LOGIN咲夜が荷物を運び終えた直後、晴南の秘書が業者を引き連れてオフィスの整理に現れた。観葉植物が次々と運び込まれ、最新型の空気清浄機まで設置されていく。まるで世界中に誇示するかのような大仰な振る舞いに、もともと不満を抱いていたスタッフたちの苛立ちは、さらに募っていった。しかし咲夜が静かに目で制すると、全員がかろうじて口を閉ざし、見て見ぬふりを選んだ。やがて晴南が洸を伴い、再びスタジオへ戻ってくる。洸をオフィスへ案内し、晴南は柔らかな声で言った。「気に入らないところがあれば、いくらでも調整させる」洸の顔には、満ち足りた笑みが広がった。「私の好きなものばかりね。本当に素敵だわ、晴南さん。ありがとう。でも、ごめんなさい。私のせいであなたに迷惑をかけてしまって……私も以前はプログラミングを学んでいたの。少しブランクはあるけれど、すぐ感覚を取り戻して、咲夜さんの力になれるよう頑張るわ」洸が咲夜の名を口にした瞬間、晴南は無意識にガラス窓へと視線を向けた。かつて咲夜のオフィスだった――今は洸の部屋となったその空間は、一面が透明なガラス張りになっており、共有ワークスペースの様子が一望できる。視線の先には、フロアの隅で真剣な表情のまま画面を見つめる咲夜の姿があった。スタッフがノートPCを抱えて相談に訪れるたび、彼女は手を止め、丁寧に言葉を交わしながら対応している。こんなふうに働く咲夜の姿を、いったいいつ以来見ていなかっただろうか。もともと彼がスタジオへ顔を出すことはほとんどなかった。咲夜がゲームスタジオを立ち上げたいと言い出した当初も、彼は大して期待していなかったのである。出資を決めた理由も、ただ咲夜と交際していたから――それだけだった。彼にとっては取るに足らない金額であり、利益が出ようと損失になろうと、本来どうでもよかった。それでも、咲夜がこのスタジオへ並々ならぬ情熱を注いでいることだけは理解していた。彼女はすべてに自ら関わり、誰よりも先頭に立って動いていた。咲夜の笑顔が見られるなら、いくら金を投じても安いものだ。当時の自分は、本気でそう思っていたのだ。洸は、晴南の視線が咲夜を追っていることに気づき、瞳の奥をわずかに暗く沈ませた。だが次の瞬間には、慎ましげな声音で口を開く。「咲夜さんとスタ
そんな洸の腹の内など、咲夜にはすべてお見通しだった。同じ手口を何度も繰り返す彼女に、晴南は容易く乗せられても、自分だけは決して乗らない。晴南は眉間に深いしわを刻み、咲夜を値踏みするように見つめた。最近の咲夜という女が、ますます理解できなくなっている。自分の部屋を明け渡すと言えば、彼女は喜んで飛びつき、即座に同意する――そう思い込んでいたのだ。そもそも晴南が自室を譲ろうとしたのには、打算もあった。ここ最近、洸にかかりきりで咲夜を疎かにしていた自覚があり、同じ部屋、あるいは近い距離で過ごすことで、二人の関係を修復できるのではないかと目論んでいたのである。それにもかかわらず、咲夜が考える素振りすら見せず拒絶したことは、晴南にとって完全な想定外だった。晴南の瞳に不快の色が宿り、やがて強硬な口調で言い放つ。「お前の荷物は全部、俺の部屋へ運べ。この部屋は洸に譲る。そう決めた」有無を言わせぬ口調で、彼は一方的に話を打ち切った。そして周囲で成り行きを見守っていたスタッフたちへ、低い声で命じる。「お前たち、咲夜の荷物運びを手伝え。まさか俺が自分で運ぶのを待っているわけじゃないだろうな」スタッフたちは互いに顔を見合わせたものの、誰一人として動こうとはしなかった。やがて、その視線が一斉に咲夜へと集まる。咲夜は「落ち着いて」と目で合図を送り、静かに晴南へ向き直った。「それは決定事項なの?上司としての命令で、私にオフィスを立ち退けとおっしゃっているのね?」欲しかったのは、その一言だけだった。その言葉を聞いた瞬間、晴南の胸に言いようのない居心地の悪さが広がる。対等に話しているつもりなのに、咲夜は「上司」という立場へ彼を押し上げ、「命令」という言葉で距離を突きつけてくる。なぜ昔のように、穏やかに話ができないのか。考えれば考えるほど苛立ちは募り、晴南は冷え切った表情で吐き捨てた。「……好きに解釈しろ。咲夜、お前は最近どうしたんだ?いちいちそんな棘のある言い方をするな」咲夜は視線を外した。「理解したわ。社長がオフィスを譲れとおっしゃるなら、一従業員の私に拒否する権利なんてないものね。晶子、悪いけれど、みんなに声をかけて私の荷物をあそこへ運んでくれる?」咲夜が指差したのは、フロアの隅に置かれた、埃を
