LOGIN前の入居者からもらった野菜を片手に、三軒目の家賃を取りに行こうとしたその時。 まさかの人物と、団地の入口で鉢合わせた。 男は眉をひそめ、私の手元の野菜をじっと見つめる。 まるで「俺と別れたらこんな暮らししかできないのか」とでも言いたげに。 その視線に気づいて、私は思わず野菜を背中に隠した。 足元の泥水に目を落とした。 ――よりによって、こんな古びた団地で。 幼い頃から何不自由なく育ってきた、あの元カレに再会するなんて。 私の仕草を見て、男の目に一瞬だけ哀れみと理解の色がよぎる。 「もう懲りただろ。いいから俺のところに戻ってこい」 その声に反射的に半歩下がる。 「誰があんたと戻るって?」 私の態度に目を細め、男の顔色は一気に曇った。 「……お前、まだ桜雨(あめ)に子どもを産ませたことを怒ってるのか?もう三年だぞ。そろそろ気が済んだだろ。戻ってくれば、また昔みたいにやり直せる」 ――三年。 時が経つのは、早いものだ。 家でまだ片言しかしゃべれない娘を思い出し、私は笑みを浮かべて首を振った。 「……もういいわ。あんたは宍戸さん(ししど)と仲良く暮らしなさい。私には、家でご飯を待ってる娘がいるの」
View Moreそれは空港近くのコンビニで買った果物ナイフだった。刃先がぎらりと光る。「桜雨!」天満の声は掠れていた。「金を返せ!」桜雨は悲鳴を上げ、金髪の男の背中に隠れる。「天満!?どうしてここに……!アレン、早く追い出して!」男は眉をひそめ、前に出て天満を突き飛ばそうとする。「お前誰だ、出て行け!」だが天満の目には、もう桜雨しか映っていなかった。――月咲を捨て、結婚式から逃げ、財産を溶かし尽くし、結局ただの財布として捨てられた。その悔恨と怒りが、一気に頭の天辺まで駆け上がる。「俺の金を返せ!」ナイフを振りかざし、金髪の男をすり抜けて桜雨に飛びかかる。「やめて!そのお金は当然私のものよ!あんたなんかただの役立たず!」桜雨は絶叫して突き飛ばす。「役立たず?」天満は笑った。涙で顔を歪めながら。「お前のために俺は役立たずになった!なのに俺の金で別の男を養うのか!」充血した目で、ナイフを突き出す。――ズブッ。白いドレスに赤が瞬時に広がる。桜雨は自分の腹に刺さった刃を見下ろし、目を見開いたまま崩れ落ちた。アレンは腰を抜かし、壁際に這ってスマホを取り出し警察に通報する。「カラン」と音を立ててナイフが床に落ちる。天満は血だまりに沈む桜雨を見つめ、狂気が少しずつ剥がれ落ち、虚ろな表情に変わっていった。――桜雨は病院に運ばれ、一晩中の手術で命は繋がったものの、脊髄を損傷し、下半身は二度と動かないと宣告された。ICUのベッドで管につながれた彼女の顔は、かつての華やかさも見る影もなく、蒼白に腫れ上がっていた。虚ろな瞳で天井を見つめ、涙すら流すことができなかった。天満はその場でネリシアの警察に逮捕。傷害、規制刀具の不法所持、複数の罪。待つのは長い獄中生活。拘置所では日がな桜雨の名を叫んだり、自分を呪ったりしていると聞く。その知らせが届いたとき、私は庭で池羽と子どもたちと遊んでいた。次女が小さなデイジーを私の髪に差し込み、にこにこしながら言う。「ママ、きれい!」池羽が温かいミルクを手渡し、指先で私の頬をそっと撫でる。「桐生さん、判決が下った。宍戸さんも……もう歩けない」私はカップを持つ手を一瞬止め、芝生で蝶を追いかける子供たちを見つめた。太陽が降り注ぎ、あたた
天満の髪は半分ほど白くなり、毎日のように私たちの会社の前で待ち伏せしては、私を見かけるたびに地面に膝をつく。「月咲……十年の情に免じてだ、林社長に頼み込んでくれないか!」私は娘の手を引き、そのまま通り過ぎる。ハイヒールが彼の差し出した手の甲を踏みつけ、彼が痛みに息を呑む音を聞いても、心は一切揺れなかった。十年の情?宍戸を連れて私を捨てたときは?私の大事なチャームを壊されたのに、彼女のケガばかり気にしていたときは?――今さら私に縋るなんて、遅い。池羽の手は、私が想像していた以上に速かった。取締役会で「桐生グループの信用は危うい」と一言つぶやいただけで、半月も経たないうちに天満の会社は差し押さえられた。破産清算の日。天満は皺だらけのスーツ姿で、かつて自分のものであったビルの前に立ち、重機が社名の看板を壊していくのを見ながら、ついに嗚咽を漏らした。私が結婚式で捨てられたあの日より、もっと惨めに。だが、それが私に何の関係があるだろう?私は今、池羽と海外でバカンス中。次女が小さな足を海に突っ込み、アヒルのように笑い転げている。スマホに突然飛び込んできた速報。【桐生グループ破産、元恋人・宍戸桜雨が資金を持ち逃げし海外逃亡】添付写真には、ブランド物のスーツケースを引きながら空港で得意げに笑う桜雨と、その隣に立つ金色の髪と青い瞳を持つ外国人の姿が写っていた。池羽は私のスマホを取り、画面を一瞥してからビーチチェアの上のバッグに投げ入れ、私の額に軽くキスをした。「所詮、桐生さんと同じ類の人だ」私は首をかしげて尋ねる。「じゃあ、このまま逃がすの?」池羽は優しく私の髪を撫でる。「まさか。俺は忘れない、君の頬を叩いたのは彼女だから」「じゃあ、どうするの?」彼は私を抱き寄せ、再び額に口づけを落とした。「どうするかは……桐生さん次第だ」――その言葉通り、池羽が動いたのは、天満がまたもや別荘の前に現れたときだった。車のドアに寄りかかり、指先にはスマホ。画面にはネリシア空港の監視映像。金髪の男が桜雨の腰を抱き、VIP通路へ進んでいく姿が映っている。「桐生社長」池羽の声は、天気の話でもするかのように淡々としていた。「俺に頼んでも無駄だよ。君が思い焦がれる宍戸さんは、君の会社の最後の資
