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第175話

Author: 十一
しかし今は……

全てが意味を失った。

遅れてきた愛は、雑草よりも無価値だ。

凛は無表情のまま、海斗の言葉を最後まで聞いた。ドアノブを握った手は、ずっと離さなかった。それは彼を拒む、明確な防御の意思だった。

彼女は一語一語、はっきりと告げた。「すみません、お断りよ」

許さない。やり直すつもりも、微塵もない。

それを聞いた海斗は、明らかに苛立ち始めた。「なぜだ?はっきり言ってくれ、なぜなんだ?!前に復縁を拒まれたのは晴香のせいだろ?でも今はもう彼女とは終わった。それでもどうして、まだ駄目なんだ?」

ここまで自分は折れたのに――彼女は一体、どこまで要求するつもりなんだ?

だが、海斗の激情に対して、凛の声は静かだった。「以前、私の世界には、あなただけしかいなかった。あなたが、私のすべてだった」

彼のために、彼女は大学院進学を諦めた。

愛が最も深くて、美しかったあの頃――彼は彼女の全世界だった。人生を共にしたいと本気で思った、たった一人の人だった。

海斗の目がぱっと輝いた。その声は切迫していて、どこか必死だった。「今だって変わらないだろ?お前さえよければ、またあの頃に戻れるんだ」

けれど凛は目を伏せ、静かに首を振った。「人は誰だって、同じ場所に立ち止まり続けることなんてできないの。あなたも、私も。

あなたと別れてから気づいたの。世の中には、あなた以外にも面白いことがたくさんあるって。追いかけたい夢も、心から大切にしたいものも」

海斗の目に、薄暗い影が差した。「追いかけたいものって何だ?大学院?勉強?でも修士を取ったって、どうせ働くんだろ?働くのは結局、金を稼ぐためじゃないのか?欲しい額を言ってみろ。全部、用意してやる」

凛は眉をひそめ、淡々と言った。「私が欲しいのは、お金じゃない」

その言葉に、海斗は鼻で笑った。「でも、あの10億の小切手は受け取ったよな?今さら『お金はいらない』なんて言われても、信じられるわけがない。それとも……最初から金目当てで俺に近づいたってことか?」

怒りが頂点に達した海斗は、再び言葉を選ぶことなく、感情のままにまくし立てた。

凛は彼の話がどんどん筋の通らない方向へ向かっていくのを見て、もうこれ以上相手にする気を失った。ドアノブを握った手をぐっと押し出し、黙ってドアを閉めようとした。

その動きは素早く、そして迷いが
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