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行けるなら、とっくに行ってる。会えなかったから、ここに来たのだ。胡桃は柚葉を睨みつけた。「返さないってことね?じゃあ外で叫ぶから」胡桃なら本当にやりかねないと思った百合と隆平は、はっと息を呑んだ。柚葉は腹を括る。「好きにすればいい。でも、私のお腹には智也の子どもがいるってことを忘れないで。万が一、子どもになにかあったら、責任を取ってもらうから。お金が欲しい?それとも人生が終わってもいいの?」胡桃は彼女のお腹へ視線を落とした。「ああ、そうだった。不倫の末にできた子がいたんだっけ」「いい加減にして!」あまりの怒りで下腹部が痛んだ柚葉は、慌てて手で押さえた。「智也と凛さんは離婚したの!私の子にはちゃんと父親がいるんだから!」「籍が入ってなきゃ父親がいないのと一緒のことでしょ?産めば?大きくなったら、周りから何て言われるか楽しみだね。母子家庭の……」パシッ!柚葉が胡桃の頬を張り飛ばした。胡桃も一瞬で激昂し、そのまま柚葉の髪をつかんだ。取っ組み合いの喧嘩が始まりそうになる。しかし、ここは他人の家だ。多勢に無勢、隆平と百合に引き剥がされた胡桃は、結局最後まで柚葉に攻撃を当てられなかった。柚葉のお腹の痛みが激しくなる。「お父さん、お母さん、病院に連れてって……」柚葉は顔を歪めて腹を押えた。柚葉の両親は慌てて救急車を呼ぶ。柚葉の演技ではないと分かった胡桃は、すぐにおとなしくなった。本当に子どもになにかあったら、自分では責任が取れない。柚葉は両親に付き添われながら、救急車で運ばれた。胡桃も少し恐怖を感じながら、タクシーを止めて後を追う。病院では、前回も柚葉を診察した医師が、腹痛を訴える柚葉を見て、顔をしかめていた。「前回、すぐに詳しい検査を受けるように言いましたよね?なのに、なぜ来なかったんですか?」柚葉は下腹部を押えながら答える。「忙しくて……」医師の語気が強まった。「どんなに忙しくても、胎児とご自身の身体を最優先に考えてください。ともかく、今回は絶対に全ての検査を受けてくださいね」柚葉の両親はすぐさま柚葉に検査を受けさせることにした。そして、医師が2日の入院が必要だと告げる。柚葉は智也に電話をかけた。「智也。今日、胡桃ちゃんが来たんだけど、それでお腹の子がびっくりしちゃったみたいで
「なんでここを知ってるの?」真っ青になった柚葉は、両親に聞かれることを恐れて大急ぎで外に出ると、すぐに家のドアを閉めた。松田家から戻って間もなく、柚葉は20億円以上もの賠償金を払わなければならないことを両親に白状していたのだ。その日の夜、隆平は容赦なく柚葉の頬を叩き、百合は慰めることもせず、ただ泣き崩れていた。柚葉は一晩中眠れなかった。両親も同じく、一睡もできなかった。翌朝、柚葉の両親は貯金口座のキャッシュカード、不動産の権利書、嫁入り道具だったものから宝飾品、そして柚葉のために蓄えてきた結婚資金まで、ありったけの資産をテーブルに並べる。しかし、不動産を2軒売ったとしても、合計で2億円ほどにしかならず、返すべき額には到底届かなかった。柚葉の両親は食べることも眠ることもままならないほど追い詰められた。大学教授として生きてきた二人にとって、人に頭を下げて金を借りることは、誇りを捨てるようなこと。それでも柚葉を見捨てるわけにはいかず、裁判になる前に解決策を探るしかなかった。柚葉は両親が借金のために同僚に電話している姿を目にしていた。だからこそ二人には何一つ逆らわなかったし、両親も今は柚葉のお腹の子のことを考える余裕すらなかった。そんな状態で胡桃が現れたので、柚葉はひどく動揺したのだった。この口の悪い女が何を言い出すか分からない。とにかく、両親だけは巻き込みたくなかった。柚葉は胡桃の腕をつかみ、そのまま階段のほうへ引っ張ろうとした。しかし、胡桃がその腕を振り払う。「何するのよ!親に知られるのが怖いの?だったら最初から人の旦那に手を出して、他人のお金で贅沢なんかしなきゃよかったでしょ!」胡桃の声は大きすぎた。それに、古いマンションだけに、防音は良くないし、しかも柚葉の両親は近所づきあいも深い。こんな話を聞かれたら、面子は丸潰れだ。柚葉は慌てて胡桃の口を塞ぎ、必死に警告する。「いい加減にして」胡桃が頷いた。柚葉が半信半疑で手を離した直後……胡桃が叫ぶ。「人の家庭を壊したこの愛人女!お金を返して!」その声は、マンション全体に聞こえるほどの大きさだった。カチャリと音がした。ドアが開き、柚葉の両親が顔をだす。顔色は悪く、疲れ切った表情をしている二人。柚葉は胡桃を殺してやりたい衝動に駆られた。柚
