時はどこかぼんやりしていた視界も今はクリアに見える。見渡した部屋は常夜燈だけが付けられていて、しんと静まり返っていた。昼間は結局殆ど寝ていて、慎さんが時々起こしてスポーツドリンクを飲ませてくれたのを覚えている。その慎さんも、もう今はいないはずだ。夕方に、暗くなる前に帰ってくださいとお願いしたから。送って行く体力は期待できなかったし、暗い中、一人で帰らせるなんて絶対無理だし。なんかあったらと思うと、おちおち寝てられない。うちに泊まってもらうのも今夜はちょっと、怖かった。台所に直行し、冷蔵庫の中にあった二リットルのスポーツドリンクのペットボトルを半分ほどまで一気に空けて、ひと息つく。ふとガスコンロを見れば普段殆ど使わない片手鍋が出ていて、蓋を開けると粥が作ってあった。俺の為に作ってくれたのだと思うと、つい口元がにやけてくる。そんでもって、やっぱり帰ってもらってて良かったと、安堵もした。こんな可愛いことばっかりされたら、さすがに理性を保つ自信がない。いや保って見せるけど。辛いっすよまじで。よく見ると、いつも雑然としている調味料……ってもアジシオと胡椒と卓上醤油程度だけど、それらが綺麗
小言の相手がその調子では毒気も抜かれるというもので、手を握られたまま離れることもできず、そのまま枕元の床に腰を下ろした。「暫く、居てくれるんすか」「そうですね。後でキッチンを借りてもいいですか」「キッチンでもなんでも。暇になったらDVDも結構並んでるんで自由に見てください」言いながら、握った僕の手を指でさらさらと撫でている。これが、すごく、くすぐったいのだ。手が、じゃなくて。気持ちが。「良かったんすか」「何がですか?」「妹に。俺は別に、なんて思われても気にならない性質だし、慎さん無理しなくて男で通してて良かったのに」「いくらなんでも、そんなわけには……」「俺にはちゃんと女の子だし、それで充分なのに」「……」ぼぼぼっ、と顔に熱が集まったのは、陽介さんにも見られただろうか。薄暗がりだから、バレなかったと思いたい。なんてことを、照れもせずに言うんだろう。聞いてる僕の方が、脳が沸騰しそうなくらいに恥ずかしい。「あ、貴方こそ」熱の引かない頬をそのままに、僕はちょっと彼を睨むようにして話を変えた。「貴方こそいいんですか。思ったより随分、かっこつけです。こっそり、飲み比べの代金支払ったでしょう」「あ……バレた。やった」「やった、ってなんですか」「だってバレた方が慎さんに「カッコイイ」って思ってもらえるじゃないすか」「……その下心を自分からバラしてどうするんですか」呆れた。けど、可笑しい。手を繋いでいる方の腕に顔を伏せ
冷えピタが斜めだ。案外、元気そうな表情で良かったけれど、熱の所為か少し顔が赤い気がする。目も少し潤んでいるのはやっぱり熱のせいだろうか。「来てくれたんすか……」「あ……うん。一人暮らしだと大変だろうと思ってつい……でも、妹さんがいるなら、帰ります」顔を見た途端、なんだか急に恥ずかしくなって視線を逸らす。意気込んできてしまったけれど、近くに妹さんがいるならほんとに余計なお世話だった。かー、と顔が熱くなるのを感じて慌てて下を向いた。「いや、すぐ帰ります、バイトあるはずだし。ああ、でも移したくないから昨日も店行くの我慢したのに……」「いや、三十九度あったんでしょう、何言ってんですか」帰ると言ったのに、話しながらしっかりと手を握られてしまって、逃げ出すこともできなくなった。「……遊園地、行きたかった。けほっ」「そんなの、熱が下がったらいつでも……」ケホコホと咳をしながら、僕の手を持ち上げてキスをしかけたものの躊躇って頬ずりに変えた。多分、風邪の菌が移ったら、とか色々考えたのだろうけど。最早、手にキスするのはこの男の癖か習慣のようになってしまっているらしい。「ちょ……お兄ちゃん?」その声に、はっと我に返る。陽介さんの影に隠れて全く見えていなかったが、すぐそこに妹さんがまさにドン引きといった顔で立ち尽くしていた。「ちょっ、陽介さん、手! 離して!」ぐいぐいと引っ張るも、少しも抜け出せそうにない。馬鹿力なのは熱があっても健在か!いくらなんでも妹にゲイだと思われるのはマズかろうと、必死で離れようとしているのに。陽介さんは相変わらず周囲には目もくれず手を握ったままで、ふと僕の鞄の中が目に入ったようだった。「こないだ置いてったワイシャツ、持ってきてくれたんすか」「あ、はい。一応アイロンはあてておきました……じゃなくて手を!」「ワイシャツを脱いで置いてくような……仲?」ああああ!彼女の勘違いが更に確信を深めて、愕然とした顔で僕と陽介さんを見比べている。「ちが……違います、これは」「……お兄ちゃん、その人、付き合ってる、とか?」「うんそう。こないだから」「ちょっ!」彼女の勘違いに、気付いてないはずないだろう!なんで何も言わないんだ!陽介さんはあっさりと認め、それ以上弁明しようとしないから。ああ、もう! 「女なんです
