Se connecter「俺がシャワーを浴びている間に、お前がこっそりいなくなるのが怖いんだ。……だから、俺が洗っているところを見ていてくれ」静真の口から飛び出した言葉は、月子の予想を遥かに超えるものだった。どん底まで沈んでいた彼女の思考は一瞬で停止し、拒絶する間もなかった。呆然としたまま、彼女は再び彼に抱きかかえられ、広々としたバスルームへと連行された。静真はそこに椅子を用意すると、自分の目が届く場所に月子を座らせた。そして、彼女が見ている前で、迷うことなく身に纏っていたものをすべて脱ぎ捨てた。月子は反射的に視線を逸らした。二人は夫婦だが、その関係に親密さなど微塵もなかった。肌を重ねる時でさえ、静真の行為は常に荒々しく、おまけにいつも真っ暗な中で行われていたのだ。互いの肢体をじっくりと眺める余裕など、これまで一度もなかった。一九〇センチ近い静真の体躯は、ただそこにいるだけで圧倒的な威圧感を放っていた。広い肩幅、引き締まった腰つき。五歳年上の彼の逞しい肉体は、今の月子にはあまりに毒が強すぎた。静真は何も言わず、手早く全身を洗い流すと、すぐにバスローブを羽織った。濡れたままの髪からは滴が落ちているが、彼はそれを気にする様子もない。元々、静真の顔立ちは類稀なるほどに整っている。普段は冷徹な仮面を被っているが、風呂上がりの無防備な姿――ヘアジェルによる固定から解放され、額に無造作に垂れ下がった髪は、いつもよりずっと親しみやすく、柔らかい印象を醸し出していた。彼は月子の前まで歩み寄ると、その場に膝をつき、下から彼女を見上げた。月子はその真っ直ぐな注視に耐えられず、すぐに目を伏せた。静真はこれまで、月子のことをまともに見ようとしてこなかった。離婚した後にようやく彼女に執着し始めたため、いざ二人で過ごす穏やかな時間に、月子がどんな表情をするのか――今の静真の脳内は、その記憶が欠落して白紙に近い状態だった。前世では自分を心底憎んでいたはずの女が、今、自分の視線を浴びて恥じらい、体を直視できずに戸惑っている。そのあまりに健気な反応に、静真の心は形を失うほど柔らかく解けていった。彼は立ち上がり、そっと右手を差し出した。「……手を出して」静真は覚えていた。月子が一番好きだったのは、彼と手を繋ぐことだった。かつての彼は、病気で動けない時
その時、月子のスマートフォンが震えた。彼女は画面を一瞥して言った。「……迎えの車が着いたわ」静真は咄嗟にスープの椀を置き、彼女の手を掴んだ。「月子」掴まれた手を見つめる月子の瞳に、引き裂かれるような痛みが走る。「……一体、何のつもり? 今更私にどうしろって言うの?」静真の根底にあるのは、今も昔も強引で支配的な気質だ。目の前に月子がいる今、彼は何があっても彼女を逃がすつもりはなかった。彼は月子が警戒を緩めた隙にスマートフォンを奪い取ると、着信を切って予約を一方的にキャンセルした。酒のせいで意識が少し朦朧としていたが、月子の体はあまりにも細く、頼りなかった。一九〇センチ近い長身の静真にとって、彼女を横抱きに――いわゆるお姫様抱っこで抱え上げるのは造作もないことだった。月子をこうして抱くという感触さえ、静真にとっては遠い、あまりにも遠い記憶の彼方にあったものだ。今、静真が月子と触れ合うたびに、まるで初めて出会った他人のような新鮮な感覚に襲われる。それが彼をたまらなく歓喜させ、同時にひどく悲しくさせた。月子には、もう彼に抗う気力さえ残っていなかった。何をしようとしているのかと問いかけても、静真は沈黙を貫いたまま。彼女にできるのは、ただ彼に抱かれたまま階段を上っていくことだけだった。二人は夫婦ではあったが、寝室は別だった。静真は主寝室に、月子はそこから最も離れた客室に追いやられていた。夫婦の営みなど一年に一度か二度あるかないかで、その数少ない機会でさえ月子が静真の部屋へ向かうのが常だった。それなのに、今、静真は彼女を抱いたまま自分の主寝室へと足を踏み入れた。もちろん、月子は静真が自分の体に興味などないことを知っている。以前、体を重ねた時でさえ、彼は彼女の苦痛や感情を顧みることなど一度もなかった。それに彼女は手術を受けた直後だ。静真が抱こうとするはずがない。今の彼はどこか異常だが、感情自体は凪のように安定している。酒の勢いで乱暴を働くような雰囲気でもなかった。だからこそ、彼の意図が全く読めなかった。「……私の部屋はここじゃないわ」月子が釘を刺すように言うと、静真はただ一言だけ返した。「俺たちは夫婦だ」「夫婦?よくそんな言葉が吐けるわね。あなたが今まで何をしてきたか、忘れたの?」痛烈な
