LOGIN帰宅したばかりの車中で、千暁は顔面蒼白で、危うくまた吐きそうになっていた。慌てた咲夜は、すぐに彼を病院へ連れ戻した。医師から「脳震盪後によくある正常な反応です」と説明を受け、薬を処方してもらってようやく安心し、再び自宅へ戻ってきたのだ。今、目の前にいる千暁はまだ少し顔色が悪く、どこか弱々しい。しかも彼は一人暮らしだ。世話をしてくれる人もいない。そう考えた咲夜は、結局ここに残って看病することに決めたのだった。一方、千暁は作戦が成功したことに内心ほくそ笑みながら、表面上は平静を装って頷いた。だが口元には隠しきれない笑みが浮かんでいる。咲夜はスマートフォンを取り出し、千雪に電話をかけた。しばらく会社には行けないことを伝え、何か重要な案件があれば電話で連絡してほしいと頼む。彼女が通話している間、千暁はベッドにもたれながらスマホを眺めていた。やがて電話を終えた咲夜を見て、何気ない口調で尋ねる。「晴南、昨夜病院に来てたのか?」咲夜は彼の視線を追い、スマホ画面に目を向けた。そして素直に答える。「うん。あなたの入院手続きをしていた時に、ちょうど白羽洸と一緒にいるところに遭遇したの」どうやら自分が頼んだ記者たちの動きはかなり早かったらしい。たった一晩で、晴南に関するスキャンダルがいくつもネットに流れていた。世間を揺るがすほどではないにせよ、しばらく晴南は対応に追われるはずだ。千暁は唇の端を吊り上げ、冷笑した。「森崎風一からの圧力も、もう少し強めた方がよさそうだな」風一が森崎家に戻れば、少なくとも当分は晴南を抑え込めると思っていた。どうやら見積もりが甘かったらしい。その言葉を聞いた咲夜は目を見開く。そして何かに気づいたように千暁を見つめた。「もしかして……あのスライドを風一おじいさんに渡したのって、あなた?」以前からずっと考えていた。一体誰が裏で自分を助けてくれていたのか。まさか千暁だったとは思いもしなかった。さらに何かを思い出したように続ける。「それに、風一おじいさんが景浦市に着いた直後、うちに来たのも……あなたが手配したの?」どう考えても出来すぎていた。あの数々の偶然は、すべて千暁が裏で動いていた結果だったのだ。そこでようやく千暁は、自分が余計なことを口走ったと気づい
翌朝、目を覚ました咲夜は、隣に横たわる千暁の姿を見て目を見開いた。驚いて勢いよくベッドの上で身を起こす。だが病院のベッドは狭い。そのことを忘れていた彼女は、そのまま後ろへ倒れそうになった。すると千暁が素早く手を伸ばし、咲夜を引き寄せて腕の中に収める。「君、石でできてるのか?そんなに平気で転びそうになって」――これで何度目だ?耳元で、千暁の心臓の鼓動がはっきりと聞こえた。腰には千暁の腕が回され、二人の体はぴったりと触れ合っている。咲夜は顔を真っ赤にしながら慌てて彼の腕の中から離れた。視線を伏せ、小さな声で言う。「……ありがとう」恥ずかしすぎる。自分はいったいどうしてしまったのだろう。ここ数日、千暁の前で恥ずかしいところばかり見せている気がする。今すぐ穴を掘ってその中に逃げ込みたいくらいだった。そこでふと気づく。――そういえば昨夜、自分はソファで寝ていたはずでは?どうして目が覚めたら病院のベッドにいるのだろう。まさか、自分で這い上がってきたのか?咲夜は本気で自分を疑い始めた。ようやく顔を上げると、申し訳なさそうに千暁を見た。「昨夜、私……」自分がどうやってベッドに来たのか聞こうとしたその時。千暁は至って真面目な顔で答えた。「俺も分からないな。昨夜は点滴してすぐ寝たし。目が覚めたら、君が慌てて飛び起きたところだった。君、寝ぼけて無意識にベッドに上がってきたんじゃないか?」その言葉に咲夜の口元がぴくりと引きつる。無意識、ね。問題は、自分にはその記憶がまったくないことだった。千暁にそう言われると、反論する言葉すら見つからない。どうして自分はこんな恥ずかしいことをしてしまったのだろう。咲夜が困惑と羞恥で顔を赤らめる様子を見ながら、千暁は内心で笑いを堪えていた。もちろん、自分が彼女を抱き上げてベッドに運んだなどとは口が裂けても言わない。もし咲夜に「女好きの軽薄男」だと思われて、今後相手にしてもらえなくなったらどうするのだ。結局、咲夜はベッドに移った経緯を思い出せないまま、千暁の視線を受けた。そして観念したように唇を噛み、小さな声で言った。「普段は寝相もそんなに悪くないし、夢遊癖もないんだけど……ごめんなさい」実際に自分が彼のベッドで寝ていたのは事実だ。
