「どうぞ」と新しいグラスを置いて入れ違いで空のそれを引き上げていく。グラスの中には半分絞られたライムがそのまま沈められていて、マドラーで軽くかき混ぜた。
「はいおまたせ」 マスターが俺と浩平の間に四角い白い皿を置く。そこには数種類の得体のしれないものがバランスよく並べられていて、その一つ一つを凝視して固まった。 ……これ、食えんの? いや、得体はわかる。 チーズなんだろうけど、俺が今まで食ったことのあるチーズとは全く様相が違う。恐らくはブルーチーズだとか多分そんな類の……。 「お前顔に出過ぎ」 「いてっ」 またしても後頭部に衝撃を受けた。 「いちいち叩くな。だってしょうがねーだろ俺が食ったことのあるのはせいぜいカマンベールとかそんなもんなんだよ」 「嘘つけスライスとか三角チーズとかそんなもんだろ」 「俺だってカマンベールくらい食ったことあるわ!」チーズだと思うにはグロテスクな色合いのそれを目の前に、浩平と馬鹿丸出しの会話をしていると、美人な男がくっと喉を鳴らして肩を震わせているのに気が付いた。
いや、堪えるのとかやめて。
寧ろ笑い飛ばしてネタにしてくれる方が傷つかないから。 「とりあえず食ってみ。俺もここで初めて食ってから癖になって必ず頼むんだよ」 「へー……」 皿の上には比較的手を出しやすい白いチーズと、もうこれ半分はカビだろってくらい黒いものがマーブル状に混じり合ったものまであり、恐る恐る指を伸ばして迷った挙句、俺がつまんだのは、その黒い物体だった。 「うわ、なんだこれ。美味い」 黒の物体は思っていた以上に美味くて、その外観とのギャップに手の中のチーズと見つめ合う。 「言ったろ癖になるって」 何がどう普通のチーズと違うのかというとよくわからないから俺には食レポは務まらない。確かに少し匂いはあるが、気になったのは最初くらいで一口含めばその味に夢中になった。 「おい、全部食うなよ」 「あ、わり。黒いのなくなった」「おまえええ」
「浩平はもう何度も食ってんだろ」 チーズの盛り合わせを挟んで男二人で食い意地の張った言い合いを繰り返していると。 「……っ。ぶふっ……っくくっ、あははは」 ……遂に笑いを取ってしまったらしい。 「最悪、お前のせいで慎さんに笑われた」 「なんでだよお前がケチくさいこと言うからだろ」 慎さん、とやらはかなりの笑い上戸らしい。俯いたままカウンターを拭いていた手が止まり肩を震わせ、噛み殺せない笑いが声になって漏れている。それくらいなら爆笑してくれた方がこっちも自虐ネタってことでカッコ悪さにも諦めつくんだけど。
ってか……ほっそい指。室内の仕事だからか?
日焼けもしてない白くて長い手の指は一瞬女のものに見えた。 「くっくっ……あー、可笑しい。陽介さん面白い人ですよね」 名前で呼ばれてちょっと気を良くして顔上げて……少し目を潤ませた可愛らしい笑顔に見惚れて、声も出なかった。ああ、手だけでなく。
アンタなんで男なんですか。「あ、あの……。慎さん?」「……聞きたいことは、幾つかありますが」「はいっ、なんでも答えますんで、まず離れて……」「いつの間に、篤と話したんですか」「あ……えーと……」「お正月。帰り際?」いつの間にか、本当に二人きりになっていた。っつっても、ロビーだし時折人は近くを通る。いつもなら、彼女の方が恥ずかしがって離れるのに、今は逆に俺の方が狼狽えていた。離れて、と頼んだのに未だ縋り付いてくる彼女の腰に、つい手を回してしまいそうになる。彼女の身体の感触と匂いと声にくらくらして、正月の時の出来事も全部綺麗に白状させられてしまった。「なんで僕に言わないんです」「あの日慎さんかなり動揺してたし、俺もめちゃくちゃ頭に来てたとこだったから……謝罪なんて聞くか、二度と慎さんの視界に入るなお前も入れるなって勝手に言っちゃって」「また、無茶苦茶なことを……披露宴があるのに」「わかってましたけど、どうしても慎さんの視界の中にアレが侵入するのが嫌だったんです。あんな奴の話を聞かせるのも嫌だし。でももしかしたら、慎さんは謝罪くらい、聞きたかったかもしれないと……」本当は、黙ってたことを悪いなんて思ってない。あの日の真琴さんに対する無神経な言葉を、悟られたくなかったからそれで良かったと思ってる。だけど結局、怖い思いまで、させてしまって。あいつに謝罪の気持ちなんてほんとは更々ないことを、慎さんは気づいてしまっただろうか。例え不審者扱いされても、あの場にかじりついて離れなければ良かったと、情けなくて、申し訳なくて。だけど