母親の責める言葉を、智也は黙って受け止めるしかなかった。ひと言たりとも言い返せない。ただ、子どもの頃のように、うつむいて謝るだけ。「父さん、母さん。本当にごめん」「『結局父さんと母さんが心配してるのは、自分たちの老後のこと』あの一言が、何より私たちを傷つけたのよ!」そう言い残すと、梨花はそのまま足早に家を出ていった。健吾は智也を見つめ、もうこれ以上責めるのは可哀想だと思い、静かに肩を叩く。「母さんの様子を見てくるよ。仕事は辞めたなら仕方ない。またやり直せばいいだけだ」両親が去っていった。いつも家族の喧嘩では気配を消していた胡桃が、おそるおそる口を開く。「お兄ちゃん、もし私が凛さんに頼んだら、柚葉さんから取り戻したお金を分けてもらえるかな?」20億円以上だ。もし一割でも分けてもらえたら、2億円も手に入る。頭が割れそうに痛く、心もすっかり疲れ切っていた智也は、適当に答える。「さあな」「じゃあ、私が行ってお願いしてみる!」働く?自分が働くなんて、絶対にあり得ないんだから!胡桃は南山ヒルズ9号棟へ向かった。遠目に大型犬の姿が見えたため、胡桃は近くにあった石を手に取り、警戒しながら近づき、凛に会わせろ、自分の義姉に会わせろなどと、大声で叫んだ。柚葉の本性を知ってからというもの、誰が本当に自分に良くしてくれていたのか、胡桃はようやく理解していた。凛は高価な差し入れを何度も持ってきてくれたが、柚葉はいつも智也の金を使い、いい顔をするだけだった。何度目かに声を上げた時、番犬が牙を剥いて飛び出してきた。胡桃は石を投げたが、犬はより激しく追いかけてくる。二度も転び、膝は擦り剥けて痣になった。完全に怖気づいた胡桃は、そのまま家に帰った。家へ戻ると、怖さと悔しさで涙が止まらない。これから自分は、どうすればいいのだろう。頼みの綱である兄は、もう自分を養ってなどくれないし、両親は年金があるが、それは彼ら二人の生活のためのもの。結局、困るのは自分だけ。海外留学?今となっては夢のまた夢。全部、柚葉というあの女のせい……柚葉のことを思い出した胡桃の瞳に、憎しみの色が宿った。翌日、胡桃は柚葉に会うためウォーターフロント・コートへと押しかけた。管理室に行き、部屋番号を告げると、管理人が胡桃に尋ねた。「内見ですか?」この時初め
「一体、何があったっていうのよ?」梨花は必死に問い詰めた。「柚葉のことがあったから?それなら子どもは諦めて、柚葉と縁を切ればいいじゃない。あんな疫病神とは、きっぱり関わりを断つべきなのよ!」子どもをどうするかという問題を理由に、智也と柚葉の関係をずるずる引き延ばしにしていたことを、梨花は後悔した。健吾が厳しい表情で口を開く。「原因はそれだけじゃないんだろう?」私生活の影響はあるだろうが、ここまで事態が大きくなるとは考えにくい。景山グループが大切に育ててきた幹部候補を捨ててまで、解雇を選んだからには、それ相応の理由があるはずだ。智也は静かにうなずく。「それだけじゃない」胡桃が訊ねた。「じゃあ、一体何が理由なの?」智也は言いたくなかった。両親がその理由を知れば、また凛を責めるかもしれないし、また凛のもとへ行って余計なことを言うかもしれない。しかし健吾は勘づいた。「凛が、お前たち3人の揉め事を世間に広めたのか?」智也は立ち上がる。「凛のせいじゃない。最初から最後まで、悪かったのは俺だから」健吾は確信した。「やはり凛なんだな」梨花が悲痛な面持ちを浮かべる。「あなたたちは夫婦だったのに……別れてまで、なんでこんなことをするのかしら?凛はどうしてそんなに冷たいのよ」「母さん」智也は眉をひそめる。「だから凛のせいじゃないって言ってるじゃないか。