千暁の顔からは、さっきまでの拗ねたような表情はすっかり消えていた。大人の男たるもの、自分の機嫌くらい自分で取れなければならない。想い人を射止めるまでの道のりはまだまだ長い。冷静さを保ってこそ、最後に意中の彼女を手に入れられるのだ。咲夜は目の前の男を何とも言えない表情で見つめた。「私、出て行くなんて一言でも言った?あなた、まさか本当に頭を打っておかしくなったんじゃないでしょうね?」今の彼女は本気で疑っていた。――この人、本当に何かに取り憑かれたんじゃないの?前と今とで、あまりにも違いすぎる。千暁は鼻を鳴らした。「本当におかしくなったとしても、君、俺の面倒を一生見るって言っただろ。だったらおかしいかどうかなんて関係ない」「……」絶対に何かがおかしい。目の前で少し抜けたような姿を見せる千暁に、咲夜はどうにも慣れなかった。――神様、どうか前の冷徹な閻魔様みたいな千暁を返してください。彼を見ながら、咲夜は呆れたように言った。「普通にして。そんな感じだと逆に怖いから」今度は千暁の方が言葉を失った。彼は布団を引き寄せて体を覆い、そのままゆっくり目を閉じる。「疲れた。寝る」ぶっきらぼうな口調の中に、かすかな疲労が滲んでいた。咲夜が時間を確認すると、すでに午前二時を回っていた。今夜は色々ありすぎた。彼女自身もかなり疲れている。幸い、千暁が入院しているのは個室だった。部屋にはソファがあり、その上には程よい厚みの毛布まで置かれている。ソファに横になったものの、あれこれ考えてしまい、なかなか眠れなかった。結局、咲夜はスマホを取り出し、友人へメッセージを送る。以前から集めていた晴南の黒歴史や不祥事の資料を整理し、一気に公開するよう頼んだのだ。晴南は、人のスキャンダルを暴くのが好きなのね。どうやら風一からの教訓がまだ足りなかったらしい。だからこそ、こんなにも暇を持て余して自分に付きまとっているのだ。そんなに暇なら、少しは忙しくなってもらおう。少なくとも、自分の前をうろつかなくなるなら、それで十分だった。すべて終えると、咲夜はスマホを置き、目を閉じる。ほどなくして、深い眠りへと落ちていった。咲夜の寝息が穏やかになったのを確認してから、千暁はゆっくりと目を開けた。布団をめくり
咲夜の手はまだ宙に上がったままだった。そもそも自分は脅す真似をしただけで、洸には指一本触れていない。それなのにこの女は、自分を陥れるためならここまでできるのだ。――ある意味、大したものだわ。咲夜は内心で呆れた。少なくとも、自分にはここまで体を張る真似はできない。咲夜はその場に立ったまま、床に倒れて泣き叫ぶ洸を冷ややかに見下ろした。こういう芝居は何度目だろう。本人は飽きないのかもしれないが、見ているこちらはとっくにうんざりしている。ただ、今回はいつもと違った。本来なら真っ先に駆け寄るはずの晴南が、微動だにしていなかったのだ。彼の視線は最初から最後まで洸に向かない。ただ黙って咲夜を見つめていた。脳裏に焼き付いて離れないのは、咲夜が千暁に付き添って病院に来ていたという事実だった。一方の洸は、晴南の視線がずっと咲夜に向けられていることに気づいた。自分のことなどまるで見えていない。そう思った途端、彼女はますます大きな声で泣き始めた。それを見た咲夜の目には、嘲りの色がさらに濃く浮かんでいた。やがて洸から視線を外し、鼻で笑う。「そんなところで大騒ぎしてないで、さっさと診てもらったら?本当に足がダメになったら笑えないわよ」そう言い捨てると、踵を返した。晴南は反射的に後を追おうとする。だが咲夜が振り返り、冷たく制した。