……布団だ。ぽん、と頭に浮かんだのはそれだった。年末、慎さんが家に泊まった時に、ベッドの譲り合いになり結局ソファに寝かせてしまう結果になった。その時に、慎さんが気兼ねなく安心して泊まれるように布団を買おうという話になっていたのに、まだ買えず仕舞いだったのだ。慎さんの、あの可愛い誘惑については今は考えるな。考えるほどに、我慢が利かなくなる可能性がある。とりあえず、一緒のベッドで寝ることだけは避けなくては。今夜ばかりは、『我慢してみせます』とはとてもじゃないが約束できない。帰りにホームセンターかどっかに寄って、布団を買おう。向こうに戻ってからでもいいけど、この近辺にももしかしたらあるかもしれない。検索してみようと携帯電話をポケットから手に顔を上げた時だった。「お客様、何かお困りでしょうか」と、男性従業員がすぐそばまで近寄ってくる。「あ、いえ。すみません、ちょっと人を待ってるもんで」その表情はにこやかだったが、若干不審に思われていたのかもしれない。もう二時間近く、ここで頭を抱えたり貧乏ゆすりを続けていたのだ、確かに不審すぎる。「それでしたら、あちらのラウンジもございます。どうぞこちらへ」従業員の態度は極めて柔らかく笑顔を絶やすことはないが、明らかに不審者かどうかを確かめに来ているような空気を感じる。当然といえば当然だ。確かに、待ち合わせならラウンジカフェなど利用する。『じゃあ、”夕鶴の間”の前で待ち合わせな』なんて、披露宴に無関係の人間がそんな約束の仕方はしないだろう。不審者かどうか確認できるまで、目の届くところに誘導しようとしているのじゃないだろうか。
「それじゃ、行ってくる」披露宴会場前のロビーで、慎さんが振り向いて小さく手を振った。まだ少し照れを残した表情に、少しの不安も混じり合わせて複雑な顔だった。だけど多分、俺の方がずっと狼狽えた顔をしていたと思う。ついさっき慎さんに耳元で囁かれた言葉に、なんて返すべきかおろおろしているうちに、受付前まで来てしまって。それ以上に、この披露宴を慎さんが嫌な思いをせずに乗り切れるだろうか、それも心配で。どれだけ心配しても仕方ないことは重々理解していたから、結局出た言葉は。「ここで、待ってます」と、それだけ。もっと何か、彼女を力づけるような言葉を言えば良かったとすぐに後悔したけれど、そんな言葉も浮かばなかった。彼女の後姿を見ながら、背筋伸ばしてちゃんと歩けてるとか、ヒールに慣れてないけど大丈夫だろうか、とか心配は尽きなくて。ただ、はらはらしながら見送った。ロビーは広くて、ところどころにソファも設置してあり待機する場所がないわけではない。かといって、フロント前のロビーのようにチェックインやチェックアウト待ちの人間がいるわけでもないから、この場にとどまっているのは俺だけだった。立っても座っても落ち着かず、無意味に歩き回ったりしているうちに時間は経過して、漏れ聞こえる音で披露宴が始まったのだと理解する。それからまた暫く時間が過ぎても、手に持っている携帯にはなんの連絡もないし、彼女が逃げ出してくる様子もない。六年ぶりに幼馴染の顔を見るのだ、動揺しないだろうかと心配したけれど。とりあえず、今のところは大丈夫のようだ、と少し気が抜けた。途端に、頭の中でリピートされたのは―――もしも、今日僕が途中で逃げ出さないで最後まで披露宴を終えて戻ってきたら 今夜、貴方の部屋に泊めてくださいさっきの、慎さんの囁きだった。―――その時は陽介さんも、今度は途中で逃げ出さないでくださいねそれは明らかに、あの日トイレに逃げ込んだ時のことを示していて、彼女があの出来事を随分気にしていたのだと気が付いた。多分、俺が心配したのとは違う意味で。自分のせいで俺が逃げ出したのだと、彼女はずっと気に病んでいたんだろうか。このところの誘惑は、焦りだけでなく俺への申し訳なさ?彼女がそんな引け目を持つ可能性は、ちょっと考えればわかることなのに。多分、その重さを俺は理解してな
◇◆◆◇ホワイトデーの前日から、慎さんは店にきた女性陣に小さな包みにリボンをかけたものを、カクテルに添えていた。「中身は全部、お菓子なんですか?」「はい。全部クッキーですよ」後で俺にもくれたりするのかな。いや、今日は俺が彼女に贈り物をする日なんだけど。日付が変わると同時に一番に渡したいけれど、まだ客がいる時には渡せない。それがもどかしくて、最後の客が帰るのを今か今かとそわそわしながら待つ。「……あの、佑さん」「わーってるよ消えてやるよ。ってか、ここ俺の店なのに段々居場所なくなるんだけど」「へへ。すんません」慎さんがカウンターを離れた隙に、佑さんにもこっそり念押ししておく。早く二人きりになりたかった。「じゃあ、俺は帰るからな!」「お疲れさまです!」最後の客が帰ってすぐだった。