月子は、今日の静真がどこかいつもと違うと感じていた。だが、今日の彼女は病院で、一樹から送りつけられた動画を見てしまっていたのだ。静真が霞のために奔走している間、彼女は彼に何度も何度も電話をかけた。けれど、彼は一度も出なかった。二人の子供が失われたというのに、静真はそれを一顧だにせず、別の女の元にいたのだ。月子の心は、もう修復不可能なほどに傷ついていた。三年間、必死にこの結婚にしがみついてきたが、もう限界だった。だから、何が何でも離婚する。二度と振り返らず、前に進む。この家に留まる理由なんて、もう一欠片も残っていない。体がどれほど衰弱していようと、今この瞬間にここを去りたかった。しかし、静真は彼女の手を強く掴んで離さない。それどころか、その長い腕で彼女の腰を抱き寄せた。こんな親密な接触は、もうずっと、長い間なかったことだ。これまでの静真はいつも、彼女に対して氷のように冷たい態度を貫いていた。月子が自ら歩み寄っても、せいぜい手を繋ぐのがやっとだったのだ。だから、今の彼のこの距離感に、月子はひどく戸惑い、拒絶反応を起こしていた。何より、近づけば近づくほど、彼から漂う女物の香水の匂いが鼻につき、耐え難かった。彼は霞のことが好きなはずなのに……今の月子のコンディションは最悪だった。体調の悪さは精神的な脆さに直結し、意志の力も普段よりずっと弱まっている。今の彼女には、静真と不毛な押し問答を続ける気力すら残っていなかった。月子はただ、力なく、けれど明確に繰り返した。「静真……放して。あなたとは、もう離婚するのよ」その真剣な眼差しを見た瞬間、静真を巨大な恐怖が襲った。前世の記憶――目が覚めた後の月子が、一度、また一度と見せたあの冷徹なまでの無関心。自分を傷つけ、絶望させたあの視線。今、目の前の彼女から放たれる「何が何でも離れてやる」という揺るぎない決意に、彼は心臓が凍りつくような心地がした。無意識に胸が締め付けられる。「……離婚はしない。したくないんだ」月子は呆然とし、理解不能といった様子で彼を見つめた。「したくない? ……あんなに早くから離婚協議書を用意して、私を待っていたのはあなたじゃない」「どうしてあんなことをしたのか、いつか必ず説明する。だが月子、俺はお前とは絶対に離婚しない」言い終えるや否や、静
月子の視線が、静真の首元へ移動した。その瞬間、彼女の顔に苦痛の色が走り、そして明らかな嫌悪感が浮かんだ。静真はハッとして室内の鏡を見た。そこには、自分の首筋にくっきりと残る口紅の跡が映っていた。彼は無意識に拳を強く握りしめた。……これは、霞の帰国を祝うパーティーで、悪ノリした連中とやった馬鹿げたゲームの残骸だ。彼の体からは強烈なアルコールの臭いと、女物の香水の匂いが漂っていた。静真はたまらず、着ていたジャケットを苛立たしげに脱ぎ捨てた。月子はそんな彼の姿を見て、自嘲するような笑みを浮かべた。「やっと帰ってきたのね。ずっと待ってたのよ」その声には、まだ彼への微かな優しさと、断ち切れぬ未練が入り混じっていた。彼女がどれほどの苦痛に耐え、血を吐くような思いで離婚を決意したか。月子が本気で自分を愛してくれていたことを、静真は一度も疑ったことはない。ただ、彼自身が愚かにも、その愛を手放してしまっただけなのだ。静真は、胸の中で荒れ狂う感情の波を必死に抑え込み、一歩、また一歩と月子に近づいた。そして、かすれる声で絞り出した。「……俺の妻こそ、どうしてこんな時間まで起きてるんだ?」青白かった月子の顔に、強烈な驚きが走った。まさか彼から「妻」と呼ばれるとは夢にも思っていなかったのだ。しかし驚きは一瞬で、彼女はすぐに元の冷ややかな表情に戻った。