「ついて来ないで」そして嫌悪感を隠そうともせず、吐き捨てる。「あなたが連れてきた人、本当に見苦しいわね」その言葉に、晴南は足を止めた。そしてようやく視線を洸へ向ける。床に座り込んだまま足首を抱え、大声で泣き続けている。その足首は明らかに不自然な形に変形していた。今回は演技ではなく、本当に悪化したらしい。晴南は眉をひそめる。さすがに放置はできなかった。咲夜を追いかけることも忘れ、急いでしゃがみ込む。そして洸を抱き上げると、そのまま救急外来に引き返していった。洸を抱き上げた晴南が、咲夜の前を慌ただしく通り過ぎていく。その背中を見送りながら、彼女は心の底からうんざりした。――本当にツイてない。そんなことを思いながら会計窓口へ向かい、手早く入院手続きを済ませる。そしてようやく病室に戻った。病室に入ると、千暁はベッドの上で大人しく横に
その頃の晴南は、洸を横抱きにしたまま足早に咲夜の方へ向かっていた。洸は足首を捻挫していて、一人で歩くのも困難だった。そのため晴南が抱えて運ぶしかなかったのだ。だが彼もまさか病院で咲夜に遭遇するとは思っていなかった。自分がまだ洸を抱いていることに気づくと、晴南は慌てて洸を近くの椅子に降ろした。「晴南さん……」洸が手を伸ばして彼を掴もうとする。だが晴南はさっと身を引き、その手を避けた。洸は唇を噛みながら、怪我した足を浮かせたままその場に立ち尽くすしかない。晴南は咲夜の前に立つと、心配そうに尋ねた。「どうしたんだ?どこか具合でも悪いのか?」その声には本気の心配が滲んでいた。だが咲夜は相手にする気などない。冷たく一瞥しただけだった。そこへ洸が片足でぴょんぴょん跳ねながら近づいてくる。晴南は慌てて説明した。「誤解するな。俺と洸は何でもない。こいつが俺のところへ来て、その時に足を捻ったんだ。それで病院へ連れてきただけだ」珍しく、彼の方から弁解していた。しかし咲夜は鼻で笑う。「興味ないわ」そう言い捨て、そのまま料金窓口へ向かおうとした。咲夜がまるで取り合おうとしないのを見て、晴南は咄嗟に手を伸ばし、彼女の手首を掴もうとした。パシッ。咲夜は即座に振り払う。その拍子に持っていた書類が床に散らばった。咲夜は苛立ちを覚えた。感情を押し殺しながらしゃがみ込み、床に散らばった書類を拾い集める。晴南もそれを見て手伝おうと腰を下ろした。だが、一枚の書類に記された千暁の名前を目にした瞬間、その動きが止まる。「千暁と一緒に来たのか?」次の瞬間、彼は咲夜の手首を掴み、険しい表情で問い質した。晴南はてっきり、体調を崩したのは咲夜本人だと思っていた。だからこそ心配したのだ。だが現実は違った。咲夜は千暁に付き添って病院に来ていた。それほど親しい関係になっているというのか。そんなはずはない。晴南にはどうしても信じられなかった。彼の記憶では、二人にこれといった接点などなかったはずだ。だが同時に、千暁が何度も自分の前で咲夜を褒めていたことを思い出した。その瞬間、胸の奥に溜まっていた苛立ちが一気に膨れ上がった。パシン――乾いた音がロビーに響く。咲夜は容赦なく
咲夜は、まさか千暁が本当に軽い脳震盪を起こしているとは思ってもみなかった。検査結果の報告書を見つめながら、その瞳は驚きでいっぱいになっている。現在、千暁は病室のベッドに横たわり、点滴を受けながら一晩の経過観察を命じられていた。咲夜は弱々しく横になっている彼を見つめながら言う。「入院手続きをしてくるね」千暁はちょうど誰かとメッセージのやり取りをしていた。咲夜の言葉に、小さく頷く。「うん」咲夜はそのまま病室を出て行った。その直後、千暁のスマホ画面が再び光る。良太からだった。【病院にはちゃんと話を通しておいたからな。ほどほどにしとけよ。やりすぎるなよ】【ていうか、お前マジで咲夜のこと好きだったのか!?】【なんだよそれ!ヤバすぎだろ!】【好きな相手だっていうのに、親の仇でも見るみたいな顔をしてただろ?しかも公の場じゃ、まともな笑顔ひとつ見せなかったじゃないか。お前は何を考えてんの!?】