「あんたは私を連れて家へ行かせ、下働きにさせるつもりじゃないの?しかもその愛人を連れて夫の前で投資を頼ませるって――」天満の唇は震えるばかりで言葉が出なかった。「十周年の記念日に彼女を連れて食事に行って、私を車庫に置き去りにしたくせに!」私の声は次第に大きくなり、三年分の怒りが一気に噴き出した。「私があんたに贈ったペンダントだって、宍戸さんに割られたのに!心配したのは、彼女がけがしたかどうかだけだったじゃない!」桜雨が叫ぶように反論する。「それは彼の意思よ!」「黙れ!」私は振り向いて彼女を睨みつける。「結婚式の日に、彼があんたを連れて逃げたときも、あんたは無関係だと思ったのか?」――ドサッ。天満が泥水の中に膝をついた。泥が跳ねて私のズボンにかかる。「月咲、本当に、俺は間違ってた!」恐怖に満ちた瞳で、私の裾を必死に掴む。「忘れたのか?俺たちは十六歳からずっと一緒だったんだ、あれだけの年月の情が……」「情?」私は足を上げて彼を蹴飛ばす。「宍戸さんを連れて逃げたとき、どこに『情』があったの?」私はかがんで地面の砕けたペンダントを拾う。破片が指を切り、血がにじむ。「見てよ、これがあんたの言う『情』よ。このペンダントみたいに粉々に砕けて、もうどうやっても元には戻らないの」血が天満の手に滴り落ちると、彼の体は震え上がった。「あんたは宍戸さんのことを一番気にかけてるんじゃないのか?」私は砕けたペンダントを彼の顔に叩きつけた。「だったら、何をしに来たんだよ?」桜雨が地面から跳ね起き、私の髪を掴もうと飛びかかってきた。「あんたやりすぎよ!嫉妬してるだけでしょ?天満は私を愛してるのを!」「嫉妬?」私は冷たく笑った。「あなたがそう思うなら、それでいい」身をひるがえした瞬間、池羽が私を抱き寄せた。彼は私の血の滲む指先を見下ろし、その瞳は人を凍らせるほど冷たい。「桐生社長」池羽はスマホを取り出して数回操作する。「君の会社の破産申請、弁護士に急ぎで手配させた」天満は画面を見て、目を見開く。桜雨は悲鳴を上げるようにその場で気を失い、泥の中に倒れ込む。私は池羽の胸に寄りかかり、天満が地面に崩れ落ちる様子を見て、急にどうでもよくなった。「行きましょう」私
私の顔を見ると、子どもたちの目がたちまち赤くなった。「ママの顔、赤くなってる!」長女はむちむちした小さな手を伸ばして私の頬に触れようとする。指先が腫れた皮膚に触れた瞬間、ワッと泣き出した。「悪い人がママ叩いたの!?」次女も口をへの字にして、豆粒みたいな涙がポタポタと私の服に落ちる。「ママ、痛い?ううう……」二人は私の足にしがみついて、声を張り裂けるように泣く。小さな体は寒風の中の葉っぱのように震えている。池羽は数歩で駆け寄り、着ていたスーツの袖口をぐしゃぐしゃにしながら飛び込んできた。そっと膝をついて私の顔を両手で包む仕草は、砕けそうな瑠璃を扱うかのように優しい。その眼には、燃え盛る炎のような怒りが宿っていた。「誰がやった?」池羽の声は氷を含んだように冷たく、額の名状しがたい血管がピクピクと浮き上がる。天満は私の前に半歩寄り、笑顔を作って池羽にへりくだる。「林社長、誤解しないでください。こちらは以前働いていた使用人で、仕事が手早くなくてうちの者が腹を立てただけで……」桜雨も慌てて合わせるように、か細い声で装う。「そうです、林社長。ちょっと躾けただけで、見苦しいところをお見せしてしまって……」池羽は二人に一瞥もくれず、私をぐっと抱き寄せる。大きな掌で殴られた頬を覆い、その指腹でそっと撫でるたび、痛みが和らぐように見えた。「使用人?」突然、嘲るような低い笑い声を上げ、池羽はそちらを見据える。声は小さいが雷鳴のように響いた。「その腐った目を見開け」そして静かだが断固とした口調で続ける。「彼女は俺、林池羽の正妻であり、この二人の子の母だ」天満の作り笑いは凍りつき、唇は震えて閉じられない。桜雨は悲鳴に似た声を上げ、踵が石に引っかかって泥に倒れ込む。「そ……そんなはずありません!」彼女は私を指差し、爪が頬に迫るほどに激しく。「あんな貧乏な娘が、どうしてあなたの奥さんに!」池羽は説明する気もなく、スマホを取り出して二度ほどスワイプし、画面を彼らの目の前に突き出した。それは私たちの結婚三周年に撮った家族写真だった。大きな窓辺、二人の娘が池羽の肩に乗り、私が隣で笑っている。天満は写真の中、私の薬指に光る大粒のダイヤの指輪を見つめ、次に私の着ているオートクチュールの刺繍ド
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