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第105話

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しかし、一樹が口を開くよりも早く、月子はすでに遠くへ行ってしまっていた。

彼女は立ち止まる気などさらさらなかった。

霞はそれを見て言った。「月子は静真にだけは従順なのね」

静真は無表情に「ああ」とだけ言った。

月子はいつだってこうだった。だから、彼女がどんなに騒いでも、どんなに変わっても、結局は自分のとこに戻ってくるのだと静真は思っていた。

一樹は、月子の本当の考えに気づいていたのか、それとも静真と仲たがいする覚悟ができていたのか、二人の会話を聞いて、心にわずかなモヤモヤを感じていた。

彼はそのモヤモヤを振り払うように、颯太に電話をかけた。「早く来いよ、こっちはノロケをみせられてたまったもんじゃない!」

霞はまんざらでもない様子で、再び機嫌を直した。

一方で、一樹は笑みを浮かべただけで、何も言わなかった。

彼は口が達者で、人を喜ばせるのが得意なのだが、実際、本心を口にすることはあまりないのだ。

彼はただ単に、相手を気遣って、断れない性格なだけなんだ。それで、よく計算高いとか、八方美人だとか、遊び人だとか言われることもあった。

しかし、長く付き合っていると、実際のところ彼はとても冷淡で、誰にでも優しく見えるが、誰のことも真剣に思ったりすることはないのだということがわかるのだ。

彼もまた、そういう悪口はすっかり慣れているわけだ。

だから、彼も今まで、自分について特に説明することもなかった。ただ自分にとって、本当に気にする相手は誰でもいいわけではないのだ。結局のところ、彼には自分自身のバロメーターがあるということだ。

そばにいた霞は、不思議に思った。

一樹は忍とテニスをする約束をしていたはずなのに、なぜ颯太だけに連絡をしているのだろう。

彼女は聞きたい気持ちと同時に、もし聞いてしまったら一樹に自分の考えを見透かされてしまうかもしれないと思った。

彼はとても頭の回転が速い人なのだ。

……

テニスコートには東と西の二つの入り口があった。

月子は忍からのメッセージを受け取り、西の入り口から入ろうとしたところで、偶然静真と鉢合わせてしまった。

忍たちは東の入り口から入ったため、会わなかった。

テニスコートはたくさんあり、二つが隣接しているところもあった。

金網に囲まれたテニスコートに入った月子は、ラケットバッグからラケットを取り出そう
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