全部俺が悪かったんだ。それに、結局父さんと母さんが心配してるのは、自分たちの老後のことだろ?今は、家も車もあるし、胡桃にだってある。俺はこれから凛と住んでいたあの家で暮らせばいい。これまでと何も変わらないんだよ」「何も変わらない」その言葉が梨花を追い詰めた。彼女はゆっくりとうなずく。「そうね、何も変わらない。あなたがこれまで稼いだお金なんて、私たちの家を買う以外は全部、柚葉っていう疫病神につぎ込んだんだものね。あなたは何年も、あの女のために働いていたようなものじゃない!それに、稼いだお金だけじゃない。あなたの将来まで、あの女に壊されたのよ!」智也はただ瞳を伏せ、反論することはできなかった。「私たちが、お金のことしか考えていない親だと、本気で思っているの?智也、そんなことを言うなんて……親として、これほど情けないことはないわ。もし本当にお金だけが目当てだったなら、今まであなた
すでに退職手続きを進めていた智也は、その日のうちにデスクの私物をまとめて会社を後にした。最近、谷口家の人々は南山ヒルズ11号棟で暮らしていた。智也のことが心配だったこともあるし、住み込みの家政婦もこちらにいたからだ。夕方、智也が定時に帰宅すると、一家は思わず驚いた。ここしばらくの彼は、目が回るほど忙しく、毎日深夜に帰宅し、夜が明ければまた会社へ向かう。そんな生活が続いていた。智也の後ろには浩もいて、その手には智也のデスクにあった荷物が抱えられていた。それを見て事態を察した健吾の顔から、一気に血の気が引いていく。「会社を辞めたのか?」梨花と胡桃も驚いて立ち上がった。しかし、二人はすぐに現実を受け入れられなかった。智也がうなずく。「ああ。今日、景山グループの本社に行って、退職手続きを全て終わらせてきた」「どうしてなの!」まだ納得できていない梨花が、慌てて問い詰めた。「会社に解雇されたの?それとも自分から?」智也は眉間を揉みながら、ソファーに腰を下ろした。その顔には疲弊の色が浮かんでいる。「会社から自分で辞めるようにと言われた」「言われたからってそんな簡単に辞めちゃうわけ?」胡桃が目を見開いて叫んだ。「馬鹿じゃないの?」「何も分かってないのはお前だ」智也は即座に言い返す。しかし、説明するのも面倒だった。代わりに健吾が口を開く。「会社に解雇されれば、経歴に傷がつくが、自主退職なら最低限の体裁は守れるんだよ」胡桃は唇を尖らせた。「でも、お兄ちゃんに仕事がなくなったら、私たちはどうなるの?」智也は頭痛をこらえるように目を閉じた。「父さんたちは年金があるし、俺だって自分一人くらいなら食べていける。でも胡桃、問題はお前だ。そろそろ仕事を探せ。俺はもう……」「なんでよ!」胡桃は自分が働く日が来るなんて、一度も考えたことがなかった。智也は顔を上げ、苛立ちをあらわにする。「なんでって、俺はお前の親じゃない。兄っていうだけで、お前の面倒を一生見る義務なんてないんだよ」胡桃は青ざめたまま首を振る。「でも、これまでずっと面倒を見てきてくれたじゃん……」「昔はそうだったけど、今は違う。胡桃、自分の人生は自分で責任を持て。それでも親のすねをかじって生きたいなら、父さんと母さんが毎月の年金を全部お前に渡すかどうか聞いてみろ。とにかく
「それは、もうお前には関係のないことだ」騒ぐ役員たちには目もくれず、智也は竜太郎と景山姉弟を静かに見据えた。竜太郎が尋ねる。「どうしたんだね?」智也は、悠真の方を見て言った。「もし次期社長が悠真さんだということであれば、田中を使い続けていただけないでしょうか?彼は非常に優秀な秘書です。私は競業避止義務に署名しているため、今後2年間はこの業界に戻ることはできませんし、彼が私の内通者になるようなことも、絶対にありません。ですが、田中がホシゾラ・テクノロジーの運営システムを誰よりも理解しているんです。彼がいれば、悠真さんが会社を把握するまでの時間を大幅に短縮できると思います」智也はこの数日間、考え続けていた。自分が傷つけてきた人間は、あまりにも多い……それは、浩も例外ではなかった。自分が会社を離れれば、浩は徐々に重要な仕事から外され、居場所を失う。