げほん、ごほんと、痰の絡んだ咳が携帯電話の向こうで聞こえる。「風邪?!」『す……すんませっ、なんとか気合で治そうと思ったんす……け……ど……』語尾に力が無くなったかと思うと、数秒の沈黙の後、またげほごほと激しい咳の音がした。「ちょっ……大丈夫ですか?」『けほっ……すんません。すげー行きたいのに、慎さんに移したら、と思うと』「熱は? 病院は行ったんですか」ところどころに鼻を啜る音と咳が混じっていて、声が全体的に弱々しい。結局既読が付かないまま朝を迎えて、電話が鳴ったと思ったら風邪を引いてしまったと言う。『昨日、仕事早めに終わって病院行って、インフルエンザではなくって、薬は貰ったんすけど……』「は?!……昨日から?! なんで言わないんですか!」『すんません……だって、どうしても、遊園地が……熱さえ下がったら行けるかもって』「そんなことはどうでもいいんです馬鹿!」めそめそと泣きそうな声に一言「寝てなさい!」と付け足して、通話を切った。馬鹿だ、ほんとに馬鹿!昨日なら僕も休みだったのに、なぜ言わない!男の一人暮らし、体温計はあるんだろうか。なんか、「俺は風邪引かないっすから!」とか言って何も持ってない気がする。念のため体温計と水枕と。どれくらいの熱なのかを結局聞きそびれたけど、途中でスポーツドリンクとゼリーを買って。あ、冷蔵庫に冷えピタがあった。トートバッグの中に必要な、思い付く限りのものを放り込んで、一番上に返せていなかったワイシャツをビニール袋に入れてから乗せる。陽介さんのマンションの場所は、ちゃんと覚えている。よくもあの時、連れてってもらっていたものだ。駅を降りてから、一本道だったはず。外観はあまり覚えてないけど、なんとかなるだろう。コートを羽織って真新しいスニーカーを引っ掛けるようにして履くと、僕は慌てて部屋を出た。スポーツドリンクのペットボトルやらゼリーやら、水物ばかりで重たいスーパーの袋を引っ提げて、迷わずに陽介さんのマンションの前に着いたものの。携帯にメッセージを送っても反応が無い。熟睡してしまっているのかもしれない。「……しまった」勢いで来てしまったけれど、よく思い出せば僕は「寝てなさい」と言っただけで、今から行くとは一言も言わなかった気がする。インターホンを押してもやっぱり反応はなく、余り何度
貴方に比べれば大抵のものは小さくて可愛く見えるでしょうけど。一般的に、僕は可愛らしい部類には入らないと思うけど。それでも、彼が嘘やお世辞を言ってるようには見えなくて、本気で可愛いと思ってるんだろうと信じてしまう。それが、すごく、くすぐったい。二つ並んだ大小の手を見ていたら、いつも大型犬さながらに嬉しそうに懐いて来る姿が浮かんで頬が緩んだ。約束の遊園地には、きっと並んで歩いても僕と彼は普通のカップルには見られない。友人かゲイカップルといったところだ。多分それでも陽介さんは、楽しそうに笑ってる。そんなことを考えながら、手とか服越しに触れてる肩や腕に伝わる体温が心地よくて、いつの間にか僕もすっかり寝入ってしまい。次に目が覚めた時には僕はベッドに寝かされていて、陽介さんは帰ってしまった後だった。”ワイシャツが見つかんなかったのでスエットの上借りて行きます”と置手紙を残して。もしかしたら見つからなかったんじゃなくて、洗濯機の中だろうと気が付いても開けちゃいけないと思ったのかもしれない。中には陽介さんのワイシャツしか入ってなかったから、開けてくれて構わなかったんだけど。それに、起こしてくれたらよかったのに。少し首を傾げたけれど、きっと彼もいい加減疲れが溜まっていて早く帰って休みたかったのだろうと、納得した。―――――――――――――――――――十二月というのは、ただでさえ客の多い稼ぎ時で、特に九時以降くらいから忙しくなる傾向にある。忘年会シーズンで、一次会若しくは二次会まで終えた後での来店が多いからだが。クリスマスイブ前後はカップル客も多く、その後すぐに十二月最後の土日があり、立て続けの忙しさに僕の方も余り余裕がなくなっていた。陽介さんもさすがの忙しさに遠慮したのか終電を待つことなく帰って行って、ゆっくり話すこともできないまま。二十八日の朝方、年末最後の客が帰り、漸く仕事納めとなった。「はいよ、十二月分」「ありがとうございます」佑さんから、給料袋を受け取った。当然の如く、今どき現金手渡しだ。然し乍ら、今月は少ないはずである。先日の飲み比べの代金を、給料天引きでお願いしていたからだ。「あれ?」「なんだ? 少ないとかいうなよ」「少ないのはいつものことだけど、此間の飲み代が引かれてない」正味酒代程度にしてくれたとしても