月曜日、咲夜がスタジオに到着した時には、すでに晴南が洸を伴って乗り込んでいた。スタッフたちはすでに集まり、あちこちからひそひそと囁き合う声が漏れ聞こえてくる。咲夜が近づくより早く、晶子の鋭い声が耳に飛び込んできた。「森崎さん、その話は咲夜さんが来てからにしてください!」晴南の顔色は冴えない。その隣では、洸が不安げな表情で「晴南さん、もういいわ……」と小声で宥めていた。現場の空気は、今にも凍りつきそうなほど張り詰めている。「どうしたの?」咲夜が人だかりの中へ歩み出た瞬間、膠着していた空気がわずかに動いた。晶子は咲夜の姿を見るや否や、詰め寄るように口を開く。「咲夜さん、やっと来ましたね!森崎さんが、あなたのオフィスを白羽さんに明け渡せって言ってるんですよ!」ただでさえ、洸の「突然の天下り人事」にスタッフたちの不満は高まっていた。そのうえ初日から咲夜のオフィスを奪おうとするなど、晶子をはじめ誰一人として納得できるはずがない。だからこそみんなは、咲夜のオフィス前に陣取り、晴南と真正面から対峙していたのだった。晶子の訴えを聞き終えると、咲夜は静かに晴南へ視線を向けた。その視線を受けた晴南は、気まずそうに鼻先へ手をやり、咳払いをひとつして弁明する。「あの部屋は南向きで日当たりもいい。方位も申し分ないし、洸にはあそこが適していると思ってね」咲夜のオフィスは広く、採光にも恵まれている。もともとあの部屋は、晴南自身が咲夜のために選んだものだった。「明るい環境で仕事をすれば効率も上がる」という理由で。それを今、彼は咲夜に「洸へ譲れ」と言っている。スタジオのために尽くしてきた咲夜の働きは、誰もが認めている。だからこそ晴南の振る舞いは、周囲の反感をさらに煽る結果となっていた。憤りを隠せない同僚たちを横目に、咲夜は晴南の背後へ身を寄せる洸へちらりと視線を向ける。そしてわずかに口角を上げ、晴南へ問いかけた。「一つ聞かせて。私のオフィスを気に入ったのは、白羽さん?それとも、あなた?」洸が晴南の腕を掴む手に、ぐっと力を込めた。彼女は小さく首を振り、潤んだ瞳で悲劇のヒロインを演じてみせる。確かにここへ来る前、洸は「咲夜さんの部屋、素敵ね」と口にしていたのだ。晴南はそんな洸の緊張を察知すると
晶子自身も、心の奥ではすでに理解していた。晴南が自ら洸をグループへ招き入れ、しかも直々に発言したという事実は、洸を全面的に庇護するという明確な意思表示にほかならない。確かに彼はあの女を守った。だがそれは、咲夜の顔に泥を塗り、その尊厳を踏みにじることで成り立ったものだった。咲夜の面目など、微塵も顧みない。晴南という男は、「婚約者」としてあまりにも不適格だった。晶子でさえ、咲夜を不憫に思わずにはいられなかった。咲夜は静かにため息をついた。「事実は見ての通りよ。晶子、個人的な感情を仕事に持ち込まないように。分かっているわね?」晶子は、それが自分を気遣っての言葉だと理解した。「分かっています。でも……咲夜さんは大丈夫なんですか?」「ええ、絶好調よ。心配はいらないわ」咲夜は微笑んで答えた。それは強がりではなかった。本当に、どうでもよくなっていたのだ。結局のところ、愛されてもいない女のプライドなど、取るに足らないものにすぎない。ただそれだけの話だった。そもそもプライドなど、一体どれほどの価値があるというのか。予定通りゲームがリリースされ、数か月ものあいだ心血を注いできたスタッフたちが相応のボーナスを手にできる。それだけで十分に意味がある。咲夜はそう考えていた。通話を終えると、咲夜はチャット画面を見つめ、やがて静かに返信を打ち込んだ。【皆さん、お疲れ様です。新しいメンバーを迎えることになりました】【また、今回のゲームリリースにあたり、森崎さんより多大なサポートをいただけることになりました。森崎さんは本スタジオのスポンサーとして、長期的な視点からご判断くださったものと思います】【この数か月、皆さんがどれほど努力してくれたかは、私が一番よく分かっています。私はこのゲームを心から愛しています。そして、皆さんも同じ気持ちでいてくれると信じています】【このゲームは、皆さん一人ひとりの努力の結晶です。森崎さんの意図をご理解いただき、その思いを支持していただけると信じています】【リリースが無事成功した暁には、全員にボーナスを支給します。まずは最後まで気を引き締め、リリースに向けて頑張りましょう!】メッセージを送信すると、咲夜はすぐに人事担当へ連絡を入れ、リリース後のボーナス支給を正式に指示した。金額は、