カウンター内を粗方だけ片付けると、佑さんは約束通りさっさと店を出てくれて、漸く二人になれた。「ったく、佑さんは最近店閉めサボり過ぎです」「まあまあ。俺何か手伝いますよ」「いえ、もう終わりますけどね」カウンターの中でビニール袋の音がする。多分、最後のゴミをまとめているんだろう。その間、俺は今か今かとスツールに座って待っている。いつも、俺がすごく心待ちにしている一瞬が、実はあるのだ。やるべきことを終えたら、慎さんがカウンターを出てくる。ほんのちょっとだけ照れを滲ませた表情で、けれどなに食わぬ顔を装ってすとんと隣に座るのだ。一番最初は初めてキスをしたあの日。それから時々、こんな風に自分から隣に座るようになって、その時のちょっと不自然な感じがたまらなく可愛くて好きだ。「今夜もお疲れさまです」「陽介さんも、お疲れさまです。はい、これ。ホワイトデーです」こん、と目の前に置かれたのは、片手サイズの瓶に詰められた色とりどりのキャンディだった。「やった、俺にもくれるんですか」「陽介さんもチョコくれましたしね」「あざっす! 嬉しいです」なんで俺だけキャンディなんだろう。この時は、余り深く考えなかった。じゃあ俺も、とアクセサリーの箱を慎さんに渡すことで、頭がいっぱいで。「えっ……なんですか、これ」「へへ。ホワイトデーです」四角の赤い箱が、薄いレースのリボンで留められている。慎さんは訝しい顔で、リボンを解く。どう見たってアクセサリーが入っ
【ホワイトデーには愛の言葉を】俺の好きな人はとにかくめちゃくちゃ綺麗で、かわいいひと。「ベタぼれなのねえ。逆にチョコあげちゃおうって思うくらいだもんねえ」「もう、ほんと可愛いっす。優しいとこはあるんですけど、あんまり素直に言わないし」「うんうん」「そのくせ、これが好き、これが嫌いっていうのが結構はっきりしてて」「ふうん?」「嫌いってか苦手が多いんですかね? そういう時は眉間にきゅーって皺が寄ってそれがまた可愛くて」「おばちゃんにはどこが可愛いかわからないわー。ツンデレ?」「ツンデレ……素直にはデレてくんないですけど」「……どこが可愛いの?」くそぅ!彼女の可愛さを口で説明しようとするのは、とても難しい!チョコレートの行列で一緒になったおばちゃんには結局理解してもらえず、「まあお食べよ」と義理チョコを一個もらえた。事前にバレンタインの話をした時に、「ああ慎さんはすっかり貰う側なんだな」と思わされ、それがまた山ほどチョコレートに囲まれているところを想像するとやたらと似合うのですっかり納得してしまっていた。だから思いもよらずチョコレートを貰えた時は、すっかり舞い上がってしまって。しかも、「あーん」とか無意識の行動だったんだろうけどほんと、たまに出るそういうところがたまらなく可愛い。あれは、危険だ。俺の暴走は至極当然で仕方ないと思う。後でグーで殴られたけどそれでも幸せだった。ああ、そうだ。苦手なものは多くて好きなものは少ないけれど、その分一つの「好き」が結構深い。パンにはほんとに目がないらしくて、普段はそれほど食べないのにパンだと本当に美味しそうに食べる。多分、毎日買っていっても飽きずに食べてくれると思う。
注文したものと違うことに気がついたんだろう、 不思議そうに顔をあげた彼に他の客には聞こえないよう小さな声で告げた。「僕から、です」薄い琥珀色の液体に、ミントの葉を浮かべたそれを、陽介さんは一度、二度と口に運ぶ。そして、はっと何かに気づいて顔を上げた。「…………チョコレート?」「ば……バレンタインですから」さらりと、告げた。けれど内側は心臓がバクバクだった。良かった。気づいてもらえなければ、チョコレートグラスホッパーにギムレット、モーツァルトの午後、と思い付く限りのチョコレートカクテルを並べてやろうと思っていたのだが。僕が彼に作ったのは、チョコレートモヒートだった。百貨店で途方に暮れた僕の目に止まったのが、チョコレートリキュールが豊富に並んだ棚で。僕はそこから、何種類かのリキュールを手に取った。これなら、さりげなく渡せるかもしれない。それに何より、他のチョコレートよりも自分らしいと思ったのだ。「嬉しいです、こんなチョコレート初めてだ」きらきらと目を輝かせて、何度も味わうようにグラスを傾ける。彼の言葉や表情は、いつも感情が溢れていてわかりやすい。照れくさくてつい目を逸らしてしまう僕とは、本当に正反対だ。「甘ったるくはないでしょう? もっとも、色々あるので甘いのも作れますけど」こん、こんこん。とリキュールの小さな瓶を三つ並べる。ブラック、ホワイト、クリームの三種類。「陽介さんの名前でキープしときますね。それとも持って帰られます?