そうしたまま辞職に追い込まれ、退職せざるを得ない未来が目に見えていた。悠真はじっと智也を観察した。この男を「悪」と言うべきなのか……確かに、この男がやったことは許されない。だが、部下や秘書にはいつも穏やかに接し、自分が窮地に立たされても、周囲の人間に逃げ道を残そうとしている。そして、この期間、ホシゾラ・テクノロジーで聞いた智也への評価も、決して悪いものではなかった。それなのに、私生活では妻を顧みず、結婚中に別の女性と関係を持った。極悪人というほどではない。だからこそ余計に、気持ち悪さが残る。悠真がホシゾラ・テクノロジーを引き継ぐことは、智也の処遇を話し合った時点ですでに決まっていた。悠真が竜太郎を見ると、竜太郎も頷いた。「いいだろう」智也は小さく息をついた。そうして、会議は終了した。智也が最後に会議室を出ると、外で待っていた浩が慌てて駆け寄ってくる。「何か……状況は変わりましたか?」智也は力なく鼻で笑った。変わるわけがない。組織が腐れば人は去り、悪者には誰もが集まって石を投げるものだ。もし離婚だけで終わっていたなら、まだ挽回の余地はあったかもしれないが、今は違う。財産分与を巡る訴訟まで抱えているのだ。景山グループにとって自分はもう、いつ爆発するか分からない時限爆弾。そんな人間を抱え続ければ、会社まで傷つく。誰がどう考えても、切り捨てることを選ぶだろう
凛が家に帰ると、もう夜の8時だった。智也はソファに座り、暗い目つきで彼女を見つめていた。「なんでこんなに遅いんだ?」「あなたは、なんでこんなに早いの?」凛は不思議に思った。智也は毎日、柚葉を職場まで迎えに行っているはずなのに。智也は眉をひそめた。「俺が最近、帰りが遅いことを責めてるのか?」「まさか」凛がカバンを置くとすぐに、智也が仕事をやめる件について聞いてきた。「退職届は出したわ」彼女は自分に水を一杯注ぎ、ゆっくりと飲んだ。「引き継ぎとかの手続きに、1ヶ月はかかるの」「お前の仕事に、引き継ぎで1ヶ月もかかるような内容があるのか?」智也は凛の痩せた横顔を見ながら、何度も
「凛さん、何を見ていらっしゃるんですか?」「今、あっちから誰かに見られていた気がします」「え?」と理恵がそちらを見たが、人影はなかった。「もうエレベーターに乗ったみたいです」と凛は言った。「エレベーターって、あっちの?」理恵が指差すと、凛は頷いた。それを見た理恵は、緊張した面持ちでゴクリと喉を鳴らした。あそこは社長専用のエレベーターなのだ。理恵のオフィスのドアの前に来ると、凛はドアプレートに、「人事部ヴァイスプレジデント」と書かれているのを目にした。昇進したんだ。凛はにっこり笑って言った。「中村さん、御昇進おめでとうございます」「ありがとうございます」
「それで?彼に、私と離婚するように言ったの?」凛の問い返しは、柚葉の痛いところを正確に突いていた。この2週間、柚葉は何度もそれとなく話を振っていた。でも、智也は離婚するそぶりを見せない。それどころか、今まで通り、いえ、今まで以上に優しくしてくる。まるで自分が不倫相手みたいじゃない。愛されていない方が、邪魔者。よく言ったものだ。もともとは、凛の方が、自分と智也の間に割り込んできたのだ。大学の頃、智也はあんなに自分を愛してくれていた。それは誰の目にも明らかだったのに。それが、留学のことで喧嘩したのがきっかけで、智也がどこの馬の骨とも分からないような女と結婚するなんて、思って
「先生、どうしてか聞かないんですか?」凛は涙を拭うと、杏をソファに座らせ、お水を取りに行った。杏が言った。「智也から聞いたわ。子供のことで喧嘩して、昨夜は帰ってこなかったって。彼はまだ子供を欲しがらないの?」凛は首を振った。「今回は、私が欲しくないんです。彼は私に仕事を辞めて妊活に専念して、家で専業主婦をしろって言うんです」「私より考えが古いわね!」杏は腹が立って仕方がなかった。「あの男は出世して偉くなったから、あなたを見下してるの?よくもまあそんな態度がとれるわね。プロジェクトが発表されたら、どれだけの人があなたに会いたがると思ってるの。私の夫が手塩にかけた愛弟子を、使用