間もなくして、咲夜のもとに洸から挑発的なメッセージが届いた。内容は相変わらず、彼女と晴南が親密に寄り添う写真だった。スマートフォンの画面を見つめても、咲夜の心には何一つ波紋は広がらない。彼女は無表情のままスクリーンショットを撮り、静かに保存した。感情を揺さぶられることもなく、淡々と自分のやるべきことを進めていく。マンションはすでに手放した。次は、残された財産や人間関係を一つずつ整理していかなければならない。翌日、咲夜はある人物と会う約束をしていた。だがその朝早く、晶子からの電話によって叩き起こされることになる。受話ボタンを押すと、スマートフォンの向こうから晶子の悲鳴にも似た声が飛び込んできた。「咲夜さん!グループチャット、見ましたか!?」「いいえ、まだ。どうしたの?」その一言で、咲夜の意識は一気に覚醒した。スマートフォンをスピーカーモードに切り替え、グループチャットを開く。それは例のゲーム開発のために作られたグループで、管理者は晴南だった。どうやら彼が誰かを招待した直後から、チャット内では激しい非難が噴出しているらしい。【リリース直前になって、いきなりコネ入社をねじ込むなんてどういうつもりだ!?】【全くだ。俺たちが寝る間も惜しんで残業してきたのは、他人に手柄を横取りさせるためだったのかよ!?】【私は咲夜さんしか信じません。咲夜さんの説明を待ってます!】【それな。私も咲夜さんだけを信じます】【賛成】【同感】【私も】【それで、咲夜さんはどこにいるんだ?@SAKUYA】チャットを開いた瞬間、メンバー全員が自分をメンションして呼びかけている光景が目に飛び込んできた。履歴を遡り、事態を把握しようとしていると、晶子が焦燥を滲ませた声で続ける。「晴南さんが誰かをグループに追加して、その人を企画部長にするって発表したんです。みんな納得してません。数ヶ月も必死にやってきたのに、いきなり外から来た人に実績まで持っていかれるなんて……咲夜さん、βテスト版がリリースされた後に内部から企画部長を選ぶって約束でしたよね?晴南さんはいったい何を考えてるんですか?私たちのスタジオに、あんなふうに口出しするなんて横暴すぎます!」晶子の言葉には、抑えきれない憤りが滲んでいた。とりわけ、新たに
真奈美は、念を押すように咲夜へ言い聞かせた。これほどまでに晴南が花江家を助けてくれたのだ。たとえ咲夜の胸にどれほど大きな怒りが残っていようとも、もはや収めるべきだ――それが彼女の考えだった。真奈美の言葉を聞きながら、咲夜は唇を固く結んでいた。母とは、何を話してもまともに意思疎通が成り立たない。その事実が、胸の奥に重く沈む。咲夜は深い無力感を覚えていた。沈黙を貫く娘を見て、真奈美はさらに言葉を重ねる。「私の話、ちゃんと聞いているの?分かっているんでしょうね?」煮え切らない咲夜の態度に、自分の段取りを台無しにされるのではないかと、真奈美は気が気ではなかった。焦りに駆られた彼女は、咲夜の腕をぐいと引き、早く返事をするよう促した。咲夜は真奈美と視線を合わせ、ゆっくりと言葉を絞り出す。「……分かってるわ」ここで頷く以外に、真奈美が聞き入れる言葉など存在しないことを、咲夜は理解していた。そう答えてしまえば、少なくともこれ以上小言を浴びせられることはない。咲夜には晴南を喜ばせる気など微塵もなかったが、真奈美の頼みを突き放すこともできなかった。結局彼女は折衷案として、黙ってキッチンで母の手伝いに徹することを選んだ。最後の一品が食卓に並んだ頃、晴南がようやく姿を現した。彼は咲夜を一瞥し、「少し用事で遅くなった」と短く釈明する。咲夜はただ小さく頷いただけで、それ以上何も言わなかった。真奈美はにこやかな笑顔で彼を迎える。「いいのよ、いいの。ちょうどいいタイミングだわ。さあ、食べましょう」そう言うと、彼女は咲夜へ声をかけた。「咲夜、晴南さんにスープをよそってあげて」しかし咲夜が動くより早く、晴南が立ち上がった。「自分でやります」そう言いながらスープをよそい、そのまま咲夜の前へ置く。「はい、どうぞ」続けてもう一杯をよそい、真奈美へ差し出した。「真奈美さん、どうぞ」真奈美は目を細めながら器を受け取る。「あなたもちゃんと食べなさいね。遠慮しないで」そして咲夜へ必死に目配せを送り、もっと晴南を気遣うよう合図した。だが咲夜は俯いたまま、それに気づかないふりをした。隣に座る晴南と関わる気など、欠片もなかった。黙り込む咲夜を見て、真奈美は歯がゆそうに、非難を含んだ視線を向ける。晴南