「これ、離婚協議書よ。私はもうサインしたわ」静真は身をかがめ、その紙切れを手に取った。この協議書は、結婚式の当日に彼自身が月子に突きつけたものだ。当時の自分が一体何を狂っていたのか、なぜこんなもので彼女を辱めようとしたのか、今となっては全く理解できない。そして月子は、この屈辱的な協議書を突きつけられながらも、三年間ずっと彼を愛し続けてくれたのだ。流産し、一番彼を必要としていた時に、彼は他の女と遊び歩いていた。それが最後の引き金となり、ついに月子を追い詰めてしまった。静真は、本気で自分自身を殴り飛ばしたかった。彼がじっと協議書を見つめているのを見て、月子はゆっくりと立ち上がり、傍らのスーツケースに手をかけた。「……一ヶ月後、役所で会いましょう。離婚のクーリングオフ期間が過ぎれば、正式に離婚できるわ」そう言い残し、彼女は背を向けた。月子は、静真が自分と一刻も早く離婚
だから静真は子どもをベビーシッターに預け、ひとりで車を走らせて寺へ向かった。現実が変えられず、希望も見えなくなると、人は心の安らぎを求めてオカルトにすがり、現実逃避を図るようになる。静真が寺へ七度目の参拝に行ったとき、高徳の住職に出会った。住職は彼を「縁のある者」だと言い、ただ待っていれば願いは叶うと告げた。静真にはその言葉の意味がわからなかった。住職は、まだ時が来ていないのだと教えた。今日、月子は隼人のプロポーズを受け入れた。たとえまだその「時」があるとしても、彼が月子と一緒になることなど、もうありえない。だから静真は、住職のところへ行ってはっきり問いただすつもりだった。これは全部、彼をだますための嘘だったのか?何もかも失ってしまったら、これから何を支えに生きていけばいいのか。静真にはわからなかった。どこにも希望が見えない。だからこそ、住職に会いに行かなければならなかった!そして、事故は起きた。静真は気持ちが乱れていたせいで、まさかの交通事故を起こしてしまったのだ。寺は山の上にある。車は安全柵に激突し、人も車も崖下へと転落した。まさか、自分は死ぬのか?静真は強烈な浮遊感に襲われた。普通の人間なら耐えがたいほど苦しいはずだ。純粋な生理反応なのに、静真はその瞬間、なぜか解放されたように感じた。死ねば、もう苦しまなくて済む。もしかすると、これこそが住職の言っていた「時機」なのかもしれない。これが、自分の結末なのだ。自分のようなろくでなしには、最悪の結末こそふさわしい。どれほど時間が経ったのか。覚悟していた痛みは訪れず、静真は誰かに揺り起こされた。「入江社長、ご自宅に着きました」静真は頭がひどく痛むのを感じた。飲みすぎたときに出る痛みだ。それに、この声……彼の元アシスタント、渉だ。渉はかつて月子に薬を盛り、すでに彼が追い払ったはずだ。なぜここにいるのだろう?静真は冷たい声で言った。「黙れ。うるさい」それでも渉は言った。「入江社長、夏目さんからお電話です。無事に家に着いたそうです」夏目さん?夏目霞?静真はようやく、何かがおかしいと気づいた。彼はスマホを取り出し、時間を確認した。次の瞬間、全身が震えだした。渉は異変に気づいた。「入江社長、どうされました?」まさか
【お兄さん、これ、私がこっそり撮った動画なの。お兄さんもこっそり見てね】天音は、隼人がプロポーズする動画を静真に送った。天音はさらに続けた。【私、その場で感動して泣いちゃったんだ。お兄さん、私がお兄さんを裏切ったわけじゃないよ。あの場の空気と雰囲気が完璧すぎて、本当にすごく感動したの。だから怒らないでね!もちろん、見るか見ないかはお兄さん次第だけど、言っておくね。見たらきっとつらくなるよ】天音は海外にいたが、国内で一人で子どもの面倒を見ている実の兄のことを忘れてはいなかった。ただ、動画を送るなんて、まるで静真の傷をえぐるようなものだった。どこまで意地悪な妹だ。天音は、月子と隼人が一緒に幸せそうにしている姿を見て、心底嬉しかった。二人がここまでたどり着くまでの苦難を、彼女はすべて知っている。二人は本当に大変だったのだ。けれど彼女にはもう一人、兄がいる。だから気持ちはかなり複雑だった。