【あれだけ冷たくしてたから、外じゃ犬猿の仲って噂を俺まで信じてたんだぞ!そしたら実際は愛憎劇じゃなくて片想いだったとか!お前が狂ってるのか、この世界が狂ってるのか、どっちだ!?】【返事しろ!既読スルーしても無駄だからな!】千暁は、良太から飛んでくる質問攻めに心底うんざりしていた。この病院が黒澤家の系列でなければ、軽い脳震盪という診断書をでっち上げるために良太を頼る必要もなかった。でなければ、自分の想いをこの口の軽い男に知られるなど真っ平ごめんだった。だが予想通り、一度知られた良太は延々と食いついてきた。脳震盪はもちろん嘘だ。点滴の中身もただのブドウ糖。ただひとつ本当なのは、咲夜を自分のそばに置いて看病してもらいたいということだけだった。千暁は無表情のまま返信を打つ。【晴南みたいな男を好きになったんだぞ。俺が人前で少し嫌味を言ったくらいで何が悪い?あいつにもう少し男を見る目があったら、俺だってあそこまで嫌味を言わなかった】そんな千暁の言い分に対し、良太は半ば呆れ、半ば感心したように【さすがだ】と返してきた。好きな相手にそんな態度を取り続けていて、よく逃げられなかったものだ、と。晴南があれほどのろくでなしだったからまだよかったものの、もしまともな男だったら、今頃咲夜と仲良くなろうと苦労するのはお前の
寝室へ戻った途端、咲夜のスマートフォンには真奈美からのメッセージが怒涛のように押し寄せていた。【咲夜、どうしてもそんなに意地を張るつもり?本当に花江家のことなんてどうでもいいの?お父さんやご先祖様が代々築き上げてきたものを、このまま潰して平気だっていうの?】【私やお父さんが死んだあと、ご先祖様にどう顔向けすればいいのよ】【分かってるわ、あなたが辛い思いをしてきたことは。でも、あの白羽さんは晴南さんにとって忘れられない人なのよ。あなたが少し我慢すれば済む話じゃない】【男なんて外で遊ぶものよ。心を繋ぎ止められないなら、せめてお金だけでもしっかり握っておけばいいの】【咲夜、お願い
咲夜が病院を後にして間もなく、真奈美から電話がかかってきた。鳴り続けるスマートフォンを、咲夜は手に取ろうともせず放置したまま、自動的に通話が切れるのを待つ。だが、着信は執拗に繰り返された。出ない限り、母が決して諦めないことなど分かりきっている。結局、咲夜は小さく息をつき、妥協するように通話ボタンを押した。「咲夜、森崎家が資金を引き揚げるって!両家の提携も全部白紙よ。これで満足なの?」電話の向こうから、激情に駆られた真奈美の罵声が飛んできた。これまでどれほど理不尽を押しつけられても耐え続けてきた咲夜が、なぜ今になって意地を張るのか、真奈美には理解できなかったのだ。
晴南も、外の騒がしさにはすでに気づいていた。つい先ほどまで浮かべていた穏やかな笑みは、咲夜の姿を認めた瞬間に凍りつき、その冷ややかな瞳には露骨な不快感と詰問の色が宿る。咲夜はその視線を真正面から受け止めながら、感情を削ぎ落とした無表情のまま、真奈美の背後に静かに立っていた。「晴南さん、うちの咲夜が分からず屋で本当にごめんなさい。ちゃんとお詫びさせようと思って、連れてきたの」真奈美は卑屈な笑みを顔に貼りつけ、機嫌を窺うような声音で言った。そう言いながら、咲夜の背中を突き飛ばすようにして、彼女を晴南の目の前へ押し出す。晴南はただ冷ややかにその様子を眺めるだけで、自分から口を
実家へ向かう帰路の途中、咲夜のスマートフォンに晴南から着信が入った。受話器越しに響いてきたのは、怒りに我を失った彼の声だった。「咲夜、今すぐ病院に来い。這いつくばってでも洸に謝るんだ」背後では、洸のすすり泣く声がかすかに混じっている。想像するまでもない。晴南は洸を不憫に思うあまり、怒りの矛先をすべて自分へ向けようとしているのだ。咲夜は深く考えることもなく、電話口から浴びせられる怒号を無視し、そのまま通話を切った。しかし晴南は執拗だった。すぐさま何度もかけ直してくる。病院へ来て謝罪するまで決して許さない――そんな執念すら感じさせる勢いだった。苛立ちが限界に達した咲夜は