月子と隼人に幸せになってほしいと願う一方で、兄にも、新しい幸せを見つけてほしかった。だが離婚して以来、静真が心から前を向いている姿を、天音が見たことは一度もなかった。だからこそ天音には、あることに気づいてしまったのだ。兄は昔、愛する方法を知らなかった。今はようやく分かるようになったというのに、その人はもう傍にいない。世の中に、後悔を消す薬などどこにもない。だから、もうどうすることもできなかった。天音も意外だった。兄がいざ愛し方を知ってから、実はこれほどまでに一途な男だったのだと。だからこそ、月子以外の誰かが静真の心に入り込む余地など、最初から微塵もなかったのだ。つまり、静真自身が変わろうとしない限り、彼はこの先もずっと、このままの日々を繰り返すのだろう。しかも今のところ、その兆しはますます濃くなっているようだ。天音は、ただ胸が締め付けられるような思いに囚われていた。せめてもの救いは、あの頃あんなにも酷い真似をしていながら、二人の子供を授かったことだ。それが静真にとって、心を繋ぎ止める唯一の支えとなった。もし子供がいなければ、彼は本当に独りきりの暗闇に沈んでいただろう。天音は花火の下で、そっと願いをかけた。悔いがあろうとなかろうと、どうかみんなが幸せになれますように。……国内はちょうど早朝だった。静真は起きると、天音から送ら
隼人は海が大好きだから、月子は彼の誕生日はやはり海の近くで過ごすのがいいと思った。そこで、彩花から、おすすめのプライベートビーチ付きリゾートホテルを教えてもらった。そして、彼女が送ってくれた海の写真を見た月子は、その美しさにうっとりして、隼人もきっと気に入るだろうな、と思った。今はもう十一月。寒くなってきたから、暖かい海辺で二、三日過ごすのがちょうどいいのだ。誕生日だし、みんなでワイワイする方が楽しいだろう。それに隼人はもともと親しい友人が少ないから、全員呼んでも一つのヴィラで十分だった。月子は自分も知っている人を中心に、何人にも電話をかけて旅行の手はずを整えた。そ
5分だ。月子は隼人の体から降りると、彼が立ち上がるのを待って、すぐにその腕に目をやった。傷口から少し血が滲んでいた。それを見た月子は不満げに言った。「だから、抱き上げないでって言ったのに」隼人はうつむいた。「我慢できなかったんだ。どうしようもなかった」月子は腹が立ったけど、相手は厚かましい隼人だ。もうどうでもよくなった。「いいわよ。自分でなんとかして」そう言って彼女は彼の手を振り払おうとした。だが、隼人は彼女の手を掴み、指を絡ませて約束した。「もう二度とお前を心配させない」「約束よ、また今度もやったらどうする?」隼人は少し身をかがめて言った。「お前の好きなように
心に空いた穴は、外の何かで埋めたくなるものだ。隼人は今でこそ落ち着いて見えるが、彼もまた自由を好む。それは生きとし生けるものが共通して求めるものだ。質問を投げかけた月子をじっと見つめながら、隼人は口を開いた。「昔、現実から逃げ出したくなったとき、速さだけが俺の味方のように思えた時期があったんだ。どこへでも、好きな場所へ連れ出してもらえそうな気がしたから」彼は少し考えるふりをして、別の言い方をしてみせた。「あるいは、スピードとスリルってやつは、生まれつき人を惹きつける魅力があるんだろ。波長が合えば、一目見ただけで好きになる。理屈じゃないんだよ」確かに、誰もが退屈な日常から逃げ出し
祖父の誕生日パーティーが終わってから、静真はG市まで追いかけてきたり、撮影班のところまで押しかけてきたりした。でも、あの時の彼はG市で見せたような過激な態度ではなかったから、月子は特に危険を感じていなかった。もちろん、静真はまだ諦めていなかった。月子がよりを戻してくれると信じていたし、どうすれば彼女が戻ってきてくれるのかと、月子に判断を委ねるような姿勢も見せていた。まるで月子が静真を思い通りにできるような、彼は彼女の言うことを聞くようになった。だけど、もう離婚したんだから、これ以上月子が彼に何を期待するというのだろう?月子はただ、彼に自分から離れてほしかった。時間が経てば、静真